ゴ ー・ス ト ッ プ  分割file・3(5章〜9章)


五. サーベルがのりこんで来た! 
 
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第五章(一)

 職工の群(むれ)に取り巻かれた中で、事務所から出てきた常任委員たちは額を鳩めて(あつめて)、澤田の主唱で要求事項をはっきりときめた。それから澤田が又空樽の上で演説をつづけた。それによって、今や、労働時間を八時間にしろ、ということと、賃銀を五割上げてくれということと、鈴木を追い出し、常任委員の解雇を取り消せという−−−四つの要求が、組合員全体の強固な意志となった。
 だれもかれも、親爺に対して自分たちがどういうことをしようとしているかを、はっきりとさとった。
 争いは、急に目鼻がついて来たのだ。皆はそのために喊声(かんせい)をあげた。常任委員たちは一団となり、源さんを先きに立てて、再び事務所の前に集合した。事務所の、ガラス戸の中では、事務員たちにとりまかれて何か頻りにしゃべっている親爺の禿頭がのぞけた。
 その親爺をとりまいた人々の中にサーベルをつけた警官の姿がみえた。
「警官がいるぞ!」
 とだれかが叫んだ。
「巡査だ!」
「行け、行け!」
「びくびくするな!」
 常任委員たちは、皆のために事務所のガラス戸の前に押し出された。
 中から、そのガラス戸をひらいて、サーベルをつけた一人の警官が、帽子のひもをあごにかけて、そのために大きくみえる黒い顔が、口ばかりになったかと思う位、大きく歯をむき出して、
「みなさん! 静かにして下さい。騒いではいけませんぞ!」
 と澤田や松本の十倍位の声でどなった。
 その警官は決してただの巡査でないことはだれの眼にもよくわかった。肩口の金モールが、明らかにかれが警部であることを証拠立てていた。
 そして気をつけてガラス戸の中をみると、事務員だと思ったのはみんなついぞみかけたことのない男たちばかりであった。刑事に違いない。そして尚よく気をつけてみると、事務所の向う側の事務員の出入口になっているあたりに、正服の巡査が大勢来ているのがみえた。
「みなさん−−−みなさんは何のために罷業を始めたのです! それぞれ職場へかえって下さい!」
 と警部は怒鳴った。
「ばかいえ! 帰れるかい」
「何いってやがるんでえ!」
 職工たちは小声でぶつぶついった。そしてちっとも動き出す気配はない。それ所かこの声の大きい警部が現われたために、うしろの方の者が、珍しそうに近づこうとして、よけいに密集して来た。警部は職工たちの形勢をみてとると、
「──それとも、工場主に話があるのなら、こんなに一時に押しよせないで、あなた方の内から代表者を二三人選んで、その人だけがしずかに中へはいって下さい!」
 と、両手を上げて、それを下げながらあたかも気勢を鎮めようとするかのようにいった。すると警部のすぐ正面にいた澤田が職工の方へふり向いて、
「おうい、みんな──おいらは、警察に用があるんじゃねぇんだ! 親爺にかけあいたいんだ!」
 と叫んだ。するとオーム返しにみんなは「そうだ、そうだ」と叫び出して、
「親爺を出せ!」
「親爺を出せ!」
 と怒号し始めた。警部は制し切れなくなって苦笑いしつつガラス戸の中へ引っこんだが、すぐに出てきて、
「では親爺さんが会って話をきくそうだから、代表者だけが中へはいって下さい。組合の役員の人だけ−−−役員の人だけ──」
 と声をからして叫ぶ。
「ではわれわれがまいります」
 源さんが警部に声をかけた。

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 源さんを始め、常任委員たちが再びずらりと親爺の前に並んだ。しかし今度は突立っていた。親爺もつっ立っていた。そしてさっきと違うのは金モールの警部が、親爺と常任委員たちの向いあっている横手に、刑事や巡査をひきつれて、恰も(あたかも)張番をするように、労働者たちの方をじろじろにらんでいることだった。源さんは、警官列席の前で、急に気おくれしたのか、代表者としていい出すべきことをすぐにはなかなか口を切らなかった。
「実は親爺さん!」
 と源さんはしばらくして、一歩前へ出た。親爺は「うむ!」と気がまえして源さんを見た。
「ちょっと待った!」
 澤田が源さんに声をかけた。
「親爺さん、われわれはこうして至極おとなしく話をするんですから、どうか警察の人にこの部屋から退いて貰って下さい!」
 すると、親爺は澤田の方をジロジロとみて、
「それはなア……」
 と返答に窮した。
「黙れ!」
 警部がどんと、床にサーベルをつき立てて怒鳴った。
「われわれは職権を以ってここにいるのだ。お前たちがかれこれいうことはないッ! それよりも早く主人に意見なり要求をのべたらどうだ!」
「それはそうに違いなかろうが、便宜上、われわれの話のすむまで席を外して貰った方が、双方おだやかになるだろうと思うんです、ね、親爺さん、どうでしょう」
 澤田は半ば親爺に半ば警部に向っていった。
「いやいけない! 主人がお前のいうことに賛成しても警察官は必要ありと認めた場合、職権で臨場しなければならんのだ。それよりも早く話を始めろ!」
「では申しますが……」
 源さんが云った。
「待てってのに源さん!」
 澤田が遮った。
「だが、警察の旦那がああおっしゃるんだから……」
 源さんは警部を怖れているのだ。
「いや待て──警察官がここにいて干渉するのなら、話はやめだ! 出よう!」
 澤田が大きな声を出した。皆はどういうわけで、澤田がそんなに警官にこだわるのか、わからなかった。話さえしてしまえばいいではないか! そう思った。中には、澤田は警官を怖れていると思う者もあった。
「澤田!」
 松本が澤田をとめた。
「今出たら話はできんじゃないか……」
「いや、いくらでもできる。おれは警官と一緒に話をするのには不賛成だ。警察が退かないのなら話はやめろ!」
「じゃ、さっきの問題はどうする。」
 と外(ほか)の一人がいつた。
「皆外へ出ろ! 要求は文書で書いて渡そう! その方がいいんだ!」
 澤田はさきに立って、外へ出ようとした。澤田の行動をじっと見ていた警部が、この時、傍(かたわら)の刑事に何事かをささやいた。その刑事はすぐに澤田の傍(そば)へきてかれの腕をつかんだ。
「何をするんだ?」
 澤田は怒った。
「お前を、事務所から外へ出すのは危険だから、検束する!」
 と警部がどなった。
「何?──」
 あばれ出した澤田を外の刑事たちが加わって押えつけ、捕縄を出して両手を縛り上た。

