第七章 第二無新への資金提供
1.吉祥寺の新居 ◆文学史topへ ◆資料館TOPへ
無産者新聞の写真のための、江東方面行がたたったのか、風邪気味となり、それが年が改っても治らず、おかしいというので、近くの加茂病院の院長に診てもらったら陽チフスだとわかり、昭和四年二月から五月まで、入院した。
この入院中に、故郷の友人福永豊功が上京してきて、幸い家の方の留守番をしてくれた。
入院中に、東京市の低利資金で建てた武蔵野町吉祥寺の家ができ上り、退院してその方へ引越してからは、驚くほど来客が多くなり、身辺多忙となった。
柳原白蓮が姪の古井徳子(今、楢崎すが子)をつれて遊びにくるようになったのも、そのころである。やがて白蓮のもとに身をかくしていた元吉原の遊女春駒が、吉原からの追手を逃れて拙宅へ逃げ込んできた。かの女は「春駒日記」というのを出版して評判の女だったが、およそ名とは似つかぬ色の黒い、眼のぎょろりとした痩せた女で、そのあとからかの女の夫である西野哲太郎がくるようになった。
西野は、外務省の属吏だったが、遊女春駒を白由廃業させた演出者で、そのため外務省をクビになり、社会運動のつもりでそのあとも、自由廃業の手引きをやっていて、吉原の暴力団に追いかけ廻されていた。
西野の顧問弁護士某の家に、馬場という苦学生がおり、検事になるためその方の試験をうけてパスしたというのを拙宅へつれてきた。
夏の暑い午後であった。
二階の書斎ヘ上げ、この新米検事試補から講談社小説のネタになるような話を、一話二十円だか三十円だかの約束で話させている時に、柳瀬正夢が江馬修を私に紹介するといってつれてきた。
無産者新聞と検事試補とが顔をつき合してはまずいので、そういうことには無造作な私も、この時は馬場を二階に残し、階下の一室で初めて江馬に会った。
江馬は、弾圧が激しくなって、新橋駅裏の事務所を警察に釘づけされてしまって、半非合法状態になった無産者新聞の財政責任者だと、柳瀬が私に告げた。
大正初年に「受難者」で有名になった人道主義の作家も、それから十何年たったら、共産主義者となり、無産者新聞社に入って働いているのかと、少なからず敬意を表したいと思った。ところがその江馬は、オドオドと何かにおびえており、少し前に殺された山本宣治の遺した「裏切者去らば去れ、私には百万の大衆がついている」という言葉を、自分自身の言葉として私にいい、大山郁夫をののしり、自分一人で革命をやるんだといわんばかりだったので、敬意もどこかえ消え失せた。その代り、私は江馬をからかうつもりになって「実は二階に、私の知合いの馬場という若い検事がきているんですがね」といった。効果はてき面、江馬はみるみる青くなって
「こんなところで、こうしてはいられない。貴司君も、もっと言動を慎重にしないとスパイだと疑われれますよ」
といい残して、逃げるように帰って行った。
あとに残った柳瀬は「エマさんとこへ行くと、午前中はいつも寝ていて、私がエマシュか、と玄関できくと、寝巻姿で眼をこすりながら出てきた江馬さんがエマシュ!」というような駄酒落を飛ばして、ひとりで悦に入っていた。
「一体あの人を私に紹介して、何をどうしろというんだ」
と柳瀬を詰ると、どんな時にもふざけることを忘れない柳瀬が、真顔になって私に打ちあけたのは、無産者新聞社の責任者の山根外何人もが、つぎつぎ捕まって刑務所ヘ入れられてしまい、まもなく無産者新聞そのものも発行停止処分となる形勢が必至であること、そうなったら、第二無産者新聞を発行する計画だが、今度は非合法の地下出版物となるから、編集、印刷、配布、読者組織網の確保に、今までとまるで違った技術を要する……その仕事にあたるメンバーは、こんど捕まったら共産党員並みに扱われて、治安維持法でやられる、江馬はこの状勢に恐怖して、一時も早く財政部長をやめさせてくれと申し出ている。だから代りにあなた(貴司)が、第二無産者新聞の財政部長を引き受けてくれないか、というのであった。
「もしあなたがウンというならば、現在の無新責任者が、正式にあなたに会って財政部長に任命することを言明する」
ともいった。
