ゴ ー・ス ト ッ プ  分割file・5(13章〜15章) 


十三. 闘争の激化する時

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第十三章(一)

 深傷(ふかで)を負った天川伝四郎は、とうとうその夜のうちに息を引きとってしまった。
 何十人の子分達は、枕辺にかけ集まって
「親分!」
「親分!」
 と左右から取り縋って(すがって)泣いた。しかし、肺と腹部を、深くえぐられた天川伝四郎は、天晴れ(あっぱれ)本所の大親分といわれた名にも似ず、誰だかわからない名も無い下手人(げしゅにん)のために、もろくもあえない最後をとげてしまったのだ。否、犯人はわかっているはずだ。しかし、警察は、巡査や刑事の大動員をしながらまんまと取逃がしてしまったのだ。警察が総がかりで、吾妻橋の下流を捜索している間に、犯人である例の男は、たくみに警戒線を突破して、はからずもめぐり逢った同志の船に助けられ、荒川の上流を遠く遡った(さかのぼった)上屋久(かみおぐ)の方まで去ってしまったのだ。
 天川が、争議団の何者かに殺されたという知らせは、ただに警察をおどろかしたのみならず、足立友作をふるえ上らせた。しかも伝四郎が殺されたのは、足立の家のすぐ近所である。こんなことではいつ何時、今度は自分が争議団のために殺(や)られるかわからない。少し位のことは譲歩しても早く争議を解決してしまいたい。
 足立は、にわかにそういう気になった。
「私はどうしてこんな目にあうんでしょう。これが共産党にねらわれることなんでしょうか、この分じゃ夜もおちおちねむられやしない、今に私も天川のように、コロリとやられてしまうでしょう、どうしてこんな運の悪いことになったんでしょう」
 と、かれは署長と例の両国の鳥料理屋で落合ってのみながら酔って泣くのだった。
「まあ、足立さん、そう心配しないでしっかりやって下さい。天川の加害者は今明日中にかならず逮捕して御覧にいれますからね!」
 こういって署長は足立をなぐさめた。
 その前日から警察へは、縄で両手をしばりあげられた争議団の連中が続々として引張ってこられていた。留置場は、たちまち満員になった。そしてそこからは虎のほえるような、労働歌や革命歌がひびいて来た。
 取調べはすこぶる厳重に行われた。検事や予審判事も出張って来ていた。

*予審判事=旧刑事訴訟法下で、警察や検事の調べの次に、起訴不起訴を決める調べを行った裁判官。非公開で証拠調べなどが行われるので、裁判公開の原則に反するとして戦後廃止された。

 しかし、争議団の誰を取調べても、兇行に使ったメスや、血に染(そ)んだ菜っ葉服や、吾妻橋からとびこんだために、ずぶぬれになっているはずの靴や下着や、……、そうした証拠物件は何一つあがらなかった。
 犯人に顔がよく似ているというので、ひどくうたがわれた或(ある)男などは、ひどい拷問をかけられたが全然泳ぎを知らんと云うことがわかり、そんな男が吾妻橋からとびこむはずもないので、やっと、うたがいが晴れて留置場から出されたりなどした。

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 足立は、争議団と正式に交渉する気になり、その緒口(いとぐち)として、署長を仲裁人にしようと考え、天川の殺された翌日、両国の鳥料理屋に落合って、適当な調停案を依頼して別れたのだった。
 すると二三日たって、人目につかぬよう、足立は署長の電話で、あるところへよび出された。それは赤坂のある待合だった。行ってみると署長の外(ほか)に、こげ茶色の背広を着た、やせぎすな四十すぎの、みたこともない男がいて、
「土井課長です」
 と署長に紹介された。土井は争議とは何の関係もない帝国議会の話をした。
「新年早々休会開けには何れ解散ですがね」
「そうですか、いや、解散になりますか」
 と足立は相槌(あいづち)をうつた。
「足立さんは何党ですか?」
 と土井はきいた。
「あっしゃァ元から政友会びいきですよ!」

*政友会(田中義一総理の党派)びいきということは、前述の田中義一内閣のファッショ的な路線に共感をもっているという意味合いで、当時としては誰にでも分かる「保守反動支持ですよ」という符丁のような表現である。

「それはありがとう、今度の議会では政友会は少数党ですからね、どうしても解散になりますよ、何しろ選挙というものは金のかかるものでしてね、われわれ迄そのために、心配しているのです」
「はゝあ、いやそのことなら、わしもいささか、心得ています」
「あはゝゝゝ、何分よろしく、先きへお礼をいっときます」
「いやもう、抜け目がないですね課長さんは……」
「時に足立さん、あなたの方のことですがね……」
 と土井はすぐに話頭(わとう)をかえて、
「ご承知のように今度は初めての普通選挙で、無産党が大分あばれる模様なので、その取締りに今からもう、大分頭をなやましているんですが、本所、深川は何しろ労働者の巣でしてね、労農党が一番目をつけて有力な候補を立てようとしています。それがあなたの工場の今ストライキをやっている組合にも大いに関係があります。今度のあのストライキを、議会解散迄に叩きつぶしてしまうか、長びかせて、総選挙中、引っ張るか、どっちにしても、組合に勝たせては困るんです。勝たすと、それを機会にあなたの工場の組合を中心に、評議会が、あそこを根城にして労農党の候補を立て、ストライキに勝った勢いで、どんな赤化宣伝をやるかしれませんからね。われわれの方でも極力応援しますからあなたの方でももう少し頑張って下さい。少くとも選挙がすむ迄頑張って貰わないと困ります。選挙がすめば、あの組合を、われわれの方できれいに掃除(そうじ)して元のような無傷の工場にして差上げます。何しろ、あの争議団の要求条項が悪い、八時間制に貸銀五割増なんてそんな左翼的な要求を容れて貰っては日本の産業統一を乱すことになって外々(ほかほか)が困る。あなた一人の問題じゃないんだから、どうか頑張って下さい」
 署長に比べてこの課長はもつと大きな財界一流の大企業家の意志を代表してものをいっていた。自分の管轄するこの東京市内にそんな八時間制の工場などをこさえてしまっては、この国第一流の大企業家からのお覚えめでたからぬことを、この課長は気づかっているのである。こうして、足立は三時間ばかり署長と課長とから代る代る勇気づけられて「天川の殺されたこと位にはへこたれない」決心に立ち返った。その夜かれは大きな自動車で送られて、酔ってかえってきた。

第十三章(三)   第十三章TOPへ

 こうして、労資対抗のままに、年がくれた。区民有志や、市会議員の調停者が度々そっと足立を訪ねて行ったが、足立は、そのたびに黙ってかぶりをふった。
 そして、三百人に余る全員の解雇を断行して、工場界隈(かいわい)から本所、深川一帯にかけて、新規工大募集のビラを張り廻し、新聞にも広告し、鈴木、早坂、大谷一味の手で争議団側を約六十人位切りくずした。
 裏切者たちは、元の同志の復讐(ふくしゅう)を恐れて、工場内の納屋に俄(にわか)仕立の合宿所を作って、門外へ出なかった。−−−こうして新年の三週間がすぎた。
 年内から二工場の仕事をやっと継続していたのが新規工の補充ができて、遂に第三工場も仕事を始めた。東京ガラス合資会社の三つの工場の煙突からは、再び元のように、煙が上った。
 争議団は、盛んに内偵を入れて、躍起になっていた。議会解散が行われ、普通選挙による全国総選挙が初まって、山田委員長は大阪へ去った。河村も東京を立って中部地方へ行かなければならなかった。あとには負傷の癒えた澤田が殆んど一人で、切って廻さなければならなくなった。
 澤田は苦戦を感じ初めた。どういう理由で親爺が天川殺し以来、急に硬化してきたのか、どうしても理由がつかめなかった。かれは、警備隊長の松本と相談して、必死の対抗策を立てた。
 争議地の区域内に労農党の候補者が立ち、その選挙応援を命ぜられて、澤田はその方へも出かけなければならず、体が二つあっても三つあっても足りなかった。不眠のために、頭がぼうとなり、時とすると、何を考えているのか、自分でもわからなくなることがある。
「君はこの十九日は選挙応援だね」
 松本が、本部でぼんやりしている澤田をつかまえてにっこり笑った。その時は何んの意味とも気がつかなかったが、翌日の昼、かれが深川の方へ、選挙の応援演説に行ってそのまま検束され一週間ばかり拘留を食っている間に、東京ガラス工場内では、松本のいった十九日の白昼第二の事件が突発した。
 それは切り崩しの元締の鈴木がやられたのである。
 鈴木は天川が殺されてから、工場から一足も外へ出なかった。工場から外へ出さえしなければ安全だ! こう思ってかれはくわえ煙草のまま腕ぐみをして、いろいろと第一工場を見まわった。鈴木がはいってくると職工達はみんな目顔で会釈した。争議以来源さんの後釜を奪って彼れは職工長になっていた。だから工場の中でかれに頭の上る者はない。鈴木は、第一工場を一わたり見まわると、ゆっくりとした歩調で第二工場へと廻って行くのであった。
 そうしてかれが第一工場から第二工場へ行く広場の真ン中まで来た時であった。皆が働いているこの時刻に、職場を離れて樺(かば)色の作業服を着た二人の男が広場の真ん中にしやがみこんで向うをむいたまま煙草をふかしていた。
「お、おい、今頃こんなところで油をうっちゃ困るじゃないか」
 と鈴木は二人に近づいて、職工長らしく頭からしかりつけた。
 ところが二人の職工はしゃがんだまま、聞えないのかいっこう立上りもしなかった。
「こらッ! 俺の云うことが聞えないのかッ」
 と、鈴木はどなりつけると同時に一人の職工の腰をけとばした。
 すると二人の職工は、すっと一緒に立ち上ってふりかえった。
「鈴木!」
 と腰をけられた方の職工が、舌なめずりをして鈴木をにらめた。同時にす早くかくし持っていた二尺ばかりの丸太棒(まるたんぼう)で、ぐわんと、鈴木の脳天をなぐった。
「あッ!」
 と、いう声を半分残したまま、鈴木は仰向けにひっくり返った。そのまま鈴木の身体(からだ)はぐにゃりと動かなくなってしまった。
 青白く地べたになげ出されたその顔の上を、くだんの職工は、もう一ぺんなぐった。
 すると鈴木の鼻と口からは、血が吹き出した。そして蛇の様に身体(からだ)を三度のたくらせたまま地上に長くなってしまった。
 この真昼間(まっぴるま)の凶行(きょうこう)は、第一工場からも、第二工場からもまる見えだった。
 わあっ……という、どよめきと共に、職工たちが広場へとび出して来た時、二人の職工は小高いところへあがって、
「東京ガラスの職工諸君──皆ここへ集まって来い! 俺達は元第一工場で働いていた小山と河井だ! 我々が一生懸命に戦っている最中、同じ労働者でありながらこの工場で働くとは何事だ! 諸君をだました鈴木は、今殺ッつけた!(やっつけた) おやじにだまされるな! どうか諸君! 即時に仕事をやめてくれ給え!」
 大声にさけびたてると、目の前に押よせて来た職工達にてんでに何事かを印刷したビラを、ポケットから出してさっとふりまいた。
「殺っつけてしまえ!」
 それにもかかわらず、大勢の職工達は、たちまち小山と、河井をそこへ押たおして袋たたきにしてしまった。

