第3章 鳴門塩田労組と評議会


       1.野田律太と国領五一郎   ◆文学史topへ  ◆資料館TOPへ  

 豊中の家にちょいちょい遊びにくる野田律太は、左翼と右翼に分裂した当時の組合の、左翼の組合の連合体である日本労働組合評議会の委員長であるが、だからといって威張った態度をとらない純乎たる労働者上りの好漢であった。
 評議会ができて、さて委員長を誰にするかは大問題であった。何度も会合があって「委員長選任の件」はいつも最後にくっついていた。神戸の男で、青柿善一郎がよいというものが多かった。青柿は相当口もきくが、人の和をはかる点で取柄があった。しかし人の和をはかる術がうまいだけでは、理論闘争のやかましい左翼組合では不向きであろう。といって、性格的に人柄がよくて多くの人を外らさず、理論面でもしっかりしている人となると、案外に難問であった。だれが選考にあたってみても、一晩では片づかず、みな途中で投げだしてしまった。
 そんなわけで、委員長選任の件は、難件としていつも残ってしまうのであった。

「そんなら今日はこれで終ります。最後に残った件は……委員長選考の件ですが。これどうします。早う片づけんと、困る問題がそばからでてきますぜ」
 と、長い会議に少々愛想をつかした野田がいった。みな、そうだなあ、と野田に賛成したが、一人が延びている理由を野田に対してのべた。
「青柿がいいだろうということになっているんだが、もう一つ誰かしっかりした人がないかなあ……と思案している」
 野田はいった。
「青柿のどこがいかんのだす」
 青柿は、妙に斗争のわきへ退くような所があって、われわれの中心人物として適任じゃない、というのであった。
「人と喧嘩はせんだろうし。しかし、評議会の委員長がそんなことではやって行けないかも知れない」

 一つのことのくり返しであった。問題はちっとも進捗していない。人事の取り合いっこの問題もある。自分の方へ委員長をとりたいが、それはだれも口にしない。口にできないのだ。野田がいった。
「同じことやおへんか。それでは、僕が委員長になりまひょか」
 みなはあっけにとられた。考えてみれば野田はいかにも委員長向きであった。物事の判断も労働者向きだし、あっさりしている点は好都合だ。斗争力もある。野田なら満足だ。みなは野田を除外して何を考えていたのだろうと思った。

 かくして評議会の委員長は決まった。それほ大正十四年のことであった。普通選挙がようやくブルョジア側の譲歩によってきまった前後の頃であった。

 私はその頃、大阪で新聞記者をやっていた。私は労働記者ではなく文化部の記者であったが、サンガー夫人の産児制限運動の取材のためによく評議会本部へ行っていた。
 評議会と産制運動と何の関係があるのか、と思われるかもしれないが、当時、評議会というよりはそこの財政部長をつとめていた国領五一郎が、その運動の熱心な推進者だったのである。

 ----この、国領五一郎は、私にとって忘れることのできぬ大切な人物である。「共産党にだって、いい人間がいるんだ」という、私の“左翼同調者”としての信念の支えとなったのが、国領その人の、人となりだったのだから----
 国領五一郎は、明治三十五年十二月二十日に京都市上京区堀川通寺之内上ル東入扇町七一五番地という所で生れた。生まれた場所はつづれ錦の織物で名高い西陣のどまん中のような裏町で、かれの父五三郎はその西陣織の職人であった。
 国領はやせた脾弱そうな無口な男だったが、頭脳は幼少から非常に優秀で、成逸小学校を卒へると、当然のように西陣織物工場の徒弟となり、三年たって一人前の織工となった。
 この日本版「繊匠」は、十九才で西陣織物労働組合を創るが、ハウプトマンの描いたシュレージェンの繊匠のごとく、その地において死物狂いのストライキはやらなかったが、大正十一年には日本にはじめてできた共産党に加わり(この時二十才)二十一才で京都全体の細胞代表委員となり、大正十四年総同盟分裂後は、日本労働組合評議会の創立に参加し、そこの幹部の一人となった。

 少年時代の国領のことを、右手に錦織のオサ紐、左手に資本論の頁をひらき、紐を一つガチャンと引いては「マルクスは……」と資本論をのぞく……などと野田は相好を崩して私に語ったものだが、国領が年若い織工となった十六才には、ロシアにようやくボルセビイキ革命が起った年で、日本には「資本論」の訳本はまだ出来ていなかったはずである。
 松浦要、生田長江の抄訳が出たのが大正九年であり、そのあと大鉦閣から出た高畠素之の完訳資本論は、菊版数百頁の大冊で、あの土間の底へ仰向けにひっくり返ったような体位のつづれ錦の織機にいて、左手に支えて読めるようなやさしいしろ物ではなかった。

 しかし野田はそんなことにはおかまいなく、何度も国領の少年時代というのをそんな風に描き出し、同時に国領の律義ともいうべき一面についてこんな話も私にした。
 評議会結成前の多忙な準備事務所で、国領は財政部長の任務についていた。かれは一銭といえども几帳面で、公私の区別がハッキリしていて使いこむことなど決してなかった。
 委員長になった野田も、国領に深い信頼をよせ、面倒な事務処理などについていつもきまって相談するのがこの国領であった。

 かれは、野田の横に小机をすえて、金銭の出入りを伝票につけて、いつも仕事が夜に入る。国領には他に理論機関紙「マルクス主義」編纂の用事もあった。「進め」第二年第一号に「共産主義者とエセ革命家」という論文を書いて、西尾未広一派を痛撃したのも国領であった。

 そんな多忙の最中、夜も更けてそろそろ帰り仕度を始めた野田、自分の机の上を片づけて、忘れていた一通の手紙をみつけた。
「あ、これ、困ったねえ。大阪の警察本部から呼び出しがきているんだ」
「どういうことですか?」
 と国領がきいた。
「山本先生(山本宣治)の『山峨女史家族制限法批判』のことで注意事項があるから出頭されたし、というんだ。それが明日なんだ」

注)山本宣治:(明治22〜昭和4年)アメリカで、生物学、性化学などを苦学して学び、社会主義にも興味を持った。帰国後は同志社、京大の講師として性科学を講じたが、サンガー夫人の来日(1922、大正11年)を機にその思想に深い影響を受けた。『山峨女史家族制限法批判』はサンガー夫人の産児制限と社会改革を結びつける思想を紹介した代表的な著作。この後、昭和三年に初の労農党代議士として当選、しかし翌年暗殺された。

注)他の所では、この時問題になった出版物は評議会発行の月刊誌『性と社会』だと記されている。

 国領は、山本の本のことときいて「これは僕がやりますから」と引受けた。
 そして「出頭すれば、向うは私に供述書か何か書かせるでしょうね」といった。野田は、軽い気持で「何も知らんから、といって書かなければいいじゃないか」と答えた。国領は「はい」と返答して、そのまま帰っていった。野田も、それでそのことは忘れてしまった。
 国領は、その翌日、無断で事務所を休んだ。
 そのつぎの日もでてこなかった。
「どこへ行っちまんたんだろう」と野田は不審に思ったが、思い当ることがなくてそのままになってしまった。
 国領がでてきたのは三目目であった。
「何をしていたのかね」
 多忙をきわめている野田は、非難するような口調でいった。
「すみません」
 と国領はあやまって、自分の机に向った。
「すみませんって君、何をしていたのかね」
 野田が重ねていうと、国領ははじめて答えた。
「大阪府の警察本部に泊められてたんです」

 国領の話す所によると、府警本部に出頭すると、特高の検閲係がサンガーの訳本を出して
「これは君が出版したんだね。大体この本には、サンガーの意見として、労働婦人は子供を二人以上産むのは危険だ、と書いてあるが、こういう言説はわが国の国情にはあわない。ここはとれよ」
 というのである。
 その他「精液発射の少し前に腟から陰茎をとり去ること」とか「洗滌法は、ただ清めるだけであって、避妊の一方法にはならない。あらかじめゴム製ぺッサリーとか座薬で子宮孔をおおっておかなければ、かの女が床から離れ、洗滌にゆく前に妊娠状態が始まることもありうる」とか、多くの部分に文句をつけ「とれよ」というのである。
「風俗的にいかんといわれるのですか?」
 と国領はきいた。
「いや、そうじゃない。風俗的にも問題になるが、日本には堕胎を禁止した法律があって、それに引っかかるんだ」
 どんないいがかりでもつけて、ともかく押えこもうという魂たんのようであった。

 国領は、この出版物は関係専門家にだけ配布する制限つきの極秘出版物で、その点は京都府警の検閲課で諒解ずみだという事実をあげて粘った。
 結局特高係は
「新版をつくる時、今指摘した部分を削除する、という念書を入れてもらいたい、そうすれば、今回の印行は、京都府警の処置通り許すから」
 と妥協的な案を出してきた。
 だが国領は、一切の文書を作ることを拒んだ。そのために検束処分をくって、ほうりこまれていた、というわけだった。

「何だ、そんなことくらいなら、さっさと書いて帰ってくればいいじゃないか」
 と野田がいうと、国領はいささか憤然として
「何も書くなとあんたがいわれたんで、その指示通り動いたんです」
 という。野田は大いにあわてた。
「そうか……済まなかった」
 と、かれが頭を一つぺコンと下げると、国領は自分の机に向って、何事もなかったように仕事にとりかかった、というのである。

 野田はこのような話を、多分に感傷的になって語るのだった。もともと野田は、一歩まちがえば西尾派へでも行きかねない無理論の男だが、人間は百%純情で涙もろかった。その野田が、国領に全面的に信頼をよせ、信頼を上廻る深い愛情を持っていたようである。

 その凡帳面居士の国領が、産児制限運動に関りをもつようになったのは、大正十一年、サンガー女史来日の時に始る。
 サンガー女史の来日は、その前の年からすでに、大きな話題となっていた。サンガー女史の来日を妨害しようとして、日本の官憲はさまざまの圧力を加えた----そのことがかえって世間の注目を、女史に集めさせたのである。
 妨害は、大正十年、サンフランシスコ日本領事館の査証拒否で早くも始った。領事館は女史に対して、強いて日本にいっても上陸を禁止されて何もならない、といって訪日を思い止まらせようとした。
 しかし女史は、これをきいて逆に勇気百倍、「船の中で家族制限の必要なことを宣伝する」といって、十一年三月上旬横浜に到着した。内務当局はやむなく「産児制限の公開宣伝をわが帝国領土内でなさぬこと」という条件をつけて女史の上陸を許した。
 東京と横浜でサンガー女史は、非公開の集会を八回開いた。それから西下し、改造社は京阪神三都市で公開講演会を開くことを目論んでいたが、これは女史の病気のため中止となってしまった。
 かわって三月三〇日、京都医師会によって医師、薬剤師に対する講演会が京都教会で行われることになった。その通訳は、山本宣治が引きうけていた。
 四月二目の離日まで、わずか三日の付き合いで、山本宣治はサンガーの所説に深い感銘を受けたのである。
 日本の官憲は、盛んにサンガーの説は危険思想だ、と騒ぎたてていた。

 サンガー女史は
「労働婦人に、より多く避妊の必要がある」
 と説き
「賃金労働者は、多くても二人以上の子を持つべきでない。一般の労働者としては、男親は二人以上の子を養うことは困難だし、女親は二人以上の子を世話して、さっぱりした風をさせておくことはできない芸当である」
「労働階級の婦人たちよ。妊娠制限は今日、あなた方自身を助ける唯一直接の方法である」
 と説いた。そのような言説が、社会主義者と同じ思想として忌避されたのだ。
 それに加えて、ことが性の内秘にわたるために、一般の人々もなかなかまともに理解しようとしない風潮であった。産児制限を正しいとして、運動の先頭にたったのは、当時の日本で、山本宣治ただ一人といってよかった。続いて、医師馬島?がサンガーの学説を研究し普及に努めたに止まる。

