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  沖縄本島南部戦跡の旅
           風化に抵抗する「ひめゆり平和祈念館

                                      伊 藤  純 (文・写真とも)

     ●陽気な風化「平和の石礎(いしじ)」

 9月、3日間レンタカー乗り放題という格安のツアーに乗って沖縄にいった。
 南部戦跡地区の中心、摩文仁(まぶに)の丘のふもとに新たに造られた「平和祈念公園・平和の石礎(いしじ)」は明るい広大な公園である。巨大な資料館の建物は、どうみてもレジャーホテルとしか見えない。
 そして、その前庭の広大な芝生には、沖縄戦の死者すべての名前を彫り込むための無数の黒御影の石板が連なる。あちこちに空欄が残されているのは、今後判明するであろう多数の死者のための空間である。
 その真ん中に、沖縄を訪れたクリントンが、もの凄い汗を流しながら……なぜかその汗によって異様に印象づけられた鎮魂の演説をした円形の石畳があり、その先は、無限の海である。
 そして、この公園の背後の低い丘陵・摩文仁の丘を登っていくと、以前から営まれていた各県の慰霊碑が、丘の斜面を延々と埋めている。その緩やかな坂を上り詰めると、丘のほとんどてっぺん、その向こうはもう、断崖と海しかない頂に、30年前訪れた時と同じように、それはあった……
黎明の塔
     ●「黎明の塔」は、そこにあっていいのか?

 「黎明の塔」と名付けられた尖塔がそこに屹立しているのだ。
 それは、沖縄戦の日本軍の直接の責任者である牛島司令官と長参謀長を祀る碑である。下部の碑面には次のような碑文が刻まれている。
    「第三十二軍は沖縄県民の献身的協力を受け力闘奮戦三ヶ月に及んだ
    がその甲斐も空しく将兵悉く祖国に殉じ軍司令官牛島満大将並びに参謀
    長長勇中将此の地において自刃す……茲に南方同胞援護会の助成を得
    て碑を建て永くその偉烈を伝う……財団法人沖縄遺族連合会 昭和三十
    七年十月」
 私は、以前来たときも、また今回も、黎明の塔と名付けられた記念碑が、すべてを見下すこの頂に存在することと、またその足下に刻まれた碑文に違和感を感ぜずにはいられなかった。
 黎明とは夜明けのことである。一体この黎明とは何の夜明けを意味するのか?
 この碑の高みからは、眼下に、数えきれない女や子供や兵士が身を投じた断崖と、その無数の屍体が水面を覆い尽くしたという海とが見える。また、反対側をみると、沖縄戦の最後の戦場となった南部の平原が見わたせる。それは平原とはいっても、低い丘陵に取り巻かれた、思いの外狭い盆地のような場所である。車でなら5分もあれば横切れてしまう。
「沖縄戦で何十万かの人が死んだというのですが、それが、この狭い原野で起こったことだと思うと、そのすさまじさがよく分かるのです。この狭い原野を数十万の人々が右往左往して、そして屍体になっていったのですから」
 と、以前きた時に案内してくれた沖縄の人がいった言葉が記憶に残る。(沖縄戦での日本側の死者約20万、内沖縄住民9万4千、沖縄出身の軍人軍属2万8千……「沖縄の福祉」平成元年版)
 その惨苦の現場責任者たる将官たちは、その惨苦を眺めながらどのような「黎明」を夢見たのか。いや、さらにいえば、この碑は、その惨苦の時からわずか17年後に建てられている。その時、これを建てた人々は、何を夢見て「黎明」という言葉を、また「偉烈」という言葉を石に刻むことができたのか。そしてその碑を、惨苦の現場を睥睨する高みに建てることができたのか。
 確かに、司令官も参謀長も、もうどうにもならぬ戦局の、破綻し無責任化した統帥の一端を担わされた不幸な現場指揮官にすぎなかったのかもしれない。
 しかし、沖縄戦は初めから、波打ち際で戦い島と住民を守るという上陸防御の常識をとらず、米軍を内陸に引き込んで、住民を百%戦闘に巻き込むことでいくらかの時の利を得ようとする焦土戦術をとった。そして現実にその通りの地獄絵を現出させた。
 それが、碑文でいう「沖縄県民の献身的協力」であり、大田海軍少将の有名な中央への電文「戦後県民に格別の配慮を」ということの実態であったと考えるほかはない。
 そのような戦いを指導した人々と、17年後にそれを顕彰する碑を建てた人々とにとって、「黎明」とは、「偉烈」とは何だったのか?
 今も摩文仁の丘の高みから戦野を睥睨する「黎明の塔」は、煎じ詰めていえば、今なお殺す側の進軍ラッパとしてそこに屹立していると感じるほかないのだ。
 だとすれば、無数の殺された人々の言葉は、どこかに残されていないのか? 残されていなければ、バランスがとれないではないか。

