第5章 プロレタリア大衆小説  

          1. 三・一五とその後  ◆文学史topへ  ◆資料館TOPへ  

国領五一郎が突然、東京大森の私の家を訪ねてきた日から少し後に、私は妻をつれて大阪、茨木町の外れにある妻の実家におもむき、そこに数か月滞在した。
      注)昭和三年二月十日から四月下旬まで。
 それを知った大阪在住の飯石豊市がすぐ訪ねてきて、大阪での総選挙に関西評議会の連中がいかに奮斗したかの話をする。労農党からは大橋治房が立候補し、一同そろってその運動をやったのだが大橋は落選した。

注)大阪では労農党で野田律太が市内を、大橋治房が河内万面を地盤として立ったらしい。同じ労農党ではあるが、野田は共産党の推選候補、大橋はそうではなかったようだ。

 私は、闘士たちに慰労会を催してあげようといい出し、大阪市西区本田二番町の天華倶楽部という大きなシナ料理屋の場所を予約することと、そこへ呼ぶべき闘士たちの選定は「君と野田君に一任する」ということにした。
 天華倶楽部のその慰労会は、三月十日か十二、三日ころであったと思う。
 そこへ出席したメンバーは、飯石豊市、野田律太、太田博、長尾他喜雄、大橋治房、山辺健太郎、伊藤某などをおぼえているが他は忘れた。二十人ぐらい集ったようだ。
 白己紹介はむしろ私一人に対して各自からなされた。私だけが、かれらの大半を知らなかったからである。その時、落選候補の大橋は淀川沿岸の大地主の息子で、昔、淀川の治水工事に非常に功のあった名家だといったので、客気満々で軽佻なところの多分にある私は、自分の妻の実家が、やはりそういう名家だとしゃべったことを覚えている。
 どこかの組合の書記だった伊藤某は、鋭い顔つきの巻舌でさかんにしゃべったので記憶に残っている。山辺がそこにいたことは、四十年後にきいてはじめて知った。

 慰労会のあとで、茨木の妻の実家にまだ滞在していると、三月十七、八日頃だったか二十日頃だったか、野田が飯石をつれてひょっこり訪ねてきて、三月十五日に左翼の闘士が全国的に検挙されて殆んど一人もいなくなった、白分は残ったが今にやられるかもしれない、何にしても、再建のために東京へ帰るのだ、という話である。
 しかし、野田は意気消沈していて、とても再建のできる顔つきではなかった。

注)この慰労会の日時は、日記などでも確められない。二、三月の毎日の記載に少くともこの会を推定させるようなものは見当らない。ただ昭和三年に入ると日記は一週交代で、貴司と、妻悦子が書くように なり、それも四月二十日で途絶え、以来、昭和九年迄、日録は存在しない。そして、三月十二、三日頃は貴司悦子が書いている部分に相当し、そこには平安朝以来の女性の日記の例の通り、身辺の雑事しか記されていないのである。

 ただ、日記に書かれてはいないが、このように貴司が人名や店の名前まで挙げて書いているからには、そのような慰労会はあったと考えるべきだろう。おそらく、官憲にたいする配慮から、多数の労農党、共産党関係者が集まった会のことを記録するのを避けたのかもしれない。

 また、三・一五の後、野田、飯石が訪ねてきた、というのも事実関係が明らかにならない点がある。貴司の日記の三月二十八日の項に、東京の留守宅から廻送されてきた手紙の中に、野田からのものがあり、野田が検束をのがれて大阪安倍川の方に隠れていることがわかり、早速探して訪ねてみると、昨日東京へ帰ったあとだった、とある。どうも、三・一五の後で大阪で会っているとは思えない。ただ、二月二十六日に野田と飯石が大阪茨木に訪ねてきて、選挙の話を二時問ほどして帰った、と記されているだけである。

 あとでわかったのだが、野田は総選挙運動中に、共産党関西オルグの春日庄次郎に勧められて入党し、共産党員としては平党員であった。大阪ではその春日もやられ、東京の党中央委員会メンバーは九分どおりつかまってしまい、それが評議会役員とダブっている----まだ党意識のあまりなかった野田は、共産党が評議会をつぶした、というような考え方をしているようだった。

 三・一五事件は、政府によって発表を禁止されていたので、くわしい様子はわからなかった。残った闘士たちの口から口へ、それがかえって誇大に伝えられ、被検挙者数は五千人とも六千人ともいわれた。(後に発表されたのをみると、被検挙者千六百人、起訴者五百何十人ということであった)

注)三月二十五目の日記に「某重大事件が、官憲によってもちおこされ、先日来、全国のマルクシスト数百人、逮捕、検束等総追跡をうけ、東京では難波英夫君など、収容されているよし……」とあり、これはこの秋の御大典警衛の予行演習ではないか、という推測をしるしている。

 ただ、実際には貴司も、そのような一時的な弾圧ではないことは、感じていたと思われる。三・一五の大検挙を境に左翼運動全般がより厳しい当局の抑圧の下に置かれるだろう、ということは、三・一五の実相が明らかになるにつれてまざまざと感じられたであろう。この直後の四月二十日以降、日記を書くことをやめたのも、当局に押収されシンパ活動の証拠とされる危険をおもんばかってのことであったようだ。(書くのを再開した昭和九年の第一日目に、そのようなことが書いてある)

 いづれにせよ、それは明治の幸徳事件以来の大事件で、私は異常なショックを受けた。
 また、飯石は、労農党だけでやっておればこんなことにはならなかったのに、コミンテルンの指令で、共産党が公然と地下から顔を出してかきまわしたのがいけないのだ、ということを私の前で盛んにしゃべった。

 昭和一、二年頃、飯石のような考え方(共産党はあくまで地下組織で、公然の大衆活動は労農党や労働組合などが行なう、という----)は、かれ個人のものでなく、それまでの日本共産党の方針ですらあった。そのために労農党が作られ、それが共産党の代用ないし大衆的合法政党と考えられていた。

 当時の共産党は、世界組織で、日本の場合も国際共産党日本支部となっていて、本部すなはちモスクワにあるコミンテルンの命令には絶対服従して活動しなければならない、とされていた。
 そのコミンテルンで、昭和二年七月、日本共産党の前記のような考え方が誤りだと指摘され(いわゆる二十七年テーゼ)、労農党を解消して共産党そのものを公然化し、犠牲をおそれず大衆的に活動しなければならない、と指令された。その指令に従った最初の活動が昭和三年の総選挙運動であった。
 しかし、こうしたコミンテルンの方針が日本の労働階級にしみこんで、そのとおり動くようになるのには昭和四年の労農党解消の時までかかった。その間、飯石のようないい方をする分子は「敗北主義者」と呼ばれた。

 「何をいうか、組織をつぶされるように働くやつが共産主義者で、それを守ろうというおれたちが敗北主義者とは、あべこべじゃないか」
 と飯石はいきどおり、その後のかれはしだいに共産党に反発して社会ファシストのようになって行った。(飯石のいう組織とは労働組合のことである)

          2.「ゴー・ストップ」と「舞踏会事件」  ◆文学史topへ  ◆資料館TOPへ 

 昭和三年四月十日すぎに東京大森の自宅に帰ると、すぐに野田が訪ねてきて「東京のやられ方は大阪以上で、評議会、労農党、無産青年同盟の三団体が解散させられた」と話し、
 「ぼくは何もすることがなくなって、暇で困る」
 という。
 その頃、プロレタリア大衆文学の創造ということを考えていた私は、労働者の組織が潰滅状態となっている時、その恢復に何らかの意味で役に立つ労働者のための読み物を、プロレタリア大衆小説として書いてみようと考え始めていた。

 それで、そういう自分の考えを野田に話したかどうかの記憶はないが、「それなら今まであんたの労働運動の経験で未組織の工場に労働組合をつくるやり方を、小説として書くから、その話をして下さい。材料費として百円あげましょう」と提案した。
 かれは喜んで、百円あれば二月以上の自分の生活は大丈夫だ、といいながら、小説のタネとなるような話をいろいろした。
 野田は、毎日のように大森の拙宅ヘやってきた。左翼組合のオルグないし共産党員が、未組織工場へもぐりこんで、いかにそこの労働者の階級意識を目ざめさせて行くかという実例を、野田は五つも七つも私に話した。私はその要点をノートにメモした。

 そういう時に、難波英夫が元編集長をしていた東京毎夕新聞から、連載小説を書けという注文がきた。東京毎夕新聞は、京浜地区や本所深川方面に読者の多い夕刊新聞であった。
 私は、難波がそこにいた関係で、大正十五年四月に上京以来、すでに二度ばかり連載小説を書いたが、それは「宝冠」「魔の宝冠」と題するルパンもどきの探偵小説である。
 それを書いている頃は、難波は私を信用せず、書きながらも私はかれからたびたびヒドイ苦情をいわれたりしたが、幸いに「宝冠」は大好評で、つづいて「魔の宝冠」を書いたころから難波も私を毛嫌いすることをやめた。しかし、まもなくかれは毎夕をやめてマルクス書房という小出版屋となった。

 それで、三度目の執筆依頼には、板谷治平と正富という記者の二人がきた。私は、この機会に、前にいったようなプロレタリア大衆小説----つまり三・一五事件後、組織が潰滅して四分五裂状態となり、多くの労働者が意気阻喪しているのを慰め励ますような大衆小説を実現しようと思い立った。
 私は、毎夕の外報部長をしていて、難波と共にやめ、自宅でアブトン・シンクレアの翻訳に没頭していた早坂二郎が近くに住んでいたので相談にいった。
 かれは、脊椎カリエスでベッドに寝ていて、シンクレアの「グウス・ステッブ」(あひるの歩み)という本を読んでいた。
 早坂は、赤松克麿、宮崎龍介と共に大正十年に、朝日新聞の記者として例の白蓮事件を報道して有名だった。才気縦横、不覇奔放の男で、昭和元年頃には難波と共に東京毎夕新聞に入り、八方に活躍した。当時の毎夕新聞社といえば、進歩的な文化史の上で見逃せない一拠点であった。

 私は、早坂が病床で読んでいる「グウス・ステップ」という横文字から、反射的に「ゴー・ストップ」という文句を思いついて、これを毎夕に書く小説の表題とした。ところが学芸部長の田沢田軒が「日本語の題にしてくれ」というので、「止れ・進め」と書いて片わらに「ゴー・ストップ」という振仮名をつけて、八月から書きはじめた。
「ゴー・ストップ」は、はじめのうちは社内でも何の注意もひかず「失敗かな」と思ったものだ。

