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   小林多喜二虐殺前後の人間群像              

                        ----貴司山治の小説「子」について
                     
                                              伊  藤   純

 貴司山治の五〇枚の小説「子」は、小林多喜二の拷問死前後を直接に扱った小説であり、その虐殺が行われた一九三三年(昭和八年)二月二〇日に近い同年八月の改造に掲載された。虐殺に極めて近い時期に書かれ発表されたという点で注目すべき作品である。
 その凄惨を極めた拷問死の実態は、当時、在京の主要な大学医学部が屍体の検証を拒み、公的にはそのような虐殺は存在しないものとされた。虐殺は、関係者には目前の事実であったにもかかわらず、そのことに触れるのは最高のタブーであり危険なことであった。
 従って、この小説では、多喜二の虐殺そのものを題材としながら、拷問死の記述は一行もない。ただ、通夜の場面で、多喜二(成田という名前で描かれる)の遺体に対面するが、その遺体の顔色は「汗をかいた後のやうな青白い表情」とだけしか書かれておらず、さらにその遺体の状況は----

「三尾は少し蒲団をめくつてかれの胸の所をはだけてみた。……ついこの間の血色はそこには失はれてゐた。そして何の真似か、バンソーコーの小さなきれっぱしが左の乳の下にはりつけてあった。」(下線は改造誌上で削除された部分)

 とだけ記されている。凄惨を極めた拷問死の証跡(*) のことは一言も語ることのできない時代だったのだ。「何の真似か、バンソーコー一片」というのがぎりぎりの抵抗的表現であり、それも伏せ字とせざるを得ない状況だった。
 この小説は多喜二の虐殺という事実をレポートするものではない。にも関わらず、この事件が、人の心と時代の変転のどまんなかに真っ黒な深淵を開いて見せた、その恐ろしい有様を描出し、ひそかに事件を記念しようとした作品である。

 *)小林多喜二への拷問と屍体の状況については、江口渙が、小林と同時に捕まった今村恒夫の話や、引き取った遺体を安田徳太郎医師とともに直接調べた所見にもとづいて以下のように記録している。
 ----拘引された警視庁築地警察署において、寒中、丸裸にして細引きで後ろ手に吊し上げ、ステッキや木刀での乱打を皮切りに、気絶すると水をかけて息を吹き返させ、様々な拷問を二時間以上繰り返し、一九三三年二月二〇日午後四時頃、死に至らしめた。
 屍体の状況は、顔面に五、六箇所の打撲と内出血、首を一周する内出血を伴う細引きの跡、両手首にも内出血をともなう索状痕、下腹部、太股は一面に暗紫色の鬱血状態で、腹、太股、陰茎、睾丸までがはちきれそうに膨満し、異常な大量の内出血が下半身全部に充満し、内臓や腹部の血管が激しく損傷していることを思わせた。
 さらに、太股には錐か釘を打ち込んだと思われる皮膚がやぶれ肉が露出した穴が十数箇所も認められた。
 脛には角材などの強圧でできたと思われる削り取られたような傷跡がいくつもある。
 さらに多くの人々に惨劇の極地を感じさせたのは、右人さし指の骨折である。これは指を逆方向に強引に折り曲げてへし折られたともの考えられた。
(江口渙;われらの陣頭に倒れた小林多喜二.定本小林多喜二全集七巻,新日本出版社,東京,1969,152-154.----から要約)


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 この小説は、「子」という題名に象徴されるように、表面的には肉親の愛、家族の愛、といったものを主題とするかのように滑り出す。生後半年ばかりの、主人公三尾の乳児が、主題展開の狂言回しのように使われる。三尾とは疑いもなく貴司自身であり、そうなると、その「子」は私自身ということになる。生後半年のことはいくらなんでも覚えてはいないが、描かれている背景はその後の私の記憶とよく一致していて、ほとんどフィクションは感じられない。
 三尾が貴司であれば、山村は中野重治、岡は中野夫人の女優原泉、成田はいうまでもなく小林多喜二その人である。また、日本現代文学全集(講談社刊)の月報三五号所載原泉さんの「あの頃のこと」によると、デスマスクをとる話で登場する演出家小川は千田是也、手伝った若い彫刻家は佐土哲二(国木田独歩の次男、榎本武揚の孫)である。
 導入部は、その“愛らしい”赤ん坊がさんざんに利用されて肉親愛の一般的な有様がいやというほどふりまかれる。時期としては、小林多喜二虐殺の一週間か十日くらい前という設定だから、一九三三年二月上旬ということになる。(*)