第十三章(四)   第十三章TOPへ

 小山と河井は皆に袋たたきにされた上、警察へつき出された。鈴木をなぐったのは糾察隊員の小山である。かれは腕っぷしの強い男であった。なぐられた鈴木は、脳震盪(のうしんとう)を起して気絶したのだった。しかしその次になぐられた一撃では鼻の先がまがり前歯が五本も折れていた。病院へかつぎこまれた彼れはやっと命は取りとめたが、鼻がつぶれ、歯が折れてしまった為に、治っても人中(ひとなか)へ顔が出せなくなってしまった。
 一方警察へ送られた小山と河井はかわるがわる刑事に取調べられた。
 特に鈴木をなぐった小山は、厳重に調べらえた。
「おい、お前だろう、天川を殺(や)ったのは!」
「え?」
「真ッ昼間、工場の中で人をなぐるような度胸がなければ、天川を殺すようなまねは出来まいテ……なぁお前だろう、あの事件もお前がやったんだろう?」
 刑事はこういってつめよった。
「俺ァ知らん」
「知らんとは云はさんぞ」
「俺ァ天川の事なんか知らん」
「とぼけるなッ!」
「お前さんこそとぼけるな」
「何ッ! 生意気なッ!」
 と刑事はいきなり小山のノドをしめあげた。小山は、うむううッ……ともがいた。
「さあどうだ! これでも白状せんかッ」
「知らん……」
「何ッ」
 と刑事は更に強くしめあげた。
「ううん……」
「これでもか!」
「うむムム……」
「これでもか!」
「…………!」
「白状しろッ!」
 と刑事はぐにゃりとなった小山の首をゆすぶった。
 小山はものもいわず、ばったりと横に倒れてしまった。
「何だ、しょうのない奴だ」
 と刑事はいまいましそうに気を失った小山の身体(からだ)を別室の方へ引きずって行った。
 小山は毎日こういう目にあった。しかし彼れは、そうして拷問されればされるほど反抗心をつのらせて真夜中頃刑事に留置場から引き出されて、調べ室に入れられると
「殺せ! ブルジョアの犬め! さあ早くやってくれ」
 と刑事にどなりちらした。彼れの目はつりあがり、骨ばかりになった顔は青ざめて、傷だらけだった。
「くそいまいましい奴だ!」
 と刑事たちは寄ってたかって彼れを、×××××××、両手を××××××、××××××××、水を××××たり、しまいには××××××、鮭のよう×××××××××。そして××××××××××××××××××××××。小山はたちまち××××。水をぶっかけられて、やっと息を吹きかえすと、
「どうだ白状しろ!」
 と刑事たちが左右からいう。小山は、血だらけの顔を意固地に振って
「知らんことは知らん! どうでも勝手にしやがれ……殺せッ……なぜ俺を生かしたんだッ!」
 といったままぐったりと気をうしなった。

*最後の部分の多数の伏せ字を的確に起こすことはほとんど不可能である。
ただ、当時(拷問が日常化したのは三.一五事件以降といわれているが)警察で男性被疑者に一般的に行われていた拷問は、単純な殴打や鉛筆を指間に挟んで圧迫すると行った小技から、首をしめて一時的に窒息失神させる、武道場などで殴る蹴るをくり返す、ロープでつるして竹刀等でなぐる、つま先が地面すれすれになる様に後ろ手に吊す、ろうそくで股間などを焼く、逆さ吊りにして鼻などから大量に水を注入する、等が記録されている。この伏せ字部分では、「両手を」とか「水を」「鮭のよう」などの片々たる字句から、この種の拷問が複合的に行われた記述が想像される。



十四. 澤田は何を見落したか?   

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第十四章(一)

 ある夜、映画女優の芳川品子が、参平の下宿へ美しい装(よそおい)をしてやってきた。
「先生!……天川が殺されたんですってね?」
「ウム……殺されたよ」
 と参平は答えた。
 いつやら品子は、参平の家から伝四郎に引立てて行かれたきり今度はじめて顔を出したのである。
「一体誰がやったの?」
「さあ俺は知らない」
「どうしてやられたんでしょうね?」
「それも俺は知らない」
「まあ先生!」
 品子は美しい目でにらめた。
「何だ?」
 と参平は素っけなく答える。
「あたしびっくりしてとんで来たんだのに、なぜ真相を話してくれないの?」
「俺は真相なんか知らないんだ。警察へでも行って聞いたらどうだ」
「だって、だって、先生は知ってらっしやるはずだわ。いつやら吉松さんと一緒にここへきていた若い人、あれが今度の争議をおこした澤田って人なんですってね」
 参平は黙っている。
「ね先生、実相を話して頂戴!」
 と品子は参平の側へ寄った。
「一体お前おれの所へ何をしに来たんだ」
「あら、何もしにきやしないわ、ただちょっと……」
 と品子は頬を赤くした。
「お前いったいあれから何をしてたんだ?」
「あら? −−−あたし、あれから随分楽しく、くらしていたんだわ」
「誰とだ、天川とか?」
「いいえ、ホゝゝゝ」
 その時、次の部屋から
「馬鹿野郎!」
 と、どなる声がした。
「あら? 誰なの? 吉松(きちまつ)つぁんの声だわね」
 と、品子は馬鹿野郎と云われてほほえんだ。
「高等淫売(こうとういんばい)、また来やがったんだなッ」
「まあ失敬な、立ん棒(たちんぼ)の子僧のくせに!」

*立ん棒=立ちん坊・坂道などに立っていて車の後押しをして金をねだる子供・道ばたに立って職を求める最貧の労働者/いずれにしても貧乏人への蔑称

「ブルジョアのうじ虫奴(め)!」
「何ですって、何のうじ虫ですって!」
「きさまのような女は、ブルジョアの糞をなめてるうじ虫だい!」
「承知出来ないわよ、あたし!」
 と、品子は怒って立ち上りかけた。
「そう喧嘩をするもんじゃない」
 と参平は品子をとめて、次の間の障子を引き明けた。そこには目の見えない八重子に介抱されながら、吉松が繃帯(ほうたい)にくるまって寝ていた。
「おい山田、身体(からだ)にさわるからそんな大きな声を立てるな!」
 と、参平がなだめた。品子は吉松の様子をみると、
「まあ、吉松さんはどうしたの? 怪我をしたの?」
「天川の子分に斬られたんだ」と参平がいった。
「えッ! なぜ斬られたの?」

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「へん、きさまはスパイだろう。きさまが足立の妾になって両国の方に家を持っているってことは、争議団ではちゃんと知ってらア。こんな所へ何しにきたんだ。おらが、ここにねているので、いいつかって、スパイに来たんだろう」
 と吉松は、寝たままいった。
「まあ、あたし、あんたが斬られたなんて初耳だわ!」
「おい天川の親分はな、俺らがストライキをやってるなかへ、工場のおやじの味方になって邪魔にはいって来やがったんだ。そして俺らの仲間をなぐったり斬ったりした天罰で、ばっさり自分が誰かにやられちゃったんだ、気味がいいや、あんな人で無し奴(め)!」
「まあ、吉松つぁんは自分の元の親分を人で無し奴(め)なんて、ひどいわね」
「ヘン、てめえはあいつの情婦でおまけに足立の妾だからそんなことをいうんだろう」
「何をいうの、親分が生きていたらお前さんなんぞ頭も上らないんじゃないか?」
「いくらでも頭を上げてやらア、平常(ふだん)大きな事をいっていながら、いざとなると金に目がくらんで、俺達労働者の、ノドを締めるようなまねをしやがったんだい! 親分なんか人間じゃねえや! 畜生だい! 猫か、猿だい!」
「そんなこといったって、あんたは親の代からその畜生(ちくしょう)の子分だったんじゃないか?」
「そら昔のこったい。今は俺ァ立派な労働者だい」
「労働者なんか、何が立派なもんか?」
「何ッ、うじ虫!」
「社会主義の小僧ッ!」
「そうさ、俺は社会主義だよ、どこが悪いんだい?」
「どこが悪いか知った事かい!」
「ざま見やがれ! あはゝゝゝ」
「おいおいそういい争っちゃいけないってのに!」
 と、参平がとめた。
「吉松つぁん、あんたはまだ体がよくないんだから、そんなに大きな声を出すもんじゃありませんよ、ほんとうに品子さん済みません」
 八重子も吉松の寝ているかたわらからいった。
 −−−吉松が労働者病院へかつぎ込まれた時、八重子は子供の病気が重って(おもって)、入院していた。参平は毎日のように見舞にきていた。すると表から負傷者が戸板にのせられて隣の病室へかつぎこまれたのである。それが吉松だとわかると参平は仰天した。翌日八重子の子供は死んだ。八重子はみえぬ目をしばたたいて泣き沈んだ。
 一週間目に、もう大丈夫だというので、吉松は病院から元の先生の二階へ舁がれて(かつがれて)かえった。参平は学校があるので、八重子が泊りこんで、吉松の世話をしてやることになって、ここへ来ているのである。子供を失なってから八重子は独立の決心をすてて、自分を思ってくれている参平に縋る(すがる)気になりかけていた。
「先生、いらっしやいますか?」
 と下から声がして上って来たのは澤田だった。
「やあ、澤田君ですか?」
 と参平は吉松を見舞にくる争議団の者から澤田が警察へ引かれていると聞いていたので驚いて声をかけた。澤田は、訊ねられてすぐにそのことを話した。
「なあに、警察は僕さえ居なければ、今度の争議は起らないと思いこんでいるものだから、僕を一番いじめるんですよ、今度の争議で留置場へぶちこまれることこれで七回目です。天川を殺したのは僕なんかじゃないということは、向うでもはっきり知っていながら、又今度一週間も拘留しておどしたり、すかしたり、たといお前が殺ったんでなくっても、殺った男を知っているだろう、なんていうんです。そこで僕は答えてやりましたよ。僕は絶対に知らない、しかし、たとえ知っていたところで、口を裂かれて、胸をえぐられても決していわないから、お調べは無駄でしょうと──すると僕のいうことが生意気だというので刑事に、羽目板(はめいた)へ何度もなげつけられました。羽目板が破れて、僕の頭にこの通りコブができましたよ、そしてたった今放免されたので山田君を見舞いに来たんですがね、山田君容態(ようたい)はどうかね?」
 と澤田の語る調子は落附いた(おちついた)もので、たった今警察の留置場から出て来た人のようではなかった。
「まあ、じや、澤田さんは犯人を知っていらっしやるの?」
 と、品子が次の部屋からいきなり出て来た。

