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●1932年(昭和7年)東京吉祥寺生まれ。
 幼少期は科学少年=B『子供の科学』と『科学画報』が愛読誌。また鉄道オタク、それもノリ鉄でも写鉄でもなく「信号システムオタク」となる。ITのない時代、精緻な機械的システムと人間の規則で完全な安全が構築されていることにいたく感動、運転席の後ろにへばりついて、運転手の指差喚呼の意味に精通。
 
 1945年・東京西郊で、頭上をB29が堂々編隊飛行し、彼方の市街が炎上するのを望見しながら過ごす。

●1945年・4月、空襲下の東京を逃れて、京都丹波山中(胡麻郷村)に疎開、園部中学(現園部高校)に三年足らず通う。

  1948年・再び焼土東京の、焼け残った吉祥寺に戻る。

●1951年・都立戸山高校卒業。

●1955年・東大文学部国史学科(日本史学科)卒業。

●定職につかず、某小劇団の演出部員になる。

●1953年・父親の経営する(株)作家クラブ/(株)文芸社(地方新聞に連載小説を供給するいわゆる新聞文芸通信社)に勤務。
十年余、田村泰次郎、井上友一郎、林房雄、鳴山草平、水上勉、瀬戸内晴美など、多くの作家の下に原稿取りで日参、この原稿をガリ版に起こし、画家に廻して挿絵を描かせ、その日の内に地方県紙などに送り込むという毎日を過ごした。 〜1964年まで。

 この間、時に地方新聞に雑文、小説などを書く。

●1967年・劇団時代の仲間と、映像などの制作会社(株)BBプロモーション(いわゆる映像プロダクション+デザイン事務所+宣伝企画会社)を創立。

●以来、うって変わって勤勉なクリエーターに変身。

●クリエーターとしての主な仕事分野は、医学映像、学術映像の世界。というのは、戦前の科学少年が戦後は、秋葉原以前、神保町の露店街がマニヤックな電気街だった頃ここに出入りするラジオ少年となっており、リケイに違和感はなく、手術だろうと死体解剖だろうと、お産の撮影だろうと、何でも大好き。小児科、内科から外科、婦人科まで医学万般にコミット。以来30年間、医学中心の映像制作で働いた。

●パソコン以前のオフコン時代(ビジネスショーがオフコンで埋まった、という時代が、ほんの数年間だけあった)からコンピューター好きになり、数百万のオフコンを導入。会社の原価管理システムなどをプログラム。

●1997年・退職。

●眺め返してみると、なんとも雑然とした経歴としかいいようがない。
 ただ多分、これだけは誰も真似できない……太平洋戦争前から戦後の焼け跡時代・高度成長期・バブル・平成世紀末から失われた20年=Aそしてアベノミックス……という歴史的時代、いわば「戦前・戦中・戦後」の、初めから終わりまでに立ち会えた、唯一の世代ではないか、ということ。

●2002年・徳島県立文学書道館が設立され、大衆小説家、プロレタリア作家だった亡父貴司山治の資料も収蔵されることになった。そこで調べ始めると、貴司は非常な記録魔で厖大な一次資料が存在することが、改めてわかってきた。
 2006年12月、徳島文学書道館で「貴司山治展──昭和という時代に生きた作家」が行われ、関係者の注目を得た。これが機縁となって当時立命館大学中川ゼミ中心に「貴司山治研究会」が存在していることを知り、参加。この研究会はその後「占領開拓期文化研究会」として昭和文学全般の研究に発展し継続している。
 
  (以上 15/8/20加筆) 頁頭に戻る