 その「ゴー・ストップ」が評判になったのは、江東方面の販売店からである。配達員が、夕刊がくると、配達に出る前にひっぱりあって読み、芝浦のある労働組合の男からは「いつもお前の小説が労働者達にむさぼり読まれている」、また、鶴見の方の金属労働組合のある闘士は「下宿のおかみがゴー・ストップを暗記していて、その筋をくわしく話してくれた」などと知らせてきた頃から、様子が変ってきた。
 柳瀬正夢が、一人でひょっこり現れたのは、この頃であった。

注)柳瀬正夢(一九〇〇〜一九四五)は一口でいえば日本の左翼絵画、イラストの草分け的存在といっていい人物である。四国松山の生れ、初めは油絵をかき、十六才で院展に入選、大正末期から左翼運動に加わり、無産者新聞には創刊時から編集者として参加していた。
昭和二十年五月、新宿駅頭で爆撃にあい死去。最近懐故展などもしばしば行なわれている。

 それ以前----昭和三年一月ごろに、柳瀬は「無産者新聞に小説を書いてくれ」という使者として、野田につれられて一度拙宅にきていた。

 その時は、そこに来合せていた友人の長江甚成と一しょになり、何も知らずにみんなで闘球盤をしたりしていった。
 長江は、秀英社の時計工出で資質と頭脳がすぐれ、国領につぐかと思われる男であった。もちろん共産党員であり、中部地区オルグとして派遺されるので、名古屋地方に駐在して活動中の生活の補いに、私が彼のために企画してやった新語字典の原稿書きをしていた。宇典の原稿が一定量に達すると、それを持って来て約束の稿料を私がかれに仮払いした。
 その時も、長江はそんな用でやってきていたのである。

 柳瀬は、無産者新聞の社員だが、自分と闘球盤をたたかわしている相手が日本共産党中部地区オルグだとも知らずにひと晩遊んで帰つた。
 その後、柳瀬に代って谷一(太田慶太郎)が大森の家へ、再び無産者新聞の小説の催促にきたのをおぼえている。その時、来年ナップが再組織されて日本プロレタリア作家同盟というのができるから、それに加盟せよ、という話もきいたように思う。
 それからしばらくして、昭和三年四月、私は、大森山王の日枝神社の隣りから、大井町原五三一七番地へ引越した。

 二度目に柳瀬がやってきたのは、この原の家の方であった。三・一五事件のあとで、三団体解散(労農党、無産青年同盟、評議会)があり、野田律太も検挙されてしまったのちなので、かれはただ一人でひょっこりやってくるしかなかった。
 柳瀬は、どこか野田と似たところのある人懐かしいタイプの男で、私が座敷のまん中に写真の引伸機をすえて、昼間に雨戸をしめ、印画の引伸し焼付けをやっているのをみて「ぼくにも教えて下さい。入門します」といってすぐに手伝い出した。私は写真についてはそのころもう十年の経験者だったので初歩的なことをいろいろと柳瀬に教えながらその間に無産者新聞の小説のことも考えた。

注)貴司が写真の趣味に相当深入りしていたことは事実である。
 貴司にこのような写真趣味を吹きこんだのは江原釣という人物だったと思われる。江原氏は貴司悦子の姉初子の夫、つまり貴司にとっては義兄にあたる人で、船場に邸を構える醤油醸造業のオーナーだが、家業は人に託して、趣味の世界に生ききった異色の人物である。ダンスの名手で、写真はアマチュアの域を脱しており、現在のような三五ミリ版小型カメラがほとんど普及していなかった時代に、手づくりで精密な超小型カメラをつくって新聞ダネになったりした。

 貴司は、大阪時事の記者時代に、取材がきっかけで始終出入りし、後にはその機関誌の編集にまで深入りしていた大阪割烹学校で、講師をしていた江原氏と知り合い、その緑で、後に結婚することになる(奇二)悦子を知るようになったものと思われる。
 当時(大阪在住時代)の貴司の日記をみると、三日にあげず江原氏と会い「うまいもの」をたべにでかけているという状態である。

 江原氏は後に、神戸の山の手に港を一望する瀟洒な洋館を建てて住んだが、二階の氏の書斎には、常にパイプたばことコーヒーの香りがみちあふれていたし、夜になると、港と街の灯が眼下に美しく、船の汽笛も、正に歌の文句そのままに実際に響いてきたことを、私自身はるかな記憶として覚えている。
 後年私は谷崎潤一郎の「細雪」を読んだ時に、そこに書かれている世界が、戦前幼い頃にかいま見たこの大阪、神戸の江原一族の記憶とあまりにもそっくりなのに驚いたものである。

 この時も、私は、小説のヒントを早坂ニ郎から得た。早坂二郎はその時、病床で仰臥しながらアプトン・シンクレアの「百%愛国者」を翻訳し、それを新潮社の世界文学全集で出版した。私は、その前に同じ小説を前田河広一郎の抄訳(「スパイ」と改題されていた)で読んでいたので、そこに描かれている官憲側の巧みな挑発行為に興味をもち、改めて早坂の「百%……」を読み返した上、それを摸したような趣向の「舞踏会事件」というのを書いた。はじめ三回分ぐらいを書いて、その時は写真の方の弟子ということになって毎日のようにやってくる柳瀬にその原稿をわたした。

 つぎにきた時「編集長の山根君が、ずいぶん面白いから三十回ぐらいに書いてくれといっているんだけど」という。とてもそんなに長くは書けない素材なので、あと四回分で書きあげ、その断りかたがた、私は新橋裏の古いビルにあった無産者新聞社へ自分で原稿を届けに行った。
 柳瀬や谷一がいて、私を山根に紹介した。山根は痩せぎすな背の高い無愛想な男だったが、私に好意を持っているのがよくわかった。ずっと後になって、この山根が、先頃物故した共産党兵庫県委員長の井の口政雄だったらしいのを知った。

 「舞踏会事件」には、林や新居を驚かした以上の大した反響はなかった。赤い新聞に赤い小説を書いても、それほどの反響の起こらないのが常である。たとえ、ほめられて評判がよくても、それは仲間ぼめと同じことで、漫談家稲岡進はこれを「御親戚すじ」と称した。
 小林多喜二が戦旗に「一九二八年三月十五日」や「蟹工船」を書いて一躍有名になったのは「御親戚すじ」を乗り越えて、一般大衆の問に感動のセンセーションをおこしたからである。その根本は一に内容が優れていたからである。
 私の「舞踏会事件」は、もちろんそんな作品ではなかった。

        3.「プロレタリア大衆小説」の初一念  ◆文学史topへ  ◆資料館TOPへ  

 私はずっと始めから、プロレタリア大衆小説の創造ということを考えていた。時事新報の懸賞小説「新恋愛行」を書いた頃はまだそれほど明瞭な考えはなかったが、ひき続いて「富士」や「講談倶楽部」や方々の新聞に大衆小説を盛んに書いて、時には月収千円といったことがあると、その仕事が内心バカらしくて仕方がない。
 しかし、読者は喜んでそういう大衆文学を、何の批判もなく素直に受け入れている。もし、それらの読者に、少しでもイミのある大衆小説を提供すれば、喜んで受け入れられた上、かれらを啓蒙することができよう……

 一方で私は、少年時代から、生まれ故郷で多くの労働者に交わり、その生活を見、かれらの側に立ち、かれらの戦いを陰に陽に支援するようなことを続けてきた。
 私は、自分では文学者----それも小説書きになろうとの強い希望があったので、かれら労働者の中に飛びこんでゆくということをしなかったけれど、文学の仕事を通じて、かれらのためにひと役かいたいという強い念願を抱いた。
 だから「新恋愛行」以来、二、三年の間にずるずると普通の大衆作家になりかけた時、「これではいかん」と煩悶し、野田との交際を通じて評議会に原稿料の一部を寄付することから、私の右のような初一念の実践がはじまったのである。

 しかし、作品の上でも初一念を生かさなければとふるい立ち、大正十五年の夏には朝日新聞の懸賞映画小説というのに、社会主義的なイミのある作品を書いてみることにした。そして、バートランド・ラッセルの思想をテーマとした「人造人間」という風変りな作品を書いた。四百枚を約二十日間で書き飛ばし、読み返すヒマもなくそれを朝日新聞に送ったら、翌昭和二年十月に当選して、賞金五千円をもらった。
 その作品は「霊の審判」と先方が勝手に改題して、昭和三年一月一日からの東西両朝日にのった。モノが映画小説なので、さしえは阪東妻三郎、近藤伊与吉、龍田静枝、森静子といった当時花形のスターでとったスチールに、さしえ画家田中良がレイアゥトしたものが用いられた。この小説のテーマは、今いうとおりバートランドラッセルの唯心主義的社会主義の思想だが、作品の構成にはジュール・ロマンの「ドノゴオ・トンカ」を下敷きにした。

 ジュール・ロマンは社会主義者ではなく、その思想はユナニミズムとよばれている。集団の意志によって世界が形成される----といった考え方らしく「ドノゴオ・トンカ」はそれを表現した諷刺的な映画小説である。しかし、大正十四年に、堀口大学訳で、第一書房から出版されたものには「科学の奇蹟」というロマンの思想から外れたような別の題がついていて、どこにも何の解説も紹介もなく、奥付に「どのご・とんか」というハンコが一つ押してあるだけの診妙な訳本であった。

 「霊の審判」が、この「ドノゴオ・トンカ」の様式をかりたものだとは誰も気ずかず、大阪朝日新聞の当時の学芸部長大道弘雄などは「非常に独創的なもので、すばらしい映画ができるぞ」と私の肩を叩いたものだ。
 この小説が当選した時、新聞にのった作者の言葉をみると

 「バートランド・ラッセルに従えば、人類には創造的本能と所有的本能の二つがある。しかるに現在人類はその所有的本能のみが旺盛で、創造的本能が眠っている。これがそもそも現在の社会をこうまで末世的なものとしている原因だというのです……われわれが科学の力によって、徒らに所有慾のみに駆られ、物慾や性慾にのみ専念する現在の不完全な人間を改造し、創造的本能を信条とする理想的人類を生み出すことができれば、行き詰った現社会改造の目的は達せられるのではあるまいか。要するに社会改造は組織の改革より、まずそれを構成する人類の改造が先きである、との持論を、この一篇の小説によって表わそうとした……」

 と述べている。もちろんこれが昭和初年の日本でも、空想的社会主義であることは、私も知っていた。私はもうラッセルを卒業してエンゲルスの「空想から科学へ」もレーニンの「唯物論と経験批判論」も読んでいた。したがってラッセル思想はもはや私の「持論」ではなかった。しかし、ラッセルなら朝日新聞でも支障なかろうと思ったのと、未だ何も知らないでいる大衆には、たとえラッセルの思想でも、つまり空想的社会主義でも、啓蒙の道具となればいいではないか、というのが私の「イデオロギーに水を割った」考え方であった。

