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プロレタリア大衆小説 ゴー・ストップ 発禁初版復刻
目 次(数字をクリックするとその章/節へジャンプします)
跋
1.プチブルは階級社会の寄生虫だ 節番号→1,2,3,4,5
2.貧乏人はどうすれば生きられるのか? 1,2,3,4,5,6,7,8
3.山田吉松は工場に入った 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14
4.3百人の職工は団結した! 1,2,3,4,5,6,7,8
5.サーべルがのりこんで来た! 1,2,3
6.連絡がついた! 評議会に 1,2,3,4,5
7.戦いの用意は瞬く間に! 1,2
8.女が火ぶたを切つた! 1,2,3
9.敵も起ち上つた 1,2,3,4
10.争議団の陣立て 1,2,3
11.白色テロル 1,2,3,4,5,6
12.同志はどこにでもいる 1,2,3,4,5
13.闘争の激化する時 1,2,3,4
14.澤田は何を見落としたか? 1,2,3,4,5,6,7,8,9
15.『3・15』は遂に来た! 1,2,3,4,5,6,7
16.参平が鳥羽からきいた話 1,2,3
17.逃げる場所ならどこでもいい 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11
18.『止れ!』戦いは敗北している! 1,2,3
19.『進め!』プロレタリアの若者 1,2
「ゴー・ストツプ」は始め「止れ・進め」と題し「ゴー・ストツプ」と副題して、1928年8月から29年4月迄東京毎夕新聞に連載したものである。
この小読を書く年の3月には「三・一五事件」がおこり、書き終る翌年の4月には「四・一六事件」がおこつた。−−書いている間にも、夏には渡邉政之輔のキールン事件、秋には三田村四郎のピストル事件、冬には新党準備会が解散され、左翼運動が地下に入ると共に共産党が公然とわが国の一角に登場した。翌年の2月にはプロレタリア作家同盟が生れた。
作者は2月の始、腸チブスにかかりそのまま90日間病床にたおれ、訪ねてきた労働組合のレポーターから四・一六の大検挙を聞きながら、瀕死の病床に、難行苦行の口述筆記で稿をつづけていた。今思ひ出してもいやな気持だ。
東京毎夕新聞は特に本所深川京浜方面の労働階級に読者を持つ新聞である。「ゴー・ストップ」はそれらの読者諸君を目あてに書いたものだが書いている間は反響がわからなかつた。もっとも連載中も無産者新聞関係、戦旗関係その他文壇ヂャーナリズムの方面で相当問題にはしてくれたようだつたが、作者はそれよりも20万もある読者の中の、少くとも5万や7万はいるに違いない組織未組織労働大衆の、直接の何等かの反響がききたかつた。それは切にききたかつた。ゴリキイは労農ロシアの未知無名の青年からくる何千何万という文学的通信に一々返事を書くことを「私の最も有意義なる仕事」と称しているが私ほゴルキイのやうな「文豪」のなすべき仕事としてではなく、単に左翼的な、一大衆作家の唯一の作家的報酬として、組織未組織労働者諸君の直接反響の声がききたかつたのだ。でなければこんな小説なんか、ばからしくて書く気になれない。
所が「ゴー・ストツプ」を新聞に書き終わってから、芝浦の労働組合にいる人から「ゴー・ストツプ」が新聞に出ていた頃、それが随分労働者達にむさぶり読まれていることが組合の会合のきまつた話題になつていたという通信や、鶴見のある左翼組合の闘士が、その人のいた労働者の家のおかみさんが「ゴー・ストツプ」の筋を暗記していて詳しく話してきかされたといふことや、獄中にいる旧評議会の闘士からお前の「ゴー・ストツプ」がこんなところでも 仲間の噂に上つてゐる、というような通信を貰つて、私は気が強くなつた。
そして最初作者によつて「止れ・進め」と題したはずのこの小説がそれらの人々によつていつの間にか「ゴー・ストツプ」「ゴー・ストツプ」と呼ばれるように変わってしまつた。だから今度この小説を「ゴー・ストツプ」という題名にして新たに手を加えて殆ど全部書き直し、親愛なる現代労働大衆諸君の娯楽よみ物としてこの書を捧げんがために一冊の本とした。(1930年3月、作者記)
一. プチブルは階級社会の寄生虫だ
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第一章(一)
野々村参平が築地河岸を歩いていると、
「助けてぇッ……」
という女の金切り声がした。
「おや?……」
と思って、彼は闇の中をすかしてみた。
築地市場の方にある人通りのない淋しい橋のたもとに、白い人影がちらりとみえた。
「よし!」
と参平ほ浴衣の尻をまくってその方ヘ走って行った。−−走りながら、−−夜がふけるとまるで人通りのないこの辺を彼れはいつも散歩する時に、東京にもこんな暗い所がある−−これだから女などは危いのだ−−と思ったその考えが頭の中を掠めた。
「おい! どうしたんだ?」
――すぐに、かれは橋のたもとまで来た。
そこには白い着物を着た若い女が一人、橋のまん中に倒れ、声を立てて泣いているのだ。あたりをすかしてみても、ほかにほだれもいない。
橋のたもとには電灯がともっている。その光りに照らされて女の姿だけが、いやにくっきりと白い。
「どうしたんです? しっかりなさい!」
と傍へよって、倒れている女の顔をのぞきこもうとすると、不意に、女ははい起きて、すすり泣きながら、逃げ出そうとした。参平ほ思わず、黙って女の肩口をつかまえた。
すると女は突然、大きな声で叫んだ。
「離して下さい、離して下さい!」
「何です? どうしたんです?」
と参平はおどろいて、手を離した。
