小説「一九三三年」へ   貴司山治net資料館TOPへ


プロ文学運動終末期を回想する未発表中編小説            

                                 −−−「一九三三年」解題

                                                                        伊 藤  純 

 1933年という年は、貴司にとって最初の検挙拘留をうけた翌年で、また小林多喜二虐殺という事件の翌年でもあり、きわめてクリティカルな時期であった。貴司はこの時期にあえて、共産党・宮本顕治の地下活動に直接の援助を試み、また小林多喜二全集刊行の世話役を買って出るなど、相当な覚悟で左翼運動にコミットした。他方、社会主義運動、プロレタリア文学運動は激しい弾圧によって終末的な状況に追い込まれていた。
 翌34年には貴司自身再度検挙され3ヶ月の拘留の後治安維持法違反で起訴され、転向を声明する。この拘留中に、作家同盟は解散し、プロ文学運動の事実上の崩壊がある。1933年はいわば、貴司にとっても日本のプロ文学運動にとっても壊滅寸前の最後の一年と位置づけられる。
 この未発表原稿は、多分戦後、1950年代後半か1960年代の早い時期に、この究極の時代を回想して書かれたものと考えられる。というのは、この作品に書かれているような宮本顕治への畏敬は、少なくとも1963年以降は変化していったと考えられるからである。1963年というのは、部分核停問題に端を発して、中野重治、佐多稲子など戦前からの主要なプロ文学者が日本共産党中枢の宮本・蔵原と袂を分かっていく時期である。この時期を画期として、昭和初年以来事実上日本共産党の名と共にあったプロレタリア文学は名実共に消滅したと考えざるをえない。貴司自身も、晩年の「私の文学史」に書かかれているように、かっての作家同盟での文学大衆化論争に屈服した事への反省と総括へ進んでいく。
 因みに、この小説中の伊達は貴司自身、成田健はいうまでもなく小林多喜二、高宮は宮本顕治、西村鞠江は中條(宮本)百合子、祝田は岩田義道、古川は蔵原惟人、杉村はいわゆるスパイM=松村*、宇月弁護士は、書かれているように戦後の社会党内閣の法務総裁であるなら、新憲法の制定にも関与した鈴木義男である。地下鉄の争議メンバーを捜し出して貴司に引き合わせる辻本は、当時の共産党系労組である全協のオルグであった永田耀(あきら:昭和40年頃死去)であろう。
 因みに、小説「一九三三年」に描かれている東京地下鉄争議取材に基づく小説は、1934年から35年にかけて中央公論などに4章まで発表されたが以後中断し未完に終わっている。(その全文と詳細な取材ノートは不二出版刊「貴司山治研究」に収載されている)

*スパイM・松村:本文でも語られているが、警視庁スパイとして1920年代に共産党組織に潜入、自ら中央委員にまでなって1930年代初期の共産党を牛耳り、1932年の熱海事件で幹部根こそぎ検挙の手引きをした後忽然と消えた人物。松本清張、立花隆、小林峻一らの研究によってその実態がおおむね解明されている。  TOPへ

 (2005/11/30)