 国領は、深く信仰していた山本宣治を通して、サンガーの説を知ったのである。大正十一年の京都での講演以来山本とともにサンガーに従がい、共産主義者としてその説に耳を傾けた。
 その時国領は二十才だったので「君もとんだもんに興味をもったもんだね」と辻井居之助などからひやかされたが、国領は黙って「いや」というだけだった。
 山本は、サンガー自身の書いた、労働婦人向けの小冊子を国領に示し
「これを日本文になおして出してやることが、本人の努力を救い、労働階級の婦人のためになることだ」
 と語り、「出しましょう」と国領は答えた。二人の問にはサンガーの著した「Family Limitation」と題する薄いパンフレットがおかれていた。
「先生が訳して下さい。出すのは評議会が引きうけます」
 と国領はいい、やがて「大阪市西区西九条浜通三二番地 産児制限研究会」として一応総同盟とも評議会とも切りはなして出版された。

 パンフレットは反響をよび、多くの質問が来た。国領は手紙の返事を自分でかき、一々京都の山本宣治のところへ持っていって見てもらった。 野田の話にでてきた、大阪府警にひっかかったバンフレットというのは、もちろんこの「Family Limitation」の訳本である。
 このような次第で、私は大阪時事の文化部記者として、産児制限の取材のためには、評議会に出入りする必要があったのである。
 だが、野田などと知り合ったのは、この新聞記者時代の付き合いからではなかった。実は、そのもっと前、私が郷里にいる時から付き合いは既に始っていた。
 私が野田らと接触をもつようになったのは、郷里鳴門の製塩労働者の組合のことがきっかけで、まだ総同盟の中にいるころの野田や、国領、飯石豊市、太田博、少しおくれて長尾他喜雄などと、かなり親しい関係をもっていた。

             2.鳴門の塩田争議   ◆文学史topへ ◆資料館TOPへ   

 私の故郷(徳島県板野郡鳴門村高島・現鳴門市高島)は、塩田労働者の一杯いる所で、毎年のように塩田労働者のストラィキが起こっていた。ストラィキは毎年々末に必ず起るようになっていた。
 というのは、年末になると新年度の労働を契約するために「節季借り」こということをする。その金額のことで毎年争いが起るのである。全村をあげての争いであった。
 村で塩業家(使用者)組合の代表になっているのは、篠原という男であった。村内の有識者で、威張っていた。学識もあり、それに、生れついての支配者で、みんなから怖れられていた。

 当時、ストライキは、これを起すことも指導することも禁止されていた。それにもかかわらずストライキは起った。警官がのりこんできて、ストライキが起るのを待ちうけていた。ストライキを煽動した者はまっさきにひっぱられた。
 塩田労働者の組合は、友愛会よりも早く出来ていた。
 暮になると、村中がもうストライキというコトバをおぼえ、ストライキ騒ぎに巻き込まれて、ほかのことには手がつかなかった。私も同様であった。私は十九才か二十才だ。生来の人道主義的考え方で、私の家の裏にきて妾とねている旦那よりも、私の家に「荷い」(荷かつぎ棒)をかついで飯米を借りにくる労働者に勝たせたいと思った。平常は有識者として尊敬し、怖れている篠原という「旦那」よりも、物いわず、一銭でも多くの賃をもらいたいと念願している大勢の労働者の意識を怖れた。

 そのために私は、いろいろな「手段」を考えた。
 労働者をまとめて、同じような要求に一致さすのは労働組合があった。しかし、私は労働組合だけでは不足だと思った。ストライキには資金がいる。
 私は、塩業家の資金をしらべてみた。一戸当り一、二万円以上あり、三十戸総額では五十万円位になる。これを逆に労働者のストライキ資金に利用しようというシカケを考えたのである。
 塩業家の収入金は専売局からくる。これをまとめて受取り預るのは、信用購買組合であり、これには労働者も夫々貯金をしている。信用購買組合は政府が極力保証育成している団体だ。私は、室(むろ)豊蔵六十何才という前労働組合長を口説いて、信用購売組合の購買部長にした。事実は、その下に私たちの同腹者である三島唯蔵を送りこんで、購売部の実務に当らせたのである。

 信用部長には私がなった。私がこれになるについては、父親の塩業家団体からの信用がモノをいった。「金はんの息子なら間違いないだろう」と。
 まちがいはなかった。信用購買組合の組合長に塩業家の組合長をしている篠原の息子を推したので、塩業家からも信用され、信用部には四、五十万の預金が払いこまれた。私はそれらの預金を正直に取扱い、年末近くなると預り金は百万円近くなった。
 労働者側に対しても、何々講、何々貯金という名目を設けて預金を奨励した。
「何々講とか何々貯金とかで預る預金の利子の方が、高いじゃないか」
 と剣つくをいいにくる塩業家には
「あなたのお金も何々講とか何々貯金とかになさい」
 と応対し大正五、六年夏すぎから信用組合は好成績であった。

 労働組合の委員長には、私の友人の福永豊功がなった。争議が始ると信用購買組合は労働者に対して日用品のかけ売を行った。組合には塩業家や労働者が預けた豊富な資金があったので、長期のかけ売りにも耐えることができたのである。

 労組の組合長福永豊功は、十余年前に発刊された「大阪平民新聞」の一束を大切にもっていた。それには森近運平の「賃金の話」というのが連載されていた。警察に常につけ狙われる立場にある福永は、危険をおもんばかって、その大阪平民新聞を私に託した。おかげで私は、森近運平の「賃金の話」をつぶさによむことができた。
「賃金とは人のために仕事をして、受取る金銭又は物品である」
「賃金は、社会の産物の中から労働者が受けとる分け前である」
「賃金は労働者に唯一つしかない品物、即ち労力の代価である」
「賃金は労働者の最低生活費によって定まる。生活程度の高い国では高く、非常に倹約する習慣の国(日本、支那)では安い」
「それなら、次第に世が文明になるにつれて賃金は高くなるわけだが……仲々そうは行かぬ。黙っていれば益々仰えられる。この時労働者に勢力があって賃金を引き上げるために運動をすれば、生活費の標準までは賃金をとることができる」
「……団結すれば世界中で労働者くらい強い者はない。団結すれば世界を転覆するだけの力がある。取るべき賃金をとるくらいのことはお茶の子である……云々」
 そこには、マルクス主義賃金理論の素朴で古典的な祖述がくりひろげられていた。福永、ひいてはその指導の下にある高島塩田労働組合の斗争の理論的源泉は、実にこの十余年の前の、古ぼけた平民新聞の一束の中にあったのである。

 私もまた、この福永らと志をわけあって、労働者の争議を裏から支えるために、信用購買組合の運営に熱中していたのである。信用購買組合を適切に運営するためには、会計簿記を知らねばならなかった。私は、その頃、そのために簿記を習得することに熱をあげていた。
 当時、この周辺で産業組合の法制、簿記、実務に詳しい人というのは、最近徳島県に赴任してきた徳田という役人一人だけだときいて、購買部の実務を担当している三島とともに、郡役所へ出張してきた徳田をとらえて、長時間話を聞いたりした。

 寒い冬の夜、十一時頃まで徳田の話をきき、郡役所の外へ出てくると、私の「革命欲」は満足し、喜びに踊った。信用購買組合をフルに機能的に働かし、それをフルに運転して、一大革命を勃発せしめる。万花鏡の変化するのをのぞいているような騒然たる変化が、私のいるこの人間界に巻き起る。警察の暴力とか、無頼漢の幹施とか、さまざまなことが起ってくる……

 だが、そこから先の考え方が、私はどうも他の人と少し違っていた。
 ----それは、誰にもいわぬ秘密であったが----私は、それら万花鏡のさまざまを、悉く見てとり、記憶して、あとでそれを小説に描く、それが私の一生の仕事だ、という考え方、というよりは、一つの信念が私の中に生れてきていたのである。
 しかしこんな突拍子もない考えを理解する人はまずいない。話したってみな笑ってかたわらを連りすぎていくだろう。もし本当にそんなことを口にしたら
「お前は小説のタネにするために、産業組合の預金を争議資金に流用するというような大それたことをやって、ストライキをけしかけようとしているのか」
 とか
「お前は小説に書くために、紛争や暴力沙汰の起るのを、ニャニャして待ち受けているのか」
 などといわれるのがオチで、とどのつまりは「アタマが少しヘンじゃないのか」というようなことになるだろう。だから決して口には出さないが、内心ではいわば傲然として文学の神にもたれかかり、目の前のことをやりすごしてしまうのであった。

 つまり私は、いつの頃か、文学の神にとりつかれた時から、どんな局面に立ち、何をしていても、本質的に傍観者であり野次馬であるという態度を内心に持するようになっていたのである。
 かくて、数年の後、私は故郷の島を出て、大阪にいってしまう。ただ、この高島での塩田争議に関っていた数年の間に、総同盟の左派という立場にあった野田律太らとの接触が始っていたのである。

 私が大阪に去った後も、高島では福永にひきいられた労働組合がストライキをくりかえし、室組合長、三島購売部員によってきり廻された信用購売組合は、ひそかにかけ売による労働者への支援を続けていた。
 大正十五年一月、大阪で新聞記者をしていた私の所へ、ひよっこりと福永豊功が訪ねてきた。当時私は京都の寺の一室を借りて住んでいたのだが、かれは、評議会の野田によび出されて大阪へきたついでだといって寺へきて、
「一八億斤からの塩ができて、今年度は一割生産制限をするという方針が出て、塩業家は承諾したが、これが間もなく労働者にも及んでくる。賃金の一割引き下げと同じことだからおれは絶対反対だ。あとどうするかということを評議会で相談したら、十州塩田労働者に共通の問題だから、みなに遊説して総決起させるか、少くとも何ケ所かこの問題に引き入れろというので、岡山県に行ってくることになった。その旅費をもらいにきた」
 という。

注)大正十四年暮れから大正十五年四月まで、貴司は京都黒谷の超覚院の一室を借りて住んでいる。ここに一月頃福永が訪ねてきたのは事実だが、この時は貴司が留守で、会えていない。だから、遊説費用をカンパしたというのは、前出の、翌年の昭和二年一月のことと混同しているものと思う。

 私が二十円わたすと
「朝野(かれの妻)が家出して行方不明なんじゃ。それを探したい。松島のカフェで働いている、と便りするものがあったので、これから一軒一軒さがすので、ついてきてくれないか」
 といいだした。
 福永が朝野を愛していることは非常なもので、在郷当時、私はそれを知っていた。もとは林崎の女郎屋の女中だったのを、一六才のころ、福永が発見していろいろ口説いて自宅へつれかえり、妻とした。私も少し惚れたくらいの美人で、顔の細い眼の大きなうるおいのある女であったが、性格はきつく男に遠慮しなかった。

 福永とは始め仲よく暮らしていたが、労働組合の用で毎晩人が訪ねてくるので、それが原因で次第に不仲になり、とうとう去年、家を出て大阪にいってしまったという。
 福永の失望は大きく、何とかして探し出してつれ戻したい望みだったが、まだ果しえないでいた。
 かの女は陰部の構造がとても上等で、交接するとそのよさは「何にもとりかえられんのじゃ」というのであった。
 そのとりかえられん細君が、下手な字で
「びんばうも、今までしんぼうしたが、ろうどう運動をやめなければ金持にはなれない。しかしあんたにはその気はないことがわかったので、自分はあきらめる。あんたはほかによい人をさがして結婚してください」
 という趣旨の手紙を残して、家出してしまったのである。

