ゴ ー・ス ト ッ プ  分割file 2(3章〜4章)


三. 山田吉松は工場にはいった  次章へ 前章へ 目次へ

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第三章(一)

 あくる日、参平は、吉松の就職口のことで伝四郎のところへたのみに行った。すると伝四郎はすぐに添書をかいてくれた。
「太平町の東京硝子合資会社といえばあの近辺で誰れ知らぬ者もない大きな工場です。そこの親父(おやじ)さんは、あっしのいうことなら何でもききますからね」
 果して、吉松は添書を持って行った日から、その硝子工場へ傭はれることにきまった。母や弟たちは参平の世話で一時クニヘかえることになった。
 身軽になった吉松ほ参平の家に居候して、毎日そこから工場へ通勤した。夏が去って秋となり、その秋も更けて十二月となった。ある晩、疲れた吉松が参平のねている次の間でイビキをかいていると往来でだれかがよんでいる声がきこえた。
「先生、先生」
 と吉松は参平をおこした。
「なんだ」と参平も目をさました。
「だれか下で呼んで居ますぜ」
「だれが来たんだ?」
「だれだかわからないんですが、あけてやりましょうか」
「うむ、うむ」
 そのまままたいびきをかいて寝てしまった。またゆすぶり起された。
 今度目をあくと、枕許に見なれない美しい女が、一人しょんばりと坐っていた。参平は寝たまま目をこすって、相手の顔をはっきりのぞいた。
「おやッ、お前芳川じゃないか」
「ええ、先生、ご無沙汰!」
 と女はわらって答えた。その間に参平は蒲団の上に起き上って、
「今頃、お前こんなところへ何しにきたんだ? よくおれのところがわかったね」
「ええ、先生のいらっしゃるところが、ここだということは前からちゃんと知っててよ」
「それじゃ、またいつかのような三千円を山分にしろという話でやって来たのか?」
「あら、もうそんなことは過ぎ去ったわ、あたしもうあそこの会社を一月からよしたのよ」
「ほ……それじゃ今はもう女優じゃないのかい?」
「そうなのよ。でもまたすぐどこかへ出るわ」
「どこかへ出るって、なるたけこの辺りへは出て貰いたくないな」
「あら、まるであたしを幽霊かなんかのように仰しゃるのね」
「いや、幽霊の方が始末がいいさ、お前のように、あえば何か難題をふっかける化物(ばけもの)は歓迎しないや。一体今夜は何の用で来たのだ?」
「先生、なぜそんなにあたしを不愛想におっしゃるの? これでもあたし先生を親のように思って尊敬してるんですわよ」
「早く用を言ってくれ、人の寝込を叩き起して、親のようでもあるまいじゃないか」
「あのね、先生、実はね……あたしどこへも行くところがなくなってここへ来たのよ」
「なんだ、行くところがなくなった?」
「今晩だけてもいいから、先生、ここにとめてくれない?」
「どうも困るね。ここにはこういう若い男もいるんだから、お前のような浮気者を泊めると危い」
 と、参平は顎で吉松の方を差し示した。
「いいじゃないの? 二部屋あるんだから、こっちの部屋でやすませて下さい」
「その部屋でこの子供が寝ているんだ」
「たった一晩だから、先生の部屋の方へ寝てくれたっていいじゃないの? そしてあたしにこつちの部屋を貸して下さい」
 吉松は隅の方から、この問答をきいていて、なんというずるい女だろうと思った。しかもこれが蒲田の芳川品子かと思うと、かれはいつか絵はがき屋で、この女の絵はがきを買ったのが馬鹿々々しくなった。
「じゃ仕方がない。今晩だけならとめて上げよう。山田、お前は今晩こっちで寝ろ、その蒲団をこっちの方へ引っぱりこんで来い」
「だって先生、うちにはこの人をとめて上げる蒲団なんかありませんよ」
 と吉松は口をとんがらかして答えた。
「なに、蒲団なんかいるもんか。とめてくれというからとめてやるだけだ。蒲団を貸してくれというかけ合いは受けていない。寝るだけでいいんだ」
「あら、先生、ひどいのね、なんという虐待をするのでしょう」
「いやなら出て行ったらいいじゃないか」
「だってあたし、行くところがないんですもの」
 と、とうとう品子はめそめそ泣き出した。吉松はちょっとかあいそうになって、
「じや 僕の蒲団を貸したげます」
 とつい云ってしまった。
「そうお……まあ、ありがたいわね、じや、そうして頂戴」
 と泣いていたのが、まるでうそのように彼女はにっこりと笑ってすぐに眠そうに吉松の蒲団の中へもぐりこんでしまった。
「先生、先生の蒲団の中へ入れて下さい」
 と吉松ほ、参平の蒲団の端へ小さくなって身をちぢめた。

第三章(二)      第三章TOPへ    

 朝になって、参平が学校へ出勤しようとする時には、品子はまだイビキをかいていた。
 午後四時頃、帰ってきてみるとおどろいたことには、品子は未だゆうべのままに眠っていた。
「おい? もう起きないかい」」
 と参平はあきれて声をかけた。
「あ……よくねこんじゃった? 先生、今お出かけ?」
「ばかをいうな。帰ってきた所だ」
「まァ驚いた。もうそんなになるの?」
 と、そろそろ彼女は蒲団の中から匍い(はい)出して来た。赤い長襦袢につつまれた彼女の体は、猫のようにしなやかで美しかった。彼女は、長襦袢のまま、参平の前に坐って両手で細腰をおさえ、
「ああ、おなかがすいちゃった! 先生何か御馳走して頂戴……」
「ウム、御馳走はできないが、今から飯を焚く(たく)んだ! 手伝えよ」
「あら、いやだわ、めしなんか焚かなくつても、この辺に洋食屋はない?」
「洋食屋なんかないよ」
「じゃ、うどん屋でもいいわ、親子か天丼をとりましょうよ先生!」
「それなら勝手に出て行って食ってこい」
「あら、あたし先生に御馳走して貰うつもりで居るんだのに……」
「おれはそんな贅沢なまねほできない! めしを焚いてやるから待っていろ!」
「天どん一杯位何が贅沢なものかばかばかしい!」
 と品子はふくれッ返った。
「そんなことをいわないで早く着物を着ちまえ! だらしのない女だな…‥」
 と参平は、相手にならずに、ブリキの米櫃の中から手桶(ておけ)に米をすくい出して、階下(した)へおりて行った。
 −−灯(ひ)がついた。
 そこへ吉松(きちまつ)がきたない職工服のままでかえって来た。
「おや? まだいるの?」
 とかれは、梯子段(はしごだん)を上ってきて、タバコをふかしながらねころんでいる品子をみて、いった。
「まァ、おかえりなさい!」
 品子はにっこり笑って、
「ね、あなた! あたし、今夜もここにいたいのよ……先生にそう頼んで下さいね、いいでしょう、ね、吉松さん……あなた吉松さんってったわね」
「先生は?……」
 吉松はそれには答えないで、職工服をぬぎ乍(なが)ら、きいた。
「先生は、階下でご飯をたいてらっしゃるわよ」
「なァんだ」      
 吉松は、品子をにらみ返して、階下へおりて行った。
 入れ代りに参平が上って来た。
「芳川! お前今夜もここにいる積りなのかい?」
「ええ! ねえ先生! あたし二三日ここにおいてくれない? お願いだから」
「一体どうしたんだ?」
 と参平はそこへ坐った。
「あたし、かくれていなきゃならないのよ」
「かくれて?……そりや又どうしたんだ?」
「今度こそ先生に助けて頂かなくつちゃ、あたし命があぶないんですもの!」
「お前の話はちっともわからないよ……」
「あたし、天川(あまかわ)の親分に追っかけ廻されて、困っているのよ。みつかったら、どんな目にあわせられるかわかんないのよ……」
「ふム……だからここへ逃げ込んで来たっていうのか?」
「ええ、そうよ」

第三章(三)   第三章TOPへ 

 品子は参平の同情を引くようなあわれっぽい様子をして、
「ねえ先生……先生はあの天川の親分って人がどんなに凄い(すごい)人間だかってことをよく御存じでしょう。あたしは丁度蛇ににらまれた雀みたいなものよ、どこにもかくれるところがないんです……ね、しばらくだから、あたしをここへおいてくれない?」
「おいてやらないということもないけれど、お前のようなでたらめな女は困るよ」
「あたしちっともでたらめじゃないことよ。親分が悪いんですもの。あたしを室山と喧嘩させるようにたきつけ今度はいい旦那を世話してやるなんていって、いやな年よりのヒヒジジイをおしつけ……いやだといったら、斬るの……殺すのって、追っかけ廻すんですもの‥…いくらあたしのような女だって……」
 彼女は、ここでめそめそと泣き出した。
 参平は、この女に好意は持っていなかったが、かの女がそんな破目に陥ったのかと思うと一寸可愛想なような気がした。
 参平の顔色がひるんだのをみてとると、品子はここぞとばかり、いよいよハナをすすって、
「あたし、今も昔もあの親分の食物(くいもの)になっているんです。あの親分は吉原で女郎屋をやっているでしょう。あたしのお父っあんがだからあたしを女郎にするつもりで五年前にあたしを千五百円で天川へ売ったんです。それ以来あたし女郎にはならなかった代りに親分に自由にされてとうとうこんな自墜落(じだらく)な女になっちまったんです」
 人のいい参平は芳川品子を作り上けたものも亦(また)「貧乏」だということに気がついて、
「そんなに非道い(ひどい)目に会ったのか、よし、じやお前をおれが、かくまってやる。そしていつか天川の奴をとッちめてやるから安心しろ!」
「まあ、うれしいわ! 先生! だからあたし先生が頼もしい方だと思っているんです」
 と品子は、いきなり、参平の膝にとびついて、感動したように叫んだ。
 参平も、若い美しい女に、膝に触られて、万更悪い気もしなかった。
「まあいい……汚い所だが暫らくじゃここにいたまえ、お前は……元来(がんらい)人はいいんだが……少しだらしがないからいけないんだ」
「ホヽヽヽお八重ちゃんのようだといいんだけれとね、あたし陽気すぎるのよ、先生」
 品子はなれなれしく参平の膝にもたれたまま眼を細くしていった。
「ちえッ! どッちがだらしかねえんだい。どッちが元来お人好なんだい。うちの先生はとうとうあんな女にはめこまれてしまった」
 吉松は、ぬすみ見していた梯子段をそっと下りて行った。