 私のこの考え方は、日本プロレタリア作家同盟に入って文学大衆化問題の大論争の時、蔵原惟人を先頭とする殆どすべてのナップマンから激しく攻撃された。衆寡敵せず、私は己れの考え方の「誤り」を認めたが「だが、それは私の思想覚醒の過程なんだから」と、己れの心の経験を固執している自分を意識しないではいられなかった。
 ことにこの頃のように、思想的にはすっかり滅んだはずのラッセルが、ベトナム戦争でアメリカを戦犯裁判にかけるというような平和運動の中で、全世界の多くの知識人から支持され、かれが人類のための平和と人道の戦士と崇められているのをみると「それはどういうことなんだ」と私は「霊の審判」を書いた四十年前を問い返す気になる。

 ところで、東西両朝日紙上で「霊の審判」の回数が進んで、ノーヴァ・スーノという空想の国の制度機構を描く「理想郷」という一章がのりはじめると、果然、朝日新聞社は国粋会その他の右翼団体にねじこまれた。「ノーヴァ・スーノ国などという空想に仮託してソ連制度を謳歌するものではないか」というのがかれらの言い分であった。
 朝日当局は、その抗議に閉口しつつも、小説の掲載は続けたが、あとでこれを映画にするという企画はやめてしまった。

 朝日新聞----松竹映画----五千円の懸賞金----といった商業社会の装置を手玉に取って大衆のための初歩的な社会主義的啓蒙を企てた私の戦いは----ナップの面々のいう「イデオロギーに水を割る」仕事は、これで潰えた。これが私の「ゴー・ストッブ」以前のプロレタリア大衆小説創造運動の最初の経験である。
 当時、私を手厚く接待してくれた大阪朝日新聞の大江素天、大道弘雄、石田玖瑠盤、内海幽水の諸氏には深く感謝している。かれらの霊は今、ことごとく天上にある。

 そんなわけで、無産者新聞に「舞踏会事件」といったような小説を書くことは「戦い」の内に入らない。稲岡のいう「御親戚すじ」とのおつきあいでしかない。そのころの私の目的をカンタンにいえば、広い組織大衆の中で、プロレタリア大衆小説というものを創り出したい、というにあった。
 その第二の機会が東京毎夕での「ゴー・ストップ」であった。ここではバートランド・ラッセルなどの偽装はやめても大丈夫と判断して、野田律太の談話と、私の故郷の高島塩田労働組合争議の指導者であった友人福永豊功の五百枚以上の争議経過の手記とをモトに、場面を毎夕の読者の多い江東地区の本所にとり、スリの子分であった山田吉松というチンピラがガラス工場に入って、しだいに階級意識に目ざめ、やがてそこに評議会指導のストライキが起る……という話を組み立てた。

 私はそれを小林の「蟹工船」のように、決して芸術としては書かなかった。ルナチャルスキーのいう「大衆のための単純な初歩的な読み物」として書いた。

 昭和三年八月から書き始めて半年以上たった翌年三月ニ日に、私は腸チブスにかかって大井町の加茂病院というのに入院した。院長は私に絶対安静を命じ、流動物でも重湯も葛湯もいけないというので、スープとかソバの汁とかをのんで十日もすると、みるみる痩せ衰え、二十日もたつと、べッドから上半身を起すこともできなくなった。
 しかし、東京毎夕の「ゴー・ストップ」はストップするわけにはいかないので、友人の丸山義二を呼んで、あえぎあえぎ口述筆記で稿を続けた。熱がさめてからは自分で書いた。ある日、ベッドで新聞をひろげているのを院長にみつかって「チフスは直っても、一生直らない神経衰弱になるよ」とこっぴどく叱られた。まして新聞小説を書いているなどとわかっては大変だ。私は、医者も看護婦も寝しずまる深夜を待って「ゴー・ストップ」の稿を続けた。

 あまり長いので、いろいろな客が病床へおしかけてきた。
 前記の鶴見の方にいる金層組合の闘士というのは、共産党京都府委員長河田賢治のイトコになる、内田というおとなしい青年で、かれの属する関東金属労働細合は評議会に加盟していた。その評議会がなくなったので、いつしかじかに地域の活動資金を拙宅ヘもらいにくるようになったのだが、まもなく私の入院を知り、病院へ見舞いに来た。

 牧野弘之も病院へきた。私はかれの長兄高橋誠之の大阪時代の友人で、誠之にはニ人の弟があり、上が勝之、下が弘之で、二人とも幼い時からの顔なじみだ。
 というのも、この兄弟は中学時代にはアナーキストで、サッコヴァンゼッチ死刑反対のビラをつくってまき、警察につかまって退学させられたのを、長兄の誠之が「どうしたもんだろう?」と私に相談にきて、私が兄弟を「指導」することにして身柄を預ったのである。
 今、勝之は党中央部員で「世界政治資料」の編集をしているが、弟の弘之は労音の全国事務局長である。
 この時の弘之は、戦旗社に入ったばかりでまだ牧野とはいわず、旧姓の高橋であった。やっと二十才になったばかりの暢気で磊落(らいらく)な青年で、拙宅へは家族のように入り浸っていた。兄の勝之の方は弟に反して無口で、かなり閉鎖的な性格、その代りコツコツとよく勉強してロシア語などを解し、どういうつもりか世界情勢にくわしかった。だから現在のかれの職業はうってつけといってよいのだが、昭和四年頃にはよく拙宅に転がり込んできて、階段下の三畳間にとじこもり、何やらコツコツと勉強ばかりしていた。その頃、勝之は無産者新聞の編集員になっていたのではないかと思う。あるいはそれはもう一年くらい先のことだったかもしれない。

 しかし、かれら兄弟が、よく無産者新聞を拙宅へもってきたことは事実だ。だから東京毎夕の「ゴー・ストップ」に無産者新聞をひろげて読んでいる少年工のさしえが出た時には弘之は大いに驚いて
 「毎夕のような商業新聞に、こんなさしえが載っても大丈夫ですか? ちと大胆すぎまへんやろか」
 との心配である。

 さしえは清水三重三がかいた。はじめ「ゴー・ストップ」に清水三重三では不似合だと私はいったのだが、田沢はしいて清水を選んだ。清水もよく頑張り、自分の画風を殺して弘之が心配するほどの絵をかいてくれたのだが、二十年後に老いたる清水に初めて会った時「私がゴー・ストップの作者です」と名のると、いやな顔をした。気の毒に思った。

 弘之はその時いった。
 「戦旗社内でもゴー・ストップの評判が高くて、それを戦旗社から出版しようかどうしょうかということが問題になっているんですよ」
 「何が問題になっているんだ」ときくと「貴司という人はプロレタリア大衆小説ということを提唱しているらしいけれど、ナップの文芸理論でそれは許されるかどうかで賛否両論なんです。ぼくはいいじゃないか、といったんですがね」
 まもなく、戦旗社を代表して猪野省三が病院へやってきた。
 猪野の口上は、かれの性質もあったろうが非常に安易で「ゴー・ストップ」を戦旗社で出版してやろうといえば、貴司はそれを無上の光栄として一も二もなく「お願いします」というだろうと、頭からきめてかかっている様子であった。ことに自分が「プロレタリア大衆小説」賛成派だということをいって恩きせがましい口ぶりもみえた。

 私はそれに反発はしなかった。しかし、私の「プロレタリア大衆小説」は、末だ階級意識のない百万の労働者を読者としたいという希望の産物なのだから、出版も一流の普通の出版社でしたい。御親戚すじでは困るのだ。ことに、私の「プロレタリア大衆小説」が、ナッブで問題になり、戦旗社が苦境に立つようでは悪いという気がねもあった。
 せっかくの猪野の、個人的な支持はありがたいのだが、しかし私はそんな理由は何もいわずに、あいまいに断った。
 猪野が困ったような怒ったような顔になって帰って行ったあと、さすがにちょっと惜しい話を逃がしたようにも思った。

             4.吉祥寺と牟礼(むれ)の森  ◆文学史topへ  ◆資料館TOPへ  

 昭和四年五月になって、やっと加茂病院を退院し、以来四十年近く住み続けることになった武蔵野町古祥寺の家に引っ越した。
 吉祥寺の家は、東京府社会局の低利資金二千五百円に、白己資金千円を足して建てた住宅組合の家で、月々十八円五十銭づつを社会局に払って、十八年目に自分の家になるという大震災後の社会政策の家である。
 私はまだ足が立たないので、タクシーで大井町から武蔵野町まできたが、その車には家内と女中の外に、折柄郷里から上京してきた、友人の福永豊功が乗っていた。新築の家につくと、二畳半という部屋があるのをみつけて「ここをワシの部屋にする」と福永が早速そこを占拠した。

 しばらくすると、高橋兄弟、江森盛弥、柳瀬正夢らがドヤドヤと入ってきて「引っ越しの手伝いにきた」というのは口実で、かれらは何日も前から新築の家を何度も見にきていて、私の引っ越してくるのを今か今かと待ち受けていたのだ。
 早速スキヤキをしてかれらにタラ腹食わせたら、牛肉一貫、酒一升、飯三升が消えてしまった、との女中の報告である。私はまだ病後の用心に、おかゆを食った。
 「これで二、三日は大丈夫です」と弘之らは上機嫌で牟礼の森ヘ帰って行った。

 牟礼の森とは、井の頭公園裏の、牟礼(むれ)という在所の小さな森の中に、木樵小屋のようなアトリエを建てて高田博厚が住んでいた、そのあとの家なのである。高田が妻を捨ててフランスヘ行ってしまったあとヘ、その後輩の画家真垣武勝が住み、そこヘ真垣のイトコの高橋兄弟が同居し、更にそこへ江森が転がり込んでいるのであった

注)この牟礼の森のアトリエは私にも記憶がある。私の記憶は多分昭和十三、四年頃のものだと思うが、畠と小川のかなたの、まるで田園派の風景画そのもののような雑木林の中に、犬の鳴き声や山羊の声がして、木造りの粗末な、しかし極めて好ましいフロンティア風のコテージがあった。私はそこヘいくたびに、よほど遠い田合の山奥へいったような気がしたものだが、今では、駅より至便の、全くの新開住宅地になってしまって、いったいあの桃源境のような林の中の小屋がどこにあったのか、全くわからない。

 昭和三十九年一月、魯迅の記念に関係のある「惜別」の碑というのを建てるため、福井新聞社の後援で、福井の芦原温泉の旅館に泊り、偶然高田に会った。この牟礼の森の思い出を話すと
 「あの頃は楽しかった。ぼくが山本田鶴子をつれて貴司さんのところへおしかけ、山本を紹介して、おいて帰ったのをおぼえているかい」
 というのには驚いた。