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「やあ……」
 澤田はそこに品子がきていることに始めて気がついた。
 同時にかの女がまるで古い知合いのように自分の名をよぶのでびっくりして、
「芳川さんですね、いつやらここでお目にかかりましたね」
「ええ、お久し振りね、おたっしゃですか?」
「体はたっしゃなんですがね、時々警察へぶちこまれて、たっしゃでなくされっちまうんですよ」
「まあ、なぜあなた方はそんなに度々(たびたび)警察にいじめられるの?」
「それはね品子さん、僕等労働者が一致団結してあなたの旦那をいじめるからなんですよ!」
「ストライキのことなの?」
 品子はしゃあしゃあとして答える。
「そうです、あなたに仲裁を頼もうかな」
「なぜストライキなんかなさるの?」
「なぜする?……あなたにはそれがわかりませんか」
「わかんないわ」
「我々の様なガラス職工が、東京ガラスの工場に三百十八人もいたんですよ、その三百十八人が、日給一円八十銭位しかもらっていないんです。それで朝から晩まで一日十時間もこき使われてへとへとになっているんです、なかには子供が六人もある職工もいます。それが月に五十何円というわずかな収入でどうして喰って行けますか、三百人の職工は、喰うにも喰えないで、もがいているのです。しかも一方で工場のおやじは、月に何千円、年に何万円といって儲けているんですよ、そしてあなたのような美しい人を囲って(かこって)おいたりする。今じゃ足立のおやじは、東京第一のガラス成金ですよ。その大きな財産は、どこから生れたんでしょう? どこで儲けたんでしょう? ね、品子さん、あなたにはわかっているでしょう?」
「わかってるわ! あんた方職工さんたちが、かせいでやったんだわね」
「えらい! そこなんです、われわれ大勢(おうぜい)の職工は喰うものも喰わずに、へとへとになっておやじの財産をこしらえてやってる、我々労働者はこの通り見かけはきたないが、これでなかなか働きのある人間だが、人が好いもんだから欺(だま)されて、こき使われて、みんな金持にしぼり取られてしまうんです!」
「まあ! −−−でも全くそうだわね」
「そうですとも、この世の中の金持という金持はみんな我々労働者をしぼりあげて出来てるんです。今の世の中が続くかぎり、我々労働者は永久に一文無しだ! いつまでたっても生活難だ! 甘い(うまい)もの一つ喰えやしない、これは日本が不景気な故(せい)じゃないんです、上に居る金持が、巧な仕かけで我々をしぼっているからなんです」
「澤田さんの話はあたしよくわかるわ、吉松さんなんか口をとんがらかして、どなりちらすばっかりで、ちっとも解りやしない」
 澤田は笑って、
「よく解りますかね、じや我々が今度ストライキを起したわけだってよくわかってもらえるだろう。我々はこの上我慢が出来ないから、おやじに要求書をつきつけたんです。賃金を五割上げろ! 働く時間を八時間にしろ! 今度作った我々の労働組合をみとめろ! といったような要求をネ、するとおやじはうんというかわりに我々三百十八人の職工をみんな首にして、もう使わないというんです。散々しぼれるだけしぼっておきながら、何というむごたらしいやり方だ! 僕達三百十八人の職工が一とかたまりとなり、こうしてストライキを続けているのも無理はないんです。我々は血まみれになって、おやじを屈服させるべく戦っているんですよ。ところが、天川の親分が、この労働者と金持の戦っている大事な場所へ子分をつれて来て、おやじの味方をしたのです。そして大勢の子分を争議団本部へ斬りこませて、この道り、僕なんか、肩先を斬られましたよ、山田君は未だに傷がなおらないで、こうして、ねているじゃありませんか。これも皆あなたの旦那の足立友作がしたんですよ、あなたはそんな旦那に身をまかせて恥かしいと思いませんかね」
「まあ……」
 と品子は赤い顔になった。

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 品子は溜息をついて、
「じゃ、天川の親分はあなたがたにしかえしをされたんだわね、そのためにやられたんだわね?」
「それがさっばりわからないんです。僕らには天川を殺す力はありませんがね、ことにその晩は天川は子分を十人もつれて歩いていたんだ、その中へ、大きな男がたった一人で飛びこんで、いきなりぐさりと親分を突き刺し、驚いて四方に散った子分達がてんでに匕首(あいくち)を抜いて斬りかかろうとすると、組敷いた天川のノドを締めつけて、やい! じたばた騒ぐと手前らの親分の止めをさすぞ! と、同じく七首を振りかぶったその男のすごさったら無かったそうです、僕は刑事からきいたんですがね」
 品子も参平も八重子も、天川が殺された模様は始めて聞くので、思わず固唾をのんだ。
「子分達が、手を出しかねて見ていると、その男は天川の体をずるずると片手で二三間も引きずって歩いたかと思うと、ぐさりとまた一突き突き刺して放り出すと、そのまま飛鳥の様に逃げてしまったんだそうです!」
 と澤田はいった。
「まあ、強い男がいるのね!」
 と、品子が感歎した。
「そうさ、とても強い男さ、その男が二時間後に非常線にかかって吾妻橋の上で巡査や刑事に取巻かれたんだそうです!」
「まあ、そしてつかまっちゃったの?」
「なあに、捕まらなかったんだ! そいつは、向って来る巡査を二間も向こうへなげとばして、欄干に飛上がると『来て見ろ!』と叫んでそのまま川の中へ飛びこんだきり、どこへ行ったか影も形も無くなって了った(しまった)というんだ」
「まるでチャンバラだわね?」
「そうさ、活動写真の剣豪以上だよ。刑事から詳しく話をきき人相もはっきりきかされたが、その男が誰だか僕にはちっとも見当がつかない」
 と澤田は口をとじた。しかし澤田はその男を知っているのに違いないと、品子は思った。
 いや、ひょっとしたら澤田がいいつけてその男に天川を襲撃させたのかもわからない。澤田は争議の指導者なんだから。──品子はしばらく黙って澤田の顔をながめている。
「天川が殺されたっていうんで、ガラス工場ではみんな震え上がってしまったんだ。ところが二三日前のことだ、争議団員の小山と河井がどこをどうしのびこんだのか、第一工場と第二工場の間の広場で職工長の鈴木をなぐりつけて大怪我をさせた。鈴木と云えば、天川と一緒に争議団の切り崩しに一生懸命になっていた男で、そいつがまたやられてしまったんだ。工場側では、このままではあとからあとからどんなことが起るかも知れんというので今朝から大分ぐらつきかけているんだ。そして改めて争議団の意見を聞こうと云うんで、あすの朝、争議団の代表者と、おやじの足立とが会見することになったんだ。それで、僕は代表者の一人なんだから、警察から出されてかえってきた。殊に(ことに)きのうの事件は僕の留守中の出来事で、いろいろな血なまぐさい事件が、どうやら僕の指図ではないということが大体これでわかったんでね。」
 ここで澤田は寝ている吉松の方へ向いて、
「なあ山田、俺達の方が勝ちそうだぞ、あしたの交渉には俺と源さんが行くんだ、きっと話をうまくつけてみせる!」
 吉松は、寝床の中で口笛を吹いた。
「俺達が勝つのはあたりまえだい!」
「じゃ、僕は忙しいから帰るよ」
 と澤田は吉松に云ったあとで、
「先生どうもお邪魔しました」
 と、いって立上った。澤田が参平の家を出て、夜の往来を、争議団本部へかえってくる途々には、戦いのすんだ総選挙の立看板やビラが到る所の塀や町角に雨にぬれ風によごれて、夜目にも白く浮き上ってみえた。解散以来、今度のストライキと並行して進んだ総選挙は、政府党たる政友会の敗北に終った、辻々の立看板の破れて夜風に動いているのをみると、澤田は反動改治の敗残をみるような気がした。
 けれども、負けた政友会が何をするかということを、澤田は知らなかった。あすの交渉に必勝を期しているかれも、まさか、そのあすの交渉が今度の総選挙にも関係があるとは気がつかなかった。親爺と土井課長が赤坂の待合で会ったことを、夢にも知らないかれは、総選挙がすんでから交渉をひらくという相手の策戦を知らなかった。親爺がへこたれて漸く参ってきた、と考えていた。