第三章(四)   第三章TOPへ 

 吉松は、参平と品子が食事を始めた間に、外へぬけ出して、八重子の家を訪ねて行ったが、表戸がしまっていて、まだ夕刊売りから帰って来ていないようだったので、黙って引返した。
「お八重ちゃんの方がいくらいい女だか知れやしないや。おらァ先生がお八重ちゃんと一緒になればいいと思っているのに、不意にあんな派手な女が飛ひこんで来やがって、あんな、女優なんか、エハガキかヒルムの中に、納まってりゃ沢山なんだ、くそ、いまいましい!」
 もとの二階へ帰って来ると、食いあらしたあとの茶碗やお鉢がその辺におきちらかされたまま、参平はいないで、品子がひとりねそべって、タバコを吹かし乍ら(ながら)、古新聞をよんでいたが、
「あら吉松さん、どこへ行ってたの? 早くかえって来てご飯を食べないと、猫が来て食っちまう(くっちまう)じゃありませんか!」
「僕、めしなんかほしかないや、それよか先生はどこへ行ったんです?」
「内職の用で神田の方迄行ってくるって出たけれど、どうせ、銀座へお八重ちゃんのあとを尾け(つけ)て行ったんでしょう」
 と品子は、そのままごろりと横になって、
「この家に朝日か日日(にちにち)はとっていないの、何かよむものはありゃしないかと思ってさがしてもこんな新聞しかみあたらないんだもの、これ、どこの新聞なの? 無産者新聞って書いてあるわね、あんたがとっているの?」
*日日=東京日々新聞・現在の毎日新聞の前身
 吉松は、つかつかとよって行って、品子の手から「無産者新聞」をひったくつた。
「これは君なんかよんだってわかりやしないんだ。工場に働いている労働者がよむ新聞なんだ」
        *無産者新聞=共産党の影響下で一般労働者向けに出されていた新聞(1925〜1932)
「ばからしい、あたしだってわかってよ、そんな新聞ぐらい−−田中サーベル内閣を倒せ──支那へ兵隊を出すのは大間違いだと書いてある。それから此裏の方には輪転機を買うから寄付金をよこせと書いてあって、あんた一円寄附してるわね、ホゝゝゝゝ一円で輪転機が買えるの?」
*田中サーベル内閣=ゴーストップ発刊時期の田中義一内閣のニックネーム。対外的には中国出兵、対内的には左翼大弾圧、治安維持法強化などで、普通選挙を始めて実施したにも関わらず、その後の軍国路線へ途を開いた内閣として日本近代史に名を止めている。
「一円出す労働者が五万人居れげ買えるんだ」
「まあ、五万人? そんなに沢山な労働者が一体どこにいるの?」
「五万人どころか五十万でも五百万でもいるよ。日本全国にいるんだ。僕の行っている工場にだって三百人いるからね」
「まあ、あんたどこの工場へ行っているの?」
「太平町の東京硝子会社さ」
「あら? じゃア、足立友作の工場だわね」
「そうさ、あんたは会社の親爺を知っているのかい?」
 と吉松は、食台の前に坐って、ぶっきらぼうに飯を食った。品子はねころんだままそれをみていたが、
「吉松さん−−」
 とよんだ。
「何です」
 吉松はふり向かずに返事だけした。
「あんたあたしがここへ来たから怒っているの……」
 吉松は、今度は返事しなかった。
「きっとそうだわ、怒ってるのね」
 と品子は匍う(はう)ように起きて来て、
「何故怒っているの? あたしあんたに怒られる理由なんか何もありやしないじゃないの」
 それでも吉桧は黙っていた。
「何かおっしゃいよ……黙ってばかりいて、どうしたっての?」
「うるさい! 僕はあんたみたいな人は大嫌いなんだ。食客(いそうろう)め!」
「おや? あたしが食客ならあんただって食客じゃないか……何いってやがるんだ、子供のくせに……」
 と品子は、赤くなって怒った。

第三章(五)   第三章TOPへ 

 吉松を抑えていた癇癪(かんしゃく)が破裂した。
「何でえ! 淫売(いんばい)……僕は、食客(いそうろう)でも働いているんだい!」
「何? あたしがいつ淫売をした?」
「活動女優なんか、淫売も同様だい」
「まァ、ひどいことをいうのね、承知できないわよ、こうみえてもあたしは、女優という商売の女なんだからね、お給金を貰って働いてるんだよ。それを淫売も同様だなんて……何を証拠にそんなことをいうの? さあ、おっしゃい! 証拠をおみせ!」
「何を!」
 と吉松は、むしゃくしやしていたのがたまらなくなって、前後もわからず、いきなり女に打ってかかった。
「あれぇッ!」
 と品子は、頓狂な叫ひ声を立てながら、逃けるのかと思ったら、そうてはなくて、猿のように、吉松に武者ぶりついた。
 吉松は女のために所かまわす顔や首をひッかかれたがその間(ま)に相手の頬っペたをいやという程殴りつけたので、これでいいと思って身をかわして階下へ逃げ下りた。
 そしてあとをも見ないで、往来へとび出すと、一目散に八重子の長屋へかけつけたが、八重子の家はまだ戸がしまっていた。
 彼れは仕方なく、あてもなしに柳原の河岸っぷちを、夜の暗にまぎれて歩いて行った。
 先生の家へかえるのもいまいしかった。といってどこへ行くあてもない。
「おッ母の家(うち)へかえろうか?」
 しかし、彼れの母は幼い子供達と一緒に宇都宮の田舎でくらしている。
 吉松は働いて、もうけた金を母や弟妹たちのために送ってやらなければならないのだ。
「それだのに、あんな女と喧嘩なんかして、僕……つまんない考えをおこしたんだなァ……」
 彼れは品子と喧嘩したのを後悔した。
「おい!」
 不意に後から呼びかける声がして、彼れは誰かにぐっと肩をつかまれた。
 振り返ると、ちょびひげをはやした島打帽だ!
「あっ!」
 突嗟(とっさ)のことで、逃げようとするのを今度は帯の端をつかまれて引き戻された。
「お前、山田吉松だな! おい……まだこの辺をうろうろしていしるのか」
 その男はいつか吉松をひどくいぢめた刑事である。
「ごめんなさい! だけど僕何も悪い……ことはしていませんよ」
「悪いことをしているかいないかはこッちで調べる! ついてこい!」
「とこへ行くんです!」
「黙ってついてこい!」
「僕……警察へなんか引っ張られる覚えはないや……」
「ふん……」
 刑事は冷笑した。
「ちんぴら(=子供のすり)の前科者が何をいってやがるんだい」
「だって今はやめて、真面目に働いてるんだ」
「とこて働いているんだ」
「太平町の東京硝子合資会社です」
「そうか、お前あそこの工場へ行っているのか。うそじゃなかろうな、ほんとうだな」
「ほんとうですよ」
「ちょっとまて!」
 と刑事は吉松をコヅキ廻して身体検査のような真似をした。何にもなかったが、さっき品子の手からとり上げた「無産者新聞」が一枚ふところから出て来た。
「おい、お前こんなものを持っているな。よし一寸本署へつれて行ってやる」
 と刑事はぐんぐん彼れをひっぱって歩き出した。
「ちぇッ!」
 吉松は泣き面をして曳かれて行った。