第五章(三)   第五章TOPへ

「乱暴じゃないですか?」
「何う(どう)いうわけでくくるのだ!」
 常任委員たちは血相をかえて一団となった。何のために澤田が縛られるのか、だれにもわからない。事務所の外へ出すと危険だから、といったって、おれたちはみんな事務所の外からはいってきたんじゃねえか? いくら警察だってそんな言い草があるもんか! 皆は殺気立った。
「旦那、澤田を放してやって下さい! 何にも悪いことなんか……」
 源さんがおろおろした。
「だまれ、警察に抵抗する者は皆ひっくくるんだ!」
 警部がこうどなり乍ら、刑事に引っ立てられた澤田の横っ面をひっぱたいた。
「ばかにしてやがらァ! 何の権利で罪もねえ者をひっぱたきやがった。お巡り、親爺にいくら貰って出張ってきやがったんでぇッ!」
 不意に叫び出した者があった。それは松本だった。
 松本は逆上して、警部にかみついて行った。不意をくらって倒れかかる警部のうしろから、巡査と刑事が血相をかえて、松本にとびついた。松本は忽ちくみしかれて、抑えこまれ、テロの雨をくらった。
「源さん! みんな、早く外へ出ろ! 要求箇条は紙に書いて……組合の決議だと、親爺につきつけろ! ここで話しちゃダメだぞ! ここで話したら……おれたちを法律にひっかけて、監獄へぶちこむコンタンだぞ!」
 澤田が巡査の溜まっている方へ引きずって行かれ乍ら叫んだ。かれはそれを叫んだ為めに、刑事や巡査に、よってたかって顔や口を抑えられた。皆が初めて澤田の行動の意味をさとった時には、源さんが刑事につかまっていた。
 この時、溜り場にいた巡査の一隊が、事務所の中へながれこんで来た。そして、みんな、常任委員たちは、彼等のためにつかまって、事務所の向う側へ引っ立てて行かれた。吉松は、常任委員中の唯一人の子供だったから、巡査や刑事も、彼れを眼中に入れなかった。源さんがつかまるはずずみに、吉松は事務所の外へとび出した。そこには既に十数人の巡査がやって来て、事務所へ近づこうとする職工たちを怒号しながら、押し返していた。吉松はリスのように巡査のワキの下をくぐりぬけて、職工の群の中へもぐりこんだ。そして「おうい、みんな──おうい、みんな……」とあえぎ乍らやっと先刻澤田が演説をした空樽の傍まで、近づいた。彼れは空樽の上へ上って叫んだ。
「みんな──源さんも、澤田も、松本も、一人のこらず、警察へつれて行かれたあッ……」
 わあッという異様などよめきが吉松をとりまいて起った。吉松はそのあと、何といっていいのかさっぱりわからなかった。気がつくと、みんな空樽の上の彼れをとり巻いて、熱心にこつちを見ているではないか、──そうだ、澤田のいったことだ!
「先刻(さっき)きまった要求ケ条を紙に書いて、親爺の所へ持って行くんだ! 澤田がそういったぜ!」
 と吉松はムヤミに空中に両手をふり廻した。そしてあとはもう何をいっているかわからずなりに、叫びつづけた。
「常任委員が皆やられた。皆やられたんだ!」
 ──その時、かれの眼の前にたかっている職工の密集が波のように崩れた。とみると、群集を押しわけて三四人の巡査が何か叫び乍らこつちへやってくる。
 「わあッ!」
 吉松は空樽からころげおちて、逃げた。


六. 連絡がついた! 評議会に

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第六章(一)

 どこをどう逃げたのか、青くなって、吉松は澤田の下宿まで無事にかえって来た。それはもう夕方だった。昼からの騒ぎにいつの間に時がたったのか、気がつくと朝めしを食ったきりなので、ぐったりとなって、彼れは匍う(はう)ように、二階へ上った。
 めしがくいたい!──飯が……と疼く(うずく)ような思いを堪え(こらえ)ながら、彼れは部屋の隅にへたばって居た。
 ──澤田はこの家で自炊しているんだろうか? それとも賄付(まかないつき)で下宿しているんだろうか? 今朝は二人で出がけに河岸っぶちの一ぜんめしやで食って行った。だからどうも自炊らしい。それだと階下(した)へ食わしてくれとは言って行けない。困ったな、こんなことになるんだったら、もつとよく澤田にきいとくんだった。かれはしくしくと痛み出して来た腹を抑えて、くらがりに、ぼんやりと、足をなげ出して、ねていた。電気はとっくについている。表戸のあく音がした。下でこの家のおやじさんが、何かいっている。かえってきたのはあの娘だ。娘はどッからかえってきたのだろう? と、思っていると、梯子段の下から声がした。
「澤田さん!──お兄さん!」
 おや?──吉松は顔をあげた。あの娘は澤田の妹かしら?
 返事がないので、娘は階段を上って来た。そして、ぼんやりと一人で、今起き上ったばかりの吉松の姿をみつけると、彼女は澤田だけが一人でかえってきていると父からまちがってきいた為めに「お兄さん」などと呼んだのを吉松にきかれてしまったのが恥しかったので、それをゴマ化すために、
「まア……お一人?」
 とつい大きな声を出した。
「ええ──一人です」
 吉松もその声にやっと元気になった。
「澤田さんは?」
 そんなに澤田のことがききたいのか──と、ふとそんな気がしたが
「大変なんです!」
 と答えた。その時腹がチクリとした。ああ、腹がへっているから何だかへんなことがいいたくなったんだな。
「けさから、めしを食っていないんですよ」
 吉松は、そういってしまってから、そんなことが大変なのじゃなかった、と思い直して、
「澤田は……あのね、警察へ引張って行かれたんです!」
 とやっとかれは、きょうのことを、詳しく娘に話すことができた。
「お父さん──澤田さんたちの工場が大へんなのよ!」
 と娘はまもなく声色をかえて、下へおりて行った。──それから吉松は父娘(おやこ)の貧しい晩食の卓へ招ばれた。
 かれはガツガツ麦めしを頬ばり乍ら、少しぼけたようなここの親爺に昼間のことを又話した。
「ああそうかい、あの源さんは、若いとき……おれと一緒に砂利工場で働いていたことがあるのじゃが、警察へ引かれたかい。かあいそうになア‥…今年六十二じゃが……」
 と娘の父は述懐した。
 娘は食事もそこそこに帯をしめ直して、
「あたしちょつと用事に行って来ますからね。山田さん、あなた今から検束されなかった組合の委員の人たちの家を廻って来たらどう? ね、今日のことの相談をするから、今夜にも、うちへきてくれっていって……」
「へえ、ここへですか?」
 と吉松は箸(はし)をおいた。
「ええ、あたし、今からちょっと、その相談のできる人を訪ねて行って、わけを話してここへ引張ってくるから、早く、委員の人たちを集めておいて頂戴!」
 だれをつれてくるというのかしらないが、この際澤田たちは皆検束されてしまったのだから、彼女のいう通りにする方がよさそうだ。
「じゃ、知っているだけ狩出して来ます」
「つぎつぎレポに走らせれば二時間位で委員全部集るわよ!」
「成程……わかりました」
 吉松はもう土間へとびおりていた。そして外へかけ出しながら「レポ」という言葉をきょう澤田からもきいたのを、思い出した。
 この連絡をとるために、走り廻る人間のことを「レポ」ってんだな……と。