*) 一九三四年三月二六日の貴司の日記に「小林に呼び出されて面談し、その十日ほど後に小林は殺された」という記述がある。(貴司山治;日記(一).『国文学』81号(関西大学国文学会,平成12年11月30日刊 .133頁下段)
 また、戦後書かれた「一九三三年」という小説(未発表・この資料館に掲載)には、1933年2月に小林と会い、作家同盟の立て直しについて相談を受けたことが書かれている。


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 そして、第二のシーンは、若干時間がさかのぼって、一種の回想シーンとなる。作家同盟のアジトで機関紙の文学新聞を作っている、緊張と疲労に満ちた情景の中での、中野重治とおぼしい人物との、常に危険と隣り合わせの生活を強いられる左翼活動家が、家族や子供についてどう考えるべきかという議論である。ここでは、中野とおぼしい人物の、ナイーブな人物像が印象に残る。
 貴司は一九三一年十月に作家同盟中央委員になり、機関紙編集に携わっているので、その冬の頃の情景が背景になっていると考えられる。
 なお、この二つのシーンでしばしば、早春の薄緑の空と、三月十五日という日付が説明抜きで語られるが、これはいうまでもなく昭和三年(一九二八年)の最初の大規模かつ組織的な共産党弾圧の開始を告げた三・一五事件をイメージするものであろう。「明日は十五日だね」と言い合うというのは、その「記念すべき日」に思いを致すことであり、早春の薄緑の空も、三・一五事件を想起するシンボルとして扱われているようである。
 因に「三.一五」は、単に大規模な左翼検挙事件というだけではなく、これ以降左翼活動家にたいしては拘禁と拷問が普通のこととなる。田中義一内閣によってもたらされた、この内政面での「警察テロの常態化」と外政面での「中国出兵」は、日本がファシズムの時代になだれこむ昭和史のメルクマールとして位置付けられる。

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 次いで第三のシーンは、一九三三年にもどって、突然非合法潜行中の成田、つまり小林多喜二から逢いたいというレポがくる。そして渋谷道玄坂上の小さな天ぷら屋で会うのだが、成田が急に会いたくなった理由というのが、数日前街頭で、三尾、つまり貴司の幼子とのなごやかな風景をたまたま目撃したためだという。ここで、冒頭のエピソードが伏線であったことが分かる。
 成田は、三尾の幼児とのなごやかな風景を目撃して、なぜか、潜行中のアジトに帰ってから、一人激しく泣いた、と告白する。それは、もう半年逢っていない母親への激しい恋慕が根底にあったからだということが語られる。成田は、母一人子一人の超母親っ子であることが回想される。ここでも、成田という強固な指導的活動家が、恐ろしいまでにナイーブでみずみずしい、十代の少年のような純情無垢な男として描かれる。
 おそらくこれは、そう誇張ではないのだろう。曲球の投げ方をしらないように、虐殺されるまでまっすぐに政治活動と作家活動に立ち向かっていった生真面目な人物の、半ば真実、半ば小説的な表現なのだろう。
 この時点での小林や中野とおぼしい人物の描き方は、ほとんど同性愛ではないかと思える程に生ま生ましい。
 そしてさらに重要なことは、ここで、家族愛とか男女の愛という、いわば近代的、自然主義的な人間観からでてくる「私生活」のモティーフと、社会主義実現という政治的当為、倫理的至上命題(……と当時の社会主義運動の中で信じられていた)にたいする「絶対的従属」という一種の「公的生活」との整合を……既に当時の時点でほとんどの人が放棄し逃避したその「整合」の作業を、いかに成田(すなはち多喜二)がなそうとしたか、主観的には、その作業にいかに成功をおさめつつあったか、ということを、成田自身の言葉として語らせていることである。
 この主題は、多喜二の遺作ともいうべき「党生活者」の内容と深く関わっている。
 「党生活者」には、倉田工業(藤倉電線東京工場がモデルとされる)での労働者の闘争を舞台として、その闘争をオルグする共産党員「私(佐々木)」の、厳しい官憲抑圧下でのオルグ活動と、母親、および支持者であり後には同棲にいたる女性笠原、などとの「私生活」という二つの側面が描かれる。そして、ことに「私」と「母親」との関係においては、たとえ「これから何年目かに来る新しい世の中にならない限り……私は母と一緒に暮らすことがないだろう」というように「最後の個人的生活の退路----肉親との関係を断ち切ってしまっ」ても、その母親との紐帯を確信していられるような関係が成就されつつある有様が叙述されている。
 貴司は、虐殺直後に厖大な削除と伏せ字をともなって中央公論誌上に掲載された「党生活者」(禁圧を回避するために「転換時代」と改題され掲載された)の掲載や解題に関係しており(*)、また、その翌年の小林多喜二全集の編集刊行にも深く関わっていた。(**) 当然、削除伏せ字のない「党生活者」の内容を知悉していたはずである。