女ほいきなり橋の欄干(らんかん)にとびついた。欄干から川の方へ半身をのり出した。
「よせ!」
また、びっくりして、参平ほ再びうしろからつがまえた。
「いやです! 離して……死、死ぬんです。あたし、死ぬんです……死んじまうんです。死、死んでやるとも、死んでやるとも、死んで……」
女はフラフラに酔っぱらっているのだった。参平は初めて相手の正体がわかって、ばからしくなりながら、
「やかましいね……」
と、それでもまだ女の体をつかまえたまま、余った片手で自分のざらざらの頬ひげをなで廻した。
「僕はまた、あんたが強盗にでも会ったんかと思った。自殺する所だったんだね、これは案外だった。」
「あたし、生きちゃいられないんです!」
と女はひいひい泣き出した。
「しかし、この橋からとびこんだって死ねやしないよ、みたまえ、今は引け潮でちっとも水がないじゃないか、たかだか墜ちて怪我をする位だ! 片輪者にでもなったら一生困るよ、まァ見合わしときたまえ」
と参平は大川ヘつづく川面(かわも)を指差してみせながら、どうもとんだ者にかかりあった、と思った。
それでもいろいろいいなだめながら橋のたもとまで女を引っ張って来た時、青白い電灯の光りがまっすぐに、彼女の肩におちた。女ほ支那服を着ていた。頭は断髪で、涙で白粉のまだらにほげた顔は丸くて美しかった。耳には小さな耳輪がぶら下っていた。
「あたしをどこへつれていくんです!」
と女は靴の踵を一つ、癇癪をはらすためにするかのように、とんと踏んだ。
「いや別に、どこへもつれて行くわけじゃありませんが、あなたほ何故こんな所で一人で騒いでいたんです?」
「何だっていいわよ!」
女ほつんとした。
「しかし、僕がみつけたからよかったんだぜ、こんな所を警察にでもみつかったら、とんだ恥さらしだ……」
「そう、そう……」
女ほ急に晴れ晴れした顔になって、
「あたしを警察ヘつれて行って頂戴……近所の交番迄でもいいわ」
「何だって?」
参平はおどろいた。
「そんなことをしてどうするつもりなんです?」
「……この女が身なげしようとしていたからってとどけてくれればいいのよ」
「そんなことすればあんたの恥さらしじゃないか?」
「恥さらし位平気よ……ね、たのむわ、その代り、ただでは頼まない、一円出すわ……」
「馬鹿いえ!」
「じゃ二円!」
「よせよ……ばからしくもない!」
と参平ほあとヘよった。
「ふん! みた所、あんたもこの辺の労働者か何かだろう、ちょいとそれだけの手数で二円になればこの雨つづきのあぶれ日和にいい儲け仕事じゃないか、行っとくれよ。」
「馬鹿野郎! 何いってやがるんだい。女のくせにこんな所で酔っ払いやがって、人が親切にしてやればいい気になりやがって! 狂人(きちがい)!」
と参平ほとうとう疳(かん)を立ててどなった。
「あらツ! まあ、先生!」
と女ほ不意に眼をみはった。
「何?」
参平もぎょっとして、相手の顔をみた。
「まァ、お久しぶりね!……へんなところで会っちゃったわ、おう恥かし、どうしようかしら?」
と女は両手で瞼にふたをした。
「あんたはだれだっけね?」
参平はあっけにとられて、見当がつかなかった。
「あたしよ、先生! 品子よ、芳川品子よ!」
「おッ 芳川か?」
と参平ほいよいよおどろいて、
「ほう……お前だったのか? 不思議だね、どうも…‥」
「ご機嫌よろしう!」
「一体、お前、そんななりをして、こんなところで、何をしているんだ!」
「ホゝゝゝあたし、先生だってことが初めにわかってれば、こんなことするんじゃなかった……」
「どうしたってんだい?」
「ああ困っちゃった! 先生そこまで行きましょうよ」
銀座にほ美くしい燈がかがやいていた。幌をはねた円タクが打水の上に前燈(ヘッドライト)を光らせてアスファルトの上を矢のように流れ去る。
*円タク=タクシー
尾張町の角に鈴を鳴らして立つ盲目(めくら)の夕刊売りの女の顔も青白い光りに染んでいた。舗道には浴衣がけのプチ・ブルが、装飾窓から流れ出る燈の色を肩にあびて行き交うている。銀座は闘争的になれないインテリとプチ・ブルが生活意識をごまかしにくる場所だ。
参平は、もと教え子の一人に違いない芳川品子と、銀座のあるカフェで、向いあっていた。
「先生! あたし、今夜ほ随分のんじやつたのでね、かんべんして下さいね!」
と品子は紅をぬった唇を開いてほう、と息を吐いてみせた。
「そうか……いいよ。酒ならおれものんでいる。お互いだ。しかしお前ほどういうわけであんな所でふざけた真似をやっていたんだ……」
「あたし、今夜室山とすっかり喧嘩しちゃったのよ」
「室山? −−室山って何者かね?」
「あら、心細いわね、根岸映画のピカ一よ、先生はしらないのね。」
「活動役者か……そうそう、お前はこの頃映画女優になっているんだってね、お八重ちゃんからきいたよ」
「随分うかつだわねえ、芳川品子っていえば室山と並んで、根岸の花形じゃありませんか!」
「そうか、それでそんないいなりをしているんだね」
「こんなのァ不断着よ、ね先生、それよりもあたしと室山の共演の映画をみて下さった事があって? すばらしいでしょう。とてもいい男でしょう室山は……あれは日本のジョンバリよ、東洋のバレンチノよ、それが、あたしの愛人なんだから−−先生、覚えてて頂戴よ!」
「のろけけか、八年ぶりに会った先生をつかまえて、お前もすさまじい女になったものだね」
「まあ、もう八年にもなるかしら? 八年だって一年だって室山のことは、何時だってのろけないではいられないんですもの……」
「まあいい……それ程ほれている室山と何故喧嘩なんかしたんだ?」
「だってね、それにはいろいろわけがあるんです。先生、丁度いい時にお目にかかったんですから、智慧をかして下さいな……あたしもうどうしても我慢がしきれないんです」