私にはそれが怖いということはなかったが、その結果を考えると、何れ逮捕、投獄ということになり、なおもそれを続けようとすれば、地下活動に終始して何度でも獄中生活をくり返す、純政治生活になるのが何としてもいやだった。私はどこまでも文学がやりたいのである。故郷の労働組合のストライキも、評議会とのおつきあいも、あとで小説を書く時の取材のためのシンパ行為であった、といえる。あとからそう思ったのではなく、始めからそのつもりであった。
だから小林に「東倶知安行」のような、かなりすぐれた労農党援助の作品はあるけれども、私は、合法政党の活動などは小説に書こうとは思わなかったので、労農党にはあまり興味がなく、同党への金銭の寄付は気のりがしなかった。
そういう意味で、むしろ無産者新聞が発行停止になって地下組織の第二無産者新聞になるという話には、大いに関心があった。だからその第二無新のメンバーになれとの話には魅力があったのだが、今いうとおり、そのために一生を地下政治活動と獄中生活に限定されてしまっては、小説の執筆禁止を食らうのと同様で、ことに私の執念しているブロレタリア大衆小説のためには、ぜひとも合法的な舞台が必要であった。
だから、今ごろから非合法の地下メンバーになっては、先の合法社会での広い舞台を失ってしまう、との考慮が、ひどく私を苦しめた。
もう一つは妻悦子のそばに、ついていてやりたい個人的な愛執が私を苛んだ。かの女は、私が今のような志を抱いている作家志望者だとまでは知らずに、私のもとへ飛び込んできた女である。かの女の家は、藤原鎌足が功成り名遂げて摂津の安威山に葬られた時、これを衛ってその山下の大阪府茨木市付近に定着した家臣の末裔で、その名を奇二治良兵衛といい、もとは数十町歩の田を有する豪農であったが、大塩平八郎の乱の時、それを援助した罪で欠所となり、私の妻の父治良兵衛がようやく家を恢復して昭和初年に十数町歩の土地を持つようになった、古い家柄であった。その屋敷は四周に堀をめぐらした垣内式構造で、すべてがしきたりを尚ぶ封建的な一家である。そういう家に背いて、身一つで出てきた悦子は、非常に怜悧な性質だったので、私に従っている限り、精神的にも幸福な生活を送りうることがわかっていた。但し体が虚弱だったし、もし私が地下にモグって政治活動などを行なえば、到底ついてこられず、逆にいうと、そうした妻を捨てる覚悟ができないかぎり、第二無産者新聞の財政部長というわけには行かない。
柳瀬にはハッキリした返事をせず、よく考えてみる、ということで別れた。すると何日かたって江森盛弥がやってきて
「貴司さんが第二無新の財政部長を引き受けたんですって?」
という。
江森は「私は風に向ってうたう」という詩集一巻をのこしてもう死んだが、東洲斎写楽の描いた初代守田勘弥のようなアゴの長い、老若不明の容貌をしている男で、はじめは高橋勝之、弘之兄弟が拙宅ヘつれてきた。
その時、江森とは別に、弘之がつれてきて度々くるようになった、中田いよ子という一重瞼の無表情な貌の若い女がきていた。そのいよ子は裁判官の娘で、失恋か何かで自殺し損なったといって古い疵痕がノドにあった。自慢そうにそれを見せるので
「そんな筒所を切ったって死ぬるもんか、必ず死ねる筒所を教えてやるから、もう一ペんやりなおせ」
というと「自殺のやり直しですかア」と鼻白んだ。かの女の訪ねてきた目的は「生きることにしたんだから、自殺以外の危険なこともしてみたい、それで、左翼の地下運動に参加したいから手づるを与えてくれ」というにあった。「まあその内に」と私がいい加減にあしらったので、かの女は何度も催促にやってきた。江森のきた日は
「もうこれ以上、ほっとかれたのでは待ち切れんから、ズベ公になるつもりだ」
と私の前でねばっていた。江森は初対面のいよ子に気をつかって「新会社」(第二無新)の「社長」が私に会いたいといっているから、こっちへつれてきていいか、というようなことをいうのだが、いよ子も何か内緒の話があるらしいと察して、先に帰って行った。