第三章(六)  第三章TOPへ

「きさま、その顔の疵(きず)はどうしたんだ」
 刑事部屋の一隅で、ちょびひげが、吉松の顔をつついて訊ねた。
 成程、気がついて見ると、先刻(さっき)から顔じゅうピリピリ痛い。品子にひッかかれたせいだ。
「糞ッ! いまいましい阿魔だな」
 吉松はまた品子のことを思い出して癪にさわった。あんな女にひッかかれたなんて、たれにも、絶対にいしわないぞ! と彼れは、黙っていた。
「どうしたんだ! 言ってみろ!」
 と刑事はどなった。
「猫にひっかかれたんだ」
「猫?」
 刑事は信用しなかった。
「それとも犬にひッかかれたのかもしれないや……」
 こういうと、刑事は黙っていきなり吉松を殴りつけた。
 そして、首すじをつかんて引っ立てると、いつか見覚えのある留置場へつれて行かれた。
「ここへはいっとれ!」
 鉄の扉をあけて、ぐっとつき込まれ、うしろでがちゃんと、扉がしまった瞬間に、彼れは、留置場の内部の光景に気がついた。
 狭い板敷の部屋の中にに、ねころんたり、膝を立てたり、いろいろな恰好(かっこう)の人間がおよそ七・八人はいた。そして、今はいって来た吉松をいい合したように眺めていたが、
「よう山田!」 
 と皆が声をかけた。
「どうしたんだ? 君迄つれてこられたんか?」
 と向こうで立ち上った男があった。それほガラス工場の澤田という同僚の職工だった。その外の連中もおどろいたことには皆工場の職工ばかりである。
「あんた達こそどうしたんです?」
 と吉松が澤田にいった。
「おいらは今夜検束されたんだ。組合を作る下相談に集ったら、鈴木の奴に警察へ密告されて、無届でけしからんというのでな……」
 鈴木というのは、ガラス工場の中でも一番意地悪い職工で、太っているケチな男で、吉松はそいつに二度も頭を殴られたことがある。
「組合って何ですか……」
「労勘組合さ」            
「労働組合?」
「そうさ」
 と皆がいった。
「それならどこにでもあるじゃないか。おいらが労働組合を作っちゃいけないっていうの?」
「そうじやねえんだが、警察へ無届で集会をしたのが罰金ものだというんだ」
「へえ……何故又届けてやらなかったんだい?」
「そんなこたァ知らなかったんだ」
「それにこつそりやった方がいいと思ったからな……」
「鈴木の奴が悪いんだ、朋輩(ほうばい)の中にもあんな奴がいるからこういうひどい目にあったんだ」
「そうだ、そうだ、おいらは鈴木に、ここへほうりこまれたようなものだ」
 皆はがやがやいった。
「しかし、山田、お前は何をしてここへ来たんだ」
 吉松は澤田にそうきかれて恥かしくなった。
「おいら、今そこで刑事につかまって、ふところに無産者新聞を持っていたのがけしからんと言って引っ張ってこられちゃったんだ!」

第三章(七)   第三章TOPへ 

「そんなけしからんことがあるもんか」
 と皆はてんでに憤慨した。
「だってそう刑事の方で言うんだから仕様がねえ!」
 吉松はてれてこう云った。彼れは自分が天川の子分だったことなどを皆に知られたくなかった──顔を知っている刑事につかまって、怪しまれてつれてこられたといえば、何ぜ(なぜ)、刑事なんかと顔知り合いなんだ? ときかれるにきまっている。そうすれば自分が前にスリをやったことを云わなけれはならない。そんなことをいえば、皆が自分を嫌って仲間へ入れてくれないだろう。
「無産者新聞をよんでいるのは山田だけじゃねえ、おいらはみんなよんでいるんだ! いけねえのならみんないけねえ筈だろう」
「みんないけねえってんで、ここへぶちこまれたんじゃないか」
 と一人が言った。
「ここへぶちこまれたのは無届で集まったからなんだぜ」
「それだけなら何も七人も八人もぶちこまなくつたって、ほんとうは総代一人で結構じゃないか……それに、無届で集まったからって、罰金位のものだろう。それをこうして、おいらをこんなところへ入れておくのはおいらだけが何か悪いことをしているってんで、にらまれているんだぜ」
「悪いこともくそもあるものか、おいらはただどこにでもある労働組合を作ろうとしただけじゃないか! おい、みんな今度は届を出して発会式をやろうぜ!」
 と澤田がいった。
「もうこりこりだ」
 という声がした。
「だれだ、そんな卑怯なやつは?」
 と澤田が怒鳴った。
 すると、その男は黙ってしまった。
「しずかにせい」
 と監房の巡査が外から声をかけた。
 澤田は皆を説いてきかすように、しずかにいった。
「気の弱いやつはみんな鈴木の相棒だぜ。鈴木のようなやつは、われわれの朋輩として生かしておけねえ位のやつだ。みんなあんなやつのまねをするな。」
「おいら、これから鈴木と一緒の工場で働くのなら、ごめんだ」
 と松本という職工がいった。
「おいらもいやだ!」
 と朝鮮生れの金がいった。
「鈴木を工場から叩き出せ」
「そうだ、そうだ! あいつを追い出すといい」
 皆が又声を合せた。
「しかし、どうして鈴木を叩き出すのか、みんな、やり方を知っているかい」
 澤田が一同を見渡した。
 そういわれて皆は考えている。
「──それはね、鈴木は労働者の仲間を、警察へ叩き込んだけしからんやつだから一緒に働くわけにゃ行かねえ、すぐに解雇して貰いたい……ということを親爺(工場主)に皆で団結して申出るんだ」
「そうだ、そうだ!」
「そして、もし親爺がきかなかった時は、どうするんだ?」
 と一人がきいた。
「そこだ!」
 澤田は皆(みんな)を見渡して、
「それならおいらは働かねえ! と親爺にいってやるんだ」
「じゃ、その時はストライキをやるんだな」
 とそれは松本の声だった。
「そうだ!」
 澤田の声が大きく響いた。
「同時にわれわれはこの際、待遇改善を申出でようじやないか、賃銀をまず五割位上げて貰って、労働時間を今よりずっとへらして八時間にして貰いてえということをな!」
「そうだ、その方が肝心だ、鈴木なんかどうでもいい」
 と松本がいった。
「よかろう! やろうじやないか」
 と皆がてんでにいった。
「よし、じやここにいる七人が団結して、あした直ぐにそのとおりやるんだぞ」
「澤田! おいらも入れてくれろ!」
 と吉松がうしろから云った。
「よし、山田もはいれ!」

第三章(八)   第三章TOPへ 

 翌日の夕方、吉松を加えて八人の職工達が留置場から釈放された。
 吉松は、参平の下宿へかえる気がしなかったので、もじもじ澤田の後からついて歩いていた。
「みんな! ではあした工場で昼の休みの時におれが合図するからその時揃って親爺の所へ押しかけよう、いいかね」
 皆はうなずいた。
「ではこれで別れよう」
 一同は、てんでに、「よう」とか「失敬」とかいって、四方に散って行った。吉松は相変らず、澤田のうしろにくっついていた。
「君、どこに住んでいるの?」
 澤田は二十四、五の青年だった。
 だれもいなくなって吉松だけが残ったので、二人きりになると、澤田の言葉は、妙に丁寧に変った。
「僕?──僕?──先生の家にいるんだけれど!」
 吉松は口ごもつた。
「先生? 何の先生だい?」
「小学校の先生さ! 僕を教えてくれていた野々村っていう先生の家なんだ」
「ふむ、野々村ってのは『生きとし生けるもの』や『貧民窟物語』をかいた人道主義みたいな野々村参平のことじやないのかい」
「うん、そうだよ。今だって何か書いてるよ」
「そうかい、そんな所にいるのかい。そりやいいじゃないか」
「ちっともよかねえや」
「何故だい」
「今迄はよかったんだけれどね、ゆうべからイヤなやつがやってきやがったんだ?」
「イヤな奴って何だい? 刑事かい?」
「うゥム……女なんだ。活動の女優さ」
「活動の女優?」
「うん−−芳川品子というやつさ」
「芳川品子なら有名な女優じゃないか、その女が君んところにいるんだね──その先生と同居しているのかい?」
「そうじやないんだけれど押しかけて、はいりこんで来やがってかえらないんだ」
「何故その先生の家へ女優がくるんだい?」
「その女優だって昔、野々村先生に教わったのさ」
「そいつがイヤなやつなのかい?」
「男ののろけばっかりいいやがって、だらしがないんだ。ゆうべほんとうは僕、そいつと喧嘩して、先生の家をとび出しちまったんだ。それで、かえるのがいやだから、どこか外へ行く積り(つもり)なんだ」
「どこへ行くんだい?」
「わかんないんだ。」
「ふゝゝゝ行く所がないのかい?」
「うん!」
「おれん所へこい!」
 澤田がやさしくいった。
「行ってもいいかい!」
 吉松はほッとしてうれしそうな顔をした。
「いいとも……」
「邪魔になりやしないかい」
「君ひねくれてるなァ、おれんとこには、そんな女なんかいやしないから安心しろよ」
 それから二人は、程遠くない緑町のとある路次をはいって、ドブのあふれる中に建っている長屋へかえりついた。
 女がいないといった澤田の家には、二十あまりの女がいて澤田に向って、
「おかえり!」
 といった。
「友達を一人つれて来ましたよ。今夜泊めてやります。当分泊めてやることになるかも知れません。山田吉松君です。」
 と澤田は吉松をその女に紹介して、女の方のことは何にもいわないで、
「上だぜ」
 と二階へ上った。吉松もついて上った。二階の部屋には机があって、本や雑誌がいっぱい並んでいた。その内の一冊が、開かれたままになっていたが、吉松には少しもわからない横文字の本である。
「おや?」
 吉松は、ただの職工だと思っていた澤田がそうではなさそうなのに、不審を抱いた。