 私は友のために悩んだ。だが、一緒になって探してやっても、とても見つかるとは思えなかった。
 一夜、寺の自分の部屋に泊めて、何百軒もあるカフェへ一々はいって同じことをきいても、ろくな返事は聞けないだろうし、たとえ見つかっても「はい」といっておとなしくついて帰る相手ではないと、一晩説得した。
 しかし福永は
「あの女が、ほかの男にさしよると思うと、わしゃ、瞼があわんのじゃ」
 とか
「あんなよい女に二度とめぐりあえん」
 とかぐずぐずいって、寝かしつけるのに骨が折れた。

 しかし、翌朝になって「どうする?」ときくと、「行く」とフン然としてかれは答えて、十州塩田の動向を探るために立っていった。

注)福永から女房に逃げられた愚痴をさんざん聞かされた、というのも京都の寺でのことではなく、日記によれば、郷里鳴門に帰郷していた折りのことで「痴情綿々たるは痛まし」とある。

 福永は、私の記憶では、岡山の塩田地帯へ行ったらしい。途中からよこした手紙は覚えている。
 評議会の国領の名刺を持っていって会ってみると、相手の男たちはおっかなびっくりで、すでに一割減産のことは知っていたが、戦う必要のあることとは思っていなかった。ただ一応当地でも明日役員会を開いて、立ち上るか上らぬか相談してみる、とすこぶる消極的な態度……その夜、労組の役員に案内された宿で寝ていたら、警察の刑事がやってきて、こんど来た目的などを詳しくきき、供述書をつくり上げ、ハンを押せ、というからいやだと断った。翌日組合の役員の家にいって、なぜ警察へ知らせたりしたのかと詰ったら、それがこの地方の前例だ、とのこと。刑事はしつこくつきまとってハンを押せと迫り、ぐずぐずしていると留置場ゆきになりそうな様子で、当地の状勢はどうにも手が出ない、というような知らせであった。

 国元にかえった福永は、自分の組合だけで戦かわざるをえないと悟ったようである。
 徳島県撫養塩田労組は、大正十五年四月十七日から一斉怠業に入った。これに対し、塩業組合は四月二十七日から休業を断行、怠業中の労働者に解雇を通告した。
 このため、桑島村の労働者は動揺し、五月十二日無条件就労したので、残るは五百十二人の高島塩田労組のみとなった。

 労組側の要求の主なものを、九月八目撫養清光座で開かれた大会の記録からみると
「一割制限案反対」
 に続き
「現状で年三百六十二日就労(休日はわずかに年三日!)で五百十八円の賃金を、一割以上値上げせよ(塩田労務の賃銀計算法は極めて複雑なので詳細は略すが)」
 と要求し、加えて不合理な賃金体系の部分的な修正なども要求していて「要求が通らんでも、要求したというだけで胸がスーッとした」という声が出たほどのものであった。
 特に注目すべきことは、この賃上げ要求の根拠として、塩業家の投資額に対する利潤を、例えば益田仙蔵一家では四千百九十八円と算定し、賃上げ要求が何ら不当なものでないこ
とを主張している点である。

 この争議は一〇五日間も続き、その間に福永が逮捕投獄され、塩業家側は国粋会員を導入するなど、死力をつくした戦かいが続けられた。あげくが、狩野調停官補、先山撫養警察署長が介入して調停を行い、相方疲労困憊の末に、次のような条件で争議は妥結したのである。

一、賃銀の増加はこれをなさず、但し臨時手当として十月一日までに一人前の者に対して最高五銭を支給するよう考慮すること
二、犠牲者を出さざること
三、金千五百円を包金として支給すること
四、節季借の返金を要求せざること
五、将来不当に争議を起さざることを労働者側に誓言せしめること

 最大の眼目だった増賃はついに通らなかったのである。長い争議の疲れも加って、労働者たちの空気は沈滞した。

 福永豊功については、その後日談について語っておかねばなるまい。
 暴力取締令によって半年の下獄を終えて、福永はいくらか沈滞した故郷の村へ帰ってきた。骨休めともいうべきその時期、かれは村の床屋の益田久市のところへよく遊びにいった。その益田の細君のたい子が、不幸なことに朝野によく似ていた。
「そういえばよく似ている」
 と、あとできいて私もそう思ったくらいで、福永の心がおのずとたい子にひかれたのもいたし方がない。
 それから、一年以上の間があったと思うが、ある夜、たい子は福永の誘いに応じて出奔し、二人は神戸に走った。村では大騒ぎになった。寝とられた男益田久市は、やけくそになってならず者のようになり、酒をのみ、あばれ者の風にかわってしまった。
 福永は、うっかり神戸から戻った所を捕えられ、たい子とともに姦通罪で懲役一年ということになった。かつて争議の時には暴力行為取締令で裁判にかけられたが、その時は大勢の仲間が傍聴におしかけ、本人も胸をはってストラィキの大義を弁ずることができた。
 しかし今度はそうはいかない。ほこるべき何者もなく、頼る人もなかった。

 私が東京に住みついてせっせと小説を書きくらしている時----多分昭和の二年か三年であった。私は突然監獄の教誨師から手紙を受けとった。
「福永豊功君のこと、今度出たらすぐに貴宅へ行くといっているが、そういう約束になっているのか。もし、さし向けてよいのならよろしくたのむ」
 という問合せであった。私はすぐ電報で返事を出したのを覚えている。
「スグ、トゥキョウヘコイ、バンジセワスル キシヤマジ」
 このようなことで、かつての鳴門塩田労組の輝ける委員長ともいうべき存在であった福永豊功は、落塊の身を、東京のわが家に横たえるということになったのである。
 福永はその後、もう一度第二無産者新聞にからんで話の中に登場してくるが、それは後のことである。      

           .資金カンパ   ◆文学史topへ    ◆資料館TOPへ     

 さて、話を再び、私自身のことに戻そう。
 大正十五年暮れに改元があったので、明くれば一足飛びに昭和二年である。
 関東の冬の厳しさが、胸の悪い妻に与える悪影響を恐れて、一旦大阪へ逃げ返っていた私も、春とともに再び東京へもどってきた。
 上京すると早速、堀の家に転がりこんで借家探しに精を出した結果、大森日枝神社のすぐそばの二階家を借りることができた。

注)昭和二年四月三日上京。借家は大森山王、日枝枝神社東隣、賃六十円。敷二 百円と日記にある。
 なお、文中堀とあるのは前出(15頁)の堀敏一氏のこと。

 その頃、評議会も本部を東京芝の三田四国町に移していた。それで、委員長の野田やその一党が、拙宅にたえず出人りするようになった。
 だが、出入りするとはいっても、彼らは、茶飲み話をしにやってきたわけではなかった----もちろん、そんな時もたまにはあったが----たいていは、緊急不可避の用件でかけこんでくるのであった。
 つまり、金をもらいにきたのである。

 例えば、西神田署で朝鮮人が一人虐殺された。その糾弾演説会を開くのだが、会場設営費に二十円都合してくれないか、とか、山本懸蔵が北海道で衆議院議員選挙に立候補して、今晩東京を出発するのだが、その旅費に二十円とか、野坂参二(当時は参二といっていた)をコミンテルン日本代表に選んで、モスクワへ送る極秘の基金カンパで三百円集めているのが、半分もできない。五十円くらい何とかならんか、とか、のっぴきならない秘密の用件ばかりといってよかった。

注)山本懸蔵:(1895-1939)茨城県出身の労働運動家。1922年日本共産党に入党、1928年の第一回普通選挙に北海道から労農党候補として出馬(落選)。この時の選挙運動を題材として小林多喜二が「東倶知安行」を書いた。選挙後、3・15の大弾圧を逃れてソ連に亡命、しかし、1939年、スターリン粛清にまきこまれスパイとして処刑された。ソ連崩壊後公開された機密文書から、この処刑は野坂参三の密告が原因だったということが暴露された。
注)野坂参二(野坂参三):(1892-1993)1922年日本共産党入党。モスクワ、延安などで活動、戦後帰国して衆議院議員、日本共産党第一書記、議長などを歴任「愛される共産党」を唱え、ソフト路線のシンボル的指導者となったが、最晩年に上記の密告が暴露され共産党を除名された。

 私は一度もそれを断ったことがなく、たいてい野田の望みに応じたので、野田は困ると必ずのように拙宅へ姿を現した。
 しかし、私の財布にいつもそんな金があるわけではない。西神田署の朝鮮人虐殺事件という時には、かたわらに野田を待たせておいて、講談倶楽部だか富士だかにのせる三十枚あまりの短篇小説を書いた。
 小説は六、七時間ででき上る。
 それを野田が、団子坂下の講談社へ持って行って、引換えに原稿料をもらう。一枚三円だから、三十枚書けば糾弾演説会の会場借受費に十分問に合う。

 私がせっせと書いている机のそばヘ、野田は時々のぞきにきて、原稿用紙のはしに記してある番号の進み具合をみて、
 「あと五枚だ」
 などといい、一枚書けると
 「米が一斗だ」
 当時、白米一斗が三円で買えた。
 「えらいもんですなあ、クシャクシャ、クシャクシャとぺンの先から、みている間にわたしら親子三人の半月の命の糧がとび出してくるんじゃから」
 といって「ちょっと待って下さい」と野田は私の手元をのぞき
 「そこんところをもう三枚、書き延ばしてくれまへんやろか。二枚分はわしの半月分の米代に、あと一枚は国領の米代にやりたいので、ついでに頼みまっさ」
 私は小説の中の男女の人物に、一回だけ抱擁と接吻を多くすることで三枚書きのばし、評議会委員長(野田)と共産党中央委員長代理(国領)の米代にかえてやった。

注)国領は大正十五年十二月の共産党五色温泉大会で中央委員候補、翌年一月中央委員、三・一五後の昭和三年九月、書記長渡辺政之輔の海外行きの後を受けて臨時書記長代理になった、とされているので、この文中のいい方と実際は若干異なっている。

 何も知らない講談社は「この代理の人に稿料を渡して下さい」という私の名刺をみて、所定の金額の小切手をくれるのである。小切手をくれるのは講談倶楽部なら岡田貞三郎、富士ならば中森清雄と決まっていた。かれら二人は、それが左翼労働運動の資金になるなどとは最後まで夢にも知らずに
 「長くお待たせしてすみませんでしたねえ」
 などと評議会の委員長に小切手をわたす。
 私の細君は、野田律太をじかに講談社へやることを危ながったが、いつも急ぐためにそうするしかなかった。
 また、野田律太という男は、純粋な労働者出身ではあったが、中肥りの好々爺(といっても四十代)なので、岡田も中森も、それが日本一の「危険人物」とは全然気がつかなかった。

 その後、もっと大口の寄付もしている。昭和二年の秋、第一回普通選挙を前にした労農党へ、という形で金一千円をだしたのである。

注)昭和二年十一月二十四日、大阪で長尾(評議会のメンバー、大正十四年頃から何度も鳴門へきて、塩田労組のストライキを直接に指導している)に千円渡したと日記に記事がある。

 実は、この大金の出所は、朝日新聞の懸賞映画小説「人造人問」の賞金であった。
 去年(大正十五年)の夏、惨たんたる状態の中で書き上げて新聞社に送りつけたまま、その後の多忙の中で、この懸賞小説のことはすっかり忘れてしまっていたのである。