 山本田鶴子は仙台の女で、江森が拙宅へつれてきて「英語がよくできるのです、何か仕事を与えて下さい」という。その山本は、色の白い背の高い相当な美人だがもう二十五、六歳に見え、どこか冷たいケロリとした不思議な感じを持っていて、いうことがまた不思議で
 「私は江森や高橋みたいな左翼運動はいやなんです。社会主義に興味はありません。細君のある男を横取りして、その家庭をひっかき廻すのが好きなんです」

 まさか冗談だと思って、その山本を、早坂二郎と大宅壮一が共同ではじめたアラビアンナイトの翻訳に使ってもらったら、すぐにそこでかの女の「理想」を実行して大へんなトラブルを起こしたものだ。つまり、大宅と早坂が山本を奪いあって大宅が敗退。……早坂の細君が山本の下宿にのりこみ、足もとまで垂れるという山本ご白慢の黒髪を片手につかんでねじ上げ、電車の中もいつかな離さず、吉祥寺の自宅まで引きずってきた。山本の頭髪は毛根から血が吹いてポタポタ首すじに伝わるという惨状で、そんな彼女を夫の前にひきすえ「別れるという誓約書に血判しろ、でなければ二人とも刺し殺す」と血相をかえて薄す刃包丁をつきつけた。さすがに、「うす笑いの妖女」と異名をとった山本田鶴子もふるえ上り、泣いて血判した。

 この山本をつれてきたのは、江森だと長年信じていたのに、はじめて会った高田は「山本をつれて行っただけでなく、何度も君の家へは遊びに行ったじゃないか」というので私は狐につままれたような思いになった。
 記憶だけで物を書くと間違うといういい例だと思う。

 さて、戦旗社の猪野のきた時からしばらくたって、中央公論社の牧野武夫がやってきた。
 かれは同社の出版部長であった。長年雑誌だけしかやっていなかった中央公論は、大宅壮一や新居格の勧めで、島中がそのころやっと出版部を開設し、泰豊吉の訳でレマルクの「西部戦線異常なし」を出して大当りをとり、何十万部かを売りつくしたというので鼻息が荒かった。拙宅に乗り込んできた牧野は「ゴー・ストップ」を第二の「西部戦線」として、少なくとも十万部は売るからとか、どこできいてきたのか、私の主張するプロレタリア大衆小説というのに大いに共鳴したから、「ゴー・ストップ」を手始めに、そのシリーズを作ろうではないか、とかすこぶる熱心なので、私は喜んで牧野の申し出に応じた。

 すると、戦旗社では貴司は結局ブルジョア出版社になびいた、と「悪声」を放っていると弘之がきていうから「そのとおりだよ」と私はうす笑いして答えた。
 牧野は何度も訪ねてきて、出版前に内容をもっと書き直すこと、装頓は吉田謙吉に頼むこと、表紙には「プロレタリア大衆小説」と銘うつこと、などを条件にした。
 プロレタリア大衆小説という文字を表紙に入れることに、私にはまだ十分の自身がありかねたが、牧野の方はすこぶる強気で
「あなたが一人ででも、プロレタリア大衆小説という領域を創って下さい。誰に遠慮がいるものですか」
 といい、出来上った本をみると、ハッキリと大きくその文字が描かれている外、本の背中には、題字の下に白ヌキで「労働大衆版」とまで銘打ってあった。

 この間、私は、牧野の気力に引きずられたようだ。
 ところが、初版に二万部刷ったら四日日に官憲のため発売禁止となった。
     注)「ゴー・ストップ」の刊行は昭和五年四月一日。四月四日に発禁になった。
 その時、「ゴー・ストップ」はすでに一万一千部売れており、約八千部余が地下室の倉庫に在った。私は牧野と密議し、そのうちの八百部を残本として、警察にさし出し、残りは隠匿させた。
 社長の島中雄作は、出版社々長にありがちな強度のケチンボだったので、出版部長の牧野をしつこく叱りつけて、不機嫌をきわめた。あんまり口汚く牧野をののしるので、私は島中に八千部を隠匿して、被害は八百部だけだと話して、改訂版を一万部刷ってその外箱を一万八千つくり、隠匿中の分を改訂版の外箱へそっと入れて売ってしまうことを提議した。

 「もし、発覚したらどうするか」と島中は色をなしておびえたが、私は片わらに牧野を呼んで「あなたがあんまり叱るから、この人が会社に損害をかけぬよう一存でやったことで、社長は夢にも知らなかった、ということにすればよろしい。牧野君は万一の場合はくらいこむことを覚悟して、今いうとおりおやんなさい。ここしばらくはまだブームは続いていますから、あと二万部くらいは売れますよ」
 牧野も瞼を赤く腫らして、「この上は貴司さんと刺し違えて死にます」と社長にいった。
 島中はまだ決断がつかず、何やらブツブツいっているので、私は牧野に「今の話はあなたと私のしたことで社長の知らない話です。だから決裁はいりません。又、決裁のあるはずはありません」

 「しかし貴司さん」と島中がまだ何かいおうとするので「もうよしなさい。この上あなたが牧野君を責めても、何もプラスはでてきません。私のいうようにすればもうかります。今のままでも、私はあなたに損害をかけているとは思いません。改訂版を一万部出してもし売れ残ったら、頂いた印税は全部返上します。だからもう黙っていて下さい」
 私は牧野を島中の前からつれ出して、丸ビル地階の食堂でコーヒーを飲みながら激励した。しまいには「ぼくの首はあんたに預けます。ほんとに刺し違えて下さい」とかれはすすり泣いた。こういう所に働いている社員の弱さを、まざまざと見る気がした。

 改訂版一万八千部は、一週間後に再び全国の小売店に廻り、内八千部は箱だけが改訂版であったが、誰もどこからも小言は来ず、ただ何通か「箱から出してみたら、発売禁止になった初版本が出てきた。残本が誤ってまぎれこんだのだと思うが僥倖に秘蔵しておく」 というハガキの投書がきたのを、後で牧野からみせられたので「うまく行ったじゃないか」と、かれの肩を叩いた。結局何か月かの間に改訂版も、隠匿本も売り切れてしまった。 しかし、島中雄作は、この時の話にふれると何年たってもすぐ不愉快な顔をするのにはいささか閉口した。

第六章 作家同盟と無産者新聞

              1.作家同盟の創立大会  文学史topへ   ◆資料館TOPへ   

 ゴー・ストッブの執筆から出版までまとめて書いたので、話が少し先に進みすぎた。
 ゴー・ストップの出版、発禁は昭和五年春のことだったが、その一年あまり前、プロレタリア文学運動史の中でも、一つのエポックといえるプロレタリア作家同盟の結成ということがあった。私もそれに加はることになった。
 その発会式は、昭和四年二月十日に、浅草区橋場町の信愛会館で行なわれた。その場所は、浅卓寺の裏にそった仏教会館で、よくこんな所が見つかったと思うような所である。

 場内に入ると、臭かった。場内には人が満員で、その匂いが立ちこめていたのである。
 議長席には山田清三郎がついている。猪野省三もいる。その他私が知らない人が五人、七人並んでいる。中野重治もいたにちがいないが気がつかなかった。
 壇上の列席者の背後には、大きな紙が張ってあって、何やら文字が書いてある。「ソビエト同盟を守れ」とか「植民地の完全独立」とか、その他刺戟的な強烈な意味の文字ばかり並んでいる。その中に「帝国主義戦争反対」としっかりと書いたのが目立つ。

 そして、閉会も間近になってきた頃、何か一つのトラブルがもち上ったようであった。壇上で、人がいれかわり立ちかわり出たり入ったりしている。やがて二、三人が出てきて、何やらしゃべっているとみえたが、まもなく一緒になって引っこんだ。
 しばらくして、だれか一人、新しく書いた紙をもって出て、前にはりつけてあった紙をはがし、それを代りにはっている。
 「帝国主義戦争反対」が「列強争覇の件」になったのだ。
 私はうなづいてそれをみていた。意味はわかる。「帝国主義戦争反対」が「列強争覇の件」となっても、そうまごつきはしなかった。それをそうさせた警視庁特高課の役人が、いばり返って顎をしゃくって会場の者にうなづいている。

 やがて、会場内はおのづから静まり、だれか一人、大きな男が議長山田清三郎に指名されて登壇した。
 それは江口換であった。江口はムカついたとみえて、やにはに壇上に立つと、あの大きな胴問声をはり上げて、ちょいちょいと特高の男の方を見ながら「列強争覇の件」をしゃべっていたが、この時の臨監は象潟署長であった。神経の太そうな太った男であったが、演壇の男が何を言っているのか、てんで聞いていない様子である。
 その内、演壇の上の江口は大きな声で「帝国主義戦争をたくらむ国は……だれが何といっても、帝国主義戦争を開始するから、今や帝国主義戦争は必至の勢いで進んでいる。まさにそれを避けることはできない状況であるが、われわれプロレタリア作家は、それに絶対反対だ。」

 臨監にはてんで馬耳東風だったからよかったが、臨監の横で立って聞いていた特高には、江口の胴間声の意味は大半通じたらしい。忽ちいきり立って右往左往し、演壇上の江口は引きずり下ろされて、ぺこぺこお辞儀している。
 ひと騒ぎやっと静まって、江口のつぎは藤森成吉の閉会の辞だ。これがまたふるっていた。
 「諸君、今日は多くの魑魅魍魎(ちみもうりょう)にかこまれ、かくも盛大な会をひらくことのできたのは、何より大慶に存じます」
 そのようなことをいって藤森は、悠々と演壇を下りた。

 私は「ちみもうりょう」とは何だろうと思い、家に帰って辞引きをひいてみた。「魑魅魍魎」とあって「妖怪変化、さまざまのばけもの」と註してあった。
 その外に、発会式の日のことで印象に残っていることはない。特高も、チミモウリョウという難しい漢字は知らぬらしく「帝国主義戦争反対」よりもはるかに直接的な侮辱になるはずのこの文句に、それほど腹を立てなかったようで、おかしかった。

 私は、場内に大宅壮一が来ていはしないかと、じろじろ見回した。大宅はおらず、勝本清一郎がいるのが見えた。その勝本清一郎の話に、大宅壮一を作家同盟に入れるかどうかで議論が起こり、「まだ早いだろう」と見送りになったということであった。
 私は、ちょっとへんな気がした。
 大宅は「文学的戦術論」という本などを書いて、題だけ見ればすでに左翼作家ずれがしていた。私もその本を読んで見たが、題のわりに内容が空疎で、左翼らしい所はない。それで入れないのかしら、とも思ったが「多数者獲待」の戦術からいえば入れていい話である。
 勝本はすでに「前衛の文学」「赤色戦線を往く」の二著があって、こちらの方は手がたく左翼作家らしく出来上っているので、こっちを加入勤誘したらしい。