第六章(二)  第六章TOPへ

 吉松が、伝令(レポ)に飛び歩いて、かえって来たのは、それから一時間あまりたった頃だった。組合委員が十二三人もくれば二階はふさがってしまう、と思ったので、かれは一人で座敷をはいたり、机を片づけたりしていた。娘はまだかえっていなかった。
 その時、妙なクセのある声で、
「ごめん……」
 と階下でよんでいる声がきこえた。
 つんぼのおやじが応待している。
 間もなく、おやじは「山田さん」とよびつつ二階へ上ってきた。
「どなたかあなたにあいたいといって来ていますよ」
 しまった! 吉松は顔色をかえた。
 何だって又気をきかして、いないといってくれないんだろう。
「ど、どこから来たといっているんです?」
「警察から来たといっているぜ。」
 刑事だ!
 吉松は観念の臍をきめて、帯をしめ直し乍ら、下りて行った。
 土間に一人の、眼付の鋭い顔の黒い男がつっ立っていた。そして吉松をみるなりいった。
「お前さんが、山田吉松ってのかい?」
「そうです。」
 吉松はふるえ乍ら答えた。すると、その男は上り框(あがりかまち)に腰をかけ、片足を膝に上げて、足袋をぬいだ。その足袋の中へ手をつっこんで何か紙きれのようなものを引きずり出した。
「留置場から、これをお前さんに渡してくれろって頼まれてきた」
 とその紙きれをつき出した。
「え?……だれから……」
「だれだか名前なんかしらねえ」
 とその男は足袋をはき直すともう立ちかけた。
「一寸待って下さい」
 吉松はあわてて呼んだ。
「あなたも留置場にいたんですか?」
「ああ、ちょっとした事件で一と月ばかりくらいこんでたんだ、今出たばかりだ」
「どなたです、あなたは」
「ばかいえ! おれのことなんぞどうでもいいじゃねえか、おれはきょう昼間ぶちこまれた髪の長え若え男にその手紙をお前に渡してくれと頼まれて持って来てやっただけで、お前たちなんかに関係ねえや」
 そう云って、その男はふいと消えるように行ってしまった。

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 吉松はしばらく、茫然となってその男のあとを見送っていたが、気がついて、二階へ引き返すと、すぐに、今貰った紙片を、机の上にひろげてみた。
「山田君、君はすぐに芝区南浜町省線ガードの浜側、日本労働組合評議会本部へかけつけて、きょうのことを一切くわしく話してくれ。
 本部へ行けば必ずだれかいるから。もしいなかったらぜひ委員の人をさがしてくれと留守番の人に言って、必ず今夜中に右目的を達するよう。本部の人が、万事これから先のやり方を教えてくれる。
 次に英ちゃんへ──、山田君に相談してうまくやってくれ。澤田」
 吉松はこの澤田の手紙を、固唾(かたず)をのみつつ二度も三度も読んだ。
 彼れはすぐに自分がここにかいてある「芝区南浜町の日本労働組合評議会本部」へかけつけなければならないのだと覚った。
「よし!」
 吉松は初めてわれに返った。
 外へとび出して、電車通りの方へ歩き乍らかれは、それにしても自分のこれから行く「本部」というのは何だろう? そこへ行けばどんな偉い、こわい連中が揃っているんだろう、と思うと、一寸心配だった。
 市電を本芝一丁目でおりて、いわれた場所を探したがそんないかめしい「本部」などという所は、その辺に見当らない。さがしあぐねてそばやの軒燈のともつている長屋の露路へ迷いこんで行くと、思いがけなくも、そのそばやの隣りの長屋の一軒に、大きな看板がかかっていて「日本労働組合評議会本部事務所」と書いてある。
「おや、おや……こんな小ッぽけな本部か……」
 と吉松はおどろいて、ほっとして、そこの立てつけの悪いガラス戸をあけた。土間が一坪程あって畳の上は処せまきまで古い汚い机が並び、謄写版ずりの印刷物が一杯のっかったり、散らばったりしていた。壁には処きらわず、いろんなビラやポスターがはりつけてある。
「委員の人に会いたいんですが……」
 と吉松は土間に立って、机の向うにいる二三人の洋服を着た男たちにいった。

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「何の用です?」
 とその中の一人が答えた。
「組合の用なんで……」
「どこの組合?」
「ええと……東京ガラス労働組合です」
「へえ……そんな組合きいたことがないね……」
 とその男は、傍にいる男たちをふりかえった。
 そのまま彼等は外(ほか)の話を始めた。吉松はぼんやり土間に突っ立っていたが、その人たちが自分にとり合わないのだとわかると、スリの子分時代の癇癪玉(かんしゃくだま)がいきなり破裂した。
「やいッ!」
 と、吉松は土間からどなった。
「手前たちは本部の委員かい? それとも何だッ!」
 そこに居た人々はびっくりしてふり返った。
「評議会の本部では用があっても取次がないって流儀になってるのかッ!」
 吉松は更に怒号した。その時二階から、娘のような柔和な目付をした三十七八の背広の男がおりて来たが、事務員たちを相手にどなっている吉松を向うから暫らくみていたが、
「何だい、喧嘩ならわしが相手になってやるぞ!」
 と、のそのそよって来た。その顔は可笑そうに笑っている。吉松はこの男の笑顔をみると、急に張合いがぬけて、
「あんた委員ですか?」
「委員?──まあそんなものだが君は又何うしたんだい?」
「そうですか……実は、今、大変なことがおこりましてね」
「大変なこと?」
「ストライキです! 組合の常任たちはみんな警察へぶちこまれたんです!」
「ちょつとまってくれ! 君はどこの組合だったっけな?」
「東京ガラス労働組合です!」
 するとその男は小首を傾けたが、
「東京ガラス労働組合ってのを知っているかね?」
 と、事務員達の方を振返った。
「そんな組合は加盟していませんや、委員長!」
 事務員たちは待ってましたとばかり口を揃えて答えた。
「スパイでしょぅ、その男は!」
 と中の一人がいった。
 委員長とよばれた背広の男は、上り框(かまち)にしゃがみ込み乍ら、吉松に向って、
「僕はまだきいたこともないが、一体そのガラス労働組合というのは、いつからあるんだね! どうしてストライキをやっているんだね」
「きょうです、きょう発会式をやってすぐ大騒ぎになって、みんなストライキを始めかけているんです」
「嘘でしょう−−そんな馬鹿な!」
 うしろから、最初に吉松に口をきいた事務員がいう。
「黙っとれ! 三ぴん!」       *さんぴん=下っ端野郎!……身分の低い若者に対する侮蔑語
 吉松は眼をむいてその方へどなった。
 委員長はそれを制しながら、
「−−−君は澤田君と一緒に働いているんじゃないかね?」
 そういわれて吉松は急に気がついて腹巻きの中へねじこんでいる澤田の手紙を、とり出した。
「そうです。これをみて下さい!」
 委員長は黙って皺くちゃのその手紙をよんだがすぐにうなずいて立ち上ると、
「ははァ、そうか、それなら今相談をやっている最中だ。まあ上れ……」
 といった。吉松は事務員たちを尻目にかけながら、委員長について二階へ上った。
 二階の八畳の一室には労働者とも、会社員ともつかない中年の男たちが四五人あつまっていた。おどろいたことには、その人たちの傍に「英ちゃん」が坐っていた。彼女は吉松が上って来たのをみて、
「どうしたの? よくわかったね、ここが……」
 とちょっと不審気にいった。吉松は返事の代りに英子に答えた。
「委員の人たちは十一人はたしかにくるよ。早くかえらんともう来てるぜ」
「じゃすぐに之(これ)から僕と河村君とで、澤田君の宿へ出かけようじやないか」
 と委員長がいった。