「まア、わけを話してみたまえ。」
「実はね、あたしたちは二人で三千円の給料をとっているのよ、それが……」
「ちょつとお待ち──三千円というのは、それは年俸かね?」
「何いってらっしゃるのよ、月給よ」
「月給三千円? 総理大臣よりも多いじゃないか」
「当り前よ、大臣なんかはどんな醜男(ぶおとこ)にでもできる商売じゃありませんか、こっちは水もしたたる映画俳優よ、一緒にされちゃたまらないわ。」
「少し話がオカしいが……すばらしいものだね、昔、お前の父親は酒のみで働きがないものだから、しよつちゅうおッ母がお前を負んぶして、貧乏なおれの所へ二合三合という米を借りにきておかゆをたいて暮していたんだ。お前はそのおかゆをがツがツしゃぶって大きくなったものだが、今じゃ月給三千円……映画女優ってものはそんなに大したものなのかねえ……変れば変る世の中だな流石に……」
「あら、先生あたしだって先生の御恩を忘れているのじゃなくてよ、そりや時々は思い出すんですけれどね、それがね、三千円の月給だといっても、室山と二人で三千円でしょう、室山はその内たった五百円しか、あたしによこさないんですもの、五百円じゃどうしようもないんですもの、あたし暮らして行かれやしないんだもの」
「芳川! 先生なんか五百円あれば一年でも結構暮らすよ。お前ほ一体、今どんな暮らしをしているんだい?」
「そりやアね、先生にだってその内一度遊びに来て頂こうと思っていたのよ。おっ母さんともよく先生のことが話に出るのよ。でもね、あたし忙がしいもんだから……」
「いいよ、そんなことは……で何かい、給料のわけ前のことでその室山君と喧嘩でもしたというのかい、今夜は……」
「まあ、頭がいいわ、やっぱり先生だわね……」
と品子ほ恬然(てんぜん)として笑った。
参平はつまらなさそうな顔をした。
参平はうすぎたなくひげののびたざらざらの顎を片手でなで廻しながら
「じゃお前は今夜その男と一緒にいたんだね」
「ええ……」
「どこにいたんだ?」
「築地の待合でのんでたのよ」
「ほウ……お前は待合へなんぞ行くんだね。大したもんだね」
「のみながら今夜あたし一所懸命室山にせがんでいたのよ。わけ前のことを……でもいくらせがんでもダメよ」
「それで喧嘩になってとび出したんだね……」
「そうよ」
「そして、狂言に自殺のまねをして、だれかに救けられて警察のご厄介にでもなれば、何だか本物の自殺のやり損じのようにみえて、男をおどすのに丁度いいという算段で、ああいう金切り声を立てたんだな、つまり……」
「まあ、よくあたったわ」
と品子は感嘆して
「丁度あの橋の上に立ってると河岸ッぶちを巡査がくるので、それを目あてに怒鳴っちゃったのよ。巡査だと思ったのが先生だったんですもの、きまりが悪かったわ」
「巡査が浴衣がけで歩くもんか」
「白い洋服にみえたのよ」
「とにかく死ぬ真似なんかよせ!」
「よすから先生、智慧をかして下さいよ、あたしせめて千円ほしいのよ。だって二人で共演して平均八巻のフィルムを月に一本半会社へ納めて三千円の報酬を貰うということになっているんでしょう、大へんな労働よ。だから千五百円ずつわけるのが当り前なんですもの。五百円じゃあんまりだわ。千円ほしいわ。あたし月に千円あれば、先生にだってうんと御恩返しができるど思うわ……」
「おれは何もほしくはない。……しかし何だね、その室山は少し慾張りすぎているようだね」
「何とかして、千円とれないでしょうかしら?」
「そうだナ、まず別れなきゃ駄目だろう。お前のように男ののろけをひっきりなしにしゃべりながら、その男から金をとろうなんて、少し虫がよすぎるよ」
「先生! 何とか、別れないで金のとれる工夫をして下さいな、拝むわ」
「はゝゝゝ、おれはそんなことのできる器用な人間じゃない」
「だって別れるのはいやだわ、そんなことはできやしないわ!」
「ああ、そうかね」
「ああそうかね、だなんて、たのもしくないじゃありませんか、よう! 先生!」
「お前ほ実にみればみる程…‥仏様のような顔をしているね」
参平は女をもてあましてしまった。
「……どうせそうでしょうよ、お八重ちゃんなんかとは比べ物になりませんからね。これでも昔、あたしやァ先生が好きだったんですからね、はばかりさまッ!だ、ほんとに!」
「おれはもうこれで失敬しょう!」
「いやだわよ。返しやしないわよ。かえるのなら勘定を払って頂戴!」
「弱ったな、お前がつれこんだんじゃないか、そんないいがかりをいうもんじゃないよ」
「だから、相談にのって頂戴ってのに……」
「相談だといったってさっきからお前ののろけばっかりきかされているんじゃないか……」
「ホゝゝゝすみません、あたし今夜酔ってるんですからね、ごめんなさいよ」
その時このカフェへ浴衣の上に絽の羽織を着た四十すぎの男がぶらりとはいって来た。
「あら、親方ッ! 今晩ほ……」
と品子はその方へとんで行った。
──その間に、首尾よくカフェをぬけ出した参平は一刻を争うように尾張町の角まで来た。そこで立止まった。彼れは今までとはうつて変って、きょときょととあたりを見廻した。するとそこに子供を負ぶった一人の夕刊売の女が、あわれっぼく鈴を振りながら立っていた。
「お八重さん……」
と参平ほまるでさっきとは人が変ったような、やさしい猫撫声を出してその女の方へ近づいた。
「あ、先生ですか?」
と子供を背負った女は顔をあげた。見るとその女は目をつむっていた。街燈の白い光りが彼女の顔にまつわって、彼女が目の見えない女ということがすぐにわかった。参平は帽子をぬいで頭を掻きながら、
「どうです、今夜は?……」
「ええ、もうほんの僅ばかりになったので帰ってもようござんす」
「そうですか。坊やはちっとも今夜は泣かないようですね」