第十四章(五)  第十四章TOPへ

 翌日の争議団本部は人で一ぱいだった。空地には各班の団員が押しかけていた。
 五十人あまりの警官がそれを遠巻きに監視している。
 皆は今朝から交渉に行っている澤田と源さんの帰りを待っているのだ。
 澤田と源さんは、たった二人でおやじのところへのりこんでいった。そして争議団の、要求をおやじにうんと云わせ、今に凱歌をあげて引きあげてくるはずだ。
 その報告を聞くために争議団の全員が本部へかり集められたのだ。
 初め、団員の全部をあげて、交渉委員の応援に出かけようとしたが、それは(多数を示して人を脅威(きょうい)する)もので暴力行為何とやら法にふれるというので警察からかたく禁ぜられた。それで、争議団では今朝から交渉場所の足立の家の前から本部までの間に、一町おき位に、伝令を配置した。交渉の結果が一刻も早く本部に集まっている団員達に知れるよう、そうして連絡を取ったのだ。
 一時間たち、二時間たった。皆は、今に澤田と源さんの報告が来るかと固唾(かたず)をのんで待ちかまえている。
 ところが伝令は一向に来ない。
 皆は待ちあぐねた。
 英子は手伝いに来た争議団員の女房達と裏へ出て一生懸命に焚出しをやっていたが、
「諸君! 第一報をしらせますッ! 交渉は唯今終りました。親爺はわれわれに屈服しました!」
 と二階から空地へ向って叫ぶ三島の声をきいて急いで家の中へはいった、そこへ又一人の伝令(レポ)が駆けこんで来た。
 階下にいた二三人の常任たちは耳に手をあてその男の報告を聞いた。そして、ききおわると松本が二階にかけ上った。
「諸君ッ! 第二報! 交渉は有利にまとまった! 間もなく澤田と源さんがここへ帰って来て諸君に報告するだろう。そこで我々は、ただちに臨時総会を開いて交渉委員の報告を承諾するかしないか審議しなければいけない!」
 今までと異つた熱烈な拍手が起った。人々は興奮してがやがやと騒ぎたてながら澤田と源さんの帰るのを待った。そこへ伝令員達に取巻かれて澤田と源さんが帰って来た。二人の顔はすぐ家へはいって二階へ消えた。三島が二階の窓から首を出した。
 人々は鳴りを静めて固唾(かたづ)をのんだ。
「それでは諸君、澤田君と源さんが帰って来たから、ただ今より東京ガラス労働組合の臨時総会を開催します!」
「異議なし!」
 の声と共に嵐のような拍手が起る。
 三島に入れ代って源さんが、窓際に立った。
「諸君ッ! 俺達は今朝からおやじさんと交渉した、いろいろずるいことをぬかすので、つかみ合いになりそうだったが、澤田が中に立って兎に角話をまとめて来た!」
「要求は通ったかッ!」
「早く、肝腎(かんじん)のことを云えッ!」
 と上や下から騒ぎたてた。
 澤田が源さんにかわって演壇に立った。
「私から交渉の内容を報告します、先ず第一に、おやじは、我々の作った東京ガラス労働組合を承認しました」
「あたりまえだい!」
 と叫ぶものがあった。
「しかり、正にその通り−−−」
 澤田は野次に応じて、
「次に八時間労働制度は来る四月一日から実施することを承諾しました」
 うわぁッ……という歓呼の声が上った。
「第三の賃金五割増は、激論の結果、当分の間一割増し、これもやはり来る四月一日より二割増ということになった、そして争議費用としてこの際千円出す。首は一人も切らないということになった!」
 すると手をたたくものもあれば、怒鳴るものもあり、不平をいうものもあって、あたりは騒然とした。松本が澤田といれわかった。
「諸君ッ! かけ合のしまつは、今言った通りだ、これ位なら俺達の敗北ではないッ!」 と松本は叫んだ。
「要求がみんなそんなそのままとおると考えるのはよくない。今度のストライキはこれ位で我慢をして、更に俺達は次のストライキをはじめる時の実力を養ったらどうだ!」
 松本の声がひびき渡ると二階も下も鳴りを静めて暫らくはしんとなった。
 かれはゆっくりした調子で辺りを見まわしながら
「五割とれなかったのは残念だが八分までこちらの勝ちだから交渉委員の案を認めてはどうか!」
 と大きな声をたてた。
 すると、たちまち場内は嵐のような拍手の音に変った。
「東京ガラス労働組合万歳!」
「争議団万歳!」
「日本労働組合評議会万歳」
 われかえるような叫びが相ついで起った。松本は一同に向って、どなった。
「それでは! 諸君澤田君と源さんは、今一度おやじのところへ行って、正式に話をまとめて来る。詰がまとまったら俺達は全部あしたから働くのだ。首になったものは一人もいない、あしたの朝はみんな堂々と工場へ乗りこめ!」
 するとみんなは手をたたいて更に万歳をとなえた。
 源さんと澤田はすぐに出かける仕度をした。その時女達によって握りめしが運びこまれた。

第十四章(六)  第十四章TOPへ

 東京ガラス争議は大体において労働者側の勝利を以て局を結んだ。評議会の戦術に対して、警察は極力工場主を応援した。
 形勢が悪化して天川が殺され、鈴木が殴り倒された。
 足立は天川が争議団のために殺されたことによって意気阻喪(いきそそう)した。そして今更、労働者の団結力の恐ろしさを痛感した。かれは三百人の敵に、つけねらわれたような気持になって、すっかりおびえてしまい、腰が弱くなって降服的に妥協してしまったのだ−−−と、争議団側は、少くとも澤田は、思った。そしてあとにのこった問題は、殺人事件が一つ。──警察はいまだに天川殺しの犯人をさがしている。しかしその他のことはみんな片づいてしまった。小山と河井は刑務所へ送られ、吉松は参平の家でまだ臥ている。争議団は解散して、職工はそれぞれ工場に帰って元の持場についた。
 昨日まで争議団の本部になって大勢の男達でうずまっていた英子の家は、急にひっそりとなってしまい、二階は元の通り澤田の下宿部屋となった。その夜、連日の疲労にぐったり疲れた澤田が、英子の敷いてくれた蒲団の中で、死んだようになって眠っていると、そっと階下から、英子が匍い(はい)上って来た。澤田が眼をさまして、首をおこすと、ねまきのままの彼女は、ものをもいわず、いきなり男の胸にとびついて、抱かれた。
「澤田さん!」
「何だ?」
「あなた本当に私を好きなの?」
「そんなこと、とっくに解って(わかって)るじやないか!」
「本当に愛してくれてるの?」
「そうだ!」
「証拠を見せてちょうだい!」
「証拠? どんな証拠だ?」
「あたしを愛しているという!」
「それならとっくに見せたじゃないか、僕が党員だという大事な秘密を君にうち開けたじゃないか」
「だからあたしだってあなたに誓って党にはいったじゃないの?」
「そうだ、だから君と僕は同志だ!」
 英子は燃えるような目をして、
「同志だけじゃないわ!」
「同志だけじゃない?」
「ええそうよ!」
 と、英子は澤田の胸にぴったりと頬をうずめた。
「そうだ君は俺の恋人だ!」
 と、澤田は、両手で英子の顔を抱きおこした。彼女の頬は火の様に熱かった。
「だから……だから……」
 英子はこわいもののように澤田の腕から離れなかった。
「だからどうしろというの?」
 と澤田は彼女の顔を覗き(のぞき)こんだ。
「知らないわ! 知らないわ!」
 と彼女は再び男の胸に顔をふせた。その時彼女の耳に「だから証拠がほしいっていうの?」という澤田のかすかな声が聞えた。英子は無我夢中でうなずいた。
 澤田はいきなり英子を抱いて立上った。そしてせまい部屋の中を彼女の体を両手にゆすぶりながら真赤な顔をして歩きまわった。
「よし! お前は俺のものだ」
 と澤田は腕の中の彼女を見て、はげしく接吻した。彼女が抱かれたまま、身をくねらす拍子に裾が乱れて白い脛があらわれた、それを恥かしがって
「おろして……」
 とかの女がいった。澤田は女の体を蒲団の上へあおむけにおろした。二人はそのまま近々とはげしく、たがいの目の中を見つめあった。