第三章(九)   第三章TOPへ

 吉松が、不審そうに部屋の中を見廻していると
「おい山田、浅草へでも行こうか?」
 と澤田がいった。
「うん……」
「浅草でおごってやろう。留置場で臭い弁当を食わされて一日閉口したからナ。」
 二人は、揃って澤田の下宿を出た。乗合で、雷門の前までくると、宵の口の仲見世は人でごった返していた。
「何がいい、何かほしいものがあったらいい給え」
 と澤田が吉松にいう。
「うん……何でもいいや」
 吉松は鼻白んだ。
「遠慮なくいえよ!」
 と澤田が笑う。
「ほんとうに何だっていいんだ」
「じゃ支那料理を食おうか?」
「ああ」
「頼りない男だな……」
 澤田は仲見世のまん中頃から六区へぬける露路へはいり、「彩天倶楽部」という支那料理屋へはいった。吉松は支那料理などというものは、銀座でカフェの硝子戸の中にはいっているのをみたことがあるきりで、食うのは始めてだった。
「うまいね!」
 と彼れは感嘆してシュウマイをいくつもほおばった。
「澤田君!」
 とその時、だれかが声をかけた。
 みると、大学生が二人、向うの食卓から、立ってくる所だった。
「よう!」
 とそれをみて、澤田も答えた。
「君、どうしているんだ此頃(このごろ)?」
 と大学生の一人がいった。
「君の姿がさっばりみえないものだからね」
 と今一人の方の大学生がいう。
「はゝゝゝゝ僕は君たちのように親爺の財産で大学へ入ってるんじゃなかったんだからね、それに学校なんて、だんだんつまらなくなっちゃったから、もうよす決心なんだ」
「何でも君ァ近頃労働運動に入ったという噂をきいたが、本当かい」
「君のような秀才が今よすのは惜しいじゃないか」
 二人はこもごもいった。
「いや、僕は今迄学校へ行っただけが惜しいと思っているんだ。学校は若い者を骨抜きにする所じゃないか、今の大学は金持の番犬を作る所だよ。そしてちょつとでも番犬以外のものになろうとすれば大学は警察に連絡して学生を監獄へでもほうりこむような危ない所じゃないか……思えば高等学校から今迄五年もの間、そんなばかばかしい所へよく毎月月謝を払って通っていたことだと思うんだよ」
 澤田は高梁酒に頬をそめ乍ら二人の大学生を嘲るように笑った。
「そうか、君はすっかりマルキストになっちまったんだね」
 と一人が嘆息した。もう一人の方が
「じゃ君は今、どんな有意義なことをやっているんだい。どんな立派な生活をしているんだい!」
 と少しむっとしていった。
「うん! 僕は今こそ初めて生き甲斐のある毎日毎日を送っているよ。僕はもう、ブルジョアの寄生虫であるインテリゲンチャじゃないんだ。ブルジョアの大敵たるプロレタリアの一員さ−−−この新しい兄弟を紹介しようか、山田吉松といって僕と同僚の労働者さ!」
 こういって澤田は吉松の肩を叩いて、二人の大学生の方へ、声をあげて笑ってみせた。

第三章(十)   第三章TOPへ

 支那料理屋で会った二人の大学生と別れて、澤田と吉松は電気館で活動写真をみた。
 写真をみている間、吉松は心がおちつかなかった。澤田は大学生なのだ? ただのガラス工だと思っていたら、この男は、そうじやなかったんだ? 大学を出たら、何とか学士ッてやつになって、洋服を着て、帽子をかぶり、黒いヒゲを生やして銀行や会社や……それから要するにガラス職工などに一生はいって行けそうもない立派な店とか学校とか役所とか、そんな所で大した月給をとって意張ってやがる筈のやつなんだ。──それだのに、何故この澤田という男は「君のような秀才が」とあの大学生がいっていた位だからよほど秀才だったに違いないんだのに、大学生の方をやめてしまっておいらのような、こんな職工の仲間にはいって来たんだろう? そして職工になって何てったっけな? 生き甲斐がある! へんだナ? あんな苦しい一日十時間もの労働にこき使われて、何が一体、生き甲斐があるってんだろう? ブルジョアの寄生虫たるインテリゲンチャじゃねえッて?……ブルジョアって何の事だろう? インテリゲンチャって何でえ? 大学なんかへ行ったやつはへんな事をいやがるなァ。まだ何かいってたぜ。ブルジョアの大敵たるプロレタリアだって?・プロレタリアって何のことだろう? どうもおいらの方のことらしいな。そしてブルジョアとか、インテリゲンチャって奴は、よくねぇげじげじのことらしいぜ! それにしても澤田はへんな奴だ。おいらにはよくわからねえ!
「おいおい山田! あの女が君の頬っぺたを殴った女だぜ?」
 と、考えこんでいる吉松を、澤田が横からつついた。吉松はあわててあたりを見た。
「写真だよ。そら、あれが芳川品子だぜ。お姫様になってぼんぼりを持って出て来やがった」
 といって澤田は一所懸命画面にみ入っている。成程、画面の中では、品子がこぼれるような笑顔をして、小さな雪洞(ぼんぼり)をさげ、肩口へしなだれかかる若侍ともつれあって廊下をやってくる。
「ねえ……僕は芳川品子って名前だけきいていて顔は始めてみるんだが、とても美人じゃないか」
 と澤田がいった。
「美人だか何だか知らねぇが、いやなやつさ!」
「そんなにいうなよ、年上の女に君だってあんまり生意気をいうから怒らしちまったんだぜ……一体どうして喧嘩をしたんだ?」
「おいらの大事にとってある無産者新聞の上に、肱をついて、破いてやがるんだもの、そして、さんざおひゃらかし(=からかう)やがるんだもの、おいら、あんなふざけたやつは男でも女でもきらいだ」
 吉松はひとりで怒り出して、イスを立ち上ると、
「もうかえろうや……おいら、あの女の活動写真なんか、みたかねえや」
「そうか……」
 と澤田もおとなしくついて出た。
 二人は黙って雷門の前へ出てきた。
「山田! お前、当分おれん所にいるか」
「うん、すまないけれどなァ澤田! 先生の所からあの女が出てゆく迄、君ん所に泊めてくれないか」
「よし! それじゃ、あしたから工場へ行く着物や何か皆今夜その先生の家へよって、持って行こうじやないか!」
「うん!」
「おれがついて行って先生に一寸ことわってやろう。序にその芳川品子の顔を拝んできてやる!」

第三章(十一)   第三章TOPへ

 煙草屋の二階へ、吉松と一緒に参平を訪ねて来た澤田は、簡単に吉松を引取るからと云って参平の承諾をえたあとで、
「先生! お宅には楊貴妃みたいな別嬪が泊っているそうじゃありませんか!」
 と、笑って、
「僕、芳川品子さんを見たいと思ってきたんですが、どこへ行ったんですか、いないじゃありませんか?」
 とあたりを見廻した。
「ハゝゝ冗談いっちゃ困るよ、あれは預り者なんだから……」
 参平は吉松の方へむいて、
「お前、芳川と喧嘩したんだっていうじやないか……」
 吉松はだまっている。
「それよりも、女をどこへやっちやつたんです? 先生!」
 澤田はかまわずきいた。
「なにね、きょうはちょつと猿江裏町の方まで行っているんだが、もうかえってくるだろう」
 吉松は猿江ときいて、
「お八重ちゃんの所ですか?」
「そうだ、八重ちやんが今朝から子供が病気だからって、因っているんでね、可哀そうだからって、芳川が介抱に行ってやっているんだよ」
 品子を一図にいやな奴だと思い込んでいた吉松は、あの女にもそんな親切なところがあるのかと案外に思い乍ら、
「へえ……お八重さんの子供は一体どうしたんです?」
「なァに、ちょつとした病気だってことさ」
 そんなことを話しあっている所へ、下へだれかやって来たようだった。澤田は顔を見たいと思っている芳川品子が帰ったのかと、もじもじして尻を浮かせかけたが、男の声だった。
「先生! いらっしやいますかね?」
 と階段の下からよんだのは、天川伝四郎だ。その声をきいて吉松は小さくなった。
 そこへ伝四郎が上って来た。部屋の中をじろりと見廻して、
「かまいませんか」
 と目をぎょろつかせた。
「いいとも、来るものは拒まず、ずっとこつちへ来て下さい。久しぶりですね」
「実は話があって来たのですがね」
「何です?」
 と参平がきくと、伝四郎は澤田の顔をじろりとみて、
「お差支えありませんか、こちらはお初(おはつ)ですが……」
 といった。
「その人は澤田君といって、吉松と同じガラス工場に働いている人さ、あなたさえよければ、かまいませんよ」
「じゃ、申しやすがね、先生は、近頃あの品子にお会いになりやしませんか?」
 伝四郎の眼は妙に光った。吉松は流石にハラハラした。しかし、参平は何でもない、あたりまえの調子で、
「僕んところにいますよ」
 と答えてしまった。びっくりしているのは伝四郎である。
「ほんとうですか?」
「ほんとうも嘘も、あなたは品子がここにいるってことをきいて、やって来たんでしょう」
「そうです。あっしの子分の者が、それらしい女が今朝先生の所から出て行くのをみかけたと知らせて来たので、様子をききに伺ったのです」
 伝四郎はこういって凄く(すごく)笑った。