と彼れは女が負ぶってる子供の寝顔をのぞいた。
「ええ、いいあんばいにさっきから眠ってるのです」
そこで女は売れ残りの新聞をこまかくたたんで懐に入れた。
背の高い大男の参平と、子供を負ぶった盲目の女とは、夫婦とも親子ともつかぬ妙な取合せで、仲好く肩をならべたまま、人の通行の織るような銀座の歩道を、京橋の方へ歩いていった。
「ほ……八重さん、夜店に兎を売ってますよ。耳が長くて可愛いい目をしていますよ」
と参平ほ目の見えない女のために、夜店の光景を話してやった。
「まあそうお」
女は嬉しそうな顔をして笑った。しかしその笑いはいかにも淋しそうだった。
「ほゥ……ここには、びっくり人形を売ってる、坊やに一つ買って行ってやろうかな」
「先生、昨日だっても玩具はいただいたのですから」
と彼女はそれをことわった。
「ああここは本屋ですよ。いろんな本がある。『現代小説全集』か、『プロレタリア詩集』ええっと『青春男女の性の真相』か、よくない本だ。いろんな本がならんでますよ」
「先生あたしには本ほ読めないんですから」
「ああそうかそうか。さあ行きましょう。おやお八重さん、あそこにはあんな小さな子供が花を売ってますよ−−」
通行の人々は目の見えない彼女の顔を不思議そうに振り向いて行った。そして彼女をかばうようにいたわるようにしてついて行く参平の顔をも、けげんな表情で眺めて行く男や女が多かった。
間もなく二人は夜店の途絶えた京橋の際まで来た。そこから二人は電車に乗った。午後一時を過ぎていた。湿っぽい夏の風は蒸しあつく電車の窓に吹き入った。
──二人は本所の自分達の住んでいる裏町まで帰って来た。そこは本所区内でも貧民窟の名の高いうす穢い町の一角であった。
とある路次の建てつづいた長屋の入口で、二人は立止まった。
「じゃ、さよなら」
と参平が女に言った。
「どうもありがとう」
女は見えない目に媚をたたえて男の方を振返った。そして今まで小脇に抱えていた小さな杖をたよりに、長屋の路次の中へはいって行った。参平は入口からそのうしろ姿を眺めていたが、長屋の何軒目かの戸を引きあけて、女の姿がその中にかくれたのを見届けると、満足らしく頷いて、歩き出した。
参平の住んでいるのは、やはりこの貧民窟の一角内だった。ただわずかに彼れの住居は長屋の中ではなくて、大通りへ出る角にあるうす穢い煙草屋の二階だった。
「お帰りなさい」
と参平の帰って来た姿を見て、店番をして居た煙草屋のおばさんが、愛想のいい笑顔を見せて声をかけた。
二. 貧乏人はどうすれば生きられるのか?
節へjump→1,2,3,4,5,6,7,8 次章へ 前章へ 目次に戻る
第二章(一)
参平の住居は六畳と三畳の二間である。その外に小さな板敷の廊下がついていて、そこほ障子で六畳の部屋と仕切られている。
板敷の上には雑然とした世帯道具がならべてある。──焜炉、飯櫃(めしびつ)、茶碗、土瓶、バケツ、俎(まないた)−−察するまでもなく参平ほ自炊しているのだ。
「あつい、あつい!」
と参平はミッシミッシ階段を上って来ると、すぐに着物を解き外して丸裸になった。
褌(ふんどし)一つになって、かれほ六畳の真ン中に大あぐらをかくと、両手を上げて大きなあくびをした。それからごろりと寝ころんだ。
手を伸ばすと、渋けた一本の団扇(うちわ)があった。それを取り上げて、バタバタと体をあおいで、たかって来る蚊を追い払った。
「妙に今夜は疲れちゃつたなア」
と彼れはじっとすすけた天井を見詰めた。
「そういえば芳川が蒲田で映画女優になっているって噂は度々きいたっけなあ……あのお品ッペえがあんないい女になって……」
と、とりとめもなくさっき会った品子のことを思い出していた。
「先生」
という声が梯子段の下でした。おかみの声である。
「何です」
と参平はねたまま答えた。
「お客様ですよ」
「あがって下さい」
と起きて坐った。多分学校の同僚が遊びに来たのだろうと思った。──それにしても少しおそい時刻だな、と思った。
「あのう警察の旦那がお見えになりましたんですよ」
その声の下かち鳥打帽をかぶったちょび髭の男が上って来た。
「先生! かまいませんか……」
とちょび髭は首だけ出したところで止まって、二間しかない部屋の中を見廻した。参平ほあわてて汗だらけの浴衣を着ながら、
「うむ、どうか上りたまえ」
「いやそのままで結構です。なんしろ暑いんですから」
とちょび髭は上って来て、参平の前に坐ると、
「ええ私はその筋のものですが、先生のお名前はご高著『生きとし生けるもの』や『貧民窟物語』で前から存じております。はい! きょうちょつとその先生の、その崇高なるご人格を信じまして、相談に伺ったのですが……」
「なんです」
「先生は山田吉松(きちまつ)という子供を御存知ですか?」
「ええ知ってますよ、僕の教えてる生徒です」
「どういう質(たち)の子供ですか?」
と刑事は参平の顔を窺った。
「何かわるい事をしたのですか」
と参平はきいた。
「実はすりの現行犯で、今本署に挙げたんですがね」
「そいつほ困りましたね」
「まァ少年審判所へでも送らなければならないのですが……就(つ)いてはですね……」
「はあ」
「本人ほ改心して野々村先生に引きとって貰う……といってわあわあ泣いていますので、先生のことは私共もよく存じておりますので、どういうものかと御相談に上ったのです」
刑事はバットに火をつけた。
*バット:ゴールデンバット・廉価な紙巻きタバコ
「成程、では引きとりましょう」
と参平は手軽に答えた。
「所が、大体あの山田というちんぴらには、御存じでしょうが親分があります」
「天川(あまかわ)伝四郎ですか」
「そうです。よく御存じですね」
「名前だけは聞いて知ってます」