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 すると、メガネをかけた小柄な男が、
「じゃお伴します」
 と立ち上った。「英ちやん」も立ち上った。吉松は委員長にくつついて、みんな一緒に、外へ出た。おくれてはいけないというので、委員長と、小男の河村とが五十銭ずつ出し合って一同を円タクにのせた。
「さっき入口で君にごてごていった連中は、今夜常任委員会を二階で開いていた所なのでピケにいた連中なんだから、怒るなよ」
 と委員長が吉松にいった。吉松には、そのピケという言葉がわからなかったが、どうせ「見張り番」か何かのことだろうと思って、答えた。
「ううん、怒りやしないや」
「そうか、……君は年齢はいくつだい?」
「十七──」
「学校は?」
「六年生だったけれど、もうよしちやつた」
 十七で六年生というような生徒は、貧民窟ではちつとも珍しくない。
「そうかい。しかし、十七で労働組合の常任委員ってのは、すばらしいぞ、これからストライキになったら、大いに働けよ」
「うん、おいらも働くから、委員長も働けよ!」
「はゝゝゝゝ三万人の労働者の応援団をおれが拵えて(こさえて)やるぞ!」
「へえ……委員長は、三万人の親方かい?」
「いや、三万人の評議会の委員長だ!」
「おれとこの工場は三百人だが、大分違うなア、……委員長はえれえや。大学を出たのかい?」
「ばかいえ。おれは尋常四年で中途退学じゃ。そして、鍛冶屋(かじや)の小僧になって、それから船乗りになって、しまいに鉄工所の旋盤工になったぞ」
「ほう……じや、おいらみたいなんだな、委員長も!…‥」
「そうとも、これからは労働者の天下だぞ」
「面白いな、委員長は何て名前なんだい?」
「山田だ!」
「ひやッ! おいらと同じ名前だ! おいら山田吉松だ!」
「そうかい、あはゝゝゝ」
 と委員長は大きな声で笑った。
 まもなく一同は「英ちゃん」の家へかえって来た。
 もう十人ばかりの委員が澤田の二階に集って来て、待っていた。
 委員長は、すぐにそれらの人々の中に膝をすすめながら、にこにこして、
「僕ア、澤田君と友達なんです。そして、僕等は日本中のいくつもの労助組合がよってこさえている評議会の中央常任委員なんですがね、今度諸君の作った組合の喧嘩を、応援しようというんで、のり出してきたんですが、どうです。東京ガラス労働組合が評議会へ加盟すれば、団結三万人の評議会が全力を挙げて今度のストライキを応援して、きっと諸君を勝たせますよ。こつちは、評議会の河村君で、やっぱり、常任委員です」
 すると、皆は一様に山田委員長の方をみて、
「何分よろしく願います!」
「どうしていいのか、さっぱり、わかりませんので……」
 と異口同音にいった。
 委員長はうなずいて、集っている人々に、澤田たちが検束されて行ったあとの様子を訊ねた。
「あっしたちは警官隊に追い出されちゃったんです。てんでんばらばらになって、仕方なしに職工はみんな家へかえったんですが、どうなることか、あとのことがわからないものですから、とりあえず山田が無事に逃げた筈だから、山田に会ってみようということで、あっしたち五六人集っている所へひょっこり山田がやってきたんです。それから手別けしてここへ集るように皆に知らして廻ったんですが、まだ三人だけはあとからきますよ」
 と吉松と同じ第一工場に働いている中野という男がいった。
「何しろ常任委員が皆いなくなってしまったものですから五里霧中なんです」
 といったのは第二工場の林である。


七. 戦いの用意は瞬く間に!   

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第七章(一)

 委員長は一同にいった。
「総会できめた要求を通そうとすれば、今度はどうしてもストライキをやる外に、方法はありませんね。幸い、東京ガラスは三百人もの職工を使っているこの方での大工場で、ストライキになっても代り(かわり)は急に傭えない。そんなに沢山の職工は、とても集りませんからね。で、われわれは、要求を通す方法として早速ストライキに移るのです。よろしいか! で、時をうつさず、第一に争議団を作らねばいけません。東京ガラス争議団という奴をね……」
 この時、おくれてやって来た組合の委員たちが、三人、そっと梯子段を上ってきて、うしろの方に坐った。
「その争議団はやっばりきょう検束された常任を中心にして作るんですね。一人のこらず、従業員をこの争議団の中へ引き入れる。はいらない奴は裏切者ですよ。──争議団では、まず第一にきょう検束された常任委員を一時も早く取り返さなければならない。それにはどうするかといいますと、さっき評議会の本部でこの英子さんの知らせをうけて、いろいろ相談したんですが、工場の近所に宝亭(たからてい)という寄席があるそうですね、そこか、或は明信寺(みょうしんじ)という緑町のお寺の本堂かをかりて、あす午後から東京ガラス争議演説会というのをひらき、ここで演説して大いに気勢をあげ、その勢いで、警察の門前へおしかけるんです。そして代表者を出して、署長と談判する! われわれは極力応援しますよ。まず、ここ迄、やろうじやありませんか」
 だれも異議をいうものも、質問するものもなかった。皆黙って、緊張の色を頬に漲(みなぎ)らしている。
「では、今からすぐ、演説会の場所をきめる交渉係を急いで出さなければならん。だれか二人、足の早い人が、宝亭へかけあいに行ってきて下さい。宝亭が借りられなかったら、明信寺! 時間は明日の午後一時から四時迄、借り賃を出来るだけ値切り倒すんです! それから、何に使うんだときかれたら、あす、職工慰安会をやるんだとゴマ化せばいい!」
 集まった委員の中から
「おれが行く!」
 と三人も五人も同時に立ち上った。山田委員長はその中の二人をえらんで、
「約束ができたら手附だといって、これだけやってきて下さい」
 と五十銭銀貨を二枚、ガマ口から出して渡した。それを握って、二人の交渉係は、急いで出て行った。
 そのあとで又山田は、残った委員たちに向って、
「さっき中野君の話ではきょうの騒ぎで三工場の殆んど全部の職工が、警官に工場外へおい出されたままかえってきたというのだから、あしたは出勤していいのか、休んでいいのか皆迷っているに相違ない。しかし夜があけてしまえば大部分は出勤するにきまっている。で、夜があけてもだれも決して工場へ行くな、午後一時から全部演説会へ集れ、という通知を、全組合員に今夜の内にこつちで、廻してしまわなければならん! 皆、今夜は手別けして通知に廻って貰わなければならん!」
「行こうぜ、行こうぜ!」
 と、委員たちはがやがやとなった。
「いや待って! 口頭ではふたしかだ。これから謄写版でそのこと文句に刷って、それを次ぎから次ぎへ配ることにしよう。河村君、さっき持ってきた謄写版の機械は階下においてあるんですか」
「ええ、ここへ持って来ましょう」
 河村は下りて行った。
「会場がきまらないと印刷にとりかかれんから、さっきの二人がかえってくるまで、これで、しばらく、休憩!」
 と山田委員長は、いきなり膝をくんだ。そこへ英子が茶と、菓子とを階下から運んできた。一座はだんだん賑やかに緊張してきた。
 これから争議が始まるんだ!
 一時間ばかりたつと宝亭が一円で借りられた! と二人の交渉係が息せききってかえって来た。ところが東京ガラス労働組合は生れたばかりで、一文の会費も徴収していないから、その一円がない!
「評議会から寄附しようか?」
 と山田がいうと、
「会計係の黒松は拘留をくつてぶちこまれている!」
 と河村が答えた。
「仕方がない! こいつを脱ごう!」
 と、山田委員長は、いきなり着ている洋服をぬいだ。
「惜しいなア……この洋服は、合同労働の四千人の兄弟が一銭ずつ寄附して拵えて(こさえて)くれた一張羅(いっちょうら)だぜ。こいつをちょっと立てかえとこう!」
「すみません! 委員長、われわれの方で何とかします」
 と中野や林が押しとめた。委員中の一番年かさの三島も口を出してとめた。
「しかし、今夜にもすぐ、一円こさえてやって受取りを一札とっておかんと危い。英子さん、あんたの知っている質屋へ、これを持って行って一円借りてきてくれ!」
 山田委員長はワイシャツとズボンだけになって、
「さあ、河村君、謄写版だ、三百枚位すぐだろう。原紙はきれたかね!」
 こうして一時間足らずの後に三百枚近い通知状ができ上り、委員たちが、手わけして、それを組合員に配りに出かける頃、着ているものを剥がれて了った(しまった)委員長は、澤田の単衣物(ひとえもの)を着て、下駄をはいて、かえって行った。