すると、あとに残って第二無新の話をするのかと思った江森が「ぼくも帰る」と、飛び出して行った。ちょうどその日から一週問目に、また江森がやってきて「ぼく、結婚しました」「へえ、相手は?」「中田いよ子です」
私は驚いて「それは、一週間前にここではじめて逢った女じゃないか」というと「そうです」と平静な顔で「あの日から同棲しています」いよいよ驚いて「どこでそんな話をつけたんだ」
江森は、いよ子の帰って行ったあとから飛び出していって追いつき、吉祥寺駅まで歩く五分間でいよ子を口説き落としたのだという。私はあとで婦人公論に「マルクスガール物語」という雑文を書き、その中に「五分間恋愛術」と題してこの話を書いた。
この時から二、三年あとだが、地下にモグって日本金属労働組合の女闘士になっていたいよ子が不意に拙宅へあらわれ
「あんたのようなプチブル作家には困ったもんだ。あんなことを書いて、組織活動の妨害になる」
と大いに私をたしなめた。
このいよ子については、まだまだ話があるのだが、あとにしよう。
とにかく、江森盛弥は大きな声も立てず、いつもモソモソと低声で話すようなスローモーな性質だと思っていたが、女に手出しすることにかけては大へんすばしっこい男だと、この時知ったわけだ。
江森の用件は、第二無新発行の準備は整った、自分は組織部長で、高橋勝之は編集部長、あなた(貴司)にはかねての話のとおり「社長」が直接財政部長就任を頼みたいので、ここへつれてこようか、それとも外で会ってくれるか……というのであった。
私は何日か先の日と、場所は新宿の明治屋喫茶店がよかろうと決めた。その日はひどく暑かったのを覚えている。だといって真夏ではなかった。無産者新聞に発行停止の処分がきたのは、昭和四年九月九日だから、多分その前後だったろうと思う。新宿の明治屋喫茶店には大ぜいの客がいて、汗ばむような暑気と陽光がみなぎっていた。江森と「社長」は窓ぎわのテーブルにいた。初対面の「社長」は三・一五事件、四・一六事件で千人近い闘士がみな捕えられてしまったあとに、まだこんな人がいたかと思うくらいたのもしげな、ガッチリとした容貌で、多分どこかの大学出のインテリに違いなかった。
「ぼくは桑江常格です。クニは沖縄なんですが、無新ではたった一人、ぼくだけ残ったんです。党は潰減状態でまだ再建されていません。本来はそれを待って、その方針をきいて第二無新をやるべきなんですが、逆に新会社(第二無新)を起こすことで親会社(党)の再建を催促すべきだと考え、ぼく一人で柳瀬君や江馬君にも相談して江森君、高橋君に入ってもらい、やって行きたいと決心しました。新会社はあくまで『合法的』にやる方針で、したがって新聞紙法による届出をします。ついては貴司さんのところにいる旧評議会中央委員の福永豊功君にその名儀人になってもらいたい。この名儀人は仮空の人物ではいけないんです」
桑江常格は、はじめ小一年は私の見たとおり立派な活動家であったが、のちにはすっかり馬脚をあらわした。それもあとに書く。
桑江の、あたりに気を配ったボソボソした話に対して、私は福永が心臓脚気で動けなくなったので青山の赤十字病院に入院させてあったが、それに目をつけたのはやはり江森だろうと思った。それにはあとで、本人の意向をきいた上で返事をすると答えた。
つぎに桑江は、私の財政部長問題を切り出した。「江馬はすっかり敗北主義に陥っているんで、これ以上無理に使うのは危険だと、ぼくらが代りに貴司さんを……」
と横から江森が口を出して、すぐに江馬の悪ロを並べた。私はほんとうの理由をいっても桑江には理解してもらえるとも思われなかったので
「ぼくの方が、江馬よりももっと敗北主義のプチブルだから、危険だよ」
と江森の方へいった。
桑江は、江森に同調して江馬を悪くいうということはなく
「あの人には、あの人のできる範囲で援助してもらうことにしました。しかし新聞は、一回出すのに二百円はかかります。その二百円を集める責任を、貴司さんに持ってもらいたい」
「とても私に、一回二百円あつめる力はありません。せいぜい五十円か八十円です。それではとても責任者たりえません。外部から極力応援しますから、組織の内には入れないで下さい」