「実は警察では博徒だかスリだかわからない天川に一番手を焼いているんですが、きいてみると山田もあの天川の子分だというんで、先生に引きとって頂くのなら結構なんですが、しかし一応先生から天川にこのことを諒解させて貰つた上のことにすると一番穏当だと思うんですが」
「署長がそういうんですか」
「いいえ、司法主任です」
「はァ、そうですか、では、あすにでも、天川を訪問して話してみましょう」
「よろしく願います。では、その方ほそう願うとして、いかがでしょう先生、御足労ですが今から本署まで行って、その山田に会ってやって下さらないでしょうか」
「会いましょう。私の生徒ですから、そういうことをして警察の御厄介になっているときいちゃ、ほってもおけません」
と参平はすぐに帯を締めた。
「どうもすみませんでしたね」
刑事は外に出てから額の汗を拭きながら言った。
「いやいや」
参平は先に立って歩いた。
間もなく二人は警察署前まで来た。刑事は参平を案内して刑事部屋の方へつれて行った。
「一寸待っていて下さい」
と刑事は参平を刑事部屋に残して、鍵をがちゃがちゃいわせながら留置場の方へ出て行った。
暫く待っていると、よごれた浴衣一枚着たきりで、帯も履物もない山田吉松が、刑事につれられて来た。
「おい、先生がお見えになってるよ」
と刑事は少年を刑事部屋へ突き入れた。
「山田か?」
参平ほ入って来た少年に、きついまなざしを向けた。
「先生! こいつはひどい野郎なんです。一六や七で真昼間人の懐(ふところ)に手をつっこむなんて」
と打って変った調子で刑事が少年の頭をなぐった。
「なにしやがるんでえ」
と少年はつぶやいたまま抵抗しなかった。彼れは頭を角刈にして青白い顔に目だけ大きくずるく光らせながら、いかにも小ざかしい様子をしていた。
「おい山田! お前どんなことをしたんだ」
と参平が少年の肩に手をおいた。
「なんでもないんです、先生」
と彼れは口をとんがらして、
「このおじさんが、むやみに僕をしょびくんです。まるでむちゃなんです」
「だまってろ」
と刑事は参平の方へ向いて、
「こいつほ今日午後五時頃、浅草の境内で若い女のふところへ手をねじこんで、持っている財布をスリとろうとしたんです。スリだか強盗だかわからない下手なことをしやがって、傍を通っていた私がすぐにふんじばったんです」
「じゃなにも取りはしなかったんですね」
参平ほうなずいてきいた。
「やりしくじったんです。しかし大それたことをやりますよ。何しろまっ昼間なんですからね」
刑事はここでぐつと少年の方をにらみつけて、
「おい、きさまは天川に言いつかってやったんだろう?」
と大きな声を張り上げた。
吉松(きちまつ)は、へんといったようにそっぽを向いた。
「白状しないと天井へぶら下げるぞ」
「ぶら下げろい、なに言ってやがるんだ。俺は締め殺されたって、そうでねえものはそうでねえと言うんでぇ」
「なにを!」
と刑事ほ、いきなり吉松をそこへねじ倒した。
「君々、……それが役目か知らんが、僕の見ている前でそう手荒にやらなくつてもいいじゃないか。一体、僕をなんのためにここへつれて来たんだ」
と参平が見かねて言った。
「いやこいつが強情なものですから、実は先生から懇々(こんこん)とこいつに説諭を加え、本当のことを白状さして貰って改心の証拠をみせて貰いたいんです」
と刑事は汗をかいて参平に言った。
「山田、このおじさんの言ってる通りじやないのかい。お前この頃天川の子分になったそうだが、どうも困ったものだね。……お前が天川の子分をよすなら許してやると警察の人がいっているんだが、どうだ?」
「…………」
吉松は顔を抱えてうつむいたまま返事をしなかった。
「君」
と参平は刑事の方を向いて、
「この子供はこうなると、とても意地が強くて、本当に殺されても満足な返事なんかしやしないから今日は取敢ず(とりあえず)このままにしてやってくれないか。僕が引受けるから、そしてあとでよく真相をきいてみるから」
「全く強情なやつですね。子供のくせにとてもてこずらせやがるんだ。先生、こんなやつはこのままほッとくと末恐ろしい『職人』になりますぜ…‥」
と刑事は匙をなげたように嘆息して
「じゃ兎に角、先生、こいつをつれて帰って下さい。先生にあずけます」
「承知しました。決して二度と御迷惑をかけないように気をつけますから」
「それでは、微罪不起訴ということにして、年も足りないし、まあ今度はこつちでがまんしますが、始末書に先生もお名前をかいて下さいませんか」
「よろしい。いくらでもかきますよ」
と答えておいて参平は吉松に目くばせをした。
「帯をどうしたんだ帯を!」
「刑事のやつに取られちゃったんです」
「おい、そんな失礼なもの言いをするな、生意気じゃないか」
と参平ほ叱った。
「そら返してやる!」
と刑事は次の部屋から、吉松の締めていた古ぼけた縄のような帯を持って来て投げつけた。
参平が吉松をつれて煙草屋の二階へ帰って来た時は、もう夜半を過ぎていた。
「おい、お前腹がへったろう?」
「へぇ……」
吉松は部屋の隅へきちんと坐って神妙にしていた。
「留置場へ入れられたまま、ちっとも飯を食っていないんだろう」
「へい、ペこしゃんです」
「仕方のないやつだ、飯を食わせてやりたいが、あいにく俺が宵(よい)に食っちまって、お櫃(おひつ)はからっぽだよ」
「近所の天丼でもかまいません」
「生意気なことを言うな。そこに新聞の古いのがあるから持って来い」
「どこですか?」
と吉松は尻を上げた。
「そこだ、その押入の中だ。それをまるめて焜炉(こんろ)の中でマッチで燃すんだ。焜炉の傍に箱のこわれたのがあるだろう。それもくべて炭火をおこせ」
「どうするんです。先生」
と吉松はしぶしぶ言われた通りやり始めた。
「だまって働け!」
「だってけむいなァ」