             ●ひめゆり平和祈念館

 そして、その思いは、ひめゆりの塔に隣り合って設けられた「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れた時、かなえられた。
 ひめゆりの塔は、いまでも観光の一つのポイントになっている。しかし、かって沖縄女子師範と第一高女の少女達が隠れ潜み、野戦病院の補助員として働いたガマ(石灰岩洞窟)は、柵に囲まれ樹木や花に覆われて、それと説明されなければ分かりにくくなっていたが、そのガマの記念碑の傍らに両校の同窓会の手によって平和祈念資料館が建てられているのである。
 この祈念館は、よくある、通り一遍の資料や年表をガラスケースにいれて展示するだけの「記念館」とはだいぶ違っている。あの昭和20年の初夏にこの地で起こった惨苦と死を、今の人々に伝えずにはおかぬ、という迫力に満ちた展示が行われている。
 そこには、恐らく建物三階分くらいの大きさの巨大なガマが原寸大で再現されている。ある部屋には、生き残った同窓の人々が書き記した惨苦の記録が、その生の文字のまま大きく引き延ばした冊子として、一つ一つおいてある。参観者は、自由にそのページを繰って読むことができる。
 因みに、女子師範と第一高女から戦線に動員された生徒と職員は320名余、そして死者は219名に達した。この、辛くも生き残った100人ほどのほとんどの人が、生き証人としてあの戦場の惨劇を書きとどめているのだ。
 それを読むと、あの「黎明」といい「県民の献身的協力」といい「偉烈」といったうそうそしい言葉の中身がなんであったのかが、はっきりと分かってくる。

            ●生き残った人々の証言 

◆南部戦場で起こったこと
 16歳から19歳の少女達は、南風原(はいばら)陸軍病院に配属されて、壕掘り、水くみ、食料調達、手術の蝋燭持ち、切断肢の抑え役、包帯交換、傷病兵の食事や排泄の世話、切断肢や死体の処理などの任務を課された。しかし間もなく陸軍病院自体が戦火に追われて南へ逃避し、悲惨の極地に陥っていく。
 そして、昭和20年6月18日、追いつめられた軍は突然、軍病院に解散を命じ、一切の責任を放棄して生き残った少女や負傷者を戦場に放り出した。組織を失い孤立した少女達は、断末魔の戦野をさまよい、死んでいくほかなかった。戦後の検証によると、動員から解散命令までの90日間の死者21名にたいして、解散から一週間の間に200名の少女が戦野に死んだ。
 生き残った人々の証言を聞こう。……