第三章(十二)   第三章TOPへ

「その内、あなたがさがしに来るだろうと思ってはいたが、案外来ようが早かった」
 参平はあごに手をあてて笑う。
「先生!」
「なんです」
「先生は品子があっしの情婦(いろ)だということを承知の上でかくまったんですか?」
「そうです」
「先生!」
「なんです。」
「あなたは何の意趣(いしゅ)があって、あっしの女を、かくまい立てするんだ!」
 と伝四郎は血相をかえた。
「あはゝゝゝ」
 参平は大声で笑って、
「あっしの女、あっしの女、つて大きな声を出すもんじゃない。芳川は、天川の親分に追っかけ廻されて、恐くてたまらないから助けてくれって、僕ん所へ無理やりに泊りこみに来たんだ。あの女は昔僕が教えた生徒だから、そういって泣きつかれてみれば、知らないといってはうり出すわけには行かない。それだけの理由だが、何かお気にさわりましたかね」
 すると、伝四郎は黙って考え込んだが
「そうか、いやわかった、じや、先生はあの女を黙ってあっしに引渡してくれるんだな」 と参平をみつめた。
「別段そんなことに僕は係りはない、君たちの方で勝手に話をきめたらいいじゃないか!」
「成程−−−」
 と伝四郎は不貞くされたようにうなずいて
「で、肝腎の女はどこへやったんだっけなア……女がいねえようだが……」
 とあたりを見廻した。
「きょうは朝から猿江裏町の加藤八重子の家へ行っているよ」
「そうか! よしッ!」
 と、伝四郎は、すぐに突っ立った。
 折りの悪い時は、悪いもので、そこへ品子がかえってきた。かの女は階段から首を出した所で伝四郎につかまった。
「やい! 手前ふざけたまねをしやがって、さあ、承知しねえぞ」
 とそこへ引きすえて、かれは女をこぶしでなぐった。品子も、もうのがれぬ所と観念したのか、なぐられながら、べったり坐って、
「親方! お前さんは慾にかまけてあたしをどこ迄も食い物にするんでしょう。どうでも勝手にして下さい。お前さんは足立の親爺から千円もの世話料をとっておき乍らあたしには一円だってくれやしないじゃありませんか、大きなことをいえる義理じゃないわッ!」
「何ッ! おれが足立からいくらとろうと……貴様、生意気なことをいやがったな! 出てこい! おれにタテつこうというなら、いくらでもつかしてやる、出てこい!」
 伝四郎は、皆のみている前でいろいろ内情がばれては工合(ぐあい)が悪いとみえて、こう怒鳴り散らし乍ら遮二無二、女を引き立てて行った。
 澤田も吉松も、嵐が通りすぎていったあとのように、あっけにとられて、顔を見合せた。
「あいつは何です先生……ふところに、刃物をかくしていましたよ」
 と澤田がきいた。
「そうか、あぶないね、あれは天川伝四郎っていう深川で知られた親分さ。女を傷つけなきやいいがなァ……」
「へえ、足立、足立って言っていたが、うちの工場の親爺のことじやないのかね」
「そうかもしれないや」
「ははァ、じや天川が君たちの工場の親爺さんにあの女をとり持ったんだろう。それがいやであの女は逃げて来ていたんだからな」
 と参平は笑った。澤田は珍しそうな顔をした。吉松はハナの先きでフンと笑った。

第三章(十三)   第三章TOPへ

 澤田と吉松が澤田の下宿へかえって来たのは、十二時近かった。宿の娘が、土間へころがりおちそうな玄関の二畳に寝ていたが、二人がかえって来たのを見ると「おかえり……」といって蒲団(ふとん)の中からおきてこようとした。
「いいよ、いいよ、英ちやん、僕がしめとくから……」
 澤田は表戸の掛金をおろして、娘のねている蒲団の端をまたいで二階へ上った。
「おそくなってすみません」
 と吉松も肩をすぼめて娘の裾を通った。
「いいえ……」
 と娘はすぐにこたえた。吉松は階段を上がりながら女を見た。彼女はすぐに蒲団のえりに顔を埋めてしまった。色の白い悧巧(りこう)そうな女だな、と吉松は思った。
「ねようか……」
 澤田はシャツ一枚になって、もうそこにのべられてある蒲団の中へ、半分足をつっこんでいた。
 あの娘がこんなに蒲団をしいてくれるのだろうか?
「おい、はいれよ、何をぐずぐずしているんだ!」
 と澤田が蒲団の中からいった。
 吉松は、一つ蒲団の中で、一緒にねる位のことは平気だったが、澤田の気心がまだ一分にわからないので、ちょっと気恥かしかった。
 かれはおずおず、澤田の傍へはいった。
「枕をしろ」
 と澤田は一つしかない枕を吉松にあてがって、自分は、傍にあった横文字の分厚い本に帯を巻きつけて、枕の代りにした。
 吉松は、頭を並べたが眠れなかった。
「澤田……」
 といい憎そうによんだ。
「何だ?……」
 澤田はすぐに返辞をした。
「君……君は(、大学生か?」
 吉松は鼻白み乍らきく。
「うん……今年の春迄そうだったのさ」
 澤田はあおむいて無産者新聞をよみ乍ら、
「だけど大学なんて下らない所だからよしちゃったのさ」
「澤田……じや君は……社会主義者かい?」
 すると今度は澤田は返辞しなかった。吉松も息を殺して、じっと返辞をまっていた。
「山田……」
 ややあって澤田がよんだ。
「何に?……」
「お前、社会主義が何だか、知ってるのかい?……」
 吉松は、すぐに答えようとしたが、言葉がノドにひっかかって、急に出てこなかった。知っているとも! ──ガラス工場で、初めて澤田に会った時「おい、これをよんでみろ」と物蔭でそっとくれた一枚の新聞が、今迄見たこともない「無産者新聞」だった。それ以来、吉松はその新聞の熱心な愛読者になっている。その新聞には、毎夕や、ミヤコよりもずっとむずかしいことを書いてあるが、中にはよくわかる記事もあって、吉松のように父は刑務所へうばわれ、母や同胞は路頭に迷い、親子がちりぢりになるような目に会っても、だれも救けにきてはくれない苦しい世の中をあえいでいる者のために、どうやら唯一の味方になってくれる新聞らしいということがすぐにわかった。「新聞」が味方になってくれるなどということはオカしな詰だけれど、吉松はこれはきっと社会主義の新聞だな──と思ったのである。
「おらア……知ってらア!」
 とかれは初めて、労働者らしい気持ちになって口をきいた。
「知ってるならいってみろ!」
「世の中にゃ貧乏人が多いんだ、……おいらのようにナ……」
「うむ……」
「だがこの世の中は金持が自由にしてやがるんだ……労働者をコキ使って、苦しめやがるんだ。だから……金持くたばれッ! つてのが社会主義さ!」
「えらいぞ、山田!」
 と澤田は吉松の頭に抱きついた。

第三章(十四)   第三章TOPへ

「そのとおりだぜ山田! 労働者はみんな工場の親爺にしぼられているんだ。うちの親爺を見ろ! 何十万円の財産をこさえているぞ! あんな女を天川に千円も出して世話をさせたり、豪勢に暮らしてやがるあの財産はみんな工場の、おいらの兄弟分たちが働いた血と汗のかたまりじやねえか……なア、おい、工場の利益がおやじの財産になるんだぜ。しかもその利益はみんな、おれたち三百人の職工が働いて作ったものだぜ、おれたちは毎日十時間も働いて、みろ、このとおり、ろくすっぽ食って行けやしないんだろぅ。みんな利益をおやじにしぼられているからだ!」
 澤田は蒲団から首を上げ、赤くなってしゃべったが、吉松は、そんなことはとッくに知っているよ──といってやりたかった。
「だからよ、おやじ一人大金持にならないで、おいらに、もつとうんと利益のわけ前をよこしたらどんなものだ、いいかえるとな……今のような賃銀は安すぎるんだ。もつと、少くとも今の五割位よけい出させなくちゃウソだ!」
 吉松は、その理窟も、とっくに知っている! が、だまって澤田のいうことをきいていた。
「そこで一人一人でおやじにかけ合っちやすぐお払い箱になったり、警察へつき出されたりするからおれたちはみんな団結するんだ。−−−組合を作って、全部一緒にかけ合わなくちやいかん」
「労働組合を作るんだね」
「そうさ、組合を作ればおいらの利益がふえるんだ!」
「組合を作ろうや!」
「うん、作らなくちゃならん。しかし、エ場の中に組合が出来たとなると、おやじは、自分の利益があぶなくなると思うから警察を使って、どんな風においらをいじめるかわかんねえぜ。現にゆうべだってあのとおりだ」
「警察がそんなにうちのおやじのいうことをきくのかね」
「そうさ、スリや泥棒をつかまえたり、交通整理をするだけが警察の役目だと思っちゃわけが違う、警察というのは、金持のやっていることを、何でもかでも一分に保護するように、上からいいつけられているんだ。金持を守るのが一番の役目なんだ。だから金持に都合の悪い労働組合などへは、すぐに刑事や巡査がやってくるんだ、びくびくしちゃいけねえ」
「おいら、刑事なんか、屁でもねえや!」
 吉松は澤田が「スリや泥棒」といったのに、心の中で赤くなり乍ら、しかし、ほんとうにおれは、元スリだったのだから、外の職工たちよりも、ずっと警察になれっこになっているので、怖くないと思った。何でも馴れたら平気になるんだ。
「そうか、じやあしたいよいよ昼の休みにきょうの六人の連中と君もー緒に職場で、演説するかい──みんな組合を作れ! 鈴木を追い出して、賃銀を今迄の五割上げろ、働くのを八時間にしろ! という演説をさ!」
「うん……そうだな……鈴木を追い出せってんだね、それから、賃銀を五割上げろってんだね、働くのを八時間にしろ! か、大きな声で怒鳴ればいいんだろう、やるよ!」
「そうか、じやあおれの合図でやれよ。その通りに……」
「うん、やるとも!」
 二人は、抱きあったようになって蒲団をかぶったが、吉松はなかなか眠れなかった。


四. 三百人の職工は団結した!   