第十四章(七)  第十四章TOPへ

 年前三時頃──
 英子はまどろむともなくまどろんで、ふと目を覚ました。澤田はぐったりとなって死んだようにかたわらに眠っている。英子は目をこすって澤田の寝顔を静かにながめていた。
「あたしはもうこの人の妻になったんだ!」
 そう思うと、妻──という名が淋しく彼女の胸にひびいた。世間の妻のように夫と楽しくくらせる妻ではない、別れ別れに冷たい牢獄の憂目を見なければならぬ夫であり、妻である。
 それは何のために? 英子はじっと澤田の寝顔を見た。すると目に見えぬ大きな声が彼女の胸にひびいて来た。
 労働者農民の為に!
 無産階級解放の為に!
 ──そうだ! そういうことは澤田から、また、委員長山田から英子は度々聞かされた。
「横暴な資本家階級を倒すためには我々はみんな官憲の手にかかって紅い血を流すんだ!」
 そういうはげしい言葉を英子は澤田の口から聞いて胸をおどらした。いやあの青年同盟の鳥羽さんなどは、もつともつとはげしい言葉を平気でいってのけた。
 英子はうすうす知っている。天川殺しの下手人はきっとあの鳥羽さんであるといぅことを! あの人は「応援に来た」といって、屋根の上で演説をした二三日目にいなくなってしまったのである。その前に、委員長が澤田の傷ついてねている傍へあの人をよんで耳打ち話しをしていたのを英子はちゃんと知っていた。その時鳥羽さんが「よし引きうけた」といった声を英子は聞いたのである。あの人も党員だ、いや関西での有力な組織者(オルグ)だということだ。党にはあんな人が何人いるかしれない。いざと云えば無産階級の進軍する嵐の途上に屍(しかばね)となってよこたわるに違いない勇敢な無鉄砲なああいう人々が、おそらく何百人、何千人……いやもつといるかも知れない!
 英子はそんなことを考えだしてばっちり目を見開いていた。ああ自分も女ではあるが同志だ! 澤田も同志だ!
「おお懐かしい澤田!」
 と彼女は、眠っている澤田の胸にすがりついた。
「あなたとあたしは、とうとう離れられない仲になってしまった、でも二人は平和に幸福になんかくらすことは出来やしないんです!」
 それを思うとかなしかった。夜は森沈(しんちん=静かに)と更けて、この大都会の片隅のどぶにかこまれた長屋の二階にも、山の奥のような静けさがみち渡っていた。
 英子は澤田の胸に顔をうずめて身のかなしさに、声をひそめてすすり泣いた。
 ──その時彼女の耳に、そとの往来に、人声のしたのが聞こえた。英子はそっと男の胸から顔を離してその方へ聞き耳をたてた。
「澤田君! 澤田君!……」
 よんでいるのは河村の声だ。
 河村は今度の争議の有力な背後の指導者だった。一文も金のない争議団の一カ月以上の闘争を支える寄附金を、評議会から集めてくれたのも、河村や山田委員長だった。すべての応援、入用な技術者はみんな河村の手を通じて争議団へ入りこんで来た。
 その河村が、争議半(なかば)に労農党の総選挙指導者となって中部地方へ去る時、かれはどんなに詳しく、澤田に向って今後の戦術を教えて行ったか?──今や、争議は労働者側の勝利を以て、局を結んだのだ。──選挙がすんで、河村は東京へかえって来たのに違いない。
 だが……英子はかすかに舌うちした。何というへマなところへ、かえってきてくれたんだろう。
「あたしが、澤田の妻になった大事な、大事な、最初の晩に……」
「澤田君!……」
 外の声はまだよんでいる。
 −−−ちぇッ! 河村だって、何だって、こんな晩にくる奴は、豚に食われて死ぬがいい!……英子は眼をこすって匍いおきると、澤田の肩をゆすぶって、
「ちょっと……河村さんがきているようだわ……お起きなさいよ!」
 と眼をさまさせておいて、手早く、自分の枕や……その辺にあったへんなものを、手早く片づけてしまうと、手に抱えて、そっとおりて行った。
「どなた!」
 と、そして彼女は玄関の自分の蒲団(ふとん)の中から起き上ったような声を出した。
「僕です、河村です……」
 外では河村に違いない声がした。英子は土間へおりて戸をあけた。河村はいつもの洋服ではいってきた。
「澤田君はいますか?」
「ええ……二階よ」
 と、怨めし(うらめし)そうな声を出した。
「僕、今夜名古屋からかえったんです! 争議の報告を本部で今、見て来ましたよ。心配していたんです」
「でも勝ってよ。首になったものはたれもなしよ」
 河村は靴をぬいで二階へ上りながら
「あなたも来て下さい」
 英子が手早く着物を着て、帯を結んで何くわぬ顔をして上って行った時、河村は澤田から争議の経過を逐一ききとっていた。
 澤田の話が一とわたりすんだところで、河村は、傍へきた英子の顔をも、澤田の顔と一緒に、つくづく見渡しながら、
「よく戦ったよ。実際、何もかも今度位に行けば成功だ! 僕等はもつと惨敗した争議をやってきたからね!」
 こういわれて澤田はやや得意を感じて薄く笑った。
「しかし、君は今度の争議の結果をどう思っているかね、表面に現われたとおり親爺が完全に組合に屈服したと信じているかね……」
「…………」
 澤田は英子と顔を見合わした。河村はしばらく黙っていた。ポケットからくしやくしやのバットを出して火をつけながら、         *バット=廉価な紙巻きタバコ
「否(ノー)だよ……」
 と重々しく言った。そして語をついだ。
「急いでやってきたのは、それをいいにきたんだ!」
「……‥…」
「君は妥協交渉で、親爺にすっかり釣られたんだよ、あれだけ戦って頑張りとおした親爺が、今になって何故こう手軽に、八時間制に応じ、組合を認め、賃銭を三割上げ、内一割をすぐ実行し、しかも一人も犠牲者なしという不利な条件を容れたか……細々ながらも三工場とも操業を開始して約五割の仕事をしている以上、もう一と月もふん張れば、争議団を徹底的に叩きつぶせる見込みぐらいは親爺の方にだってついていた筈だ! それを急転直下的に、むしろ向うから会見に応じて来て、たった一度でこれだけの条件を容れた! もう少し君が争議に熟練していれば、勝ったな! と思う前に、臭いな? と感づかねばならないのだよ」
 澤田はおどろいたような表情になった。
「天川が殺され、鈴木がやられて、争議団のテロに怖気(おじけ)ついて降服したのなら、事件の直後に降服する筈だ。−−−それから可なり日のたった今になって降服するとはどういう理由(わけ)かな? −−−と僕は本部で報告書をよみ乍ら大いに考えた! 一体君、足立は民政党系かね、政友会系かね?」

第十四章(八)  第十四章TOPへ

「政友会系だよ!」
 と澤田が沈んで答えた。
「そうだろう。そして今の警察行政は政友会内閣によって極度に政党化されている。一切の警察網が政党政治のために運用されている。これが政友会政治の特長だよ。民政党内閣になれば、かれらはもつと政治技術に長けて(たけて)いるからこうは露骨にやらないが、今の田中大将の政治の下では、どんな田舎の署長でも皆政友会系で、そうでない署長はよけいに政友会にご奉公しようとして管内の資本家、有力者と結托し、政友会の利益の方へ利用しようとあせる。足立は元からの政友会系だ。足立が総選挙中、争議に強腰で、選挙がすんで急に妥協したのは、多分、政党的官憲の指図をうけていたのに違いないよ。たとえば本所、深川から立候補した労農党の秋野君がひどい弾圧をうけて次点におちたが、これなぞは所轄署の見込みでは、ほっといては当選する懼れ(おそれ)がある。それでは上々(うえうえ)のお覚え目出たくないわけだから、どうしても落選させなければならぬという政党的政策から、今度の争議に目をつけた。即ち争議を激化させ、選挙民である争議団員及び、これに関心をもつ区内の労農党支持に赴きそうな一般無産大衆の注意をその方へ向けさせる。つまり、東京ガラスの争議を秋野君の選挙妨害に利用したのではないかという疑いがおこる……」
 河村はここでバットの灰を火鉢におとしながら、
「しかし、それはかりに適確な事実としたところで大した問題ではない。ただそういう特殊の目的から政党官憲が、足立友作を支持して特にこの一カ月間わざと争議を激化させたとすればそのために足立の蒙っているよけいな損失だね、その損失に対する何等かの保証を官憲が足立に対して与えているかもしれないよ。つまり足立と政党官憲とは今度の争議で特殊な密接な同盟を結んだかも知れないという疑いがおこる!……」
「というと、それはどんなことですか?」
 澤田は青白い顔をして、熱心にきいた。
「どういうことだか、さっぱりわからないよ」
 と河村は、クセのように薄く笑った。そしてすぐにつづけた。
「しかし、僕の想像がもし事実とすれば、官憲が足立に与えている保証というのは、工場内から組合を完全に駆逐するということより外にはない!」
「しかし、それならもつと争議をつづけさせてわれわれを徹底的に撃破するでしょう。何も譲歩して今度のような妥協をするわけはない!」
 と澤田はいった。
「そこだ! ──この上争議が長びけば足立の方では少からぬ損害だよ。損害なしに組合をつぶす方法は争議団の撃破以外にもつといい方法がある。一旦譲歩して和解しておき、改めて更に陰険な方法で以てやっつける! 今度の円満解決の裏に君はそうとう相手の陰謀を嗅ぎつけないかね?」
 ここ迄話をきいている内に、澤田は、河村があまり取越苦労(とりこしぐろう)をしていると思った。でなければ、かれの留守の間にうまく争議が片づいたので、ケチをつけてるのではないかとさえ思った。
「そう迄は思えないね。かりにそうであったとしても、今度の解決は決して、悪くはないと思うな!」
 と澤田は多少の不満の語気で答えた。