 勝本とは、発会式がすんだあとで、近くのミルクホールで休憩しながら何かと話しあった。
 勝本があんまり作家同盟に加入したことを大仰にいうので「そんなに大そうなことなのかね」ときいた。勝本はちょっと色をなして「そりゃ大そうなことですよ。けさの各新聞にも載っているとおりです。各紙きそって報道しているんですからね」
 「入れずに落ちた人などいるようですが、大宅君など、入れたっていいじゃないか。どうして勤誘しなかったんだろう。一つぼくから、一ペん内部で間題にしてみようかな」
 私は思ったままに、そういった。勝本は賛成でもなく、また反対でもない態度で
 「大宅は悪不山戯(わるふざけ)たところがあるのがいけないんですよ。何でも茶化してしまうところがネ」
 という意見であった。
 「しかし、中に入れて、こねまわしたら、しまりができて悪不山戯た態度もなおるんじゃないんですか」
 というと、勝本は額をおさえて考えこんでいたが、ふと思い決したらしく
 「あなたから幹部の人に、意向をきいてみてあげたらいいでしょう。ぼくは入れるのに賛成ですね」
 「そんなに作家同盟に入るのは、窮屈なんですか」
 勝本の返事は意外であった。
 「ある程度はねえ」
 私は驚いていった。
 「ぼくは頼まれたから入ったんですよ。そんなに窮屈なものだとは思はないんだけど……」
 「あなたは特別です」
 勝本はさえぎるようにいった。
 「あなたのように、無産者新聞に小説をいきなり書くような人は特別扱いですよ」
 「へえ……何故ですかな」

 私は、無産者新聞に小説を書く「ような人」が何故「特別扱い」になるのか、その辺のいわゆる「御親戚すじ」の事情にとんとうとかった。勝本は軽く笑って詳しくはいわず、 「貴司君は、キンシ勲章をもらったようなものですからね」
 といった。キンシ勲章というのは当時のいい方で、今様にいえば、左翼作家としてのパスポートをもらった、というような意味であろう。その意味はわかったが、それにしても勝本のこのようないい方は、やはり、事大主義的で大仰なものに感じられてならなかった。

 前にものべたように、私が無産者新聞に「舞踏会事件」という通俗的な読物を書いたのは、そう大層な決意や党悟があってのことではなかった。郷里での塩田争議をきっかけに、私は既に、評議会という日本の最左翼の労働組合の連中と、日常茶飯のつきあいがあり、そのつきあいの中で、そういった連中を代表とする無数の労働者といわれる人々に喜ばれる、プロレタリア大衆小説というものを書こう、と思い立っていた。そこへ「無産者新聞」という、そういう労働者を対象とした「左翼的・革命的」新聞から執筆の依頼があった、だから書いた、というだけのことであった。
 ところが、今にして思うと、やはりこれは私の大変な認識不足というべきであった。勝木がいう方が正しかった----つまり、無産者新聞というのは、決して単なる「左翼的・革命的」な労働者向け新聞、というだけのものではなかったのである。

 いったい、無産者新聞というのはそもそも何なのか? 
 世界でも最も自由だ、といわれる程幅広い白由が、言論、政治の面で容認されつつある現代日本の感覚からいうと、いささか説明を加えないと、この大正末年に創刊し昭和十年に消減した新聞の実態は、十分に理解していただけないだろう。
 その説明のために、まず一つのエピソードから話し始めよう。

 昭和三年二月、私は大阪の妻の実家(茨木町)に滞在していたが、第一回の普選も終り、やっと体のあいた野田が、飯石豊市をつれて訪ねてきたのは、大雪の日であった。
       注)このことは前に一度書かれている。昭和三年二月二六日のことである。
 大阪にも東京にも、労農党の当選者は一名もなかったが、京都で山本宣治と水谷長三郎のニ人もの当選者を出したのは驚異的な成果だ、と野田が語ると、飯石はいかにも古い労働者型の口調で「大阪でも選挙期間中に突然共産党がビラをまいたり、伝単(小さいステッカー)をはったりしておれたちの運動を妨害しなければ、野田君も当選していたんだ」と痛憤した。
 飯石にとっては、労働組合が革命の本部であり、労農党がその出先きであり、評議会と大阪金属(かれの所属組合)第一主義で、共産党のような「危険」な「地下政党」が、地下から顔を出して邪魔すべきではない、と固く信じている様子であった。

 大正十五年暮(つまり昭和改元の直前)五色温泉大会で再建された共産党は、まだ非常にセクト的で、白己を大衆の目からかくした秘密組織とし、労農党を代用政党として合法的大衆的に活動させ、自らは、いうところの福本イズムの理論闘争に専念した。
 一方、秘かに入ソした代表らが、コミンテルンから、そのようなあいまいなやり方を批判され、どんな犠牲もいとわず共産党を大衆の面前におしだし、天皇制廃止のスローガンを公然とかかげて戦わねばならぬ、と指導された。
 日本の代表者たちは「天皇制を廃止する」というスローガンを公然化することを、とても怖れた。代表者の内、山川均、荒畑寒村らがおそれ、徳田球一、市川正一、国領五一郎らが理解して乗り越えた。

注)詳しくは、コミンテルン派遣代表は山川、荒畑、福本、佐野、渡辺、徳田で、その内、山川、荒畑は訪ソ自体を拒んだ。

 レーニンは「日本の小さい党も、やっと歴史に登場した」と評したとおりである。

 しかしながら、無産者新聞は大正十四年、つまりまだ共産党が合法、地下を使いわけている時代に、合法面の機関紙として創刊したものであった。だから、紙面のどこをみても、共産党の機関紙と思えるような名前は全くなく、発行元は無産者新聞社となっていた。表向きの建前はあくまで「無産者の全国的政治新聞」であり、たまたま左翼的な新聞社がそのような新聞を出しているのだ、ということになっていた。
 そのあいまいさは、共産党がコミンテルンの批判を受けた後まで続いていた。高度の情報網をもっている取締側の警察さえもが、無産者新聞を、共産党の擬装機関紙であるともないとも、決しかねていたようである。

 まして「舞踏会事件」を書いた昭和三年十一月の時点で、私には、これが共産党の機関紙なのか、共産党支持有志の共同経営紙なのか、わかるわけがなかった。どちらかといえば機関紙ではなく、任意の左翼的政治新聞というふうに理解していた。
 もし、それが党の「合法的機関紙」だと知っていたら、また、世間にそう知られていたら、あの三・一五事件のあと、怪物の如く地下に沈んで動いている非合法共産党を恐れて、執筆を勧めにきた野田の話に「そんなに困っているのなら書きましょう」などと呑気なことはいわなかったであろう。
 おそらく勝本は、その辺の「御親戚すじ」の事情----つまり無新が、共産党の合法面の機関紙だということを知っていたのだろう。機関紙に小説を書く作家なら、作家同盟にフリーパスなのは当り前だ、ということを言外に語ったのに違いない。

         2.無産者新聞執筆のきっかけ  ◆文学史topへ   ◆資料館TOPへ  

 野田を介しての、無新の執筆依頼に対して、私は、一応の承諾を与えながら、講談社の雑誌の注文に追われてずるずると執筆を怠っていた。
 その内、三・一五事件で評議会の幹部は殆ど逮捕されてしまった中で、東京に弧影悄然と残された野田は、行く所がなくて足しげく私のところへ遊びにきた。党員の長江甚成(服部の時計工、前出)をつれてきたのもそのころで、三・一五事件後、長江は中部地区のオルグとして名古屋方面へでかけることになったが、向うで生活する資金の一部をえたいので、何か仕事はないかという相談であった。

 私はそのころ、失業した友人の堀敏一のために企画した、新語辞典を作る仕事の一部を、わけてやることにして、小形の原稿用紙をひと束、長江にわたした。
 評議会も労農党も無産青年同盟も、解散を命ぜられて、運動の今迄どおりの継続は不可能となったが、野田はまたやってきて
 「何といっても、わしらの基盤は大阪ですよって、今から去んで(いんで)再建を工夫してみますわ」
 と、大阪に帰っていった。
 三・一五事件が起っても、委員長の野田が一向に捕まらないので、かれは党員でないのだな、と思っていたが、やはりそうではなく、かれも入党していて、帰阪後間もなく、逮捕起訴されて、入獄してしまった。

 そうして、野田に代わってやってくるようになったのが、柳瀬正夢と谷一の二人であった。口の重い柳瀬よりも、谷がよくしゃべった。
 用件はむろん、野田に約束した無産者新聞の小説のことである。
 二人は、無新編集局が、その連載小説のことでいかに困っているか、ということをるる陳弁し、あげくはこんなことを話すのであった。

 ----大衆受けのする、ごく通俗的な小説、というよりはアジプロ読み物のつもりで書いてくれと中野重治に依頼したら、かれは大変苦労して「モスクワ指して」という六回続きの物を書いてきた。
 そのあらすじは----

 一九一九年、十九才の張と、五十一才の李が高麗共産党(又は間島バルチザン)の代表としてモスクワに派遺されることになり「同志に見送られて間島を出発し、長白山脈を吉林省に下り、ハルピンを横っぱずしにはずし、チチハルのずっと南方でノン江を渡り」チタで所定の汽車にのろうと、途を急いだ。
 二人は、絶対にその汽車にのることを他の同志と約束していた。その時間に間にあうようと心も焦ったが、年とった李が足を傷めて動けなくなった、というのが第一回で、若い張がいろいろと先輩の傷んだ足を介抱しているのが第二回、第三同も張は李の足の介抱にモタモタしている。やがて張が李の腕を肩にかけて歩き出そうとしたが、李の足は動かない。ついに李は決心した。
 「君、先きに行ってくれ」
 第四回でも、張と李の「先きに行け」「いやだ」の同志愛的問答が続く。第五回はやっと張を先きにやって、あとに残った李が二日間、じっと同じ眩野のまん中に坐っていて、ふと、チタであうロシアの同志の人相を、張に教えるのを忘れていたのを思い出す。そのために折角張がチタについても、連絡に失敗して、うまくモスクワ行の汽車に乗れないかもしれない。勇を鼓した李は、やや癒えた足をひきずりひきずり、張のあとを追う。
 この時張は、十二人の「山賊」に捕えられ、地平線近くの森に連行される途中であった。 「山賊」たちは森につくと、張の首に麻縄を巻き、馬を並べてそれを踏台にして森の木の高い枝に吊るし上げた。