彼れは焜炉から立昇る煙の中で顔をしかめた。
「燃やし方がまずいからだ。熱心にやれ、きさまが人の懐をねらう時のように懸命になれば、新聞の反古(ほご)ぐらい訳なく燃えるんだ」
「こいつはいたみ入りやす」
と少年は狐のような口つきをして火を吹いた。
「なんだ、だらしのない口つきをしやがって、第一そういう芸人のような言葉を使うな──さァ、火がおこったらこっちへ持って来て今度は米を洗え!」
「今かちおまんまをたくんですか?」
「そうだ。お前に飯を食わせてやろう」
「いやになっちまうな!」
「じゃ食わずにねるかい。馬鹿め、働くことさえ知らないやつが生意気なことを言うもんじゃない」
「だって暑くてやりきれないんです!」
「裸になっちまえ!」
「裸になったって暑いや……」
「よし。水をぶっかけてやろう。物干へ出ろ!」
大きな図体の参平はいきなり軽々と吉松を抱え上げた。
「先生、もう沢山です」
「もう沢山か?」
「沢山です!」
「働くか?」
「働きます」
ほうりおとされた吉松は仕方なしに、ブリキの米櫃から米をすくい出して鍋に入れ、それを物干へ持ち出してバケツの水で洗った。
その間、外へ出かけた参平は、どこからか、新聞のきれっぱしに包んだ沢庵を一本買って来た。
「おい、こげ臭いじゃないか、飯一つ満足にたくすべも知らないでいて、警察では、知らねえことほ知らねえから殺されても言わないなどと空吠(からぼえ)をしたな、きさま!」
「いえ先生。あれとこれとは別なんです……やりきれねえな、先生にかかっちや」
「この沢庵をよく洗え。そして上手に切ってお鉢へ入れて来い」
吉桧は独楽鼠(こまねずみ)のように物干へ出て行った。
兎も角そうして飯がたけた。
「どうだ、うまいか」
と机を六畳の真ン中へ持出し、向い合って煮え立ての飯を頬張りながら、参平が吉松に言った。
「あつあつの飯に沢庵なんて気がきかねえや。やっぱり先生、天丼を取った方がようござんしたぜ」
「馬鹿言え、お前は額に汗して働くということを知らないやつなんだ。そういう性根だからゴロッキの子分になったりするんだ」
と、参平の形相が恐ろしく変った。
吉松は一本の沢庵をばりばり噛み砕きながら、
「へん。先生、何いってんだい、正直に働く奴は馬鹿野郎だい」
「何ッ!」
と参平は猿臂(えんび=上腕)をのばして吉松の頬っぺたをつねり上げた。
「痛えッ! 先生!」
吉松はベソをかきながら
「だって‥…先生! 先生の言うことは理窟に合わねえんだ。理窟に合っても実際に合わねえんだ。先生! 家の父(ちやん)をごらんなさい、家(うち)のちゃん(父)は正直な働き手でございましたぜ。毎日々々富川町へ働きに行って、立ん坊仲間じゃ十人二十人の頭になっていたんだ。それがこの間からあの通りの雨でしょう。雨が降ったら立ん坊の仕事ほなくなってしまうじゃありませんか。二週間も雨が降ったら、立ん坊は食えませんや。立ん坊の家族だって乾千(ひぼし)になってしまいまさァ。働こうにも働けないじゃありませんか。額に汗して食おうにも食えないじゃありませんか。だから家のちゃんはあたい達を食わせるために、盗んだんですよ。ほんのちっぽけな盗みをしたばっかりに、あゝして監獄へやられちまったんですぜ。ちゃんはわるくはねえんだ。あたり前(めェ)なんだ。働きたくても働くことが出来ねえような、やりきれねえ世の中に、一体だれがしやがったんだ!」
吉松の父は、今度の長雨で一家族に粥をすすらせることも出来なくなって、菊川町の八百屋でかっぱらいをして、窃盗罪の名の下に刑務所にほうり込まれたばっかりであった。吉松はその伜(せがれ)である。
「ねえ先生、ちゃんがいなくなると、家には眼の見えねえおっ母と、とみ子と、源吉と、おみよと、あんな小さなやつが三人もいるんですよ。そして昨日から僕等は、たった一枚しかなかったせんべい蒲団まで、一六(いちろく:質屋)へたたきこんじゃったんです。着るものは夏場だからまだいいんですけれどね、おまんまが買えないんです。僕ほもう三週間ばかりこんな…‥こんな湯気の立つ白いおまんまなんか食ったことはねえんです。おっ母は三日もなんにも食わねえで、おとみや、源吉に、やっと芋のお粥をすすらせているんです。みんなひもじくて、ひもじくて、起きる元気もなくて、寝て泣いてばかりいるんです。僕は天川の親分のところへ金を借りに行ったんです。そしたら頭をなぐられて、てめえの親父は俺の子分だ。その伜なら、そんな泣面を下げてはいって来ないで、ちやんと子分になる決心で出てこいと、どなられたんです」
「それでお前、天川の子分になって、スリを働いたというのか?」
参平はじっと少年の顔を見つめた。
吉松はほろりと涙を茶碗の中へこぼした。
「−−だって仕方がないじゃありませんか。僕なんか子供で、どこにもまだ雇ってくれるところがないんです。僕は、すりをするのがわるいとは思いませんぜ。親方ほ、すりは商売だ、立派な商売だってそう言うんですよ。そして貧乏人をすっちゃいけねえ、なるだけ贅沢ななりをしている金持をねらえって言うんです。そんなやつからは幾らすっても罪にはならないんだ−−親分はそう言うんです。先生、僕は学校で役にも立たない修身や、歴史を教わっているよりも、親分に話をきいてる方がずっと本当の世の中がわかるんです。だから僕ほすりになる決心をしたんです」
と少年は手に茶碗を待ったままこう言ってはなをすすった。
その夜、吉松を母親の許へかえしたあとで、参平ほ寝ながら考えた。
月に五百円では食えないと言って、身投(みなげ)の真似をする女もあれば、飯が食えないで、ひもじさの余り、すりになるやつもある。
──一体どいつが間違ってるんだ。
もし吉松といえども正業があって、一定の収入さえ得られれば、必ずしもすりにはならないですむだろう。
正業−−所で正業とは何だろう?