注)日記、大正十五年九月三十日の項に「連日連夜このごろ殆ど徹宵して書きつづけし映画小説四百枚、漸く完成……よみかえすひまもなき書きっぱなしなれど……原稿を綴じてこれを送るために郵便局まで持って行く気力なくなり、近所の俥屋の若い者を一人よんできて頼む」とある。

 それが、この昭和二年の秋のある日、外出から帰ってきた所へ、朝日の記者だと名のる男が訪ねてきて「人造人間」が三百何十篇の応募作の中から入選した、というのである。数日前から散々拙宅を探しまわり、やっと見つけた、というわけである。
 これには理由があった。
「人造人間」は、実は貴司山治ではきまりが悪いので、伊藤好市という本名で出しておいた。そのために所在がなかなかわからなかったのだ。

 この賞金五千円は、その後、大阪の朝日で受取った。入選を知らされてからだいぶ、連絡もせずにほっておいたので、先方では気をもんでいたらしいが、ともかく、その受取りにいった夜、それまでの朝日の懸賞小説に入選した人などもよんで、一夕の宴をもうけてくれだ。所が、この、自分が主賓の宴会の時問にも相当におくれてしまい「全く君はやっかいな奴だ」と学芸部の人々にからまれることになった。
 この賞金の五千円の内の千円が、評議会の選挙基金にまわったのである。

注)ここにいう一夕の宴は、昭和二年十一月十一日、北浜のつるやで行われた。入選者としては加藤秀、不二木阿古などが列席した。

 ところで、この、普通選挙というのは、今では当り前すぎるほど当り前のことであるが、当時としては、大変なことであった。大正デモクラシーが血で購った遺産といってもいい。
 普通選挙運動は、大正初期の憲法擁護、閥族打破の大運動に続く、大正後期の一大民権運動だった。平民宰相といわれた原敬が「民意に非ず」とこれに抵抗し、同会内に爆弾が投じられたり、あるいは内閣不信任案がだされ、永井柳太郎が「西にレーニンあり、東に原敬あり」という有名な文句をはいて大騒ぎになったり(大正九年頃の日本ではレーニンは「冷忍」と当て字され極悪非道の独裁者というのが一般の見方だった)----あげくが原首相は東京駅頭で、中岡良一によって刺殺されるという大事件にまで立ちいたったのである。

 一国の宰相が街頭で殺されたのは、幕末桜田門外で井伊大老が暗殺されて以来のことで、桜田門事件の水戸藩士は義士とほめたたえられたが、中岡良一にも「よくやってくれた」という感謝の蔭の声が全国に渦をまいたという。
 当時私は、中岡の弁護にあたった清瀬一郎の法廷での弁論を読んだことがあるが「原が殺されて社会にプラスが多かったかマイナスが多かったか」という論理で原の枇政の数々を列挙し「だから原は殺されたことで社会に責献した。従って中岡のしたことはよかったことなのだ」というまことに大胆な論述であった。普選運動の一方の旗頭であった清瀬はこのような論述で、たっぷり溜飲を下げたのであろう。

 普選案はその後も、かつての明治民権運動のリーダーだった河野広中によって、三度び国会に上提されて否決、ようやく大正十四年三月二日に衆議院を通った。
 大正七年以来八年間、その国民運動の激しさは今日の安保反対、沖縄返還要求などのおよそ数十倍であった。
 この、ようやく獲得された普通選挙を最初に実施することになったのは、悪名高い田中義一のサーべル内閣だった。無産階級が政治の舞台に進出してくることに恐怖した政府は、共産党非合法化、その成員に死刑、無期の重罰を加えうるように治安維持法を改訂し、必死になって昭和三年二月二十日に予定される第一回普選をまちうけていた。

 政府の狙いは、この選挙運動によって浮上してくる共産党の組織を捕捉し根絶するところにあった。

注)治安維持法制定は大正十四年三月、死刑を含む重罰化は昭和三年六月、緊急勅令でなされた。この部分の文章とは時間に前後がある。

 これに対して、非合法化されて既に地下に潜った共産党は、その合法面での代理政党といえる労農党を先頭に立てて有力な共産党員を立候補させ、精力的な選挙運動を展開しようとしていた。
 労農党からの立候補者は、東京で唐沢清人、秋和松五郎、南喜一、静岡で杉浦啓一、大阪で野田律太、奈良で清原一隆、兵庫・近内金光、岡山・難波英夫、福岡・徳田球一、沖縄・井ノ口政雄、北海道・山本懸蔵であった。

注)これは労農党候補者のうち、共産党が推した人々である。すべて共産党員のはずだが、野田律太のように、必ずしも党籍がはっきりしなかった例もある。

 この中で、私の知っていることは、評議会委員長の野田はその時まだ共産党員ではなかった。他方、今、国策パルプの重役で「ガマの聖談」の著者、南喜一は共産党員だった、というようなことであった。

            .山本懸蔵と「東倶知安行」  ◆文学史topへ  ◆資料館TOPへ  

 さて、話を本筋にもどすと、長尾に千円わたしてしばらく後、東京にもどっていた私の所へ今度は野田がやってきた。そして先日の礼をいった上で
「重ね重ねすまないが、北海適一区に立候補させた山本懸蔵が、現地の小樽まで出かけていく旅費がない。二十円ばかり寄付してくれないか」
 と切端つまった話である。

 山本懸蔵のことは、野坂参三によって「きっすいの金属労働者出身の、すぐれた革命的指導者であった。二十世紀初期の日本の労働運動の歴史のうえで、彼の名は不滅である。彼は、労働者のたたかいの中で育てられ、きたえられた立派な組織者であり、強烈な宣伝家である」と書かれ、党委員長であった渡辺政之輔と並ぶ革命運動の双壁といわれた。
 私は、渡政にはついに会ったことはないが、山懸には一度だけ会ったし、演説も一、二度きいた。会ってみると少々粗雑な感じではあったが、大まかな親分肌で、何かしら親しみを人に与える魅力があった。
 小樽の労働組合には大きな信望があって、こんど立候補した者の中で、唐沢と並んで当選の可能性があると期待がかけられていた。

 その肝腎の候補者が、立候補地までいく旅費がないというのが、いかにも無産政党の台所らしかった。
 すぐにも二十円わたして出発させてやりたいと思ったが、相にく私の財布にはその時五円か七円しかない。あした郵便局で貯金をおろして用意しておくからとりにきてくれ、と答えると、野田は手を打って喜んで
「くそ! これで山懸に北海道をでんぐり返させることができるわい」
 と上機嫌になり、調子にのって秘密の打ち明け話をしゃべった。

 ----山懸は肺をわずらっていて、たえず熱を出し喀血したりする。顔色も青黒い。そんな病体で大正十五年の夏、第一次共産党事件で八カ月の禁固刑をくらい、その後出獄すると、昭和二年五月には中国の漢口に潜行、汎大平洋労働会議に日本代表として出席、夏には小樽にあらわれて港湾労働者の統一ストライキを組織して要求をかちとり、十二月には労農党中執に選ばれる、などの活動をつづけ、一休彼の病気はほんものなのか仮病なのか、味方のものにもわからないくらいだった。
 しかし、そうした無理がたたったのか、年末からばったり寝込んでしまって、川崎かどこかの間借りの二階で、毎日、細君の関マツがつきっきりで氷嚢をあてがったり、牛乳しかノドを通らない状態になった。

 そんな時に、新聞に候補者が発表され、山懸の名も出ているので所轄の特高がびっくりしてとんできた。見ると、やせておちくぼんだ眼に力なく、顔は髭ぼうぼうのていたらくで
「党の方で勝手にそんなことを決めても、こんどだけは無理だ、もう参った」
 と、さも弱ったという顔つきをしてみせる。
 それでも特高は、万一をおもんばかって、朝から晩まで張りこんで見張っている。山懸は毎日、関マツに牛乳の空びんを戸口に出させ、一日に何回も裏の井戸端で氷をわらせて氷嚢の入れかえをやらせている。警察はすっかり山懸重態を信じこんだ様子なので、チャンスは今なのだが、というわけである。

「あんたの二十円で、その山懸には羽がはえて、飛ぶことができるんですわ」
 と野田は、子供のように興奮している。
 私はそれほどでもないが、山懸を脱出させる話は後で小説に書けると思い、労農党の長尾に干円やったのよりも、山懸の二十円に興味をおばえた。
 その翌日、金を用意して待っていたが、野田はこず、夜になって評議会本部の書記だという片山という背の低い青年がきて、二十円をもっていった。
 しばらくして、私は、城南地区だったか神奈川地区だったかの金属工場で、働きながら組合運動をやっている内田という青年(トミさんと呼ばれていた人物で、確か、今、代議士になっている河田賢治の義弟だったと思う)から、山懸脱出の見てきたような話をきくことができた。

 トミさんの話によると、山懸は変装して深夜まんまと下宿を脱け出し北海道へ直行したのだが、あとに残った妻の関マツは、昔は「シべリアお松」という異名のついたしたたか女で(今はソ連の養老金をもらって向うでくらしているはず)山懸がいなくなっても、相変らず牛乳の空ビンを表に並べ、井戸ばたで氷嚢の入れかえをやっていたらしい。
 特高はすっかりあざむかれて、山懸は二階で寝ていると思っていたら、その山懸が小樽で選挙運動をやりだした。びっくりした特高が二階の部屋に踏み込んでみると、とうに寝床は片づけられてもぬけの殻。

「おい、山懸はどこへ行ったんだ」
 関マツはきょとんとして
「北海道へ選挙に出かけたわさ」
「よくも貴様、おれたちをだましやがったな」
「冗談いうな、私はただ白分で牛乳のんで、氷を氷嚢に入れてただけさ」
 というわけで、むかっ腹の特高に関マツは所轄に引っ張っていかれて、留置場にぶちこまれた。シべリア三界を股にかけてきた関マッにとって、そんなことは何の苦にもならず、特高主任がくやしそうに
「おれたちに一杯くわせた罰に、十五日の拘留だ」
「そうかい、いっそ二九日にしてくれよ。どうせ山本も留守だし、私にャ一銭もないんだ。留置場の中なら飢える心配もないからな」
「うそつくな。こないだ夜更けに、つけ髭した山本がインバネスに雪駄姿で大井の駅で、ぜいたくな毛皮のコート着た女と、電卓に乗るのをみた者があるんだぞ。その毛皮のコートの女ってのがおまえさんだろう」

 ……関マツがそんな毛皮のえり巻つきのコートを着ているのを、その後私も見たことがある。関がどうしてそんな上等のコートを持っていたのか、理由はわからないが、大山柳子さんにでももらったのだろう。
 こういう話は、そのころの私の周辺にいくらでも転がっていた。ついつい「忍術武勇伝」だの「ゴー・ストッブ」だのという読み物を書く気にもなったわけだ。

 所で、マジメな話としては、小林多喜二の「東倶知安行」が、この時の山本懸蔵の活動を描いたものである。この作品が世にでたのには、次のようないきさつがあった。
 昭和五年三月、小林は北海道から上京してきてすぐ私たちと親しくなった。
 その年の五月、私はかれとともに関西方面へ「戦旗」防衛講演というのに出歩き、その帰途、一行中の片岡鉄兵とともに小林が検挙される瞬間まで一緒にいた。
 大阪で一旦釈放された小林は、東京に帰るとまた検挙されて、共産党への資金援助のかどで、こんどは起訴され、その夏、豊多摩刑務所にぶちこまれた。(他に、中野重治、壷井繁治、山田清三郎、立野信之らも同じ)