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第四章(一)  


 うすぐらいガラス工場内には、大きな熔炉(ようろ)が七つもあった。
 どの熔炉にも、地獄の火のような真ッ赤(まっか)な焔(ほのほ)がめらめらと燃えている。
 その一つの熔炉の傍にはハンドルのついた鉄製の鋳型機(いがたき)が二台すえつけられて一台の方を吉松がハンドルを廻していた。ハンドルを廻して、キカイをぐつとしめて、再びひらくと、そこには、二一個の小さな壜(びん)が、どれもこれも同じ形に出来ている、それはインキ壜だ。インキ壜は行列を作って、キカイのフチをめぐり、となりの台の方へひとりでに動いて行く。そのあとのキカイへは熔炉からまッ赤などろどろの硝石のとけたやつが流れこんでくる。
 吉松は、再びハンドルをまわして、鋳型をしめる。ぶすぶすと、臭い煙が上る。赤い硝石の溶けたのが、型の中で、ひえて行きながら、インキ壜となりつつあるのだ。がちゃん……とひらく、と、鋳型から、完全なガラスの形をしたインキ壜が、二一ばかり、一列にさっと、すべり出る。ゴトゴトとそれが行列となって、となりの台の上へすべって行くのは前と変りがない。
 一つの熔炉の側(そば)では一人あまりの人が働いていた。
 しかし、皆が皆インキ壜ばかり製造しているのではない。
 ある熔炉では、化学用フラスコを作っていた。そこでは、職工が高い台の上にあがって長いガラスの管(くだ)のさきに一とかたまりの硝石(しょうせき)のとけたのをひっかけて、くるくると、廻しながら、頬をふくらませて息をふき入れる。すると、赤い硝石は、シャボン玉のようにふくらんでくる。頃をみはからって、下に、別の職工が鉄の鋳型を開いて待ってる中へ、そっと、そのまッ赤なシャボン玉をつっこむ、すると、下の職工はすぐに鋳型のハンドルをしめる。上の職工は、長いガラスの管の先きを、ねじ廻して、巧にちぎる。
 鋳型がひらかれると、くらげのようなフラスコが一定の形に、ちゃんと出来上っている。それを向うから少年工が来て、鉄のハサミにはさんで持ってゆく。
 工場内の七ツの熔炉の傍には、凡そ(およそ)百人ばかりのこうした人々が、黙々として働いている。
 ここのガラス工場には、もう二棟これとほぼ同じ工場がある。職工の数は三百人をこえる。
 ポオ……と、正午の笛(さいれん)が鳴り出した。それを合図のように、職工たちは、てんでに持場をはなれた。その時、長いガラスの管を手に持った一人の職工が、熔炉の傍の台の上から
「おい! みんな!」
 と叫んだ。みればそれは澤田である。
「みんな、よくきいてくれ!」
 澤田は、おどろいたように彼の方をふりむいている同僚たちを見渡し乍ら叫ぶのだった。
「おとといの晩、おれや、松本や、金や、山田や七人ばかりが、警察の留置場へぶちこまれて、一と晩とめておかれたんだ! おいらは、このガラス工場に、職工の組合を作ろうじやねえかってことを相談するために、早坂の家へあつまったんだ、それを、鈴木が警察へおいらが悪いことでもしているように密告しやがったんだ。鈴木はおいらを、どんな目にあわすかわからぬ危険人物だから、皆もその積りでいろよ!」
 これをきいて大勢の職工たちは互に顔を見合せた。

第四章(二)   第四章Topへ

 職工の内で、だれも皆、鈴木を好いているものはなかった。その鈴木がそんなことをしたときくとみんな澤田やその外の七人の同僚のために味方した。
「けしからんやつだ!」
「おらァ、鈴木と一緒に働くのはいやだ」
 と、てんでにいった。
「所がみんなきけ……その鈴木のやつ、けさから工場を休んでいるんだ、おいらの仲へ顔を出しちゃいねえんだ、何故あいつが休んでいるか……わけを知ってるかね」
 と澤田は皆を見渡した。
「あいつは、親爺が休ませたんだぜ、おいらが鈴木に仕返しをするかもしれねえってんで、用心のために、親爺があいつを休ませてる……みんなきけ! 鈴木はおいらのことを、親爺にどんな悪口をいってるかわからねえんだ、あいつは親爺の間牒(いぬ)だ!」
 職工たちは動揺した。
「鈴木を工場から叩き出しちまえ……」
 とだれかが叫んだ。
「親爺の所へおしかけろ!」
「そうだそうだ!」
「行け、行け!」
 皆はがやがやと動き出そうとした。
「みんな待て!」
 と澤田は、台の上からいった。
「折角親爺の所へ押しかけて行くんだからもつと沢山、この際工場のことや、賃銀のことで、注文を出そうじやねえか!」
「それがいい!」
 とすぐに叫んだのは吉松であった。
「成程!」
「どんな注文だ!」
 皆は飯をくいに出かけるのも忘れて、かたずをのんだ。
「第一、おいらの賃銀は滅法安いや! おい、みんな……みんなは知るまいが、ここの工場はもうかるんだぜ、もつと出してもいいんだぜ!」
「五割上げて貰うといいや」
 と吉松の声。
「五割?」
「そうだ、五割上ると大きいぞ!」
 てんでに、うれしそうな声を出した。
「五割値上げだ!」
 と、澤田は叫んだ。
「いいかね、みんな、親爺に、賃銀を五割上げろって要求するんだぜ!」
「いいとも」
「やれ、やれ!」
 中には「万歳」と叫ぶものもあった。
「おいら、労働時間を八時間にして貰いてえや!」
 吉松が、きのう澤田に教えられた通り怒鳴った。
「そうだ!」
 と澤田がそれに応じて
「働く時間は八時間というのが世界の労働時間の定法(じょうほう)なんだぜ。銀行や会社は皆八時間だ。工場でもわけのわかった所は八時間だ。おいらは一時間働いている。二時間だけ毎日ただでコキ使われるようなものさ。八時間ということにきめて貰おうじやねえか!」
「それがいい、それがいい!」
「異議なし!」
 とてんでに叫んだ。
「所が、親爺の所へかけあいに行く前に、おいらは、一致団結しなけりやいけねえや」
 と、吉松が又どなった。これもゆうべから澤田に教わっていたセリフであった。吉松についで後の方にいた松本が叫んだ。
「そうだ! だから、おいらは、ガラス職工組合って物を作りやいいんだ。ここで作りやいいんだ。そして、組合の名で親爺にかけあうんだ。その方がしっかりしていいんだ!」
「何でもねえじゃないか、作ろうや……」
 というものがあった。
「どうすれば組合ができるんだ」
 という声もきこえた。
「あはゝゝゝ」
 と皆が笑った。

第四章(三)   第四章Topへ

「そんなこたア、澤田が一番よく知ってらア」
 と吉松が音頭をとってどなる。
「澤田、やれやれ!」
 金が妙なアクセントでそれに和す。
「澤田を会長にしたらいいじゃないか」
「会長じゃねえ、団長だ」
「ばかいえ!」
 と急に皆はがやがやと陽気になる。澤田は台の上から形勢を観望して、物をいう前の合図に、ガラスを吹く管を握った片手を差し上げた。
「諸君−−−ということにしようじやないか。……ええ諸君! われわれ労働者は、一致団結して、仲よく、互の利益になることをやるんだぞ。で、われわれは第一に、ここにいる百人ばかりで、今こうして会議をやっているんだ。これは職場会議だ!」
「職場会議!」
「これが会議か?」
「われわれの会議はどこででもやれる、職場ででもこうしてやれるんだ!」
「わかった、わかった!」
「で、この会議で第一に、われわれはこの工場にいる三百人の労働組合を作ることをきめる!」
「もうきめちやつてる!」
「いや、第二工場と第三工場の連中にも話をした上、みんな一緒になってやらないと本式じゃねえんだ! ここだけでは、組合にならない。所で第二工場では林と吉野がこうして皆をあつめて話してる筈だ。第三工場は高島と源さんとがまとめている。みんな一致するだろう。そこで、われわれはすぐに、昼飯ぬきにして、職場大会をひらくんだ。これからみんな石炭置場へ集るんだ。そら行け!」
 と澤田は長いガラス吹き用の管をふった。
「石炭置場だ!」
 吉松が何度も何度もくり返して叫んだ、皆はそこへ集るべくどやどやと工場を出て行った。
 行ってみると、石炭置場にはもう外の工場の連中が既に七八一人は来ていた。一番親父に信用のある職工長の源さんが、澤田のくるのを待っていた。
 澤田や吉松を先頭に立てた第一工場の全員が集ってくると、石炭置場は人でうずまった。
「もうすぐ始めるといい」
 と、源さんが澤田にいった。
「あんたが職工頭(しょっこうがしら)だから、あの石炭の上に上って(あがって)皆に話してくれ!」
 澤田が源さんを石炭の山の上へ追い立てた。白髪頭の源さんは、よちよちと石炭の山へのぼって、皆の方にむいて立った。
「皆、話をきいたように、ええと東、京、ガ、ラ、ス、労働組合……というものを作ろうか……」
 源さんは、こういって、握りこぶしをふり乍らしょぼしょぼした眼で、一同を見渡した。
「賛成」という声と「異議なし」という声が一斉におこった。
「澤田、代ってくれ!」
 と源さんは、はにかんで石炭の山の下にいる澤田をよんだ。
 澤田は、山へ上った。そしてすぐに怒鳴り出した。
「では、組合を作るための創立委員をきめなければならん、委員を一人位、早い所で決めてくれ!」
「きのう警察へ引っ張られた者が皆委員だ!」
 と叫ぶ者があった。すると一同は一斉に拍手した。
「では、きまった。委員は皆上ってこい」
 澤田の声に、きのうの検束仲間が石炭の山へきまり悪そうにのそのそ上った。吉松も頭をかきかき上って行った。
「おうや、山田もおととい警察へ泊められたんけえ……」
 とだれかがそれをみて不審(いぶ)かった。