俺のように小学校の教師を勤めるのも正業だろう。然し品子のような商売は果して正業だろうか? あれは何だろう?
お八重は夕刊を売って細々と生活を立てている。俺やお八重こそ正業に就いている人間だ。売ってはならないものは決して売らないんだ。吉松は良心を売って泥棒をする。品子は節操を売って大金をせしめる。
人は売ってはならないものを売れば、いつでも贅沢な真似が出来るというものだ。
しかし、それでは人間でない。
──やつらは獣だ。現代は獣の世の中だ。獣ばかりが天下を闊歩して、真人間は日蔭でみじめに暮している。いや正直な人間ほど食えなくなって、餓死しなければならないのだ。
正直にしていて一代に百万の富がどうしてできるものか? 実業家というものは嘘をついて人をペテンにかけて、金をもうけ、更にそれを資本にして、安い賃銀で多数の労働者をコキ使い、搾り取って莫大もない富を作り上げた階級だ。良心があってはやれる仕事でない。では実業家を正業だとすると、品子も正業だ。天川も正業だ。吉松も正業だ。へんなことになって来た。
どういうわけでこんなに世の中が間違っているのか、参平はわかったようで、わからなかった。
彼はいつのまにか蒸せかえるような夏の夜の暑さの中で、とろとろと眠ってしまった。
目がさめると朝だ。
参平ほ夢の中でも考えていたゆうべからの考えのつづきを、すくに又頭に浮べた。
「吉松は助けてやらなくてはならん、あいつは飯を食わせると、あの通り良心に恥じてお辞儀をして行った。あそこが人間だ。今のうちに取止めてやれば、あいつはきっと真人間になるだろう」
顔を洗って詰襟に着かえると、参平は学校へ出る前に、あまり遠くない天川の家へ立寄った。
「親分はいますかね?」
と参平は玄関に立って声をかけた。
「どなたさまてす」
と子分らしい男が出て来た。
「僕は△△小学校の野々村というものですが、親分が居たら一寸会って行きたいので寄ったんだがね」
「まだ寝てますよ」
と子分はにべもなく答えて、
「でも何か御用事でしたら、あっしが伺っておきましょうか」
「いやそれなら学校がひけてから帰りに寄ってもいい。起きたらそう言っておいて下さい」
と参平は又往来へ出た。そして彼れは学校の方へ引返した。
学校の帰りに、もう一度天川の玄関先をのぞいてみたが、親分は、今度はどこかへ出かけて留守だということであった。
参平は宿へ帰って、裸になって机の前に坐り、学校から持ってかえった仕事を一わたりかたづけたあとで、近所の銭湯へ行った。
浴衣がけで銭湯から帰って来ると、門口でばったり四十余りの眼のぎょろりとした男に出会った。
「先生ですかい」
とその男はいんぎんに小腰をかがめて、
「さきほどは何度もお出で下さいまして、まことに失礼しやした」
参平はそれがすぐに天川伝四郎だとわかった。同時にきのう銀座のカフェで品子と一緒にいる所へはいって来たのと同じ男だとわかって、ちょっと面くらいながら、
「やァ、あなたが天川の親分で……これはどうも失礼しました」
「はゝゝゝ先生! ゆうべお品の奴からいろいろ先生のことを伺いやしたよ」
「ええと……そうでしたね、ゆうべあそこでお目にかかったのが、やっぱりあなたでしたね」
「先生、何故逃げてかえったんですか?」
「いや……そういうわけではなかったんですが、まあ、お上りなさい、といいたいんですが、家の中は暑くるしいし、とてもあなたに上って貰うようなところでないんだから、どうです、そこいらまでお伴しましょうか」
「この近所ではちょいと困りますがね、何ならそこいら迄参りやしょう」
参平は一旦家の中へ引っこんで手拭や石鹸をおいて出て来た。
二人は並んて夏の夜の往来を歩いた。
参平は、伝四郎に河岸っぶちのとある鳥料理屋に誘いあげられた。
「いや一度先生には、お目にかかりたいもんだと思っていた所ですよ。丁度ゆうべ、あんな所で偶然お目にかかっていながら気がつかず、あとで聞いて残念でしたよ。するときょうわざわざ先生の方から二度もご足労を煩わしまして、よくよくのご縁だな、と思って、今度はあっしの方からお訪ねいたしやした」
伝四郎は大勢の子分を持っている博徒の親分らしい調子で、盃をさした。
「いや、それというのもゆうべはとにかく、きょうは一寸たのみたい用があったもんだから」
「あ、そうてすか。先生のご用ならどんなことでも一と肌ぬきやすぜ」
「それ程大した用じゃないんですが、富川町の山田菊松の伜のことですがね」
「うん、うん 菊松も可愛そうなことをしやした。いってくれば何とかしてやるものを‥‥‥」
「その伜の吉松が又浅草かどこかで親爺のまねをしてゆうべ警察に挙げられましてね」
「へえ…‥あの小僧が」
「あの子供ほ丁度僕の受持ちの六年生でしてね、何しろ僕の教え子ですから、ゆうべ警察から預ってかえって、一旦母親のところへかえしてやりました」
「それは、それは……」