第七章(二)  第七章TOPへ

 翌朝早く、山田委員長が、肱のすりきれたボロボロの洋服を着て石ころのような靴をはいて、澤田の下宿へやって来た。
 英子が、ねている吉松をおこして、それを知らせた。
 吉松はゆうべ住所のわからない職工の家を、わかっている職工から聞き出し、きき出しして、やっと、受持った三十人あまりに、通知をとどけてしまって、すっかり疲れてへとへとになってかえってきたのが午前二時過ぎだった。それからぐつすりと眠っていたのだった。
「どうだ、僕はあれからゆうべのうちに、こんな洋服を目論んできたぜ、少し破れてはいるがもとは上等だったんだ。どうも和服では活動ができない!」
「古着屋で買ったんですか?」
「いいや、知り合いの文士の家を叩きおこして、寄附して貰って来たのさ」
「へえ……委員長は、文士と知り合いですか……」
「うん、時々食べるものがなくなったり、電車賃が切れたりするので、そういう時、寄附してくれる人をこしらえとかんと運動がやれんのでな……文士という連中はなかなか面白い、小説を書いて随分沢山金をとって、カフェへ行ったり、花をひいたりして、遊んでばかりいるものだよ。ゆうべも、その文士の家へ行くと戸がしまっているのでね、遠慮しようかと思ったが、どうも単衣物(ひとえもの)で下駄ばきじやあした困ると思って仕方なく叩きおこすと、中では何だか人声が、がやがやして、まもなくそっと戸があいて、どなたです? ──とこわそうにきくんだ。山田です、山田悦太です! というと、急に中では大勢が笑っている。あとできくと文士連中が五六人あつまって花をひいている最中だったので巡査がやってきたと勘違いして青くなってしまったんだそうだ。所が巡査とは反対の奴だったので、あわてたのがおかしくなって大笑いになってしまったんだ。あはゝゝゝ」
 ゆうべ惜しそうにぬいだ自慢の洋服の代りができたのだから委員長はいい機嫌になっているのだろうが、吉松には文士などというものが、この世の中で何をして暮しているケダモノなのかちっとも知らなかったので、そんな話はまるで面白くなかった。それよりも、きょうの事で胸が一杯だ。
 やがて、きのうの連中が前後してつぎつぎとやってきた。皆ゆうべの通知状配りでへコたれたとみえ、ねむそうな顔をしている。
 すぐに会場へ持って行くビラや、立看板の用意が始まった。きのうの河村は、どこからか若い男を五六人つれて来て、コマねずみのように働いた。
 一同はひる前に、宝亭へのりこんだ。


八.女が火ぶたを切った!  

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第八章(一)
 

 ひるを過ぎると、通知を受けとった組合員たちは、中には半信半疑で、たしかめにきたものも混じって、宝亭へ、続々と集まった。
「争議報告演説会並に臨時総会」
「東京ガラス労働組合」
「吾等の要求は八時間制、賃銀五割増」
「不当拘留を札弾せよ」
 こうしたでかでかのビラが、会場の内外に何枚もはり出されていた。
 会場内は時ならぬ労働者の群ですし詰めだ。皆、きのう警官隊に工場から追い出されたまま、あしたから休んだ方がいいのか、それとも平気な顔をしていつもの通り出たらいいか迷っていた。そこへうまく夜のあけない前に、委員たちの活動できょうの会合の通知が廻った。それで、朝になって工場へ出たものは一人もなかった。その代り一人残らずきょうの会合におしかけて来たのだ。きたのは職工たちだけでなく、職工の女房連も大分やって来た。女房連はこの不景気に男どもがきょうから工場を休む相談だときいて、何ッちゅう無法なことをやらかすんだ? と眼の色かえてとび出して来たたものが多かった。だからまだ始まらぬ場内では女の一団が一番やかましくしやべり立てていた。
 警官は宝亭の入口にまッ黒になってたかっていた。はじめそれらの警官が、場内へなだれこんで来たのを、一人の女房がわめき立てた。
「出てうせろ! てめえ等はうちの亭主を何の罪もないのにひっぱって行きやがって、又ここへ邪魔しにきやがって、承知せんぞ! 承知せんぞッ!」
 すると警官の二三人がその女を桟敷から引きずり出した。
「やったなッ! 殺せ! 殺せえッ!」
 とその女房は、警官たちにひきずられ乍ら、必死になって泣きわめいた。外の女連がそれをみて一斉に騒ぎ立てた。
 男たちもそうなると黙っていない。
 皆立ち上って怒号し初めた。そして三十人近くいた巡査の一隊がまたたく間に群衆に封鎖されてしまった。却て大騒動になりそうな形勢になってきたのでどの巡査も人と人との間で、手出しもならずもまれて立っていた。
 これらの巡査を指揮していた巡査部長は形勢不利とみて、傍にいた五六人の巡査に何か命令した。で、やっと警官達は、追われる者のように、場外へ出て行って全部入口をかためたのである。すると今度は警官の黒山だというので、宝亭の前には野次馬がたかってきた。往来がすっかりふさがったので、巡査たちが野次馬に向って交通整理をやらなければならなくなった。
「道をふさいだらいかん!」
 と怒鳴ると、そら何かどなってるぞ! と遠くの方から更に町の野次馬がおしよせてきた。
 一方、場内では開会前の小ぜり合いで、すっかり殺気が漲って(みなぎって)しまった。
「あれは松本の女房だ!」
「えらいぞ! 松本のかかァ!」
 と男たちが、女達の陣取っている方へ向って手を叩いた。