 私らの属する日本プロレタリア作家同盟では、入獄者の救援ということが議題になり、書記長の西沢隆二(ぬやま・ひろし)が、小林については
「何年か前に"東倶知安行"という作品を書いて文芸春秋へ送ったが、そのままボツになっている。それは下手くそだったから採用されなかったのだろうと思うから、とり戻してきてみなで読んでみた上、発表してもいいということになったら、改造か中央公論に売り、その原稿料を母にやってくれ」
 といっているということを報告し、そのように扱うことになった。西沢が文芸春秋からとり戻してきて一読したところ「不在地主」や「蟹工船」よりもこの方がよくできている……との報告なので、私が「改造」の編集長に話すと、二つ返事で採用され、昭和五年十二月号に発表された。

「東倶知安行」は、昭和三年二月の北海道における山本懸蔵の選挙運動の応援紀行といった内容で、「蟹工船」は別として、「不在地主」のような作りものでないため、実感が滲み出ていて、この方がすぐれていると西沢が感じたのであろう。

 この作品では、山本懸蔵が島田正策または島正という名で方々にでてくる。それを少し抜粋してみると----
『五時四十分の汽車で「島正」が来た。
 私が控室に入ってゆくと、土地の人から何か話をきいていたが、振りかえって
「や、ご苦労」といった。その拍子にのどで疾がゴロゴロいった。
「どうでした」
「いや、何処もかしこも大変さ。満員木戸止めばかりだったよ」
「声がすっかりつぶれてしまいましたね」
「参った。声ばかりじゃないんだ。僕の横っ腹は戸板のように堅くなっていて、少し力を入れてしゃべると、ジーンと響くんだ」
 島正は話しながら、薬瓶を出して何度もうがいをした。
「それにねえ、今、停留所から此処までどうしても歩けないんだ。息はきれる。足はフラつくで……愈々もって、これア討死らしいよ」
 人をひきつける黒瞳の大きな眼が、両方のかん骨の出張っている奥で、時々鋭く光った。----(略)----その「島正の眼は千両」だった。何時もならどんな事を話しても、すぐそれに熱をもって話し込んできて、相手をつかんでしまうのだが(私はこの事で島正を不思議な人だとさえ思っている)その魅力がなく、何かいうと肩で息をした。すっかり痩せこけていた。』

 ----これでみると、北海道へ到着した山懸は、真実病後の身で、命をすり減らしてかけ廻ったらしい。山懸はこの時の経験を「北海道血戦記」と題して改造に書いているらしいが、私は未見である。小林はそれを「東倶知安行」の中に引用しているが、それをみると、病躯をおして雪の中をかけまわった山懸の気力の出所がわかると思うので孫引してみる----

「トロイカは走る----勇を鼓して、雪の北海道に進んだが、一月二十日までねていた病後の身体だ----俺は体が、可成り無理だ。歩行困難だ。馬橇が実に身にこたえる。
 だが、労働者として生れ、労働者として育った我々は、病気や畳の上で死にたくない。----労働者、農民、無産階級の要望の下に吹雪と氷の中で戦って死ぬこそ、我らの本望である。----俺は、体の続く限り戦う」
 畳の上では死なず、無産階級のために、雪と氷の中で死ぬ----との信念が、肺結核第三期の病体に、驚くべき気力を与えたということは、かれのその後の活動を遂条的に列挙しただけでもよくわかる。

 北海道での前記のような激しい選挙戦のあげく、不幸(?)にして雪と氷の中では死ななかったかれは、東京に帰ってくると、またばったりたおれて重態となり、三・一五事件の大検挙の時も、警察はさすがに手を下しかねて厳重な看視をつけるのにとどめた。
(ずっとあとで警視庁のある警部のしゃべるのをきくと、その時、山懸は一カ月以内に死ぬだろうとみこんで、そういう重病人を留置場内で死なせたらソンだから、看視をつけて死を待った、とのことである)
 ところがその山懸は、こんどこそ逃がさない、という当局の看視の眼をくぐって、昭和三年四月某日、またもや巧みに国外へ脱出した。
 七月にモスクワで開かれるコミンテルン第六回大会に、日本代表として市川正一と共に出席するためであった。そして同大会で、かれは片山潜、市川正一とともに大へん活躍したらしい。

 以来海外にあって、汎大平洋労働組合会議というのの創立に参加し、ウラジオ、モスクワ間を往来していたらしいが、ウラジオに事務所を持って何やら活動しているともいわれ、
かれの妻関マツが、片山潜の長女安子をつれてかの地に赴いたのは、その頃であった。
 私はその時、関に五円だか十円だか餞別金を出したのをおぼえている。安子は子供だった。関、安子のこの時の海外行は合法的渡航であった。

 昭和五年夏、日本では共産党が又々大検挙をうけて潰滅した。その再建に山懸がひそかに帰ってくるのではあるまいかと、私などしきりに想像したものだが、昭和五年八月にモスクワで開かれたプロフインテルン第五回大会に山本懸蔵が出席しているのを知った。
 ここへは、蔵原惟人なども代表付通訳として出席し、あとで蔵原によって有名になった文化運動の方針が決議された。
 山懸は、昭和七年のコミンテルン総会にも出て、日本から潜行してきた野坂とともに、いうところの三二年テーゼの審議決定にあたった。

 しかしこの時期以降は、日本の共産主義運動の沈降期で、ソ連ではスターリンの独裁政治がレーニンの生前に心配した通りの欠陥をあらわし、多くの革命の功労者が疑われ、捕えられ、殺された。
 山本懸蔵にもスパイの疑いがかかり、やがてその疑いは晴れたらしいが、昭和十七年四月十一日、肺結核が重くなって四七才で没した。
 昭和三二年二月十四日、フルシチョフ時代のソ連共産党第二十回大会で、山本懸蔵の死が報告され名誉恢復が行なわれ、妻の田中ゆき(関マツ)は遺族年金をうけて向うで暮らしていることが明らかになった。
 この報道によって、私などは、昭和三年、北海道の雪と氷の中から生きのびた山懸の命が、そのあと十四年も続いて、ついに終ったことを知ったのである。

第4章 国領五一郎のこと

          .国領五一郎の来訪   ◆文学史topへ  ◆資料館TOPへ 

 ちょうどこの、第一回普通選挙直前のあわただしい冬の頃だった。
 それは、大森山王の住いで、夜の十時過ぎだったと思う。
 女中があわただしく二階に上ってきて
「国領さんという方がお見えです。ちょっとでいいから下に下りてきてくれないか、といってます」
 というのであった。
 驚いて私が階下に下りていくと、国領はうすぐらい土間に立っていた。

「ま、お上んなさい」
 とすすめたが、国領は上りたくなさそうで
「いつも評議会や労農党のために大ヘんお世話になけます……」
 と、低い口調でいい
「先日は山本懸蔵にもありがとう。おかげでかれは北海道に着き、第一区で活動しています。今夜は近所まで用があってきたので、お礼に立ちよりました」
 と、ぴょこんと頭を下げて、すぐ立ち去った。

 私は書斎に戻ったが、どう考えても国領の様子が腑に落ちなかった。いくら近所ヘきたついでだといっても、こんなおそい時刻に立ちよって、それほど急ぐ用でもないし、礼をのべるだけなら、上ってお茶の一杯も飲んで十分や十五分閑談していくのが自然であろう。私は、国領の凡帳面な性格を大阪時代から知っていたが、それにしても少し窮くつで不自然な態度だと、いぶかしく思った。

注)この、国領来訪のエピソードには、いろいろな疑問がある。
 貴司はその「文学史」草稿中にこのエピソードを、ある熱心さで繰り返し書き著しているのだが、その内容に少しずつちがいがあり、また、あとから相当大幅に加筆した跡がある。
まず、来訪の時期については、昭和二年暮と、昭和三年一、二月頃の二通りがあるが、大まかにいって、第一回普選直前の冬の頃、という範囲にはおさまるようである。
時間は、午前中というのと、深夜というのと二通りの記載がある。 来訪の場所はいづれも大森山王の住いとなっている。
それで、この時期の貴司の日記を調べてみると、 昭和二年十二月十日から昭和三年二月十日まで東京の大森山王にいた(その前後は大阪)ことがはっきりしており、ほとんど欠落なく連日記載がある。しかし、その中に、貴司にとって重要な体験だったと考えられるこの国領来訪を推測させる記事は見当らない。左翼関係でも、野田、飯石、長尾、福永などの来訪はいちいち記されているのだが、国領の記載はない。
また、このエピソードの内容についても、いろいろ間題がある。ここに採録した行文は、何度かの重複した記載のうちで、稿紙や書体からみて最も早く書かれたと推定されるものから採った。しかし、この行文にも、相当に重大な訂正が、あとから加えられているのである。それは----
「……今夜は近所まで用があってきたのでお礼に立ちよりました」
 とぴょこんと頭を下げて、すぐ立ち去った。
 という所が線を引いて抹消され
「立ち去ろうとした」
 と書き改められ、以下、書斎まで上って話しこんでいったようになっている点である。 更に、別の重複箇所では、上りこんで話をした、その会話の内容が大幅につけ加えられている。
 この付加は、相当後期の、字体からみて病臥の後に書かれたものではないかと推察されるが、その内容は----
 真のブロレタリア文学は、政治革命の後でないと、達成できないのではないか、という貴司の問に国領が
「革命前にもプロレタリア文学闘争はありうるし、その土台がなければ革命後のプロレタリア文学の完成はできない」
 と答える。
 プロレタリア文学闘争とは何か、という問に対し、
「第一には、良心的な作品によってえた収入の一部を運動に寄付することもその一つだが、更に、労働者の生活の中に入り、その生活を調べて書くことが必要だ。その場合、作家は労働者の理解できるわかり易い書き方をしなければならぬ。昔、大阪に「暁の鐘成」というもの書きがいた。沢山の地誌や風土記をかいた人だが、福知山で、頼まれて一揆の趣意書をかいたため捕まり獄死した。つまり鐘成は文章を書くのが好きで、それで一揆の手助けまでしてしまう……文章書きのシンパサイザーの、これが本当の姿であろう。まず、ものをかくことに専念してほしい。ほかのことは考えなくて結構だ。その文章をかく仕事の中で、死をかけなければならぬことに出合うかもしれないし、出合わないかもしれない----ともかく、長く、いいものをかいてもらいたい」
 といったことをしゃべる。
 そして最後に、姦通罪などに問われるに至った福永の身の上を心配して帰っていく、という構成である。
 この修飾加筆の内容は、その訂正加筆の経過からいっても、またその内容からいっても、とうてい信じることができない。
 プロレタリア文学闘争に関する国領の論旨は、むしろ貴司自身のいいたいことそのもの、という感じがする。それは、後年の芸術大衆化論争の中での貴司の立場にいくらか照応するものが感じられる。
 いちいちとりあげなかったが、細かいデテールについても、事実に符合しない点がいくつかあり、総じて、貴司と国領の文学談は架空対談の疑いが濃厚である。
 さかのぼって、国領が、大森の貴司宅を訪れた、というエピソード自体がフィクションである可能性も少くない。
 ただ、貴司はこの時期、実にしばしば、時には千円以上という当時としては相当に多額の寄付を、さまざまな名目で、共産党ないしその系列の組合や労農党などに行っており、律儀な国領が、深夜ひそかに危険を冒してもともかく挨拶に訪れた、とうことは、考えられなくはない。ただ、それにしても、上がり込んで長々と話し込むというのはちょっとやりすぎで、挨拶して倉皇と立ち去った、という、初期の記述が一番信憑性があると思われる。
 いずれにせよ、今となっては、その現場関係者(貴司、国領、貴司の妻悦子、野田律太など)はすべてこの世になく、真偽の確めようもない。従って、貴司の国領に対する敬愛の程を知っていただくために、ともかく、このような形で採録しておく次第である。
 いささかフィクショナルなこのエピソードの埋め合せに、確実な国領五一郎の話を、貴司の日記から紹介しておく。
 それは、貴司が始めて国領五一郎の面貌に接した日の、貴司の日記としては相当に長文の記載である。
 昭和二年四月十八日月曜の項で、この時貴司は東京から大阪豊中新免に一時帰っていたのだが----
「花曇り。体の気持が悪い。おひる少し前、阿波の福永豊功君がはいってくる。ひるめしを食って、金を五十円くれという。福永をつれて大阪に出、老松町の十五銀行で金を出し、五十円やって、一しょに西野田の評議会本部にゆく。中央委員会をやっているのを、委員長の野田君にあう福永君の用件のため、秘密の場所をさがしさがし、ついてゆく。どこかわからない裏町の二階で、評議会の中央委員が皆集っている。自分たちをここへつれてきたのは書記の長尾他喜雄君である。階下でかなり長く待ち、休憩になったといって、野田君が下りてくる。休憩の前に、二人の傍聴を許すかどうかを提議し、反対者もいたが結局「異議なし」となったから、上れというので、自分も福永君について二階に上る。一時間傍聴、杉浦君の雄弁、たまにしか口をきかない冷たい顔のやせた男が国領君とわかる。自分らを二階に上げるのを最も反対したのが多分この国領だろうと思ったらそうではなくて、野田の提案を大半が「いかんいかん」「必要なし」というのを、国領君がたった一と言「いいじゃないか」といったとあとで判明。国領の発言が何かにつけて鶴の一声のような力のあることも、あとで長尾君、飯石君からきく。
 そういえば本部で自分と福永がまごまごしていたら、冷たい顔をしてじろりと自分をみ、長尾君に野田君の所在を教えて行ったのも国領である。その長尾に道案内されてこの場所にきて二階に上ると、さっき本部で逢った国領がいたので自分はちょっと感激した。国領は評議会の会計をやっていて自分が飯石や野田を通じて何度も評議会に金をキフしたのを知っていたのである。会場の近くのコーヒー店で長尾、飯石、福永と雑談。長尾が情熱をこめてしゃべる福本の理論を「何のことかわからん、そんな議論は労働者にはむかん」と飯石がやっつけると、長尾は「そういう飯石こそ反労働者的なんだ」とやっつける。「じゃ一体どうすればいいのかなあ、ストライキやデモをみなうっちゃっといて理論斗争が一番大事だというのなら、これからの労働運動は、机の前やら、こうしてコーヒー店でばっかりしなければならなくなる。おれにはわからんし、つらいなあ」
「君は脱落者だよ」
「困ったなあ、お前のような頭のいいのが、同志のよしみで、そこを何とかしろよ。わしはお前のいうとおりにするから」
そのへんで話はおしまいとなった。……』(以下略)