 谷は中野の原稿の所々を朗読して
 「所が、この最後(第六回)の原稿が大変なんです。ビッコをひきひき、森に到着した李は、高い木の枝に首をくくられて吊るされている張を発見し、非常な困難をおかしてその木にのぼり、張の体を地上へおろすのです。そして李は一生懸命、張に人工呼吸を施します。一番おしまいに「張が最初の息を吐いた」なんです。中野が一生懸命書いていることはわかるんですが、一体、人間が麻縄で首をくくられて木の枝に吊された場合、その人体の重みで延髄が切れて呼吸中枢が止まってしまうから、これはいくら手当てをしても、生き返る見込みはありません。ぼくらは中野君に、大衆的に面白く書いてくれと頼んだので、非科学的に書いてくれといったわけじゃありませんでした。貴司さんは、どう考えますか?」

 私はまだその時、中野重治にはあっていなかった。しかしかれの「赤ままの花やとんぼの羽を歌うな」という有名な「歌」と題する詩や、つい最近「戦旗」に発表されて評判になっている「夜刈りの思い出」という詩を知っていた。「夜刈りの思い出」は「戦旗」で読んだが「歌」はその二、三年前の「驢馬」という同人雑誌に載ったのでみる機会がなかったが、前に書いた、友人の富士辰馬がある日飛び込んできて「すばらしい詩だよ、おれが詠むから、君書き取れよ」と、口授してくれたが「赤ままの花」とはどんな花なのか、今以って知らないままに、すっかり覚え込んでしまった。
 しかし、昭和二年九月十五日号の無産者新聞第百号に載った「無産者新聞第百号」という中野の詩には「夜刈りの思い出」に似た韻律感はあったけれど、それほど感動はしなかった。むしろ失望した。かれが「歌」で、自己革命を宣言した「胸先きを突き上げて来るぎりぎりのところを」歌って、他人を感動させる作業の難かしさをおぼえた。

 昭和三年秋の、中野重治に対する私の認識は、ざっとそれだけであった。その中野の「モスクワ指して」という原稿を見せられて、つぶさによみ返したが、これは写実主義の手がたい手法でムリに書いた大衆小説だとすぐに思った。今まで無新にのった鹿地の「炭抗」にしろ、山田清三郎「若き時代」葉山嘉樹「追跡」江馬修「焦熱地獄」にしろ、みな大衆文学の手法ではなくて、従来のいうべくんば自然主義の手法から一歩も出ていない、古い文学なのだ。

 むしろ「夜刈りの思い出」の詩には、谷のいう大衆にわかりやすいアジブロ性はたっぷりある。しかし「モスクワ指して」は、中野が何かで読んだ間島バルチザンの逸話をでも題材にしたのだろうが、一生懸命、すごくまじめに書いているけれど、題材に対する作者の主観の燃焼がない。ことに無新編集局でもてあますような首吊りの話が混入してくると、それは作品の致命的な欠陥となってしまう。プロレタリア的にも、ブルジョア的にも、中野に「大衆丈学」を書く素質のないことが、私にまざまざとわかった。(ついでにいうと、葉山、山田、鹿地にもそれはない。あるといえるのは林(房雄)だけである)

 一方からいうと、無新編集局は(戦旗編集局も)この時期には、大衆的アジブロ文学の必要に当面していながら、その仕事の性質や手段を理解しておらず、その創作方法も、もとより理解していないために、そういう仕事に不向きな中野に「モスクワ指して」を書かせ、首吊り間題のために原稿をもてあますことにもなったのである。

 中野の場合でいえば、アジプロ的大衆文学には、書き方の平易さと題材の面白さが第一の条件になると考えた(……たのに違いないと思うが、四十年来、私は「モスクワ指して」についてかれと語ったことはない)のはよかったが、平易と興味ということを、二つ合せて安易と解した誤りから、張の首吊りのようなことを書いてしまったのだと思う。
 ことに、この当時の若いわれわれのアタマは「必ずプロレタリアが勝つ」という素朴な「唯物ベンショウ法」に支配されていた。「赤ままの花を歌うな」や「夜刈りの思い出」のような名詩をものした詩人としての中野重治も、昭和三年には芳紀二十何才である。無新の要望どおり、面白く書こうという努力のすきまに、前記のような素朴べンショウ法の「常識」が働いて、首を吊るされて何時間かたった人間が、同志に助けられて生き返る、といったありえない「勝利」を現出させたのであろう。

 何度読み返してみても、しかし、山賊共に首をしめられて高い木の上に吊るされた張が、あとからきた李に助け下ろされて人工呼吸で蘇生する、というところをとってしまっては「モスクワ指して」は、小説として崩れてしまう。しかも、五日刊だか十日刊だかの無新では、中野の「モスクワ指して」をもう何回か載せてしまっているので、最後の一回を省くというわけにも行かない。

 私は、谷と柳瀬に向ってこういった。
 「大衆文学だから、不合理なことを書いてもいいというのは、もう百年も古いんだ。馬琴の八犬伝の時代ならそれも通るだろうが、今は、一見不合理に見えることを書いても、どうかすればそれは可能だというスレスレを書かない通らない。では一つ、そういうスレスレの大衆小説を書いてみましょう」
 谷は、私の話に半ば安心し、あとは中野にあって、張が「最初の息を吐いた」とあるところを、何とかならないかと相談してくるといいながら帰って行った。
 今、中野の全集に収まっている「モスクワ指して」の「張は最初の息を吐いた」とあるのは、谷の話に応じて加えた、後からの手直しかどうかはしらない。ともかくこの作品は全集にも載っているし、昭和五年の改造社版「日本文学全集」のプロレタリア文学集のなかの中野重治篇にものっている。かれは、そう優れているのでもない「モスクワ指して」を、自分の選集や全集に必ず載せているが、それはこの作品が無産者新聞に掲載されたというためだろう。

 中野はその前に「無産者新聞第百号」という記念詩を書いて無新第百号に載せている。これも先にいうように、そんなに人を感動さすほどの出来栄えではない。
 しかし、中野は、林などと共に無新文芸部の正式メンバアのようにして、内部で働いていた男である。多分かれは私のような外部の者とちがって、「無新」が党の「合法」機関紙であることも知っていたであろうし、無新内部に党細胞がいて、だれがどの部署を分担して働いているかといったニュアンスもみな心得ていたであろう。
「党」に対する尊崇と信頼の念は、そのころの中野の全身心にみなぎっていたであろう。だからその「党」が、二十七年テーゼを得て、三・一五で大きな最初の犠牲を払ったことには、限りない悲壮感を味わったであろう。それでいてかれの歌った「無産者新聞第百号」には、かれのそのような実感は、私どもに伝ってこないのである。

 「モスクワ指して」でも、張と李の生命がけの同志愛が、実感的に読者の心を打ってこない。
 昭和三年の中野重治には、多分に革命的情熱はたかまっていたであろうが、自分がまだ真にその渦中に投ぜられたことがないため、その体験がないため、情熱が作品の上にも体験化されなかったのだろうと私は思う。
 そうした未熟な時代の記念として、中野が「モスクワ指して」や「無産者新聞第百号」を選集や全集の中に大事にとっておくことには私は賛成する。

 同時に私は「モスクワ指して」が間島パルチザンというものを題材として取り上げているのを見ると、どうしても、槇村浩の「間島パルチザンの歌」を引き合いに出さずにはいられない。

注)貴司は、槙村浩(一九一二〜一九三八)の才能を非常にかっていた。槇村浩は、高知県人で、ランボー風の詩心と、革命への情熱をもった天才といえる。高知での共産主義運動で投獄され、その出獄後書いた大量の評論的な原稿を、昭和昭和十一年上京して貴司宅に寄寓したさい、出版を依頼して置いていった。その後槇村は二六歳の若さで死に、その激越な論稿は戦時下に到底出版の機会が得られぬまま、貴司宅に秘匿されて特高警察と空襲から免れて残された。
 貴司は晩年、この槇村の顕彰、詩集の出版などに努力している。
 貴司宅に遺された原稿を始め、ほとんどの資料は高知県立図書館に収蔵されており、一巻の全集本も出ている。ただ貴司宅にあった原稿の内「日本詩歌史」という論稿だけが、ある人物によって持ち去られ隠匿されてしまったので、全集から欠落する事態となった。その後、関係者の絶大な努力によって、そのコピーが発見され1998年に出版された。

 槇村が「間島パルチザンの歌」を書いたのは、中野の「モスクワ指して」におくれることわずかに一年半である。その時槙村は、二二才であって、中野よりも年下であった。
 ここでは二十二歳の土佐の一青年が、身みずから一個の間島パルチザンと化して、日本軍国主義に抵抗し、朝鮮民族の不届の革命精神をうたいあげている。それが朗々たるリズムの中に脈打って流れ、今日の金日成の勝利と朝鮮人民共和国の生活が、三十年前の棋村によって早くも歌いあげられているのを、喜ばずにはいられない。
注)一九九九年の現実からはこれらの言葉は違和感があるが、これを貴司が書いていた昭和四五年(一九七〇年)頃というのは、韓国は朴正熈クーデタ政権の暗い時代であり、他方北朝鮮は中国との蜜月の下、工業化に邁進していた意気盛んな時期だったことを考えなければならない。

 不幸にして「モスクワ指して」にはそんな文学的具象化はない。しいていえば、暗い、いやな感じが残る。
 そういう相違は、中野に対する槇村の詩人としての生活の、基礎的な差から生じたものといえるだろう。槇村は昭和四年に土佐で全協の地下活動をしつつ、日本共産青年同盟の地下組織に属し、高知四十三連隊の中国侵略戦への出征にあたっては「生ける銃架」「出征」「明日はメーデー」などの詩をビラにして、兵士たちに手渡すという「危険」な行動に従事している。槇村は、危険の多い高知の町の秘密のアジトを根城に、自分のそうした革命活動を行いつつ、差出人不明で到着した二十七年テーゼを読み、無産者新聞を愛読した。そこに載っている高麗共産党の紹介記事や、間島パルチザンの動静の記事などを読み、自分の革命活動を土台に、ザラ紙のノートに「間島パルチザンの歌」を書いた。

 その時、全協と共青のリーダーであった浜田勇が語ったのによると、槇村は、会議の途中ででも時に座を外してカべに向い、粗末なノートをひろげて短いエンピツで何やら書きこんでいた。それを怪しんだ浜田が、槇村のノートを取り上げて見ると、最初のぺージに「間島バルチザンの歌」とあった。
 「間島っちうのはどこの島ぞな」と浜田がきいたら「朝鮮です」というので「済洲島とか対馬とかは知っているが、間島もそのへんにある島かね」
 槇村は赤い顔をして「いいです、いいです」と浜田から自分のノートを取り戻したという逸話は、早熟のこの詩人が、まわりの没理解の中で孤独に耐えつつ、あれだけの傑作を遺したありさまを、いたましく思い起させる。