   *  以下、「ひめゆり平和祈念資料館公式ガイドブック」に収録された証言の一部をこのホームページに
     転載する許諾を同館に求めたが、下記の理由で許可がえられなかったので、残念ながら本文を掲載
     することができない。
       1.他への転載を行わない条件で証言してもらっている。
       2.多くの団体個人から転載の依頼があるが、団体や個人の実態をいちいち確認できないので、
         原則としてお断りしている。
       3.現在準備中の当館ホームページに証言のダイジェストを掲載予定である。
     過酷な体験の証言なので、やむをえぬことと思うが大変残念である。
    私は、この証言集は、出陣学徒の記録として有名な「聞けわたつみの声」を越えるインパクトと重要性を
    もった証言集だと感じている。さらに、単なる戦争の惨禍の証言というだけでなく、文学としても適切な地
    位が与えられるべきだと思う。過剰な形容や詠嘆と無縁の、直截な語りが、かえって極限的な人間のあ
    り方を、まざまざと、しかし余計な力みなしに率直に描き出している。志賀直哉もドストイエフスキーも書
    き手としてこの境地に達していない。それが、無名の複数の二十歳にみたぬ女性達の体験からによっ
    て書かれていることに注目しなければならない。
     今、この文章に接するには、同館を訪れて、そこで売られている「公式ガイドブック」を入手するしか方
    法がない。(2000年末現在検索したところでは、まだ同館のホームページはできていない)
     半世紀を越えて、私はこの貴重な証言集は、沖縄の、日本の公的な財産になりつつあると思う。そして、
    多くのものが風化し、沖縄が単なる南の観光地に変容しつつある今、その風化に抵抗するキーポイント
    になりうるものだと思う。一刻も早く、公表、公刊などの処置をとられることを切望する。
     以下、小生が採録したさいの小見出しだけを示す。 


         ◆野戦病院の壕で
             <蛆(うじ)>
             <最初の犠牲者>
             <無麻酔での手足切断>
             <直撃された十四号壕>
         ◆撤退
             <泥濘の撤退行>
             <泥んこを這いずる両足切断患者>
         ◆解散命令
             <傷ついた学友を残して>
             <置き去りにされた死の壕で>
             <黙って本を読んでいた姉>
         ◆山城丘陵と荒崎海岸の地獄
             <顔が無くなった友>
             <掃射されながらさまよう人々>
             <「ふるさと」の歌>
         ◆戦いの終わり
             <背後からの銃弾>
             <止まった銃声>
             <激論>
             <八月二十二日の太陽>

        ●死者の無念と怒りを代弁する祈念館

 「黎明の碑」だけでなく、日本のあちこちに見られる戦争の記念碑は、しばしば「死者への慰霊」ということを隠れ蓑にして、偉烈、武烈、国に殉じた、といった言葉で死を美化し戦をきれい事に転化しようとする傾向がある。       (残波岬の落日→)
 しかし、祈念館の展示や公式ガイドブックの言葉は、そういう言辞とはっきり一線を画している。殺された教え子達の無念、恐怖、怒りを代弁し、明確な言葉で戦いを導いた人々の責任と罪科を指摘する。
 「……沖縄守備軍は、県下女子中等学校の生徒らに看護訓練を強化し……戦場に駆り立てました。なんの法的根拠もなく、少女らの戦場動員を強行したのです。(その後日本軍は南部に敗走して壊滅状態となり)学徒隊に解散命令を下し……年端も行かない生徒らを、米軍の包囲網の中で、投降を許さず、地獄の戦場に放り出し……学徒職員あわせて219名が尊い生命を失いました。」
 「……十数万人の住民と十万の将兵が死んだが、司令官は、これを「軍の任務を遺憾なく遂行できた」といって「同慶の至り」としているのである。そして、この事態にいたっても、生き残った将兵に対し、降伏を許さず、最後まで戦って死ねと命令した。将軍らは、住民の保護について米軍と交渉することもせず、砲煙弾雨のなかに放置したまま、自決した。」

 ひめゆり平和祈念資料館は、観光客で賑わうひめゆりの塔のかたわらに、ひっそりとただずんでいる地味な感じの建物である。しかし、その外見からは想像できぬ深い内容をもった展示館だし、展示の方法も、通り一遍の陳列ではなく、戦争を知らぬ人々にも、ひめゆりの少女達が経験した惨苦を何とか伝えようといういろいろな工夫が見える。
 なかでも最も印象的なのは、「証言」という「言葉」で、それを訴求しようとしている点である。遺品や記憶は風化するかもしれぬが、言葉は風化しない。
 この祈念館が発信する訴えは、あの晴れ晴れと明るい(それはそれでいいと思うけれど)平和の石礎の公園や、南部のさまざまな戦跡の発する訴えすべてに匹敵する、重さを持っているように思う。観光で沖縄を訪れる多くの人が、この祈念館の、中でも証言の文言の一部にでも接してみてほしいと思う。 (2000/11/16) 頁頭に戻る