「ついてはあの子を将来僕の方で面倒をみてやりたい‥‥‥とそう思うものですから、一寸、あなたにことわりに伺ったんですがね」
「ああ、そんなことだったんですか、先生がそうおっしゃるなら、あっしの方は別にかまいませんよ」
「ではそうして下さい」
「はゝゝゝ教え子っていえば先生、ゆうべのお品も先生の教え子だったんですってね」
「ええ、そうです」
「あいつをあそこ迄にしてやったのはあっしなんですよ先生、蒲田の木村に頼んで立派に売れっ子にしてやったのに、あっしの恩を忘れてあいつはいつの間にか室山五十二(いそじ)という色男とくっついて、いやもう、きいてみると、木村とも関係がある。その前には重役の吉田の世話にもなった。昔は先生、あなたにも惚れていたんですってね」
参平は赤い顔をして眉をしかめ乍(なが)ら、
「嘘ですよ、そんなことは…‥僕はゆぅベ八年ぶりで芳川に会ったんです。しかし子供の時から、ああいう女でしたよ、芳川は……」
「はァ…‥ところがあのお品っぺえに、つい近所の大きな工場のおやじさんで、首ったけに惚れている男がいるんですよ。先生、一つ世話をしてやりませんか」
「僕はごめんをこうむりたいな」
「あっはゝゝゝゝ」
「親分もなかなか隅におけませんね」
「どういたしやして……先生はお品の友達で目の不自由な昔の数え子とかに、未だに恋をしているっちう噂じゃありませんか。はゝゝゝ、どうです、図星でしょう。先生こそ隅におけませんや。とにかく先生は珍しいお方だ。先生のお書きになった『生きとし生けるもの』に何でもあっしのことが書いてあるっちう話ですね。評判ですよ。△△小学校訓導ってな人で、それ程評判になる著作なんかできる人は外にありませんや。何でもあの本は天覧になったっちう話ですね。名誉ですよ。だから一度、あっしも先生とこうおちかづきになって、一杯のみてえと思っていやした。先生は文才のあるお方だとばかり思っていたら、どうしてそればかりじやねえ。大した色男だ。たのみやすぜ……」
伝四郎は酔ってくるにつれて、次第にしゃべり出した。
参平はだまって相手になっているより外はなかった。
そのあくる日、参平は心配して吉松を訪ねて行ってやった。吉松はいなくて、母親が寝床からはい出して来た。一緒にねていた子供たちが、人が来たので何か食物が貰えるのかとでも思ったのか、てんでに泣き出した。
「ありがとうございます。先生! 吉もとなりの小父さんが口をきいてくれまして、今朝から川東のセメント工場へ働きに出かけましたんで……はい!」
参平ほもう二日間ろくろく物を食っていないというこの母子たちのためにガマロから三円出して、与えてかえった。
すると、或雨の降る日曜日の朝、煙草屋の二階へ垢まみれになった吉松が参平をたずねて来た。
「先生、どうしても食えません。僕やっぱりすりになります」
「どうしたんだ?」
と参平はやつれて眼ばかり光っている吉松を見守った。
「先生、僕はあれから毎日セメント工場へ行ったんです。毎日十二時間も灰の一杯立昇っている百二十度もあるあつい中で働くんです。そして、八十銭日給をくれるんです。僕、一日ばかり仕事を続けたんです。そしてやっと八円貰いました。その時工場監督官というやつが来やがって子供を使うのはけしからんと言って、告発されたんです。セメント工揚の主人は、いまいましいやつだと言って、僕の頭なぐって追い出してしまったんです。家へ帰って来ると、おっ母と妹や弟達が食うものもなくなって、寝ていやがるんです。米屋は貸してくれなかったというんです。八円で米を買って昨日まで食っていたんですが、もうなくなつちゃったんです。子供だと、どこの工場でも使っちゃくれないらしいんです。僕はもう行くとこがなくなっちゃたんです。先生、すみませんが、僕をすりにさせて下さい。すりになれと言って下さい」
吉松は洟(はな)をすすって泣いた。 .
「そうか、たとい使ってくれてもその工場じゃ随分苦しそうだな。そんなに骨と皮になっちゃあ今に死んでしまうだろう。可哀そぅだな」
「僕、死んじゃった方がどれくらい楽だかしれないや」
と少年はすすりあげた。
「しかしな、山田、すりになって人の懐をかすめて暮すのなんか先生はどう考えても、真人間のすることじやないと思うんだ。現にお前のお父ッあんは刑務所へ入れられている。それじゃ何にもならないじゃないか。刑務所へ入れられるのなんか、世の中の弱者だよ」
「じゃ先生! どうすればいいんです。どうすれは強くなれるんです」
と吉松はハナをこすって参平をみあげた。しかし参平には返事ができなかった。今の世の中で吉松の如き貧乏人の伜がどうすれば強く生きて行けるのか、参平には、わからなかった。
参平は目を瞑って(つぶって)長大息した。
「当分おれの家へ来ていろ。おっ母や妹にはおれの家の米櫃から米を持って行って食わしてやれ」
「先生!」
吉松はすすり泣いた。