 私はここで、中野個人を責めるのではない。わが国文壇の多くの批評家評論家のうち、私の親しい小田切秀雄、小田切進、平野謙、本多秋伍のような人々、さらにはこれに続く次代の人々に、私がここにあげたような事実をひろいあげて、わが文学史の「書き直し」を要求しているのである。
 特に平野は、中野を非常に崇拝してそれはかなりに個人崇拝の域に入っているようだし、本多は今は「口をききたくない」ほどに夢がさめたらしいが、かっての蔵原惟人に対する過当な個人崇拝、小田切進の宮本顕治に対するそれなど、先輩に対する「偏愛」は、しばしば歴史的事実を見落としてその正当な評価を誤らせがちである。
 少くとも、かれらの文学史において、中野の「モスクワ指して」と殆ど同時点で書かれた槇村の「間島パルチザンの歌」を評価したのを見たことはない。また「モスクワ指して」の歴史的価値をきめるような一行の文章も見ない。

 ----などなど、そのような問題はこの「私の文学史」にはいくらも出てくるだろう。少くとも私はこの一書で、過去のあれやこれやの個々の事実の正当な再評価を訴えて、わが文学史の適切な書き直しを要求したいのである。

 ----話が少し横道にそれたけれど、ともかく、私が無産者新聞に小説を書こうとした、その矢先にあった、これは一つのエピソードであった。更にいえば、中野の「モスクワ指して」の面白くなさが、私に、無産者新聞に小説を書こうと腰を上げさせる、直接のきっかけになった、といえなくもないのである。
 当時のプロレタリア芸術連盟は、ひどく政治主義的で、共産党にれい属したような関係になっていて、そこの成員である中野や、鹿地は、谷一、柳瀬正夢などとともに、無産者新聞の文芸部員ということにもなっていて、何度も論文や小説を同紙に書いていた。そしてそれは、かれらの身上であり沽券ともなっていた。悪くいえば虎の威をかりて気負っていたともいえる。

 そうしたかれらのヒノキ舞台へ、プロレタリア文学運動やその団体に、およそ何の関係もない私が、土足で上りこんで行ったようなものだから、みんながヘんに思ったのも無理はない。
 無産者新聞を共産党の合法的機関紙と知ったのは少し後のことで、むしろその当時は、日本労働組合評議会の機関紙である「労働新聞」の方がもっと上位の、純粋の、党に近い階級的新聞だと思っていた。なぜなら、共産党の幹部だと知っていた国領五一郎が編集長だったからである。
 無産者新聞の方はむしろ中間層、インテリ、学生などにも読ませる、もっと大衆的な宣伝啓蒙紙だぐらいに思っていて、それが日本のプロレタリア文学運動などに、そんなに強い影響力をもっているとは知らなかった。

 私が「舞踏会事件」を書いたのは、評議会の委員長野田律太に頼まれたからにすぎないのである。
 野田は、拙宅にくるたびに、一再ならずこういうことをいった。
 「無産者新聞の小説がちっとも面白くないので、編集長の山根というのが、だれか面白いプロレタリア的通俗小説の書ける人はいませんかねえと嘆くので、あんたのことをいったんです。山根君はあんたのことを、あの人は講談社の雑誌に盛んに書いている作家じゃありませんか、といって首をひねっているんで、私が評議会とあんたとの深い関係を打ち明けたんです。そしたら山根君は忽ち態度をかえて、それは知らなかった、では一つ頼んで見て下さい、というんで僕が引き受けてきたんですがねえ」

 野田がいうところの、私と評議会の「深い関係」は、既に書いた通りだが、それ以上に野田とはほとんど個人的な友人としても四六時中交流があった。そんな野田との交流の中からふってわいた、一つの仕事であったわけだ。

          3.作家同盟のこと  ◆文学史topへ  ◆資料館TOPへ   

 そういうわけで、私は、何か、左翼作家を志向する大変な決意などがあって無産者新聞に「舞踏会事件」を書いたわけでは毛頭なかった。こちらにそのつもりがないのに、勝本などの指摘によれば、それが左翼作家の立派なパスポートになる、というのだから、何だかおかしな感じであった。
 私にとっては「舞踏会事件」を書いたことが、作家同盟に入るきっかけになったわけではなかった。きっかけはもっと別の所にあった。

 それは、昭和三年以来、さまざまの局面で、一緒に仕事をすることになった、柳瀬正夢に勧められたからなのである。
 詳しくは後にのべるが、柳瀬とは、例えば昭和三年の暮れに、江東へ無新のために歳末風景のカメラ取材にいったり、またこれは昭和四年五月以降のことではあるが、ハトロンの大封筒一杯に写真を入れて、吉祥寺の拙宅にきて「無産者グラフ」創刊の編集をしているのを脇から手伝ったり、といったつきあいが続いたのである。
 ナップという名前は、それ以前から既に、江森や高橋から聞いていた。はじめは「ナップって何だ」などというくらい、私は、離合集散をくり返しているわが国の左翼芸術運動に無関心で、無知であったが、そのナップ(全日本無産者芸術連盟)が解体して各種芸術団体に独立し、文学者は日本プロレタリア作家同盟となるのだ、と私に説明にきたのは谷一であった。谷はその作家同盟に加盟せよ、という「正式」の使者としてやってきて、私も大体わかっていたから「いいでしょう」と承諾の旨を答えた。昭和三年十二月の、私が柳瀬と写貞のことで行動を共にしている時で、まだ大井町原五三一七番地にいる時であった。

 しばらくたって、市内の小石川大塚から引っ越してきて、拙宅から二、三町の距離に住み脊椎カリエスで寝ている早坂二郎の家ヘ行くと、そこへ江口渙がきていて
 「ぼくは江口だ」
 とずい分傲岸な高飛車な口調で「ぼくが推薦して君を作家同盟に入れたからね。いいだろう。これから君んところヘそのことを話しに行こうと思っていたんだ」という。初めて見る江口渙は、正直いって人相の悪い赤ら顔の、無頼漢風の大男である。しかし何故かロレツの廻りかねる舌たらずの口ぶりは、傲岸な態度にかかわらず、笑い出したくなるようなへんな愛嬌があるので、こちらも悪い気がしない。あとで知ったのだが、かれは非常なカンシャク持ちでよく人にどなる。その時は眼に角を立てて狂人のような表情になるのだが、それがまた、それほどこわくない。渙という名はキョシと読むのだが、だれもそう訓む(よむ)者はおらず、自分でもクワンといっているが、蔭ではみながワメクといったものだ。人にどなりつけても、ただワメクとしか響かないところに、誠に不思議なかれの人徳がある。その人徳の「秘密」もあとでわかってきた。

 かれはその顔面のゴツいのにも似合わず、非常に気が弱く、他愛ないくらい善良で、稚心に近い物やわらかな情緒に富んでいるのであった。
 その江口には、しかしいろいろな性格上の欠陥もむろんある。おいおい書くことにして、私は初対面の江口が、私の作家同盟加盟が「正式」にすんでいるのもしらないで恩にきせるようなことを平然というのをきいて、迂潤なオッサンだと少し滑稽に思ったが、黙っておじぎをしておいた。

 日本プロレタリア作家同盟の創立大会は、昭和四年二月十日、浅草橋場の信愛会館で行なわれ、私は一人でそこへ出かけて行き、はじめて日本におけるプロレタリア文学運動にたずさわるゼネレーションというものに接触した。その様子については既に書いた。その大会から帰ってまもなく、チフスで入院してしまつたのである。
 やっと全快して武蔵野町ヘ移転したのは、昭和四年五月はじめであったが、吉祥寺ヘ移る匆々、江森と高橋のために後に述べるが、無産者新聞の資金関係の用件の虜にされ、ことに八月十二日に無産者新聞が発行禁止となってからは、第二無産者新聞の創刊の仕事に巻き込まれて、作家同盟のことなどは忘れてしまっていた。また、創立初年の作家同盟は至って無活動状態で、何を安心したのか、火が消えたようになってしまっていた。

 私は、第二無新の金づくりにも苦心はしたが「ゴー・ストップ」を出版前に手を入れるのにも忙殺され、その一方、富士辰馬の世話で万朝報に長篇通俗小説を、新青年、別冊週刊朝日、若草などに短篇、中篇を書いていた。
 ある時、高円寺に住んでいる林房雄が「作家同盟員の懇親会をするからきてくれ」という手紙を若杉鳥子に持たせてよこした。林は前の細店の繁子を、まだ秘書として使っているころで、大正十五年の学連事件ですでに牢獄の味を知っており、「林檎」「絵のない絵本」「鉄窓の花」などでもうすっかり有名で、その時はたしか朝日新聞の夕刊に「都会双曲線」を連載中だったと思うから十月ごろのことだったろう。

 創立した作家同盟が、あんまり無気力だから活を入れるためという林の思いつきで、林自身の負担で、行ってみるとビールや寿司が用意してあり、二十人位集まってもう座はひどく賑わっていた。みんな互いによく知っている仲間ばかりだが、私は新参で、殆どだれの顔も知らない。林ともその時が初対面であった。林は特に注目し、この日は私をみなに紹介するため、かれ自身手紙を書いて私をよびよせたのだとあとでわかった。
 かれは私の肩を抱いて「おーい、みな、貴司山治を紹介する。これがそうだ」とどなったので殆ど全員が私の方を見た。その時、一人だけもう帰ろうとしてオーバーを着て立つている男がいて、やはり私の方を見た。それが永田一脩の画いた「プラウダを持てる蔵原惟人」によく似ているので、蔵原だと気がついた。かれは私よりも二つ三つ年下だが、もうナップの大ボスであったので、白分でもそういう意識であるらしく「しっかりやり給え」と見下すようにうなづいてそそくさと帰って行った。

 蔵原惟人については、ナップの理論家ということよりも、ロシア語に堪能で、ソ連に留学してきた新知識ということと、当時ソ連大使館にきていたテルノフスカヤ(東てる子)という日本名を名のる女性と、いい仲になっている、といったゴシップをだれかに聞いて知っている程度で、かれが執筆してナップに大きな影響を与えている「プロレタリア・レアリズムへの道」「芸術運動当面緊急の問題」もまだ読んでいなかった。その時の私は全くの門外漢で、何をするかわからない、未知数の小怪物とも見えたろう。