第八章(二)  第八章TOPへ

 まもなく会議がひらかれた。臨時総会という名前がついて、組合委員中の年長者である三島という男が議長にあげられ、怒声、叫喚、拍手のとぶ中で、工場主の横暴が攻撃され、ストライキが可決された時は、もうだれ一人異議をとなえるものもなかった。
 文句をいう積りであつまった女房団が、まッ先きになってストライキの決議を支持したのである。女にまけてたまるかといったように、男たちの方でも、壇上の議長が何かいうと、待ってましたとばかりよくも開かずに「賛成賛成!」「異議なし、異議なし!」とてんでに叫ぶのだった。
 舞台の上には、きのう工場へのりこんで来た警部が、(この警部は古川という名前であった)正服でサーベルをつき立てて、険悪な顔をして、イスによって方々をにらみ廻していた。そのうしろでは刑事と巡査が一人あまりかたまっていた。
 それとは反対の方の側の舞台のかげで会議の模様をみていた委員長の山田が横にいた吉松に耳うちした。吉松は、議長三島の傍へよって行って、
「あのね、山田さんがね、東京ガラス労働組合を評議会に加入させる件ってのね。議題に出して可決させなければいけないって……」
「そうだ! 忘れていた! よしッ!」
 議長の三島は立ち上った。
「それでは、今いったとおり澤田のいる鳥井英子君の家を争議団本部にする! ところでストライキになれば、応、応、応援団が必要だ! われわれの組合だけでは心細い! そこで、われわれ全部日本労働組合評議会へ加入したらどんなもんじゃ、諸君──」
 と、三島は演壇の上で、ドラ声を張り上げた。
「評議会って何だい?」
「賛成賛成」
「評議会どころの騒ぎじやないよ、おいらストライキだッ!」
「加入しろ!」
「馬鹿!」
 と方々から一斉に叫び立てた。
「諸君、われわれの知らないよその労働組合でも皆われわれを応援してくれるんだ! われわれの仲間は東京市中だって何万…‥いや何十万……」
「何百万!」
「そうだ、何百万いるかも知れないんだ<」
 と三島はほえ立てる。
「だから、日本中の労働組合同志が応援したり相談したりするために労働組合評議会というものが東京に出来てるんだ。評議会に加入すれば、ストライキに勝つんだ!」
 するとわあッという喊声(かんせい)が一時におこった。「賛成賛成」の叫びで場内はわれ裂けるようになった。ストライキに勝てるときいたからだ。
「では満場一致可決とみとめます!」
 三島がこう叫ぶと今度は嵐のような拍手がおこった。──その時又吉松がちょこちょこと三島の傍へよって行った。三島はうなずいて語をついだ。
「それでは、諸君、評議会の親分が、いや、執行……ええと執行委員長が、今から、挨拶するぞ!」
 このぶっきら棒な前ぶれで、山田委員長が舞台へあらわれた。拍手が鳴りやまなかった。すぐに、物なれた調子で山田は演説をはじめた。
 この俄に(にわかに)変る形勢に青くなっていた臨監(りんかん)の警部は、サー
ベルを片手につかんで、
「中止ッ! 中止を命ずる!」
 と山田に向って怒鳴りつけた。
臨監=戦前には、労働組合などの会合だけでなく、あらゆる集会、演劇、映画に警官が臨席し、不穏不適な表現を監視し、その警官の独断で「中止、解散」をその場で命じることができた。当時は商業映画館ですら警官の臨監席が必ず設けてあった。

第八章(三)  第八章TOPへ

 中止! という警部の声で、この集会全体の中止だと勘違いしたみんなは一斉に騒ぎ出し、議場は烈しい混乱に陥って、今度は表に居た警官隊が五十人位にふえて、場内へ入って来た。
「諸君! われわれ組合の役員たちはみんな豚箱(留置場)へぶちこまれている! 何も罪はないのに、何故そんな無法なことをするのか! 諸君! 一人も離れず、しツかり、腕と腕とくみ合わし、一団となって、警察へ押しかけろ! それから工場へ!!」
 山田委員長が演壇の上でこう叫んだ時、かれの身体(からだ)には五人も七人もの刑事や巡査の手がまきついていた。そのまま山田の身体はたおされ、舞台のかげへ引きずりこまれた。
 それをみていた労働者たちは、わッという叫びをあげて、舞台の方へ押しよせた──警部は、舞台の上に警官達を集めた。人垣を作ってそれをくいとめようとしたのだ。
 しかし、すぐに群衆のなだれはそれを押し崩した。
 何か茶碗か下駄を、警部になげつけたものがあった。
 忽ち巡査と、職工の組打が始まった。引ったてられる男をとり戻そうとして、更に混乱が倍になった。女の悲鳴がそれに混じってとぶ。一人の巡査が、一人の職工に佩剣(*はいけん=着用しているサーベル)を奪われかけて、引っ張りあった拍子に、ぴしゃりと、目釘が外れて、サヤがぬけ、抜身が、巡査の手に残った。
「わあッ!」
「抜いたぞ!」
 と、いう今迄とは打って変った凄惨な叫び声が職工たちの間からわきおこった。
 警部も、その巡査の失策には、さすがに色を失って、棒立になってしまった。
「外へ出ろ! 外へ出ろ!」
 という叫び声がどこからともなく起って、職工たちはなだれを打って、往来へあふれ出した。
「腕をくんで、腕をくんで!」
「腕を離せば、つかまるぞ!」
 とみんなは叫び合ってつながったまま、行進をおこした。
「警察へ! きのうの検束者をとり戻せ!」
 その一と声に、みんなは又更に同じ叫びをくり返した。
 だれがどこから持って来たのか宝亭の近所から、その辺一帯の町々に、たかってくる群衆に、謄写版ずりのビラをまいて歩いたものがあった。
 そのビラには、東京ガラス会社の社長永年(ながねん)の非道に対して結束した労働組合を、故なく警察が干渉して、組合の役員を不当検束したので、この騒ぎが起ったのだ−−−ということを、ちゃんと書立ててあった。
 そうして宝亭の臨時総会は、評議会加入の件を可決したまま、警察官が解散を命じない前にもうなぐり合になってしまい、自然に解散した彼等の一団は一とかたまりとなって、江東橋を渡り、警察の方へ向って示威行列をおこしていた。
 警察ではこの示威行列を一挙に破壊しなければ、どんなことになるかもしれぬ、というので百人の巡査を急にかりあつめて錦糸堀停車場横手の河岸っぶちに密集させた。
 労働者の一隊はまっ黒な一とかたまりとなって、川向うから突進してきた。
 警官隊と、争議団は、衝突した。
 砂烟(すなけむり)の中で、労働者が腕っぷしの強い巡査にねじ倒されて、麻縄で両手をしばられた。それらが数珠つなぎになって引っ立てられて行く。あとに残るのが不名誉な気がして、わざとあばれて、巡査や刑事をてこずらせ乍ら、ひッくくられて行く者もあった。
 そうして、争議団はちりぢりに、ここで蹴散らされ、示威行列はあとかたもなくつぶされてしまったが、そのあたり一帯は、野次馬と巡査で、どんな大事件があったのだろうというように、いつ迄も混乱していた。


九.敵も起ち上った     

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第九章(一)

 その夜、古川警部は、署長にひどく叱言(こごと)をくつた。
「え、君、何のために君がわざわざ臨監に行ってくれたんだい! あの組合を、評議会に加入させてしまう位ならわざわざ役員どもを引っ張りやしない! 何故、評議会加入を決議する前に解散をくらわせないんだ! 今に本庁へよばれて大目玉をくうのは僕だからね、ちつとは僕の身にもなってくれ給え−−−」
 しかし、古川警部は──署長の奴、大学を出て来たばかりでちつとも実地の経験がないから無理なことばっかりいってやがる! 労働組合の総会の決議というものを、銀行や会社のそれのように投票できめるとでも思ってるのかしら?…‥ばかばかしくもない! あんなどさくさの中でやることを、そううまくこつちの思うようにやれるものか──と頬をふくらませて、黙っていた。
「何んてザマだ、留置場へあんなに沢山ぶちこんでみたところで、かんじんのことは何も出来ていやしないんだから、──大した事のない奴は皆今夜中に出してしまってくれたまえ。きのう入れた役員の連中もあれじゃ暴力行為にも、脅迫罪にもあてはめることはできやしないんだから、やり直しだ。みんな釈放だ。そしてあの澤田という奴には気をつけていてくれたまえ!」
「承知しました!」
 と警部はほッとしたように署長室を出た。
 署長は不機嫌な顔をして官舎へかえった。
 そこへ電話がかかってきた。
「署長さんですか、わしァ足立ですがね、今両国の鳥新という鳥料理屋にいるんですが、一寸ご足労が願えませんか?」
 そこで署長は目立たない和服に着代えてて出かけて行った。足立はもう酔って赤くなっていた。
「このたびはどうもとんだご迷惑をおかけいたしまして……」
 と足立は改まってお辞儀をした。
「いや……背後に煽動者がいるのでいけないんですよ」
 署長が答えた。
「全く−−−こんな騒ぎになろうとは知りませんでした、一体あの評議会っちゅうのは何でしょう? わしの工場の職工どもの労働組合が評議会へはいったというらしいんですが……評議会っちゅうのは、あの労資協調会とは違うんですね」
「いや足立さん……協調会なら毒にも薬にもならないものだから、われわれがこんなに心配はしません、評議会というのが怖いんですよ。あなたの工場の職工たちがみんな評議会へはいった以上、今度の争議は中途半端でおさまりッこありませんよ!」
「へえ……すると、評議会と云うのは、労働ブローカーなんですか? 争議をしむけておいて、資本家から金をとろうという……」
 足立は不安そうにいった。
「いや、ブローカーなら金でおさまる。あの一団は金で買収もきかなければ、警察のおどかしもきかない! 労働者階級のためと吐かして、年から年中、資本家や警察に喧嘩をふっかけるのが日本労働組合評議会という団体なんです。足立さん、あんたもとんだものに見込まれたというものです!」
「ふうむ……」
 と足立は署長の前で沈思黙考していたが
「よろしい! そういうやつがわしにはむかってくるのなら、わしもその覚悟で戦います! もうそうなったら損も得もない! 意地ずくです! 署長さん! さあ一杯いかがです!」
「ご尤も(ごもっとも)です! あなたがそれ程の御決心なら、我々も全力を挙げて応援しますよ。評議会の運動を叩きつぶさなければ日本中の金持ちは、枕を高くしてねられないんです。政府と資本家が聯合して、いや、今に奴等をひねりつぶし、ひどい目にあわせてやりますよ! それについてですね、足立さん!」
 と署長は膝をすすめて、声を低めた。