第十四章(九)  第十四章TOPへ

「そうか!」
 河村は急に熱心に澤田と英子の顔をかたみ代りに(=かわるがわる)じっとみつめて、三人の視線を小さな火鉢の上の一点にあつめた。そして、そっと英子にいった。
「すっかり戸じまりをしましたね、階下(した)にはあなたのお父さんの外にはだれもいませんね」
「ええ…………」
 三人は額をあつめて、かたまった。河村が何を話し出そうとするかということが英子にも澤田にもすぐにわかったので──
「君は、主として争議に専任してしまったからあまり気がついていなかったろうが今度の総選挙で、党は随分公然の活動をやったよ」
 党──という言葉に点火されると、澤田の顔も、英子の顔も、すぐに緊張した。どうやら、それは労農党のことではなさそうだ。
 河村は、一層沈んだ痛々しげな表情を浮べていった。
「──随って(したがって)、敵は間もなく一斉攻撃を開始するに違いない。いや、もうその準備は終ったものと、みなければならないんだ!」
 この一と言で、澤田も英子も、無言のまま、しずかに黙ってうなずいた。
「そして、それは単に党の検挙、撃破ということだけでなく日本の左翼労働運動全体に対する総攻撃となって現われるに相違ないんだ! 『左翼』はあらゆる工場から、農村から、徹底的に追い出されるに相違ない!」
「…………!」
「…………」
「その時期がもうすぐだ! 僕はそれが三月中にくると思う!」
「え?……」
 澤田は思わず「え?」といってしまった。三月といえばもう一二日後ではないか! 河村は、澤田が今机の曳出し(ひきだし)からとり出してみせた解決条件の正式調印書を、畳の上にひろげ乍ら、
「──その証拠が、今度のこの解決条件の中にもあらわれていはしないかね、八時間労働制を日本の産業が採用するのはまだ少しさきだ。主要産業がそれをまだ採用していない時にどうして足立の如き中小資本家が八時間制などでやって行けるものか、又やって行くものか! それを四月一日から実施するというのは、空手形だよ。賃銀三割上げとして二割だけは、やはり四月一日からとして、しかも組合は認めるというんだろう! つまりこれは、左翼に対する全国的総攻撃が四月一日以前に行われることを露出している証拠だ! 足立は知らないだろう。しかし、きっと署長が上からの命令で、こういう案を立て、万事お上に一任しろ、というので、手早くこれで妥協させたものと、僕はにらむね。この妥協案の四月一日のくる前に、党は全国的検挙を喰らい、評議会は、……、恐らく解散を命ぜられ、所属組合は各個撃破の戦法で、つぶされてしまうだろう。即ち、四月一日になる迄に驚天動地(きょうてんどうち)の大事件がわき起ってこんな解決条件なんか平気でふみにじれるだけの状勢となるのさ。その時は、君の作った今度の組合は木っ葉みじんにやっつけられ、幹部は一斉に首になり、八時間制も三割値上げも、組合承認もあったものではない。そういうことがわかっているから、平気でこんな甘い条件を向うからすすんで承認したんだぜ。僕はこの調印書で、政府の左翼総攻撃の開始期が僕達の思っていたよりかずっと早く、三月上旬か中旬だということをたしかめ得ただけが拾いものだと思う!」
 河村はこれだけの話を首を前へつき出して低い声でごく普通の話のようにいったが、澤田はききおわって、すっかりまいってしまった。かれの気分は日蝕に会ったようにくらくなった。
「だから、本当をいえば解決も糞(くそ)もない、三百十八人の血を犠牲にして、闘争激化主義で、ぐんぐんやっつければよかったと思うね。しかし、これでも決して失敗じゃないよ。一二年前なら大成功だ。その成功が成功にならないのは左翼運動が、大きな時代区劃(エポックメーキング)へきていたせいだ──今夜はここに泊めてくれ──何なら一杯のもうか──そしてあしたからは大いに用心したまえ。今に嵐がくるぞ──もう一カ月もたてばいつ会えるともわからないなあ澤田!」
 河村は、はじめてやわらかいにこにこした顔になった。その笑い顔を英子の方へもふりむけて
「あんたもよく働いたよ!」
 澤田は何か熱いものが胸の裡(うち)にこみ上げてくるのを抑えきれなかった。かれはたった今河村に対してひがんだ自分が情けない位恥かしかった。やっぱり河村は、老練なる指導者だ。声なきに聞き、形なきにみて、全休をつかむ。「現象形態」(げんしょうけいたい)にだけ捕われている俺のような未熟な観念主義者とは、頭の中のカラクリが違ってやがる! 「戦闘的弁証法」(せんとうてきべんしょうほう)の実物をみるような気がして、澤田は河村のふけだらけの頭を、じつと眺めた。──ふと、今夜何のために河村がこんなに遅くここへきたか? ──澤田ははっきり気がついた。そうだ、河村は争議の批判をしにきただけではなかったのだ。かれはもうきっと評議会の常任の仕事から退いて党の活動に専任しているのに違いない。全非合法へ──そうだ。河村はひょっとしたら上海か、ロシアへでも行くのじゃないかな……別れに来たんだな?
「一つのみましょう」
 澤田は目をかがやかしていった。英子はすぐに下へおりて行った。そして、酒のはいったガラスの酣壜(かんびん)を持ってきた。つんぼの父親が毎晩のんでいる酒である。
「じゃこれから左翼はどうなるんです?」
 と、酣壜を火にかけながら英子が河村にきいた。
「これからが本調子になるのさ。一時は敗北してさんざんにやっつけられるだろう。しかし左翼は不死身だよ。真の階級党は今の社会がなくなる迄は決して亡びようはない──僕等はこの階級戦の途上に安心して討死すればいいのさ、ははゝゝゝ」
 河村は、英子のあたためている酒に炭火が映って(うつって)赤くちらちらするのをみながら、快さそうに笑った。


十五. 「三・一五」は遂に来た!   

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第十五章(一)

 澤田は一週間の間、毎日のように、組合の常任委員会をひらき、拡大委員会をひらき、工場内に各班を作り、班の責任者の会合をひらき、全組合員のピクニックをやった。
 英子も毎日市電気局××車庫に出勤していた。かえってくるのは夜の一時、時には一二時、一時頃になることもあった。そして、ひそひそ、彼女は車庫内での自分の仕事と、その状勢とを、澤田に話した。そして、耳のきこえない父親に対して、晩酌量五割増額の条件を容れるという「孝行」によって、彼女は澤田との「恋愛の快楽」を勝ち獲った。父親は、娘の戦術にすっかり陥ってしまい、彼女のかえってくる時刻には酔ってぐうぐうねてしまっていたからである。
 かの女はおおっぴらで、二階でねた。
 二人が名づけた「最後の闘争」の一週間がすぎても、河村のいいのこして行った敵の総攻撃の手はやってこなかった。
「じゃ更に次の一週間の奮闘をやろう──」
 二人は夜おそく迄、おのおのの持場の「党活動」を相談しあい、互いに別々のところから貰っている「指令」をみせあって、具体的な方法をきめた。その揚句(あげく)は、烈しい階級意識と生理的慾望が一緒に燃え上り、奇妙なまでまっ赤な興奮にかられた二人は、冷えた体を喧嘩のように固く抱きあった。
 彼女は党の仕事の中に、こんな個人的な幸福が恵まれることにどれ位、狂喜し、陶酔(とうすい)したかしれない。
「世界中のだれもがこんなステキな恋の感情を知りやしないんだ!」          と思うと、どんなに疲れていても翌くる朝(あくるあさ)は、何か超人的な大きな感情が彼女を、すぐに引き立たせた。朝早くめいめいの制服をつけた夫婦は、勇ましくキスの音を一つ立てて、エ場と車庫とへ、別れて行った。
 三月に入って、かれらの樹てた(たてた)仕事の計画の第二週間目が終った夜、二人は一と口ずつ酒をのみ、あとは、強い抱擁で、火の如き祝杯をあげた。
 くたくたになって、二人はねむった。そして何時間ねむったのか、もう夜があけたような錯覚の中で、英子は一人で眼をさました。時計をみると午前三時少し前だ、何故目がさめたのか、不思議な、妙な胸さわぎを感じた。ふと、その時、彼女の耳に、ガチッというかすかな音が聞えた。それは非常にかすかな音であったが、その時妙に鋭敏になっていた彼女はすぐにそれが巡査の佩剣(はいけん)の音だと直覚した。
 澤田はとみると、すぐ傍で前後も知らずねむっている。その寝顔をじっとみつめて、起き上ろうとすると、突然、往来で
「電報! 電報ですよ、鳥井さん!」
 という声がおこり、つづいて戸を叩く音。−−−鳥井は彼女の姓である。
「来たッ! 澤田さんッ! 来たわよ!」
 彼女は烈しく澤田をゆすぶりおこした。

第十五章(二)  第十五章TOPへ

 気がついて、むっくり起き上った澤田は手早く身仕度をすると、
「今何時だ?」
「三時ちょっと前です……巡査や刑事が五人位来ているようよ!」
「そうか!」
 と澤田はうなずいて
「じゃ僕だけ逃げたんで大丈夫だね、君は、大丈夫だね?」
 澤田は英子の手をとった。
「あたしは大丈夫よ」
 と英子は押入から新聞にくるんだ麻裏草履(あさうらぞうり)を一足取出して来て、
「こないだこれを用意しておいたのよ、早くこれをはいてその屋根から逃げて頂戴、そこから魚屋さんの屋根へ飛べばすぐあそこに電柱があるでしょう、あれを伝わって下りたらお米屋さんの露路口へ出られるでしょう、あの露路の木戸はすぐ開くわよ、往来へ出たらあわてて走ったりしないで一ぺん立止まってゆっくりこれに火をつけて吸いながら、いつかあたしの教えて上げた金色夜叉の歌でも唄いながら、ゆっくりいらっしやい、非常線がはられてるかも知れないからね、早く! 早く!」
 と英子はバットののみさしのあおい箱とマッチを澤田におしつけた。
「−−−よし、わかった!」
 と澤田は震えながらそれを受取って、そっと裏に面した雨戸を音のせぬように引き開けた。
 そして泥棒の如く屋根へしのび出た。空を仰ぐと、半分は曇り半分は晴れているのか、その半分に星が冷く光っていた。春とは云え氷のように大気の凍てた(いてた)東雲(しののめ=夜明け)近い三月十五日の夜はまだ明けぬ。
 澤田は屋根の上を走り出そうとして窓の中をふりかえった。
「君はあとに残ってほんとうに大丈夫かい!」
「早く! 早く! 大丈夫よ、あたしは女だもの!」
「あとから来るね?」
「ええ、行きますとも!」
「先生の家!」
「わかってる!」
「じゃ行くよ!」
 と澤田は隣りの屋根へ飛ぼうとした。
「ちょっと」
 と英子は澤田の腕を引もどした。
「何?……」
「あなた!」
 英子は急に泣き出しそうな声を出してその頬を澤田の腕に、肩に、つけた。──女は切端(せっぱ)つまった最後の瞬間にも享楽(きょうらく)を欲する勇敢なる動物だ。澤田はいきなり英子の首を鷲づかみにして接吻した。
 沈黙がほんのしばらく──
 澤田は影の様に屋根から屋根へとんだ。そしてすぐに電柱にすがりついたと思うと、かれの体はそれをつたってするすると地上におりた。そこは米屋の裏の露路の中だ。そのままかれの姿は消えた。英子は火のような吐息をしながらそれを見送って静かに雨戸を閉めた。その時である──階下(した)で父の声がした、それをおしかえして、
「二階だ!」
 と叫ぶ声が聞えて、荒々しい土足の足音が階段をとび上って来た。
 はッ−−となって英子はそこにころがっていた澤田の枕を、草履を出したために開いている押入の中へなげこみ、そのまま蒲団の中へもぐりこんだ。同時に警官と刑事が三人ばかりおどり上ってきた。──その人達の目には蒲団の中へ飛びこんだ英子の姿が、ぎやくに物音に驚いてたった今とび起きたように見えた。
「澤田はどこへ行ったッ?」
 と一人の刑事は英子の肩口をひきずり起し、もー人の刑事はなかば開いている押入の襖をいきなり引き開けた。警官は泥靴のまま目をむいて仁王のように畳の上につっ立っている。