 しかし「プロレタリア大衆文学の問題」を書いて中野重治とわたりあったことのある林は、私の「舞踏会事作」や「ゴー・ストップ」を読んで、自分のいおうとする文学理論の、新しい味方、または後継者を見つけたつもりで、私に特別の興味を持っていた。かれは同じ意味で徳永直にも嘱目し、徳永の「太陽のない町」は、林がはじめの方に手を入れてやったものらしい。かれには徳永や私のように何の学歴もない労働者ないし庶民出身の作家を、無条作でかばおうとする気持の広い性質があった。
 懇親会の席ヘ私をよび出したのも、多分にそんなつもりからであったようだ。

 その席上で林は私にいった。「ぼくは新青年で『チタの烙印』という不思議な小説を読んだ。作者の伊藤好市って聞いたことがない名前なので、だれか匿名だと思うが、君知らないか」
 私は頭をかいて「匿名でなくあれは私の本名だ」というと林はびっくり仰天して、「何だ、やっばり君か、畜生!」と、私に抱きついてきたのには私の方でもてあました。

 その時かたわらに、若杉鳥子がいた。若杉は中田いよ子が一度私の所ヘつれてきて、どこかの会社重役の若夫人でその夫は何とか子爵だとかいうし、おっとりとした美人だったのでモップル(犠牲者救援会、今、国民救援会)の寄付金集めに使った。若杉もまた新しい時代のノラたろうとして、作家同盟にも入り、同盟員の田辺耕一郎と恋仲となり、夫との関係を精算し切れないで悩んでいる、ともきいていた。しかし、お金はよく集めてきてくれた。実は、かの女が集めた金は、第二無新の発行資金にもなった。

 そんなことで懇意だった若杉が、酒にでも酔っていたらしく「私、林房雄をやめて、貴司崇拝になることにきめた。ハッキリ宣言します」「何ッ、理由をいい給え、理由を!」林がききとがめて若杉に詰めよると、若杉はまたぬけぬけと「林さんの小説のエロチズムは少女趣味で実感がうすい。貴司さんのは大人のエロチズムで、取り憑かれると怖い」
 林はひどく怒って「その怖い貴司に色目を使って、それでいいのか、そんなことをいう前に、相談する人があるのではないか」
 それは田辺のことをあてこすっているのだと思ったが、女のことになると林が異常に嫉妬ぶかくなり、酒の上の冗談だときき流す雅量のない男だとわかった。

           4.柳瀬正夢との出会い  ◆文学史topへ  ◆資料館TOPへ   

 三・一五で評議会、労農党、無産青年同盟の三団体が解散されても、共産党の合法的機関紙である無産者新聞は、不思議にも翌昭和四年九月九日まで、そのままにさしおかれた。前にも述べたように、当局も、無産者新聞の本当の性格をつかんでいなかったのかもしれない。
 三・一五事件では、五百何十人かが起訴され、当局は「これで共産党も四、五年は再起不能だ」と内外に向って豪語したというが、どうしてどうして、その年の十月には、工場内細胞の数二十一、党員数二百二十人に増え、昭和四年三月五日にはただ一人の労農党代議士であった山本宣治が、神田の下宿で、ものすごい流血裡に殺されるという事件などがあったにもかかわらず、その三月末には約四百人の党員数となった。

 それがわかって、当局は昭和四年四月十六日に、再び全国で三千人以上を検挙し、内三百六十四人を起訴した。いわゆる四・一六事件である。もうそれからは「あと四、五年は再起不能」などとはいわなくなった。
 にもかかわらず、四・一六事件のあともなお五か月間、無産者新聞は全国的な発行禁止を受けることなく、発刊を続けていた。

 私は、昭和三年十月に「舞踏会事件」を書いたあと「ゴー・ストップ」に忙しくて無産者新聞のことは忘れていた。その年の末近く、しばらく姿をみせなかった柳瀬正夢が、大井町原五三一七番地の拙宅へやってきて「ぼくが貴司さんのところで写真術を教わっているということを話したら、編集長が、こんどはあなたに本所界隅の年末風景を写してくれないか、それを無新にのせたい、それから無新ではこんど無産者グラフという写真雑誌も出そうというととになって、ぼくがその編集長を命ぜられたので、その方の写真もとってもらいたいんです。ぼくがついていくから、一つ働いてくれませんか」
 というのである。私は白分の趣味と娯楽でそれまでやってきた写真までが、そんな役に立つのなら面白いと思い、承詰して、その日を打合せ、当日は朝十時にカメラ、三脚、フラッシュなどを用意して、約束の新橋駅プラットに行き、柳瀬のくるのを待った。

 ところが、十時をすぎ十一時になり十二時になってもかれはやってこない。やっと午後一時になって、柳瀬はニコニコしながら姿をあらわし「少しおくれました。すぐ出かけましょう」という。
 無産者新聞のあるビルは、プラットから鼻先きにみえているのだが、そこには毎日刑事が張りこんでいて近づくのは危険だから、とわざわざ駅のプラットであう約束をして、折柄その日は寒風漂烈、手も足も凍えそうな中で、根気よく待っていた私もノンビリしたものだが、三時間もおくれてきて「少しおそくなりました」と何でもないようなニコニコ顔をしている柳瀬には、腹が立つよりも呆れてしまった。

 以来、柳瀬正夢という男の時間のルーズなのには、かれが死ぬまで悩まされた。この日がそのきっかけであった。
 もっとも、プラットで長く待たされているあいだ、線路で五、六人の工夫が、ツルハシをふるって枕木の下に玉砂利を叩きこんでいるのをカメラに収め、あとでそれを焼きつけて柳瀬にやったら、無産者新聞にも無産者グラフにも、大きく載った。まるでムダではなかったというわけである。
 しかし、はじめは私も中ッ腹で、柳瀬をひきずって新橋駅裏でおでんか何かを食い、二人で銀座の方ヘ歩いてくると、一人のルンぺン老人が杖にすがり、みじめな恰好をしてコヨミか何かを売っている。

 私がそれを撮ると「なるほど、いい画題ですね」と柳瀬は、無料でモデルにしては悪いと思ったのか、その老人からコヨミを一部買った。老人は柳瀬に対しても私に向っても終始無表情であった。この写真も無新と無産者グラフに載った。
 「不景気風は銀座街頭にも吹き荒れている」といった説明がついていたように思う。

 二人は、隅田川をわたって、本所の方ヘ行った。そこにはセメント工場、ビール工場などがあって写真の構図に面白いと思ったからである。柳瀬はしかし「構図ばかりに眼をつけないで、労働者の働いている現場を様りましょうや」と、私を指導して、橋の上から下を通る川舟の櫓をこいでいる人を写したりしたが、本所界隅を歩き廻っても、働いている人の姿というものは、いざとなるとなかなか見つからないのが妙だと思う。
 やっと割栗石の集積場で、モッコに石を入れては両天秤にかけてどこかへ運んでいる、三、四人の女の群れをみつけ、それを撮ると、中の一人が私たちの所へやってきて「わしらも末は、長火鉢でくわえキセルの身分になりたいのじゃ。今のみじめな恰好を、おまえさんらの餌食にされては困る」と苦情を持ちこみ「いくらか出せ」といわんばかりのタカリの口調にへキエキして退散した。

 この写真も「働いても働いても食えない女労働者」と、その時の実際とは少しズレた説明つきで新聞にのった。
 もう夕暮れになったが「もっと、キカイのそばで働いている若い労働者の姿がとれないものか」と二人で相談し、半ば絶望してどこかの裏通りを歩いていると、小さな町工場の土間に、一台の旋盤を廻している青年工がいる。何べんも二人がその前を行ったりきたりすると、若者の方でも気がついて少し迂散臭そうに私たちを見る。決心した柳瀬がその工員に近づいて、「ぼくらは朝日新聞の懸賞写真に応募するため、キカイのそばで働いている職工の写真をとりたいのだが、一分間でいいから、その旋盤を廻しているところをとらしてくれませんか」と交渉した。そこまではよかったのだが
 「ついでに休憩時間に、二、三人でこの新聞を読んでいる所もとらせて下さい」
 と、用意の無産者新聞を二、三部手渡した。
 青年工は人のよさそうな顔をして(もっとも肝悪な顔の労働者というのはまずいない)新聞をひろげたが、その題号を読むと、小首をかしげ、これは臭いぞ、と思ったのか、無産者新聞を持って奥へ消えた。

 われわれはボンヤリと往来で待っていた。もう、うす暗くなってきて、たとえあの青年がウンといっても、カメラには写らないだろうとあきらめかけていると、年の頃六十近い平顔の目のクルクルしたおやじが、さっき青年の持って入った無産者新聞を手にして出てきて「朝日新聞の懸賞写真でなく、ほかに悪用するのだろう」といった。
 私はそのおやじの方へ進み出ていった。「実はその新聞に不景気の年の瀬風景と題してのせるため、今朝から方々で撮影した帰りがけなんだ。みんなこの不景気で暗い写真が多かった。どこか若い職工さんがでっかい旋盤でも廻している活発な写真もとって、こういう威勢のいいのもある、として新聞にのせたいんだ」
 するとおやじはうなづいて「そりゃもう政府のやり方が悪くて不景気この上なしだもんな。その縁起なおしってとこか」「そうだ、そうだ、そのとおり」「おら、何もいちがいにいけねえっていうんじゃないんだ。おめえさんたちの素性も大体わかってる。ただね、写真なんぞとらせると、あとが困るんだ」「お名前は出しませんよ」「そうじゃねえ、おめえさんたちは、写してしまったらハイさよならと帰えっちまえばいいのだが、あとの噂が少くとも一、二時間、その間職人どもがサボることになって能率がぐっと落ちる」「----」「仕方ねえ、さっさと撮って早く帰えってくれ」
 いいすてておやじは引っこんだ。

 あとはこっちの天下となる。柳瀬に用意のアート紙をひろげさせてレフ板にしたり、青年工に旋盤の前でポーズをいろいろやらせたり、旋盤がすむとミーリング台でも他の職工をモデルにして撮ったり、全く暗くなってきて、バルブのシャッターしかきかなくなってから、やっと引き上げる時、奥からおやじが出てきて「ご苦労だったな、悪用するなよ」

 大井町原の拙宅まで帰ってくると、すっかり夜であった。疲れていたがすぐに今日のフイルムの現像。柳瀬は「あのおやじは気っぷのいい江戸ッ子だった」などといいながら、私の助手として徹夜した。
 朝になって、何十枚かの引伸し印画ができ上ると、かれは喜んでその全部を持ってかえった。無産者新聞には、それが組写真として昭和三年十二月三十日かの紙面に大きくのった。だから結局、私は無産者新聞には小説と写真をのせたのである。

 その他に「戦旗」の昭和四年の何月号かの表紙に、旋盤工の写真が使われているのを発見した時は「畜生、無断使用しやがって、著作権侵害だ」とはいってみたが、よく見ると、その表紙は柳瀬のレイアゥトしたものであった。
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