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「……あなただけに之は特に極秘に打明けるが、日本には今、政府や資本家階級にとって最も恐ろしい共産党というものができているのです!」
「えッ! 共産党!」
 と足立も声を低めて署長の顔をみた。
「ご承知のように大正十三年にも共産党は出来て是は当時我々の努力で全部監獄へぶちこんでしまいました。それ以来影をひそめていた共産党が今度は前よりも何一倍も大仕掛けで、日本全国に根を張ったのです!」
「日本全国に?……ふゥム……そして一体共産党は何をしようというのです?」
「無論、共産党の目的は、金持階級を根絶しこの日本に労働者と小百姓の共産国を作るという太いコンタンなのです!」
「じ、じつに怪しからん話じゃありませんか……それじゃ我々の如く財産を持っている人間はどうなるんです! 馬鹿な!」
 と足立は青くなって怒った。署長はひややかにいった。
「あなたは狙われているんですよ……」
 足立は飛び上がらんばかりにおどろいて、
「だ、だれにです、共産党にですか?」
 署長は黙ってずるそうにうなづいた。
「そ、そんな馬鹿な……そんな……しかし、もし狙われているとすれば……じゃその共産党はどこにいるんです。どこに?」
「あなたの目の前であばれているのがわからんですか」
「え?……じゃ……あの評議会がそうなのですか? あいつらが……」
「評議会は評議会です。共産党はその外に、組織されているんです。正体がどこにあるか、何しろ秘密結社ですから、はっきりしたことはわかりませんが、評議会の頭株の人間がみんなその共産党の頭株になっているのは事実です!」
「ヘェ!……それだけわかっていて何故その連中を捕まえないんです。そんな奴はみんな監獄へぶちこまなければわれわれ資本家階級は枕を高くして一日だって眠られやしないじゃありませんか」
「今につかまえろと云う命令が政府からくるでしょう。何しろ日本に何千人いるかわからにのですからね、われわれはそれぞれ自分の受持範囲内の共産党の党員らしいと思う奴をにらんでいるのです! 命令一下一斉につかまえますよ」
「何分何うか(どうか)宜しく頼みます」
「安心なさい! 大丈夫です。然し足立さん! 之が前の内閣だったら決して共産党の逮捕なんか出来やしませんよ。われわれもあなた方の為に斯うして一所懸命働こうとしているんですから、あなたも、政府や警察に一分協力して下さい」(*注参照)
「へゝゝゝ署長さん、その点はご安心下さい! 総選挙の時は献金しましたからね」
「いや、何も選挙の時と限ったわけじゃありません──それは又後日ゆっくりとご相談するとして、とにかくあなたの工場の件ですが、評議会が後ろについている以上、長引くものとみなければいけませんからね、どうしてあなたの工場の職工たちが、いきなり評議会に入ってしまったのか、不思議でならなかったのですが……ちゃんと調べ上げましたよ。あの澤田今夫という職工が臭いんです! あいつは評議会からあなたの工場へ派遣されたオルガナイザーなのです! 評議会は、初めからあなたの工場を狙って、あの男を忍び込ませていたのです!」
 署長の話に、足立友作は、あきれ返って青白くなってしまった。
「澤田という男はただの職工じゃないんですよ。帝国大学の政治科にいた男で、すなおに社会に出れば法学士で通るだけの智恵も学問もある男なんです」
「ふゥむ……そんな男ですか、あれは?……そして──その今おっしゃったオルガ何とかというのはどういう役目なんですか?」
「つまりこんどのようなことをする男のことです」
「澤田はなんの怨みでそんなことをするんです」
「いや別にあなた個人に怨みがあるわけじゃないんですが、あんなに職工を煽動する所をみると、あいつも共産党のひとりかもしれないんですよ!」
「えっ!」 

*注:この部分はややステロタイプな政治的背景説明になっており、戦後版では大幅に改訂されている。
 しかし、これが東京毎夕新聞に連載された昭和三年夏から昭和四年春という時期は、対外政策、国内政策できわめて露骨にファッショ的方向に政策転換を行った田中義一内閣(いわゆる田中サーベル内閣)の時代であったことに注目しなければならない。この時期に起こったことを列挙するだけで、この時期が、太平洋戦争とファシズムの破滅の道へ日本が最終的にカジをきった重要な転回点であったことがよく分かる。
昭和二年四月:超立憲的機関である枢密院の画策で、幣原平和外交で比較的穏和な対外政策をとっていた若槻内閣が倒され、田中義一内閣が成立。
〃五月:直ちに山東出兵で中国への武力進出を開始。
昭和三年二月:最初の普通選挙実施。その反対給付として社会主義にたいする取り締まりが激化、逮捕者への拷問が通常のこととなったのもこの時期からといわれる。
〃三月:共産党への広範な検挙弾圧<三.一五事件>
〃六月:治安維持法重罰化、死刑、“考えただけで有罪”条項追加。
〃六月:張作霖爆殺事件、中国との敵対関係決定的になる。
〃七月:全国に特高警察設置。
昭和四年三月:労農党代議士山本宣治暗殺
〃四月:社会主義者全国的大検挙<四.一六事件>
〃七月:田中首相天皇の親任を失い辞職。
〃一0月:ニューヨーク株大暴落、世界恐慌始まる。
 この時代に生きた人々にとっては、この田中義一時代というのは、大正デモクラシーの残り滓もかなぐりすててファッショ化軍国化に向かった時代の転回点として忘れがたい時期だったようである。この部分は、このような同時代の時代背景に対する新聞小説というメディアを通しての直接のメッセージだと考えられる。
 因みに、同じ時期に既に田中義一内閣の暗さを見通し将来を予見した一人のジャーナリストはこのような言葉を残している。
「……我々は恐れる。彼等(田中義一内閣)の行為は、過去五十年にわたって日本人が努力して築き上げてきた立憲政治に一つの区切りをつけ、方向転換をなさしめるものではないかと。我々はこれより、もっとも陰鬱にして危険なる、絶望的にして不愉快なる時代を経過せねばならぬかの予感に襲われる……。」馬場恒吾・1928(馬場は戦後読売新聞社主)