 ところが、それからしばらくして、野田が東京の本部を離れ、指定された大阪の選挙区へでかけるのだ、といって立ち寄り、これは二階の書斎に上ってきたので、数日前に国領がきたと私がいうと、野田はキョトンとした顔つきになって
「何かいいましたか?」
 私が、ありのままに国領のいったことを話すと、しばらく考えこんだ野田の眉毛が、苦しそうに動くのがみえた。

注)日記によると、昭和三年一月二三日、野田がいよいよ大阪から立候補するといって来訪、とりあえず旅費二十円渡す、今晩あたり大阪へ立つらしい」とある。

 やがてかれは私の方を向いて、実は評議会書記の片山が、私のやった二十円その他の金を持ってそのまま逃走してしまったということ、片山は前にも一度公金拐帯の前科があり、除名されかけた時に、国領が口を切って「片山のやったことは許せないが、もう一度だけ僕にあの男を預らせてくれ。何とかあいつの性根を叩き直してみるから」というので、片山を国領の下で働かせることにして今日まで無事にきた。その内、国領は評議会の財政部長も兼ねるようになって、自然と片山にも金の使者などをさせることになって、こんどのような二度目の失敗をやらかしてしまった、という話を打ち明けた。

 意外なことで、それでは山懸が小樽へ行って活躍しているのも、私の寄付した二十円のせいではないのだ、とわかり失望して
「どうしてまた片山のような男が、左翼労働運動の中へはいってくるのか」
 と、いささかなじったものだ。
 野田はその場に両手をついて私にあやまり
「常任委員会でも国領はみなに責められて、すっかり立場を失ったのです。実は貴司さん、国領はその日の常任委員会で、第四回プロフィンタン大会への日本代表に選ばれ、すぐ出発することになって、なけなしの財政から千円ほどの旅費もわたされたんです。国領はその中から二十円を弁償して、山懸に届けました。そんな風にいろいろ始末をしてかれは東京を脱出し、いまごろはモスクワへいく途中だと思います。その行きがけにここへ寄ったのは、あいつのことだから、心ので貴司さんに詑びをいっていったものと思います。あいつはそんな男です」
 私はその時二十八才の青年で、評議会の人々のシンパの役をつとめるのは、正義の味方になることだと信じていたので、野田の打ち明け話を、少なからぬ感動をもって聞いたものだった。

             .国領五一郎のその後  ◆文学史topへ  ◆資料館TOPへ  

 ともあれ国領は、私の家に姿を現わしたすぐあと、ひそかに出国してモスクワに行き、四月十五日頃、コミンテルンで報告を行った、とされている。
 そして、国領はコミンテルンが作成した「日本問題に関する決議」を手渡され、これを日本に持ち帰った。
 その帰途、満州の列車の中で国領は、一旦官憲に逮捕されたが、巧みに逃れて、もっていたコミンテルンの文書も失うことなく日本に帰り着いた。

 戦後、公安調査庁が編さんした「日本共産党史(戦前)」の中にコミンテルンの「日本共産党に対する決議」として、この国領のもち帰った文書の内容を推察させるような一文が載っている。
 それは大略次のようなものである。

@三・一五事件等、すべての出来事は一九二七年七月、コミンテルンが日本の党に与えた決議の正しさを完全に証明した。即ち、共産党は社会民主主義との闘争を通じてのみ発展するということが証明された。
A労農党、日労党、社民党との無条件合同を以て統一戦線の一形態と考えるのは大間違いである。天皇制擁護を第一目標としている社会民主主義者の正体をバクロし、断呼として斗争することは共産党の任務である。
B日本共産党を数的にも思想的にも強化することに全力を集中せよ。政府の弾圧を無効ならしめるために、党の非合法機関を改善強化せよ。その他の面で、合法的可能性を最大限に利用し、労農大衆に党の影響を浸透せよ。そのためには定期的な非合法機関紙を必ず持て。
C解散せしめられた革命的大衆団体の再組織を、党は極力指導せよ。評議会の再建は特に重要である。(以下略)

 国領が代表として出席したプロフィンタン第四回大会でも、殆どこれと同様の「評議会再建についての決議」などもなされたので、六月に日本へ帰ってきた国領が、この指令の線にそって活動したことは容易に想像される。

 この指令の中にある「定期的な非合法機関紙」とは「赤旗」のことである。
「赤旗」は、大正十二年に市川正一、山川均によって出されたことがあるが、日本共産党の機関紙として改めて創刊されたのは、第一回普選目前の昭和三年二月一日で、渡辺政之輔が書いたといわれる「創刊の辞」は、なかなか堂々たるものであった。
 だが、この「赤旗」も、三月十五日づけの第四号が出た所で三・一五の大検挙にひっかかり、中央印刷局が潰滅させられてしまった。

 しかし「赤旗」は、この大検挙のわずか一週間後に、早くも奇蹟的に復刊された。
 関東地方委員会の印刷部を使って、中央印刷局員だった中尾勝男、門屋博らが、三月二十二日、第五号の発行に成功したのである。
 その発行部数は、百部にすぎなかった。しかし、一九〇〇年代の初め、バクーの共産党員数名が秘密印刷所で、レーニンの「何をなすべきか」を活版印刷し、それを見たレーニンが革命への自信をえたという、その「何をなすべきか」の部数はわずか六十部であった。

 中尾も門屋も、のちに私もよく知る間柄となったが、昭和三年におけるかれらの革命的情熱は、バクーの党員なみと評価していいだろう。私が知ったころの門屋博は、共産党から脱落した、三流どころの普通の新聞記者だったが、そこでも落ちつかず、ついに軍部の手先きになって中国にわたり、第一線に出て中国侵略工作に「挺身」したが、それをも疑われ、憲兵隊に捕えられ、また牢獄の憂き目を見、やっと内地に帰ったものの、間もなく死んでしまい、あまりだれからも同情されない一生を終ったが、昭和三年三・一五事件のあとで「赤旗」第五号を出したかれの革命的情熱は、純粋なものであったと思う。
 人間は変貌するものである。死すとも初志をかえないという人間はごく稀で、普通の人間とは範疇が異っているようにも思われる。

 私が自分の生涯に直接に見たそういう人間は、徳田球一、宮本顕治、志賀義雄、山辺健太郎、国領五一郎、豊原五郎、西田信春の七人に過ぎない。その中でも、人間としてもっとも優れていて、いつまでも人を懐かしがらせるのは、国領だったと思う。

注)七人のうち、徳田、志賀、豊原、西田の四人はあとからつけ加えられている。初めは宮本、国領、山辺の三人で、貴司が比較的プライベイトに知っていて非転向を貫いた人物を挙げたのだろう。後に、同じ非転向だから付け加えないと不公平と考えて付加したのかもしれないが、あとの四人は格別貴司とつながりがあった人々とはいえない。

 さて、昭和三年六月、その国領がモスクワから東京へ帰ってきてみると、三・一五の嵐はすべての組織を破壊しつくしたあとだったが、それでも無産者新聞は残っていた
 党の中央部には市川正一、渡辺政之輔、鍋山貞親、三田村四郎、中尾勝男などが残っていた。
 国領は、これらの人々との連絡をはかり、党再建の組織部員となって活動をはじめる。九月には、書記長渡辺政之輔が海外に出たので、国領は書記長代理となって留守中の総指揮をとり、十月には党細胞二十一、党員数二百二十名となり、共産党は地下にほぼ再建された。
 ところが、十月四日早朝、国領の秘密住居へ踏みこんできた警視庁特高刑事の一隊によってかれはあえなく逮捕されてしまった。

 書記長渡辺政之輔が台湾のキールンで官憲に怪しまれ、逮捕を免れるためにピストルで一名を射殺し、自分も自殺した、という事件が起こったのは、その二日後である。
 渡政自殺事件というのは、はじめ官憲にもその名がよくわからず「米村嘉一郎」という仮名だけだったので、怪人物の怪事件として新聞に報道された。それが「渡政」らしいとわかって、当局はあわててあとの記事掲載を差し止めたが、台湾で「渡政」が死んだらしいという噂は決定的なものとなって東京にも伝わり、私もそれを知ったが、その二日前に東京で、国領が捕えられたことは、はじめから記事差し止めのため新聞には一行も載らず、なかなかわからなかった。