第十五章(三)  第十五章TOPへ

「何よ! まるでひどいわよ! ひとの家へ靴をはいて上ってくるなんて!」
 と英子は寝衣(ねまき)の上から着物を引っかぶるように着て、警官をにらみすえた。
「よけいなことを云うなッ! 澤田をどこへかくしたんだッ!」
 刑事の一人が彼女の肩をこづいた。
「どこへもかくしませんッ!」
「じゃ、どこへ行ったんだッ! やつは!」
 と今一人の刑事も眼をいからした。
「知りませんッ!」
 巡査はがたがたと今澤田の出て行った雨戸を開けて屋根の上をのぞいた。それから英子のそばに引き返して来て、
「おいッ! 嘘をつくとお前も引っ張って行くぞ! おらんのか?」
「……居ないじゃありませんか! 下へおりて下さい。女一人のところへ来ていやだわ、ほんとうに!」
「おい、お前の親爺は澤田は上に居ると云ったぜ、ここに寝ていたんだろう!」
 と、刑事がおどかした。
「いいえ、晩の御飯を食べて、しばらくここに居たけれど本部へ行くつて、出て行ったわ、お父っさんは知らないんです!」
「本部? 評議会の本部か?」
「多分そうでしょうよ!」
「本当にそうか?」
「ほんとうです!」
 二人の刑事は疑い深く顔を見合した。刑事の一人は押入から澤田の枕を引張り出して、嗅いで(かいで)みたり、さわってみたりしながら
「おい、これは誰の枕だ?」
「澤田さんのです」
「まだ温かいぞ! これはどうしたんだ!」
 と刑事は枕をなでまわして、鋭く英子を見つめた。英子はさっと色をなくしながら、それでもようやく勇気を取りとめて、
「ホホホ……、馬鹿らしい、あなた方は何いっていらっしゃるの、気の故(せい)ですよ」「おい、お前は澤田といい仲か?」
 と刑事はうす笑いをうかべて
「この押入にはその蒲団一組しか入っていないようだな、それは澤田の蒲団だね?」
「…………」
「お前はなぜ階下でお父つぁんのそばで寝ないで、澤田の蒲団の中へもぐりこんでいるんだ? 澤田とお前はどういう関係なんだ?」
「…………」
 その時刑事は蒲団のかたわらに落ちている男持の腕時計をたちまち見つけて、
「おいッ、お前は今澤田を逃がしたんだろう!」
 と英子の肩をどんとついた。
「いいえ、宵に出て行ったきりいやしないんですもの!」
「君その屋根へ出てしらべて見てくれないか?」
 と刑事は同僚に雨戸の方をゆびさしながら
「じゃこの時計はどうしたんだ、これは澤田の時計じゃないか?」
 と、英子につめよった。
「あたし……あたし……朝早く……六時に起きなければならないから澤田さんが出ていらっしやる時借りておいたのです」
 刑事は、いまいましそうに辺りをにらみまわしたが、それ以上何も証拠は見つからないので
「じゃお前と、澤田の関係を正直に云え、争議の時からちぁんとわかっているんだ、かくさずにいってみろ!」
「あたし……澤田さんと……あの……一緒になるって……お約束がしてあるんです」
「ふん……そして今からもう醜行(しゅうこう)を続けているのか?」
「まあ醜行だなんて! 知らないわ、馬鹿ッ!」
 彼女は真赤になって、わッと泣き出した。泣いた方が戦術上、得策だと思ったからである。そこへ屋根の方をしらべに行った刑事がはいって来た。そして何も見当らないという合図をした。

第十五章(四)  第十五章TOPへ

 澤田は露路を出ると、そこで立止まって、ふところのバットを出して火をつけた。
 それから歩き出した。辺りを見まわしたが更けた夜はしんとして人影一つ見えない。
 すぐその向うの角から、ふいに一人の男が現われて近づいて来たので、はッとなった澤田は片手を袖の中に引っこめ、片手で煙草をふかしながら
 いとしき妻を金にして
 洋行するよな
 僕じゃない
 ──と、うろおぼえの歌を唄いながら、ゆっくり歩いた。近づいて来た男からはぷんと酒の匂いがした。見ればどうやら宿にあぶれた立ん棒らしい。すれ違って二三間遠ざかると、ふいとその男が大きな声で唄い出した。
 理想の妻をゥ
 金にしてェ……だい!
 馬鹿野郎!
 ──澤田は振返って苦笑した。
「なるほど、理想の妻か?……」
 彼れは、角をまがって広い往来へ出た。
 英子のやつ……俺にとって……理想の妻かも知れないぞ、あいつはちゃんと、万一の場合のことを考えていやがったんだ、今夜、あいつは実に落ついていやがった。草履と煙草、マッチ、!米屋の露路、そして往来(おうらい)へ出たら走らずにゆっくり行けとさ……金色夜叉(こんじきやしゃ)を歌いながらだって……その金色夜叉をたった今俺は間違えて酔っぱらいの立ん棒に馬鹿野郎とどなられた。俺は馬鹿野郎だ、チェッ! 俺の内に巣くつている「インテリ」め! 早くどっかへ消えてしまやがれ! 今夜の様な場合、俺なんかよりも英子の方がずっと落ついているじやないか! 英子は労働者の娘だ、あの女は本当のプロレタリヤの魂(たましい)を持っているんだ! あの女は可愛い! 今頃あいつは巡査や刑事に取巻かれているだろう。悪くすると引張って行かれたかも知れない、ああ無事でいてくれろよ! 可愛い可愛い同志英子! 電車通りに添って歩いているうち、澤田はだんだん英子のことを思いつめて興奮していた。そして手に持った煙草の火が消えているのも知らなかった。
 気がつくと、あわてた様に立止まってマッチをすった。夜が更けているので交番の前を通る時にかれは巡査に呼びとめられた。住所氏名を聞かれると、早坂の名前と住所を答え、どこへ行くんだとの問いに対して、夜明の汽車で上野へ着く母親をむかえに行くんだ、といった。
 かれはこうして二カ所の交番で不審訊問(ふしんじんもん)をうけた。二度目の交番へ呼びこまれた時などは身体検査までされて「職業は何だ」と聞くので「隅田鉄工所の職工です」と答えると、いきなり手をひろげさせられた。そしてこぶだらけの掌を見た巡査は、「今夜うろうろ歩いているとあぶないぞ!」
 といった。
「へえ……何かあったんですか?」
 と澤田は聞いた。
「早く行け行け!」
 巡査は相手にならなかった。こうして澤田が、やっと参平の下宿である煙草屋までたどりついた時は午前四時だった。
 参平は眼を擦り(こすり)擦り起きて来て、
「どうしたんだ今頃?」
 と澤田を内(うち)へ入れてくれた。
「どうしたんだか、今夜ふいに刑事達に寝こみをおそわれたんで、あわをくつて逃げて来たんです!」
「だって争議はかたづいたんだろう?」
「ええ……だからまるでわけがわからないんです。二三日先生のところへかくまってくれませんか、ここなら大丈夫だと思って逃げて来たんですがね。」
 と澤田は参平にいった。

第十五章(五)  第十五章TOPへ

 その一夜が明けた。──
 英子は外出するなら尾行をつけるといわれて、おとなしく二階に坐っていると正午(ひる)の笛(サイレン)と共に階下で、
「御免なさい」
 という声がした。英子は階段を降りて行った。
 ゆうべから、あのまま彼女の家には腕っぷしの強そうな一人の刑事が張こんでいる。その刑事が土間の上り口でごろりと横になってうたた寝をしているところへ表の戸が開いたので、彼れは眼をこすってとび起きた。見ると、美しい断髪の女が、いい身なりをして入口から、半身を土間へふみこんだところだ。
「何です?」
 と刑事は聞いた。
「あのう……、澤田さんはいらっしやいませんか?」
 ──刑事はたちまち眼を光らして、その女を土間の中へ引きずりこんだ。
「澤田にどんな用事があるのかね?」
「用って……あたし、ちょつとお目にかかりたくつて伺ったんですけれど……」
 と、女はびっくりしてどぎまぎしている。
「何ていう名前だ、君は?」
 と、刑事は女のふところをさぐったり、オペラバッグを引ッたくつて、中をしらべたりしはじめた。
 階段の途中にふみ止まって、それを見ていた英子は、みたこともない美しい女なので
「いらっしやいまし」
 と、かたい表情をしてそこへ下りて行った。その女は品子だった。
「何をなさるんです、いやだわ、ほんとうに」
 と品子は刑事の手を払いのけて
「こんちは」
 と英子に御辞儀した。
「今日お留守? 澤田さんは?」
 と、そして彼女はすこぶるのんきそうに訊(き)いた。
「ええ、居ません!」
 英子の答えはひややかだった。
「まあ、どっかへ御出かけになったの?」
「ええ、ゆうべ出かけたっきりまだ帰って参りません」
「あらいやだわ、どこへいらしたんでしょう?」
「あたくしにはわかりません」
「困っちゃったわね、あたし今日ぜひ逢いたいんですけれど……」
「それじゃどんな御用だかあたしが伺っておきます」
 と英子は品子を見つめた。品子は英子の存在を今やっとはっきり頭にいれたらしく、彼女の方を驚いたようにながめて、
「まあ失礼! あなた澤田さんの御妹さんですか知ら?」
「いえ! あたくし澤田の家内でございます!」
 と英子はきっぱりいってのけた。
「まあ!……」
 品子はびっくりしてまじまじと英子を見た。やがて彼女の頬は赤くなった。彼女は慌ててそわそわしながら、
「うそでしょう? あたし澤田さんに奥さんがあるなんて今まで聞いたことありませんわ」
「失礼ですが、あなたどなたでいらっしやいます?」
 英子は落ついていった。そして何て妙な女がこんな時に舞いこんできたんだろうと思った。
「じゃ又その内伺ってよ」
 品子はそそくさと出て行こうとした。
「おい、一寸待て!」
 と刑事が品子の肩をつかんで引きもどした。