第九章(三)  第九章TOPへ

 足立友作は、あまりのことにぶるぶるふるえ出した。共産党が、金持にとってどんなに恐ろしいものかということは、ロシアの話で沢山だ! 足立は、しかし、共産党のあばれ廻る世の中はロシアのことだと思っていた。それがどうだ、この光栄ある日の本の、東京のまん中にあるおれの工場の中まで侵入して来ていやがる! ぶるッ! 桑原桑原……
「署長はいやにおどかしやがる。」
 足立は酒の酔いに元気を取戻して、外へ出た。
今までは
人のことだと
思うたに
おれが死ぬのか
こいつァたまらぬ
 という狂歌をかれは、歩きながら、ふと思い出した。どうも、共産党に殺されそうな気がしたのだ。
「何糞!」
 と腹に力を入れた拍子に又、今までは……と出そうになったので、
今までは 
ロシアのことだと 
思うたに 
おれの工場か 
こいつアたまらぬ
 と、ゴロ合せを、うまくやってのけて、自分にも面白かったので、あはゝゝゝと大声に笑った。
 そしてかれは工場わきの大きな自分の家へかえって来た。夜業までしていた三棟の工場は今朝からひっそり閑として、まッくらがりだ。
「よし、あしたから、新しい職工の募集だ! おれには警察がついているぞ! 共産党でも評議会でも、矢でも鉄砲でも持ってこい!」
 こう思い乍ら、自分の居間へはいると、机の上に、書留と速達の赤い判を二つおした大きな封筒が一通のっかっている。
 何気なくウラをひっくり返すと、
    東京ガラス 労働組合
    代表者 矢吹源吉
 と書いてあった。ろくろく字の書けないあの「源さん」が、こんなものを書く筈がない。足立は、すぐにこれは澤田の仕業(しわざ)だと感じた。中をあけて見ると「要求書」と、大きく一行書いてあって、
「今度われわれは時世の進展に応じ表記のような組合を作ったから承諾して貰いたい。即ち東京ガラス合資会社の従業員にはこの組合以外の人間を使わぬようにして貰いたい」と云うことと「物価騰貴の折柄、われわれは食うに困るので賃銀五割値上げとし即日施行されたい」その次には「今迄の労働時間十時間と云うのは世界の例にない事だから八時間として貰いたい」そして「以上三ケ条は、創立総会で議決され、更に臨時総会で議決された全従業員の一致の要求だから、どうか承知して貰いたい。もし今日中に組合事務所まで返事がなければ、不承知と認め、われわれは要求が入れられる迄、仕事をしない」
 大体そんなことが達者な筆つきで書かれてある。
「勝手にしやがれッ!」
 と足立は手紙をそこへ叩きつけた。
「そんな馬鹿なことをしておれが儲かるかい! おれは儲けるために商売をしているんだ。こんなことを承知する位なら工場をたたきこわした方がましだ! 糞! いまいましい!」
 その時、女中が出て来て取次いだ。
「あの、旦那様にお目にかかりたいとおっしゃって、天川さんがお見えになっております!」
「ああ親分かい! いい所へ来た。上がってもらってくれ!」

第九章(四)  第九章TOPへ

「やあ……足立君、君の工場も大へんなことになって来たね」
 伝四郎は、襖(ふすま)のところからもう口をききながらはいってきた。
「いや、実は今夜にも君んところへ相談に行こうかと思っていたところだ。力になってくれよ!」
「いいとも、君にはあんないい女迄口説きおとして世話してやった位の天川だ。こういう時には双肌ぬぐぜ!」
「ありがたい。今両国の鳥新で署長と一杯のんでかえって来たところだ。君の話も出た。何しろ、おれの工場へも評議会がはいった! 迂潤(うかつ)なことではこの争議は片づかない。腕っぷしの強い子分を二三十人くり出してくれたまえ! 主だったやつらを片っぼしらから殴りとばして傷めてしまえば一番早く団結が崩れるだろうと思うんだ。見給え、職工どもは今もこういうふとどきな『要求書』をわしの所へよこすんだ!」
 と足立は今よんでいた手紙を、伝四郎の前にほうり出した。
「ふうむ……成程! 太い野郎がいるんだね」
「今も署長がいってたんだ。うちの第一工場に職工になって化けこんでいやがった澤田今夫って若造が、評議会のオル……オル何とかいったっけな……その、廻し者なんだ。そいつをまず一番にやっつけてしまってくれ!」
「よし、澤田……今夫ってんだな! 若い奴だな! 足も腰も立たねえようにしてやるから安心したまえ! なあに、どんどん脅かして、おれが三日でこのストライキを元のようにしてみせる!」
「そうか! そんなに骨を折ってくれるか! かたじけない! 何しろ、君という有力者がついているので今度のことでわしも、大いに心強いんだ!」
「安心したまえ! 中心の奴らは、十人か二十人だ。しらべたらすぐわかる。そんな奴におどかされてたまるものかい」
「うん、わしに叛く(そむく)やつもある代りに、忠実なやつもあるからな、鈴木や松田が今朝から、職工の狩り出しに奔走しているんだ。くわしいことや、争議団の内情はそいつらにきいてくれ。きょうも大勢ひっぱられてるから、わかったことは警察からも知らせてくる。何しろ今朝だれも出勤しないので面食らったが、鈴木と松田の手でやっと二十人あまり新規職工ができたんだ。争議団の中からも十人あまりとり戻して来たから、それだけの人数で明日、とにかく、第一工場だけでもひらく積りだ!」
「よし、じや、明日中にわしが太平町界隈をかけ廻って五十人だけの職工を都合してきてやる。それにわしの子分を三十人位貸す。どうじや、大して仕事のできん素人でもこの際工場へ入れて勢いをみせんといかん。第二工場も開け!」
「ほう! そうかい! 天川、頼む! この通りじや!」
 足立は感激に頬を光らせ、両手を合せて頭の上にかざすとそのまま、畳の上につく迄額を下げた。
「な、工場二棟(ふたむね)から煙が上れば、争議団でも顔色をかえるだろう。そして、あす、あさって、しあさって中に従事しないものは全部首きるという手紙を、今からすぐに出せよ!」
「成程! 事務の奴に徹夜してでもすぐやらせよう! 兄貴! 君は玄人(くろうと)だね!」
「わしア、浜松の楽器争議の時も会社に備われて行って働いたことがあるから戦術はちゃんと知っているんだ! 評議会の山田悦太だって顔をみれば知っているぞ!」
「そうかい。そうとは知らなかった。じや君はわしの今度の参謀になってくれ! いずれ片づいた上でお礼はするが、とにかく……とにかく……では」
 と、足立はあわてて、傍の手提金庫の中から、百円紙幣を何故かとり出すと、四つに折って、紙に包みながら
「これを当座の費用にあててくれたまえ、万事たのむ! たのむよ!」
 と、伝四郎の膝に、おしつけた。
「よし、貰っとく。じやおれはかえって用意をするからな、今言った段取り通り、手ぬかりなく、やれよ!」
 と、伝四郎は札束をふところにねじこんで立上りかけた。
「まあ、まて、そうあわてんでも、何もないが一杯のもう!」
 足立は天川をおしとめて、家の者に酒の用意をいいつけた。

ゴ ー・ス ト ッ プ  分割file・3(5章〜9章)終
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