 だいぶ後になって当局が発表したのによると、十月四目の夜、国領は三田村四郎、丹野セツ(渡政の妻)とともに、浅草区聖天町四番地・丸山みき方の二階で党中央部の会議を開いていた。階下には党員の森田京子が見張役をしていた。そこへ表口から二人の紳士風の男が入ってくるなり、森田をおしのけて二階にかけ上った。
 森田の叫び声で、二階の三人の内、国領と丹野は屋根伝いに逃げ、三田村は用意のモーゼル銃(ピストルともいう)で、かけ上ってくる二人の男を狙い射ち、最初の男が階段から転落する間をくぐって三田村も階下に下り、裏口から逃げた。射たれたのは高木巡査部長で、死にはしなかった。
 すぐに浅草、下谷周辺に非常警戒線が張られ、午後十時ごろ、下谷金杉町で三田村が捕えられかけたが、ピストルを投げつけて逃げた。

 国領と丹野は、牛込のアジトで捕えられた。逮捕された国領は、警視庁の取調べにも完全沈黙して答えなかったが、昭和五年五月、獄内被告の間にできた中央部の
「予審、公判を通じ、党の目的、綱領、政策を正しく陳述し、それが外部に伝わることによって外部の党活動を正しく誘導するようにし、大衆にも一定の影響を与えるようにする」
 という決定に基き、予審訊問に応じるようになったという。

 しかし、それらの陳述が弁護士などによって外部に発表され、私などが獄内の国領の健在を知ったのは、ずっと後のことであった。
 ことに、かれが昭和六年九月の公判廷でのべた「日本の労働組合運動」(著作集での仮題)という大演説は、その時としては大きな影響を党や大衆に与えたが、それを読んだ私は、昭和三年二月のある夜、大森の拙宅の土間に立った国領の謦咳に再び接しだ思いを新たにした。

 その十月、かれは徴役十五年の宣告を受け、控訴審公判廷で
「自分は今後も熱心に被圧迫人民解放のために働きたいから、即時釈放を求める」
 とのべたということが、商業新聞の片すみにのったのを見た。その控訴審では一審の徴役十五年に、四百日の未決通算がついただけで(実際の拘留は六年余、二千日を越してい
る)その年十二月、大審院への上訴も棄却となり、刑が確定。徳田、市川らとともに網走へ送られ、われわれの社会から消息を絶ってしまった。
 かれは、二年半あまりたって綱走から釧路に移され、病をえて、奈良からさらに堺刑務所の病監に収容された時には、胃潰瘍に腹膜炎を併発し、再起不能の病人であった。
 そして、昭和十三年三月十九日、堺刑務所の孤独な病監の中で、だれ一人看取るものもないままに、四十一才の生涯を閉じたという。

          .特殊な人間のタイプについて ◆文学史topへ  ◆資料館TOPへ  
 私は、もう三十年来、国領の生涯をモデルにした特殊な人間のタイプ、日本人の一面を小説に書きたいと思いつつ材料不足でそれが果せないでいる。
 私が、国領五一郎を、殊の外尊重しているのは、かれが、私と同様に小学校だけにしかいかず、あとは独学で自己をみがいて、死をも怖れずマルクス・エンゲルス・レーニンの教えに突進していったという。そのことによってではない。
 私が、いまもって国領五一郎という人間から視線をそらすことができず、何かことがあるとくりかえしくりかえし、考えがそこにいってしまう----それは、国領という人間に、
私とはあまりにも異る、ある「特殊な人間のタイプ」を感じて、そのことについて考えさせられてしまうからなのである。

 ----実は、国領が最終陳述をするという日、今、記録によってみると、一九三一年(昭和六年)九月十日だったらしいが、私は周りの人々から「ぜひ聞きにいけ、今後の共産党の活動の基本的な心得をのべるから」といわれたものであった。しかし、私は、理由をもうけて、いかなかった。
 そして、あとで新聞で要旨をよみ、シューンとなった。

 第一に私が驚いたのは、国領の年令である。かれが生れたのは一九〇二年十二月だから、この代表陳述をした一九三一年九月に、かれは三十才未満である。二九才何か月の青年が、悠然自若として非合法党の綱領をのべ、誰が何といおうとその態度を少しも変えるところがなかった。
 翌年の控訴公判で、既に転向してしまった佐野、鍋山らの一国社会主義論を、好戦的なものと指摘し、新らしい敵で、絶対に容認できない、といいきり、裁判長が「字句不穏当だ」と注意するや「われわれ共産主義者の意図が裁判長に真に理解されて無罪放免になるというのなら、ここでクドクドという必要もないわけだが」とかるく一蹴し、同じ調子でそれまでの主張をつづけた、という。

 かれの要求は「自分は、今までのべた通り、無産者勤労民のために、生命がけで働き、かれらを解放してかれらの都合よき天下をつくりたいため、即時無罪釈放されたい」というにつきた。
 ----国領は、判事に向って陳述する際は、にこりともせず、至極丁寧にはじめに最敬礼をした。その威儀の正しさは、ブルジョア的儀礼にすらかない、現場の闘士の如く喧嘩腰にくってかかるということがなく、並みいる判事たちは、国領に向って返礼をするものもいたくらいである。
 そして、のべることは、言のおだやかさに似ず、その意の非妥協的なことは驚くばかりで、きわめて対立的、敵対的であった。国領の言葉には敵ブルジョアジィに対する寸毫の愛想もない。

 その大意はどの新聞にも載ったが、よくこれだけ腹の立つことを、いささかの怒りの感情も交えずに長々とのべたものだ。

注)原文には国領の陳述が長く引用されているが略す。「国領五一郎、山本懸蔵著作集」(共産党中央出版部)が刊行されている。

 このような国領に対する裁判所の答えは、徴役十五年の刑であった。「……如上のたたかいを必要とする日本共産党員として、断固として闘争する」と宣言したが故に、それに対する答えとして、かくの如く十五年の徴役が与えられたのである。
 そして国領五一郎は、刑定まって網走、釧路の極北の地の刑務所に送られ、病いをえて奈良から堺刑務所に移され、四十一才で死んだのである。

 ここで特にいっておきたいのは、国領のこのような運命というものは、決して権力の強制によって一方的にもたらされたものではない、という点である。当時といえども、共産主義者は、いったん捕まれば、必らずこのような非業の境涯におとしいれられるというわけではなかったのである。
 当時の官憲は、それよりはるかに巧妙で残酷なワナを共産主義者のために用意していた。官憲は、捕えた共産主義者に無限の監禁と拷問を加えながら、しかし常に「転向すれば許してやる----われわれは別段、お前を絶対に消してしまうなどといっているわけではない。共産主義をやめると宣言すればいつでも許してやる。自由の身になるかならないか、それはお前自身が選ぶことなのだ。さあ、どうする?」という選択を始終目の前につきつけ続けるのだ。
 それは「踏み絵」の昔から、権力が、人の行為だけでなく、人の思想、つまり心の中で考えていることまで弾圧しようとした時、必然的にたどりつく手段にほかならない。転べば無罪、転ばなければ死。そのどちらでも“"罪人”は自分の意志で選ぶ“自由”が与えられるのである!
 この世で最も残酷な、それは“自由”であろう。

 しかし国領は、その“自由”に耐えて、裁判の最後の最後まで「共産主義者として闘争する」という宣言を変更しなかった。国領は自ら、死のかかった運命を選びとったのである。
 恐しげもなくそういう運命を選びとり、死んでいくということは、普通の人にできることではない。
 胃潰瘍に腹膜炎を併発し、堺刑務所の独房内に打ち臥して、迫りくる死の影に抵抗しながら、自若として平常を持するということは----恐らくそうであったと思う----そういう状態は、想像するだに私などは慄然として震え上ってしまうのだ。
 死後のことを考えないのであろうか? 悲しみを感じないのであろうか?

 昭和三一年ニ月ニ二日の夜、小林多喜二・二三回忌の晩、私は神田の通りを歩いてお茶の水駅までくる途中、宮本顕治にさそわれてとある大きな喫茶店に休けいした。
 そこで私は宮本にきいた。
 かれは捕えられて二年間、ついに一度も特高警察に口をきかず、緘黙したままであったことが新聞に大きく報道されていた。その途中、かれは病気になって発熱がつづき、妻百合子が特に許されて病濫に通され、面会したことがあった。
 百合子が会ってみると、驚いたことに、宮本は頭がツルツルに禿げ、みるかげもなく痩せおとろえて病床に横たわっていた。このことは当時、百合子自身から私などつぶさに聞いて、宮本は死ぬかも知れない、と思ったことだった。

「その時、死に臨んで、どんな気持でいた?」
 と、私は宮本に聞いた。
 宮本は、普段とあまりかわらない態度で
「うむ、死ねばもともとだと思ったね」
 ----獄中で死んだ豊原五郎は妹にあてて書いている「どうせ覚悟でやって来た所だ」と。そして縦容として死んで行った。----だが、私には、その時の宮本の言葉が、すぐにはわからなかった。宮本は更にいった。
「生れてこなかったと思えばすむことさ」
 ……生れてこなかったと思ってすませることのできる人間というものに唖然として、私はあとの質問をやめたことをおぼえている。後になっても、しばらくは私は宮本をむしろ憎んだ。そんな人間ってあるものか?

 しかし、現に生き残って、今、党の先頭にたっている宮本が眼前にいる。私は口をふさがれたようになって「うむ」と何度か息をつめて思い返した。
 政治の信条に命をかけた人には、こういう人がいるのだと、ようやく思い知った。
 この宮本が、のちに他の同志たちの転向に際して「意志が弱かったのだ」と批評しているのをきいたことがあって「なるほど」と思ったことである。
 国領もまた、このような人間であったにちがいない。かれらを一流人だというならば、私はかれらの前にひれ伏して後に従う連中----二流の大衆なのだ。

 二流の大衆? 私は長い間それを考ていた。死を怖れる----それが二流の大衆というものなのか?
 二十幾年、そのことを考えつづけた。
 私の遠祖にも、死を怖れず、子を残して死の中へ突進して行った夫婦がいる。直訴して捕えられ、磔刑に処せられて死んだのだ。伊予大川郡落合村の名主池田彦七という人物で、享保年間の出来事であった。
 その、半ば伝説と化した遠祖の時代から何百年かのち、自衛隊にのりこんで隊長をふんじばり、決起をうながしたあげく、その罪に殉じて自決した奇妙な作家が出現したのを目の当たりにして、私は長夜の眠りからさめたように、長い問考えぬいた宿題を解いた気になった。

 ----死を怖れる“二流の大衆”、私もその一人である所の“二流の大衆”と、死を恐れず直訴を行ない襟刑になっていった私の遠祖や国領や豊原四郎や宮本といった人間との間には、何か、あまりにも画然とした越え難い一線があるように思えるのだ。
 その、画然とした一線をなす、違いは何なのか?