第四章(四)   第四章Topへ

「きょうのこの集りは、職場大会だが、もしここで組合の規約と、役員がきまりさえすればこの集りをすぐにこのまま、東京ガラス労働組合の発会式にすることができるのだ!」
 こう叫んだ澤田は石炭山の上から、一人一人、しらみ潰しに、下にたかっている職工たちの顔を見渡した。皆は澤田と、顔を見合して
「異議なし」
「賛成」
 と、小さい声で答えた。
「異議がなければ、この集会を創立大会に変更しようじやないか!」
 すると、前の方にいた一人の職工がどなった。
「だって組合の規約書がまだねえじゃないか!」
「ここにある!」
 澤田は言下に、ふところから、包みをとり出して開いた。
「おとといの下相談の時に、拵え(こしらえ)てみた規約書を、ここに持って来ている!一枚ずつ皆に渡すからよんでくれ。そして、異議がなければ、賛成! とどなってくれ!」
 かれは、いつの間にどこで印刷して来たのか、謄写版ずりの半紙の印刷物を傍に立っている委員たちに少しずつ分け乍ら、
「皆に配ってくれ!」
 といった。
 委員たちは、山を下った。
 規約書の印刷物が、総ての人々に行き渡った頃には、この広場には刻々に人の数がましていた。
 皆、貰った印刷物を妙な顔をしてのぞいていた。
「規約書を説明してくれ!」
 と一人の職工が叫ぶ。
「よし! 説明する」
 澤田は声に応じて、範単に、はっきり、要領をのべた。
一、従業員の福利増進を図る(はかる)を以て目的とす。
一、目的貫徹のための方針手段等は常任委員会で万事取り行う。
 −−−こういう二ケ条がその中にあった。
 「異議なし!」
 という声が方々から起った。何かぶつぶついう顔や、不服そうに黙っている顔もみえたが、大勢を決する「異議なし!」の叫び声にもみけされた。
 規約が承認されて、一工場から七人ずつ、凡て(すべて)で二十一人の組合委員が指名されてきまった。その二十一人の中に、創立委員の八人もまじっていた。
「委員の中から、常任委員を七人ばかりきめて貰いたい!」
 澤田が叫ぶと
「常任委員は手前たちがやれよ」
 と皆がてんでに石炭山の上の創立委員たちにいった。そして笑った。
「よし! それでは常任はきまった! 山の上が皆常任だ。次には常任の中から組合長をきめてくれ!」
 すると、職工たちはさすがにどよめいた。
 澤田がよかろうというもの、源さんがいいというもの、選挙しろというもの、なァに選挙なんかいるものか、といぅもの、ごたごたと暫らくは、停滞した。
 澤田が片手を差し上げて叫んだ。
「われわれの組合長は、皆に信用のある男でなければいけない。そこでおれは、源さんが一番いいと思う!」
 この会合を指揮している模様で皆はてっきり澤田が組合長になるといい出すだろうと、中には既に反感を抱いている者もあった。その澤田が率先して、白髪頭の源さんを組合長に推したので、だれもかれも、思わず感激して、一斉に拍手した。万事きまった。組合は生れた。
「東京ガラス労働組合万歳!」
 澤田が、鼻白んでいる源さんの腕をとって、一緒に空高く差し上げ乍ら、叫んだ。
 みんなは、それに和して怒鳴った。
「東京ガラス労働組合万歳!」
「東京ガラス合資会社万歳!」
「ばかいえ! 労働組合万歳だ!」
「万歳!」

第四章(五)   第四章Topへ 

 源さんを初め、七人ばかりの組合の幹部が、工場につづく地所内の事務所で、親爺と膝詰談判をしていた。
 職工たちが親爺とよんでいるのは足立友作(あだちともさく)というここの工場主である。年齢は五十にやっとたりた所、かれは三十年前この辺にガラス工場ができた頃、どこからか流れてきた職工で、みじめなガラス拭きから叩き上げて、今では東京ガラス合資会社の社長である。かれは三十年間に何十万円かの身代を作った成功者である。そしてかれの下に、今は三百人の労働者が使われている。
 その労働者たちが、きょうの昼休みにただならぬ形勢をみせて、石炭置場にあつまった。きけば労働組合が出来たのだという。この噂はおととい、鈴木の密告で知らんことはなかった。太っ腹な足立友作は「彼等何をかなさんや」と敢て気にかけなかったのである。尤も知っていて黙っていたということがあとでわかるとうるさいから、警察へは知らせておいた。──まるで、泥棒とまちがえてやがる。すると警察が発起人たちを留置場へぶちこんで「どうするか」と、足立の所へ電話をかけてきた時、彼れは持前の太ッ腹をみせる積りで「どうか釈放してやって下さい」といった。それっきり、発起人どもは、親爺の太ッ腹に恐れ入って、組合を作るなどという考えをすてたものと、かれは簡単に考えていた。するとどうだ、すぐ鼻の先きできょうの昼休みのこの騒ぎだ。親爺は青筋を立てて怒った。かれは組合長に選挙された源さんを、事務所へよびつけた。すると、源さんは、常任委員の連中と一緒に事務所へやって来たのだ。
「きさま、けしからんじゃないか、若いものの先頭に立って騒ぐなんて……」
 と親爺は、源さんを真ッ向から怒鳴りつけた。
「へえ……」
 源さんは恐れ入った。
「組合を作って、このおれをどうしようつてんだい。さあ、云ってみろ! 足立友作をあまくみやがると承知しねえぞ!」
 親爺がどなり立てる程、源さんはうなだれて、黙りこくってしまった。
「源さん……」
 と、松本がはがゆそうにうしろから声をかけたが、源さんは、何もいうな、というように、うしろに並んでいる常任委員達を見返って、
「どうか、親爺さん、このわしに免じて、きょうの所は、勘べんなすって下さい」
 と、足立の方へ、ぺこりと頭を下げた。
「ならん!」
 親爺はどなった。
「きさまは、おれを馬鹿にしてやがる! おれはまだきさま等になめられる程、モウロクはしておらんぞ!」
 とかれは、恐れ入っている源さんの頭ごしに、常任委員たちの顔をみわたした。その眼は虎のような怒りに燃えている。
「じゃ親爺さん、伺いますが、あなたはわれわれの作った今度の組合を、どうしろとおっしゃるのですか?」
 と澤田が口を切った。親爺はすぐに澤田をにらみつけた。
「おう……何でもお前が率先して組合を作らせたそうじやな……それにお前は社会主義の新聞を、外(ほか)の者に配ったりなどしているという噂もきいたぞ! 何だ、生意気野郎ッ! 何が『われわれ』だッ! 何が『今度の組合』だッ! そんなに組合が作りたけりや、きさまたちだけで勝手に作れ! 外(ほか)の者までお前たちの巻きぞいをくつてたまるかいッ!」