第十五章(六)  第十五章TOPへ

 品子は刑事に引張られて、よろめきながらあとへもどった。
「名前をいえったら! 名前を!」
 と、刑事は団栗眼(どんぐりまなこ)をむいて彼女をにらみすえた。
「まあ、失敬な、なんですかあなたは?」
「俺は警察だ!」
「あら、あたし、なぜ警察の人に調べられるんでしょう?」
「貴様、澤田の色女だろう?」
「それがどうしたの、色女だったらいけないの?」
「貴様どこに住んでいるんだ?」
「両国の△△町五一一番地よ!」
「何の商売だ一体きさまは?」
 と刑事はがむしゃらに品子の名前や職業をききただした。品子はおろおろしてしまい乍ら
「もういいんですか帰っても?」
 と、土間に立っていた。
「いや、いかん!」
 刑事は首を振った。
「なぜいけないんです?」
「だまって、そこにかけて待っとれ!」
 品子は、おっかなびっくりで框(かまち)に腰をかけた。そしてオペラバッグから小さな鏡を出して、しきりに化粧をなおした。
 その時までひややかにながめていた英子は黙って二階へあがって行った。
 階段をあがって何気なく入口の襖(ふすま)を引開けた彼女はふみこんだ片足がぶるるッと震える位色をうしなった。たった今降りてくる時までは彼女一人で居た二階の部屋に、きたない背広を着た大きな男が大の字になって寝そべっているのだ。
 気丈な英子だからこそ、びっくりしただけで声はたてなかったが、彼女は入口に身がまえて「誰?」と低く声をかけた。
 するとその時寝ていた男が首をあげた。
 見れば、此の間争議の時に応援に来てそのまま行衛(ゆくえ)不明になった神戸の鳥羽ではないか?
「まあッ!」
 と、声をたてかけた英子に向かって
「シッ!」
 と鳥羽は口に指をあてて見せた。
 英子は、半身を起した鳥羽のそばへ、とびつくようにぺたりと坐って
「どこからきたの、下にいてよ、スパイが!」
 とささやいた。
「知っている」
 と、鳥羽はとても低い声を出した。
「ここへどっからはいって来たの?」
 すると鳥羽は黙って裏に面した窓を指さした。ゆうべ澤田が逃げだしたその窓を!
「あなた、危いでしょう! ここにいちゃ!」
 と英子がささやくと鳥羽はうなずいて
「うん……今前をのぞいたらやつが居るので、裏へまわって米屋の露路から魚屋の屋根へ電柱をよじのぼって、ここへ這入った(はいった)んだ、とても疲れて眠いから夕方まで休ましてくれ、いいかい」
 というとそのまま彼れは又畳の上にごろりとなった。
「だって、あぶないわよ、鳥羽さん」
「なあに、俺があんな頓馬な奴に捕まって堪るものか、大丈夫だよ」
 と、鳥羽は手枕をして眼をとじた。英子はこんなところでかれに寝てしまわれては、万一あの刑事が何かのついでに上へあがってでも来たら大変なことになると思って魂が消えそうに不安でこわかった。しかし鳥羽はいかにも疲れて居るようなので彼女は澤田の蒲団を出してそっと着せてやった。
「澤田君は?」
 と、彼れはねむそうにそっと訊いた。
 英子は澤田のかくれている参平の家の場所をそっと教えた。
「そうか」
 とうなずいて、
「英子さん要心しろよ。全国的大検挙が始まったんだぞ!」
 といったまま、鳥羽はかすかにいびきをたてながら眠ってしまった。

第十五章(七)  第十五章TOPへ

 間もなく交代の刑事が来た。いれかわりに最初の刑事は品子を連れて帰って行った。多分彼女の家に澤田が潜伏しているかもしれないと思って調べに出かけたのだろう。
 英子は何とかして鳥羽が目をさましたら食事をさせてやろうと思って、玄関に張りこんでいる刑事のすきをうかがっていた。彼女は二階から降りて、台所で飯を炊いた。台所の次ぎの小さな暗い部屋で、彼女は父と一緒に昼飯を食った。
 そのすぐ外の玄関の二畳には、刑事が居た。刑事は時々外へ出たり入ったりしていた。
 澤田が帰ってくるか、それとも澤田をたよってくる者があるかと網を張って待っているのだ。
 ところが網にはもう既に大きな鳥がかかっているのだ。
 しかもその鳥はつい目と鼻の二階で、前後も知らず昼寝をしている!
「あの人は何という大胆な人なんだろぅ!」
 と英子は、鳥羽にくらべると、澤田なんかはプロレタリアートの先頭に立つ共産党の同志としてまだまだあまりに小さな人間だと思いながら、梅干の種ぬきをつめたにぎり飯をこしらえていた。
 彼女は握り飯を布巾にくるんで、洗物を絞ったのと一緒に洗面器に入れて二階へ持って上った。
 その時彼女は襷(たすき)をかけていた。
 土間にいる刑事はじろりとそれを見たが、物干へ洗物を干しに行ったのだな、と合点して別段それ以上気をつけなかった。
 彼女はまんまとそうして握り飯を二階へはこび上げた。
 その次に同じ手段で漬物と目刺の焼いたのとを持って上った。
 そうして寝ている鳥羽をそっとゆすぶり起した。
 鳥羽は眼をこすって起き上ったが、前にならんでいるたべ物を見ると、たちまち子供のような笑顔になって、だまって英子の方をおがむまねをしながら握り飯にかじりついた。
「イマ、オチャ、ヲ、モッテ、キテアゲル」
 と英子はエンピツでそこにあった紙にかいてみせた。
 鳥羽はすぐにそのエンピツをとって
「階下(した)にいるんだろう? スパイが」
 と書いた。英子はうなずいた。
「じゃ、よせよあやしまれるとあぶないから」
 と紙に書いてみせたのはさすがの鳥羽も要心をしている。
「大丈夫よ!」
 と立上った彼女は階下をのぞきながら
「お父つぁん!」
 と呼んだ。
「何じゃ!」
 と父が階段の下へ来た。
「インクがこぼれたのよ、早く雑巾(ぞうきん)と茶瓶を持って来て頂戴!」
「そうか……」
 と、父はあたふたと台所へ引返して、いいつけられたものを持って来た。英子はそのまえに、もうちゃんと茶瓶を火にかけて沸かせておいたのである。
「お前、また澤田さんのものをやたらになぶって畳なんかよごしとくと叱られるよ」
 と言い言い父は階段の中途で茶瓶と雑巾を娘に渡して降りて行った。鳥羽は、英子の芸当にすっかり感心して、ひげだらけの頬をゆるめ、ポカンとロをあいて拍手の真似をして見せた。
 彼女は鳥羽の前に坐って、澤田の机の上にあった湯のみに熱いお茶をついでやった。
 たらふく喰いおわった鳥羽は、またごろりと横になって、のんきそうに大きなあくびをした。そしてのびのびと手足をのして、再び心よさそうに眠ってしまった。
「まあ、何という図太い魂だろう……天川を殺したのはきっとこの人だわ、あんなあぶないことを平気でやってのけるのはこの人でなくっちゃ出来やしないわ、同志! 本当に何というすごい、力強い同志だろう!」
 と、英子は鳥羽の髭面をながめていた。
 ふと、眠っている鳥羽の、蒲団の襟(えり)からはみ出しているズボンのポケットに、ふくらんでいるものが、どうやらピストルの恰好をしているのを、英子はみた。
 そっと英子が階下へ降りて行ってみると監視に労れ(つかれ)たのか刑事も玄関の畳に片ひじをついてうたたねをしていた。
 灯がついた。英子は、苦心をしてまた鳥羽のための夕飯の握り飯を二階へはこんだ。
 鳥羽は喜んで又それを食べながら
「英子さん、君はこれからどうするんだ、もう逃げた方がいいぜ!」
 半ば手まねでいった。
「あたし?……でもしばらくは動けないわ、ああして見張がついているんですもの」
「そうか、じやここにじっとして居たまえ、そしてスキをみて今君のおしえてくれた……野々村といったな……その先生の家へ逃げてきたまえ、連絡をつけておくから」
「あなたはどうなさるの?」
「俺か、俺はこれから日本中を逃げまわるんだ。実はゆうべ神戸で捕りかけて巡査をなげ飛ばして逃げたんだ、それから汽車を三度も乗替えて東京まではいって来んだがね、当分は、東京に居るよ。これから澤田君に逢ってこよう」
 と、いってもう立上ったか。
「じゃ随分気をつけてね」
「君こそ気をつけ給えよ、党員だということをやつらに決して、さとられないようにし給え、当分は大丈夫だろうけれど……」
 といいながら、彼れはそっと暗い屋根の上へ出た。そのまま鳥羽の姿は消えた。
 階下へは交代の刑事が来たとみえて二人で何か話し合ってる声が聞えた。

ゴ ー・ス ト ッ プ  分割file・5(13章〜15章)終
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