 国領、宮本らの列に、さらに、白衛隊に闖入して自決をとげた、あの奇妙な作家をも加えるとしたら……多分、国領や宮本らは、冗談いうな、とかんかんに怒るであろう。しかし私は、ほとんど珍事件としかいいようのないあの事件を目の当たりにして、ようやく一つの事に思い至った、ということもまた事実なのである。
 それは----かれらは、生産者ではない人々だ、ということだ。
 それに対して、私たち“二流”の大衆は、生産者なのだ。平民なのだ。地に足をつけ、ものを造る百姓なのだ。百姓は、あくまで地から離れない。あくまで生きようとする。名主何某に直訴を決意させるまでに窮状を愁訴するけれど、自ら死を賭けた直訴に走ることはない。先祖代々生き、子や孫に生き継がせて、万代まで生きようとする。この百姓は、おのれの生命を奪おうと迫る者には、歯をむいて反抗する。逃げて逃げて、はてなき逃走を企てる。捕えられて斬殺される際には、この上もない大声をあげて叫喚する。叫喚の声に「死」の自覚はない。

 何故、百姓はそんなに叫喚するのか?
 それは、かれらは地を嗣ぐ者だからである。地に生きて行く目的を持つものだからである。地を離れるのを、自分の本能で嫌うからである。
 何故、それほどまでに地を好むものに百姓はなったのか? それは、地上に生産を営む者だからである。
 この地上に、何代も何代も生命を嗣いで生きてきた百姓たちには、そのような本能がつちかわれた。
 かといって、かれらは地上に楽趣安逸をむさぼろうというのではない。平和な安らぎの生活を求める、それさえあれば満ち足れりと、営々と働く。争わず、奪うなき生活を実現すれば足れりとして、かれらはこの生活を楽しむ。いつかそれが、かれらのィデオロギーとなり、かたくそれを信じる。

 かれらは自分のイデオロギーに反するものをきらう。かれらは自殺しない。まして他人から殺されることをよろこばない。他人に生命をとられることを拒否する。他人のために死ぬことを拒否する。
 百姓とは、民衆のことである。それは人民であって「士」(さむらい)ではない。
 士の、百姓と違うところは、かれらは仕うる主人をもっていることである。そして直接には生産にたづさわらない。
 武士はその主人に仕え、あくまで従順で違うる(たがうる)ところはない。そして、節を屈する代りに自決するのを得意とした。明治維新は、その武士が天皇に帰服するところからはじまった。百姓は不在であった。……

注)このような議論が相当に長く書き続けられているが、論旨は時に低迷し時に飛躍し、文意が通らぬままに放置されている所も少くない。従って極力原文を生かしながら、文意が通じるように整理を加えたのが、このあたりの本文である。
貴司はここで、国領から三島由紀夫までを「士」が天皇に服属することを出発点とした日本近代における「士」----主を持たずにはおれぬ特殊な人間として一括しようとするのである。
それに対して、己れは「主持ち」を慣わしとはしない平民----百姓の側だと考える。小学校しかいかず、その出自は塩田労働者から成り上った高利貸の息子にすぎない、というわけである。
私は、それらのことを、しばしば貴司からきかされたものである。
あまり知られていないが、明治時代の塩田の経営構造は、同じく前近代的とはいっても、農業のそれとは大変異なっている。入浜式製塩業では、塩田そのものを所有している地主、その地主から塩田を貸りて製塩業を経営する小作、その小作に雇われている塩田労働者の三階層が存在していた。地主及び小作が経営者層であり、塩田労働者は強い人身拘束的な状況におかれていた。
塩田労働者は就業中、膝より長い着物、布の帯の着用などが禁じられ、常にナワの帯を用い、食事は主家の土間で立ったまま食べ、決して座ることは許されなかった、という。
 貴司の父は、このような境涯から身を起し高利貸となって産をなした。もっとも、産をなしたといっても知れたもので、貴司自身、小さい頃から通い帳をもたされて、小口の貸金の回収にまわらされた、という程の零細な高利貸だったようだ。つまり、己れの出自は度し難い庶民的小成金だったというわけである。
 ともかく、貴司はこのような出自に加えて、無学歴ということもあって、自分は“正統なインテリゲンチャではない”という自意識が強かったようだ。“士”ではない、というのはむしろそれほどの意味と解した方がいいかもしれない。
 このような意識が、さまざまな局面で貴司の行動選択に決定的な影響を及ぼしてきたように思われる。大衆文学を選び、シンパにはなっても党員にはならず、ブロレタリア大衆小説を唱え、常に自分は野次馬であり無頼漢みたいなものだ、と自称していた。
 貴司がしばしば語ったエピソードにこんな話がある。志賀直哉に初めて面会した時、名刺をみた志賀直哉が「なんだ、野狐三次みたいな名前だ」といった、というのである。
 貴司山治という名は、元来キシ・ヤマジと読ませるべき所なのだが、人はしばしばキシ・サンジと音読みにした。志賀直哉の言葉も、山治をサンジとよんだ上でのシャレだったのだろう。しかし、シャレというだけではなく、この学習院を出た白樺派のエリートには、貴司が“士”の部類には属さぬ、野狐三次的人物であることが、一会にして感じられた、ということを示す、エピソードに違いないのである。

              .磔となった遠祖のこと  ◆文学史topへ  ◆資料館TOPへ  

 ここで、故郷のこと----というよりは、はるかに遠い昔のことなのに、未だに私の心に影を落し統けている一つのことを書いておこう。
 伊藤家は、江戸時代には代々鳴門で「山代官」をつとめていたと伝えられている。
 この伊藤家の正統者で、私の祖父に当る伊藤甚蔵は、老いて中風となり、寝ていたが、腹の立つことがあってはね起きると、天井をけとばしたという狷介不遇の人であった。
 その祖父の代に「山代官」はなくなり、息子たちは遊食の徒となって、長男は骨つぎを業としながら、撫養町財田で小さい家をもっていた。その家には娘が二人あったが、上の娘は細い顔をした美人で青白かった。下の娘は母親に似てふくらんでいた。

 伯父の甚蔵(つまり祖父甚蔵の長子)は、胴のかがんだ眼尻の下った男で、何も正職らしいものがなく、骨つぎの看板を出していたが、骨つぎをしているのを見たことはない。私など、よく傷をなおしてもらいに行った。鍼でヂョキと刺して膿を出し、あとは手でもんで治ったものだ。
 この人の下に三つ石の伯父というのがいた。三つ石という在所にいて、塩田業をやっていた。この伯父は、伊藤倉次といって、愛想のあまりない人であった。
 三つ石という在所へ行くには、八軒浜という所から、曳綱で小さな舟を曳いて向うへ渡らねばならなかった。流れが急でなかなか渡れず、力のかぎり曳綱を曳かねば舟が動かないので、しまいに私は泣き出したのをおぼえている。

 この家ヘ、どこからか嫁がきた。婚礼の手伝いに行って、そのお嫁さんに切紙で細工をしてもらい、切紙細工の人形をたくさんもらってきたことがあって、自分で作ろうとしてどう工夫してもできず、出来ず仕舞いでなげ出し、そのお嫁さんが手芸ができるのをうらやましく思った印象が未だに残っている。

 財田の甚蔵はんは、みるからに庶民的な人で、体も小さく、小まめにひょこひょこと出歩いていた。
 所でその頃、高島兵吉という国民党の代議士がいたが、その人の妾に菊地さんという女がいて、そこの息子が林崎小学校の教師をしていて私と知合いになり、よく菊地の家ヘ遊びに行った。細い顔をした賢夫人のようなおばあさんがいて、よく応対に出た。いつか、私が行くと、伊藤甚蔵が奥から出てきて、おばあさんに、わが家のような物のいい方をして帰って行った。不審に思っていたが、おばあさんと伊藤甚蔵はできている間柄だった。
 それ以来、私はそこヘは行かないことにした。

 ----さて、伊藤甚蔵と伊藤倉次……はるかに遠い明治の末、つまり私が幼かった頃に接した二人の伯父についてとりとめもなく語ったのは、この二つの名が、実は、伊藤家の遠祖にまつわるエピソード----それは私にとって時に、抜き差しならぬ重いでき事としてよみがえり続けることなのだが----を説明するために必要だったからである。
 それは、享保年問のこと、というから、伊藤甚蔵や伊藤倉次の生きた時代から勘定しても、二百年近い昔である。
 讃岐国大川郡落合村に、池田彦七という名主があった。享保八年から十年にかけて、讃岐は歴史的な凶作に見舞われ、百姓は食うに食えなくなっていた。名主池田彦七は、思いあまって代官に免租を願い出たが許されなかった。

 池田彦七は武士の末裔であった。
 かれは、この上は高松に出て、藩主に直訴しようと決心した。直訴すれば、願いのすじは許されるかわりに、訴えた一家はすべてハリツケに処される。
 磔を覚悟で、村のために死のうとした彦七の決心は悲しいものであった。
 彦七には一男一女があった。かれは、せめて幼いものに磔の責苦が及ぶのを避け、血筋を残そうとしたのか、幼児二人を三本松からでる柴舟にのせて、阿波へおとした。そうしておいて、池田彦七夫婦は直訴し、捕えられ、磔となって果てたのである。

 柴舟というのは、燃料にする薪や柴を積んで売りに行く舟である。姉と弟は柴舟にのせられて阿波の鳴門におちてきた。
 この二人の幼児を引とって育てたのが、鳴門の山代宮であった何代か前の伊藤甚蔵であった。
 この二人の幼児は、直訴人の血筋ということで民間の尊敬を受け、男子は池田姓をついで高島で一家を立て、姉は財田の伊藤甚蔵の家の嫁となった。
「伊藤家には、直訴人池田彦七の血がはいっているんだぞ!」
  と、この話を私にしたのは、三つ石の伊藤倉次である。かれは、この歴史的事実の発見者でもあった。
 それを発見したのは、明治二十七、八年頃のことだった。

 専修大学に学んでいたかれは、東京からの帰りに、大阪から高松航路の船にのった。高松航路というのは、大阪、撫養、高松と回航する路線で、船中には高松へいく讃岐の人が何人ものっていた。船中の話に池田彦七のことがでて「その子孫が阿波で生きている、といういい伝えだが……」というようなことから、鳴門村字高島に生きている池田橘次という人がその末裔であることが明らかになった。
「だとすれば、その娘の方は伊藤家に嫁に入り、おれはその子孫だ」
 と倉次が名のったから大騒ぎとなり「それは神さまの引き合せだ」ということになって、伊藤倉次は香川県大川郡落合村までつれていかれた。

「行ってみると、わずかな戸数の村なんだ。落合村の他に相生村というのもあって、池田彦七は両村の名主だった。両村の氏神に池田神社というのがあって、村の救い主だというので毎年十月には盛大な祭りがいとなまれる。白鳥中学校の漢文の先生がきて、彦七翁のことを書いた文章も見せてもらい、松平伯の揮毫した頌文もあって……」
 と、伊藤倉次は奥から一枚刷りの石刷りをさがし出してきた。

 それをみると、彦七翁夫婦は磔刑にはならず獄中で死んだように書いてある。「どうしてか?」ときくと「藩主松平伯に遠慮して磔刑とは書かなかったのだ。しかし実際は、奥さんと共にハリツケになった、ということだ」といった。
 私は、この、不思議な血縁で結ばれている池田彦七という人物のことをも、また、国領五一郎と同じように、何度か小説に書こうとしたが、末だ書くことができないでいる。

 菊池寛の「磔茂左右衛門」も読んだ。菊池も讃岐の人だから、似よりの話を書いたのだろう。私はそれを読んでいるうちに、主人公がバカで、大ぜいの人にすかされて一接の張本人になって磔になるのを承諾させられ、血が流れだすと苦痛に耐えられなくて、泣き叫ぶ、という風に書いてあるのを見て
「これが本当だ。しかし、池田彦七はそうではなかったろう。彦七は、磔台にわざと上って死んだのだ。いったい、どんな気持で、かれは、磔台に上ったのだろう?」
 と、際限のない思いにおちこんで、自分ではどうしてもそんな覚悟ができず、せいぜい王陽明の思想くらいまではさかのぼれても、それから先きはどうにもわからず、未だに書けないでいるのである。
 池田彦七のととは、ことに、奥さんがともに死んだということが、大きなしこりとなって、わが胸の底に未だに残っている。            (File2 第三章〜第四章終わり)  (C) Copyright 2000 Ito-Jun. All right reserved.
               
◆次章へ  
◆文学史topへ  ◆資料館TOPへ