第四章(六)   第四章Topへ 

「所が親爺さん、三工場の従業員全部がもう組合に加入してしまっているんです。組合は全工場に亙って(わたって)いるんですからね、われわれは皆から役員に選ばれたばかりなんです。」
 澤田はゆっくりと、説明した。
 足立の顔は険悪になった。大体かれは、自分の使っている職工というものは、みんな自分の前へ出れば、ろくろく口もきけないものと頭からきめていた。しかるにこの澤田というやつ! こいつは、いやに落ついて自分に肉薄してくる。−−−おれはこんな手加減の違う職工を今迄使ったことはないぞ! シャクにさわるやつだ。
「そういうことをお前等がやったとすれば、すぐに、その組合をお前たちの手でつぶしてこい!」
 足立はこういって開き直った。
「そんなことはできませんや!」
 澤田が答えた。
「何故できん!」
「あたり前でさ、労働者が労働組合を作るのは当り前なんだもの、ハタからつぶすなんてことができるもんか!」
「よし! それじゃおれがつぶしてやる!」
 親爺は立ち上った。
「まず第一にお前たちを今度の悪だくみの張本人と認めて、きょう限り解雇する! 出て行ってくれ!」
 この宣言に、皆の顔色がさッと変った。そしてしらずしらずの間にみんなイスをはなれて立上った。源さんは何かいおうとして、口をモガモガさせていたが、松本がぐつと腕を引っ張ってとめた。皆は沈黙して、じつと親爺をみつめた。
 親爺も青くなった。
 ──どいつか一人が、わッとわめき、今にもとびかかっでくるのを相図に、この連中にしめ殺されるのではないかという恐怖がかれの心に起ったのだ。そこでかれはすぐに妥協策を思いついた。
「それとも組合をやめるか?」
「黙れッ!」
 裂けるような声が、爆発した。だれもかれも、はっ! となって、首をちぢめた。だれの声なのだ?
「おれ達を解雇できるならしてみろ! 組合が潰せるなら潰してみろ! ストライキだぞッ!」
 澤田が──それは澤田だった──卓を叩いてわめいた。そして、それは評議会一流の闘争激化主義を実行して、この工場をストライキに陥れようとする澤田のきわどい戦術であった。親爺の仄めかした妥協の機会を一蹴したのだ。そんな事とは誰も気がつかない。
 今迄皆は、澤田がこんな大声の出せる男とは思わなかった。かれの声はほえる様にあたりに響いた。
 不意をくらった親爺の顔は走馬燈のように赤くなり、青くなり、白くなり、
「スッ、スッ、ストライキッ!? や、や、や、やッて、みろ! やって!」
 事務所の人間が四五人、何事が起ったのだろうと、はいって来た。
「お、お、い! 警察をよべ! 警察を!」
 親爺は、額と頬に膏汗を浮ばせて、その人々に怒鳴りつけた。その声はがたがたとふるえていた。
「ま、まって下さい! 親爺さん──どうかそれは──」
 源さんが白髪頭をふり立てて、親爺を引きとめた。
「うるさい! こらッ源! きさまは二十年もおれの工場のめしを食っていながら、恩を忘れやがって、おれを苦しめようというのじゃな! 覚えてろッ、糞!」
「ばかいうな! 源さんは二十年間あんたにしぼられたのだ! そっちこそ源さんに恩があろうぜ! いやわれわれ職工たち全部に恩があろうぜ! 親爺さん!」
 松本がヤケになって叫んだ。

第四章(七   第四章Topへ 

「おい山田、お前レポだ! 第一工場へ走れ!」
 澤田が、あわただしく小声で吉松にいいつけた。
「レポって何だ?」
 吉松は、かけ出しそうに身構えてきいた。
「伝令のことだ。常任委員は全部今クビになった。源さんもクビだ! みんな仕事をやめて、石炭置場へあつまれ! そう怒鳴って歩け、おい! 吉野、お前は第二工場へそういって、人をかり出せ、第三工場へは高島、お前が行け!」
「よし……」
 三人の男は、それぞれ、親爺と大喧嘩になろうとするこの事務所からとび出して行った。
 親爺は、松本にののしられた上、澤田が、三人の伝令を走らせるのをみて、てっきり、もうすぐ全工場がストライキになると早合点して、のばせ上り「うぬ!」といいざま澤田に組みついて来た。
 傍にいた常任委員たちが、親爺をせきとめた。
 外からみると、皆が親爺一人を袋叩きにしている如くみえた。事実はその反対で、親爺のために、顔をひっかかれた澤田が、血だらけになって外へ逃げ出し、たけりくるう親爺を、クビにされた連中がよってたかって抱きとめているのである。騒ぎを伝えきいて、工場の方から五人、七人と、人が走って来た。
 それがあとからあとから続いて、間もなく事務所の前に五六十人の職工が集った。問題は事務所の方だとわかると、伝令によって一旦石炭置場に集ったものも、だんだんあとからやって来た。それらの人々の発する声ともなく、音ともない一種のどよめきが事務所を取りまいた。
 工場の方へ逃げて行った澤田が血だらけの顔のまま、第一工場の仲間たちに取り巻かれて、再び事務所へ近づいてきた。だれかが隅ッこにあった空樽(あきだる)をころがしているのがみえた。間もなく澤田はその空樽の上にあがった。そして、ドラ声で叫び出した。
「おうい、みんな……おれも源さんも、常任委員も皆クビになったのだぞ! この次ぎはだれだ! だれがクビになるんだ! ──今日(こんにち)一所懸命に、会社のために働いていても、親爺は、いつわれわれをクビにするかわからんのだぞ! みんな覚悟をしろよッ! この次ぎはおめえたちのクビが危いんだぞ! 職工の稼ぎ高で身代(しんだい)をこさえておき乍ら、ちょいと都合が悪いっていうと、おれたちを路頭に迷わせるんだ? おれたちはこんな非道な親爺に負けてはならぬッ! 負けてはならぬッ!──」
「ストライキだあッ!」
 と澤田のかげからだれか汽笛のような声を張り上げたものがある。多分吉松だろう、するとどこからともなく、
「ストライキ!」
「ストライキ!──」
「ストライキだ!」
 という声がおこって来た。それに応じて澤田が煽動した。
「そうだ! 組合を作っちゃいけねえというのなら仕事を休め!──われわれにもよその職工の如く、労働組合を作る権利があるのだ! それを親爺は、われわれが作った組合を潰してみせるというのだ。そして手始めの血祭りに、おれたち常任委員をクビにするというんだ。みんな、一人も離れず団結して、親爺のこんな無理難題をはねつけろよ! おれたちは常任委員がもとのようにやとわれる迄は決して仕事はしない! みんなそういってくれ! ストライキだ! 誓ってくれ! 両手をあげて!!」
 澤田の演説につれて、職工たちの間からわあッというトキの声がおこり、みんなの両手が上った。

第四章(八)   第四章Topへ

 東京ガラス合資会社の三つの工場にはだれ一人働いているものがなかった。みんな持場を離れて、石炭置場や事務所の前にたかっていた。
 事は意外に早く来た。澤田は、裏切者の鈴木をクビにしろという要求と共に八時間労働制の実施や賃銀五割値上げを親爺に談判するつもりでいたが、それらを持ち出す前に、きょうすぐこんな風にストライキが勃発しようとは思わなかった。ちょつとしたハズミから、職工たちは一斉に団結して、罷業状態に移ってしまった。戦いの火ぶたは切られてしまったのだ。澤田は万一の場合、極力煽動して仲間たちをストライキに導き入れなければならぬ、と強い決心をしていたが、何ぞしらん、澤田のそんなひとり考えの英雄的な決心などには何の係わりもなく、かれの眼の前で労働者はみるみる結束してしまったではないか。澤田は労働者大衆がどんな自然発生力を持っているかということを、はっきりと悟った。
 事務所の中から出て来た松本がすぐに空樽の上にあがって、親爺との談判の模様を報告した。
「親爺は皆がおとなしく、就業するなら一と先ず常任委員たちをもと通り傭うといっている……そして組合のことも、考えるといっているんだが……」
「考えるたア何のことだ!」
 と遠くにいた二三人の職工が怒鳴った。
「つぶしてしまうといわないだけのことだろう……」
 と松本はそれに答えた。
 これではいけない−−−と澤田は思った。かれが何か叫ぼうとしかけた時、第一工場の彼れの仲間たちが、
「そんなことで引っ込めるかい!」
「五割値上げと、八時間とはどうなったんだい、べらぼうめ!」
 と向う側からてんでに叫び出した。松本はわからなくなって空樽の上からおりた。澤田はそれをみて時こそよし、とすばやく入れ代って樽の上にあがった。
「おうい、みんな──おれたちはこの際賃銀を現在の五割増しとすること、働く時間を八時間に減らすこと−−−こういう二つの要求を、組合の名によって、親爺にはっきり、承諾して貰おうじやないか! この二つのことは、おれたち第一工場の仲間で、さっききめちやつたんだ! 今改めて、第一工場からの提案として組合員全体の、みんなに相談する−−−おれたちはここで東京ガラス労働組合の第一回臨時大会をひらいているんだぞ! いいか、これが臨時大会だぞ、この席上で、だから、きめてくれ! きまったらわれわれ常任委員は、大会の決議だからといって親爺にかけあう!」
「そんなことを親爺の所へ行っていったら又お前の顔が血だらけになるぜ!」
 と一人の職工がおどけて怒鳴った。
「ばかをいうな!」
 澤田はその男の顔をにらみすえた。
「それ位のことが何だ! おいらァ組合員の利益のためには、命をなげ出してでも働くぞ! 監獄へぶちこまれても、警察へ引っ張られても──そんなこたア、何とも思ってやしねぇー」
 すすり泣くような澤田の叫びの下(もと)に、みんなはしいんとなって黙ってしまった。そして今更、額や頬に血の流れている澤田の顔を眺めた。
「質銀五割増、労働時間八時間──に賛成の者は手を上げてくれ」
 澤田は大きく叫んだ。
 皆は手を差し上げた。中にはおつきあいで仕方なく上げるのもあったが、元気のいい声があっちこちから手とともにあがった。
「賛成!」
「賛成だ!」
「異議なし」
「文句ァねえや!」

ゴ ー・ス ト ッ プ  分割file・2(3章〜4章)終
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