という私の返答で、交渉は行詰った。
「ま、話はここまでにしとこう、ぼくの方では貴司さんを財政部長と思って、遠慮なくムシリに行きますから働いて下さいよ。その代り……といっても何ですが、ぼくらが捕まってどんな拷問にあっても、財政部長の名は出しません」
「財政部長は無かった、ということにしておきたまえ」と、私は江森にいった。「わかりました。そうしましょう」と桑江が答える。
これで会見は終った。二人とも、そういう形で私が財政部長を引きうけたものと諒解したらしい。私は、どうしてこの話から逃げようかと考えながら、青山高樹町の日本赤十字病院へ行った。福永をここヘ入院させたのは私だが、どういう手づるでかれを日赤ヘ入れたかどうしても思い出せない。
行ってみると、一階の広い病室のベッドに福永は寝ていた。病室の一方がずっと一間高さの掃出しのガラス戸で、その外は目もさめるような緑の芝生だ。ガラス戸をあけ放してあるので、この上もなく涼しかった。かれの枕もとにしばらくいると、一人の看護婦が「庭に咲いたから」と何輪かのバラを牛乳のアキビンにさしてもってきて「福永さんはとてもいい人ですわ」と私にいう。福永は、その看護婦にひどく甘ったれていた。かれは孤独に耐えられない男なので、あとではそれで没落したが、看護婦の去ったあと、名儀人の話を持ち出すと「そんなことで役に立つのなら、嬉しいですよ」と、すぐに承諾した。
第二無産者新聞は、昭和四年九月九日に第一号が発刊され。いかに合法新聞としての手続きがとられようとも、合法性は全然なかった。はじめから完全な地下新聞であった。
組織部長の江森は、もとはアナーキストで、牟礼の森へくる前は、調布かどこかのダリア園で働いていたといって、その時の名残りか、腹がけどんぶりの作業服などを着て拙宅ヘきた時もあり、その頃にくらべると見違えるように元気で積極的に働いた。
かれの細君になった中田いよ子も、親の家から持ち出した若干のものや、白分の身につけていた指環とかいった貴金属類を売って、江森とともに秘密の場所に下宿し、希望どおりの「危険な生活」の中ヘおさまったので、あたかも水を得た魚の如く元気になった。「いよ子は大丈夫かい」と、私がきくと、少くとも一週間に一、二度はこっそり訪ねてくる江森は、ボソボソした低声はもとのままで「青い大きな疵痕のあるあばずれ女に見えたのに、夫婦になってみると処女でしたよ」と、いよ子のことをのろけて語るのであった。「残念だったな、おれの女をかっぱらわれたような気がする」というと「あんたには、あんな奥さんがくっついていて、どうにも歯が立ちそうになかった、とかの女がいっていますよ」とか「性のテクニックを、何にも知らないので、その方の初歩的な啓蒙活動も忙しいし……」とか、少々煩わしかった。
ズベ公には、中田いよ子の如く、実際は何にも知らない純情なのが多いのは、現今も変わりなかろうと思う。
2.福永豊功と日赤病院 ◆文学史topへ ◆資料館TOPへ
もっとも、当時といえども元名古屋前衛座にいたK女のようなのもいた。
K女は、いよ子などよりはるかに美人だったが、名古屋時代、十七、八才で全協のオルグ某と同棲し、その男が捕まってしまうと、たまたま東京から行った生江健治をボーイフレンドとし、生江が真剣になるとかれを捨てて逃げ、杉本良吉とくっついた。あげくがK女は、杉本にひどい嬲られ方をして捨てられた。
もうプロレタリア文化団体のなくなった昭和十二年ごろ再見したK女は、名古屋時代のナイーヴな美しさは消え、映画女優かと見まごうばかりのきらびやかな美人になっていた。私の友人の丸山義二が、サラリーマン社の長谷川国雄(現自由国民社々長)の所へ紹介してやると、長谷川とも、長谷川と親しい大宅壮一ともねんごろとなり、長谷川と大宅がK女争奪戦を演じた、というような話題を残した。
その後(昭和十四、五年頃)大宅が日劇前でひょっこりK女にあったので「このごろ、体あいてるかね」ときくと「ウン、都合つく」といった簡単な会話で事が決ったという。(大宅の直話)