*)「題名の改題は、作者の没後、編集者と作家同盟の貴司山治、立野信之との協議によるもので……」(改題.定本小林多喜二全集第八巻,新日本出版社,東京,1968,221).
**) 前出の未発表小説「一九三三年」にはその年、地下潜行中の宮本顕治から小林多喜二全集刊行について相談を受けたことが書かれている。
 また、一九三五年一月一五日の日記に多喜二全集がナウカ社から出版されることが決まったという記述がある。
「 小林多喜二全集をナウカ社から出すことに旧臘に話がきまりその編輯についてこの間、中野重治を同道、同社へ行って社主の大竹氏と相談し、小説のみを三巻に分けて出すこと……等の条件をきめてきたので、その編輯をするため、佐野順一郎をよんでおいたら、今朝やってきたので仕事の要領をたのんでおいて東京へ出る。」
 佐野順一郎とは高知出身の作家で当時貴司宅に寄寓していた。(貴司山治;日記 四. 『国文学』第86号(関西大学国文学会・平成15年2月17日刊24頁.)

 この「子」という小説は、伏せ字削除だらけの「転換時代」を補完し、ことにその重要なモチーフである、党活動を完遂しながらなおかつ「孝行息子」であるという究極の地点を描こうとした、その主題を、身近に小林を知る第三者の目からリフレーズしようとしたものと考えられる。
 ともかく、「子」で描かれた成田の、母を恋うる激烈な情愛のナイーブな物語りは、この小説の主要な部分となっており、それは、次の虐殺後の葬儀のシーンへの伏線としても重要な役割を負うのである。
 因みに、「党生活者」での「私生活」の描き方をめぐっては、笠原というハウスキーパーまがいに扱われている女性の描き方についての論難に端を発した平野・荒・中野論争があり、他方では 「ここに描かれた“私”の像は、それとの関係で描きだされた母親の像とともに、日本文学史上まったく空前のものであり……新しい革命的人間像の濃密な文学的表現として、他に類を見出しがたいもの」(*) というような高い評価も与えられている。

( *小田切秀雄; 小林多喜二---「小林多喜二問題」追補.「社会文学・社会主義文学研究」, 勁草書房,東京,1990/初出は近代文学研究,1968))

 しかし、社会主義実現のための政治行動が最高の当為であり倫理であるという価値観自体が崩壊した現在、そのような価値観をとりはらった地点でなおかつ、「確信者の文学」としての有効性が成立し得ているかどうかは検討を要する。ことに、小田切も既に指摘しているように、「党生活者」では、政治的実践者である“私”の生き様自体が、小説のリアリティを担保するものとして読者に向かって差し出されている。つまりは、私小説伝統に準拠した構造をもった小説なのである。このことが、この作品の物語性、大衆性を狭め、政治的実践者の身の上に直接影をおとす政治の狭さが、読者とともに広がるはずの創造の世界を狭めている、と私は感じる。
 ここは「党生活者」を論じる場ではないのでこれ以上は触れぬが、このことはいわゆるプロレタリア文学を考える上で避けて通れぬ問題であるし、また、閉ざされた非合法世界の実践者小林を、彼岸に隔てられながら眺め気遣い暗涙をながすしかない傍観者貴司という「子」の基本構図のよってきたる所以もまた同じ根に発することであろうと思う。

◆◆◆

 第四のシーンは、忽然として成田の葬式の場面である。全身が激しい打撲と内出血で、紫色の袋のようになりはてた多喜二の遺体を中央に据えながら、人々はそのことを一言も語ることが許されない。心臓麻痺という自然死として弔うしかない葬式である。
 三尾は成田のデスマスクをとる石膏探しに東京中を走り回る。これは貴司本人からよく聞かされた実話である。
 そして、人々は、息子の突然の凄惨な死に号泣する母親の姿に直面する。その悲しみのあまりの激しさに人々は不安を感じ、やりきれない絶望を感じる。
 小説はここで終る。これ以上、何を語ることがあるだろうか。

 もっとも、この先に奇妙なつけたりのシーンがある。
 最後に再び乳児が登場して、不思議な「夜明けの家庭劇」が演じられるのである。表面的に読むと、悲惨な通夜から帰った作者が、そのどうしようもない鬱屈を、未来の革命の働き手となるかもしれないと夢想しながら、まだ一歳に満たない乳児をあやすことでまぎらせる、という出口のない苦しい一シーンとしかよめない。
 しかし初稿にはここに、作者の屈折した暗喩が埋め込まれている。

 三尾は……眠ってゐないための重たい神経の疲労の中で、両腕に抱いてゐる子供の重みを感じて、
「まあ公は重たくなつたね。さあ逆さにつるしてやらう。稽古だぜ……」
 と、子供の体が逆立ちする位ふり廻しながら部屋中を歩き廻った。子供は乱暴な刺激を喜んで体中をそりくり返らせつつ
「ア、ア----ア」
 と小鳥の様に叫び立てた。
「よしなさいよ、そんなことするとバカになります。」
 細君はそれをいやがりながら、台所の方へ立って行った。  (了)

         *アンダラインは伏せ字部分


 ただこれだけのシーンだが、「逆さにつるしてやろう。稽古だぜ」とは、いったい何の稽古だというのだろうか? しかもここは伏せ字にされている。
 疑いもなくこれは「吊す」という警察の拷問の手法、とりもなおさず今対面してきた多喜二の体に加えられた拷問を暗喩する言葉と考えなければならない。そう考えれば、「稽古だぜ」という唐突な言葉の意味も解ける。
 このすぐ前の部分で、「お前は、一っぱし働き甲斐のある『子』になるかな? え、おい?」などと冗談半分ではあるが未来の闘士たることを期待するような口吻を漏らし、「どうだか、わかりませんよ。あなた次第です。」と細君にたしなめられている。「稽古だぜ」とは闘士が当然遭わねばならない警察の拷問に対する「稽古」と解するほか無いのである。
 実際、当時の警察では、ことに社会主義者にたいしては、後ろ手に吊り上げてさまざまな拷問が常習的に加えられた。吊るすというのは警察の拷問のシンボルの意味を持つ。
 きわめて屈折した表現だが、多喜二虐殺の数ヶ月後という緊迫した状況が滲む文言といえる。
 ところが、改稿によってこの部分は----

「恵吉は重たくなつたね。」
 と、部屋中を歩き廻った。子供は乱暴な刺激を喜んで体じゅうを反りくり返らせつつ「ア、ア−−ア。」と小鳥のように叫び立てた。
 夜はまだ明けなかった。

 と、暗喩はすべて削除され、単に子供をあやして憂さをまぎらすというだけの情景になり、「夜はまだ明けなかった」というとってつけたような終わり方になっている。この改訂は戦後の改稿でも維持されている。その真意は不明だが、改訂前のような持って回った暗喩は「引かれ者の小唄」の類でみっともないとでも思ったのだろうか?

◆◆◆

 この小説は、多喜二虐殺という凄惨な事件を、その間近な時点で、検閲をかいくぐるために虐殺の具体像には触れぬままに、時代のブラックホールのような深淵をのぞかせる形で描いたといえるだろう。
 ただ、いくらかの事実関係もその背景にはある。貴司はこの時期、一回ないし数回、潜行中の小林に会っているようである。当時小林は既に作家同盟の共産党フラクションより上位の、党中央委員であったと思われるが、(そのことは、この小説の中でも「えらくなった」といういい方で語られている)その党中央委員が作家同盟フラクションをうまくコントロールできなくなっており、対策の一部として非党員である貴司などに協力を求めた、というようなこともあったらしい。*)

* )「小林は出獄早々の私をよびだしての話に、作家同盟のフラク(党メンバー)たる鹿地(鹿地亘)と対立し、自己の方針を伝えることができなくなって、私を中央部に入れ鹿地に当たらせようとした。F(フラク)でない人間をFである人間にあたらせるために使うというのは組織的に大きな間違ひで、そんなことよりもまづ鹿地の組織的処置が先決問題だといって私ははねつけた。それから十日程して小林は殺され……」(日記1934.3.26記載)
(貴司山治;日記(一).『国文学』81号(関西大学国文学会,平成12年11月30日刊 .133頁下段)

 しかし、もはや時代は貴司一人がなんとかできるような状態ではなかった。翌昭和九年(一九三四年)二月には作家同盟は解散している。この辺りの事態は、小林ら当時の共産党中央の硬直した極左的指導が、作家同盟を衰退と解散に追い込んだと総括される歴史的過程である。*)

*) 伊藤純;「芸術大衆化論争と貴司山治――「私の文学史」をめぐって」.この「貴司山治net資料館」に掲載

 日記に記載されているとおり、貴司と小林の密会は実際に行われたと考えられる。ただ、密会の主題はこの小説のような母親恋しの話ではなくて、作家同盟をどうするかという相談だったと思われるが、当然「子」にかかれたような「雑談」もなされたのであろう。
 この小説は、あの社会主義運動のどんずまりの時代の、多喜二虐殺事件前後の暗く緊迫した雰囲気を伝える記録としても読むことができる。 (2003/11/5、2015/7/15修正)   TOPへ戻る