長谷川にきくと「あの子は純情だよ、時々ぼくの所へも電話をかけてきて『お金ないんだけど……』というので、その時はせいぜい需めに応じている」という話であった。
そんなK女とくらべると、いよ子にはハッキリした性格や個性があった。しかし、地下組織のメンバーとしては脆弱性があった。
「一緒に暮らしておれば、自然君たちの秘密がわかるし、そのうち手伝いもさせるだろうからメンバー並みだ。せめて社長の承諾を得ておけよ」と私が心もとながると「大丈夫です、社長はもう承諾しています」と江森は事もなげにいうのである。江森がくるのは、私が桑江に約束した月五十円か八十円の発行資金を持って行くためであった。
そして第二無新は、無新(第一)が普通新聞判の月六回だったのにくらべ、普通新聞二頁分をまん中から折った四頁判であった。それを月二回出した。
完全非合法のガリバン機関紙「赤旗」は、昭和四年六月十五日に第三十三号を苦心してガリバンで刷っているところを、警視庁特高隊に襲われ、一枚のこらず押収されて以来、絶えてしまっていた。その前、四月二十九日という日には、党中央部の三田村四郎、鍋山貞親が捕えられていて、その上「赤旗」もなくなったのだから、組織は火が消えたようになっていた。
そのあと、田中清玄が佐野博らと共に中央再建ビューローというのを創り、やっと「赤旗」を出したが、私はそれをみたことはない。
つまりはこの頃、第二無新だけが辛くも命脈を保っていたことになるのである。
その第二無新が出はじめたある日、私の住所の所轄警察である田無署から、顔見知りの村夫子然とした太って美髭をたくわえた高等係刑事がやってきて
「あんた、いけませんね。第二無産者新聞の発行名儀人の福永というのを、本庁では仮空の名前だと思っていたら、実在者で、しかも青山の赤十字病院に入院しているとわかり恐懼に耐えんと本庁じゃ大騒ぎですよ。調べてみたら、貴司さんが入院の保証人になっている。ま、あんたの知ったことじゃないだろうが、本人が今日退院するので、あんたに引取ってもらいたいということになったので、ハンコ持ってすぐ赤十字病院へ行って下さい。本職も責任上随行します」
昭和四年の田無警察署には、まだ特高刑事というのはおらず、一時代前の高等係というのが特別高等係を兼務しており、いうことが古風であった。私は早くもバレたかと、ちょっとあわてたが、福永だけのことだとわかり「あの男は子供の時からの友人で郷里で争議を指導し、暴力行為取締令違反で半年の刑をくらい、体を悪くして頼ってきたので、費用のいらない日赤へ入れたのですが、一体何をしたというのですかネ」といいながら、有髭刑事をつれて青山の日赤病院まで行った。
電車の中で刑事は、一枚の第二無産者新聞を出し、その題号の下を指して「これですよ、これが問題なんです」「ホウ、こんな新聞があるんですか、なかなか面白そうじゃありませんか。私に下さいよ」「いやいや、これは本庁から廻ってきた機密品です。念のために見せたんですが、貴司さんなんかこんなものを見ない方がいいんですよ」
笑い出すわけにも行かなかった。いつかきたことのある病室へきてみると、布団はたたまれて、べッドは鉄の生地がむき出しとなり、福永はキチンと着物を着てイスにかけて私を待っていた。有髭刑事がいろいろ訊問をして手帳に控えたりしているが、マトを外れた訊間ばかりである。福永の答えは、八月の中頃に、労働者風の男がきて名前を貸してくれというから承諾した。その男の名前はきかなかったし、それっきりここヘこないというので、新聞紙法による届出のための名儀貸与が罪になるわけはないから、有髭刑事は福永を私に引渡し「東京にいるといろんな誘惑にかかるから、早く郷理に帰った方がいいですよ」と、一人で引き上げていった。
そのあとへ、看護婦長のような中年の看護婦がはいってきて
「ここは一視同仁の博愛精神ですけれど、福永さんのような思想の方は別です。始めからわかっておれば入院してもらうんではなかった」
と保証人である私に嫌みをいうので
「そんな規定があるんなら見せて下さい。私らの納める税金でやっている赤十字病院だから、思想によって差別する規定があるとは思わなかったので、始めにそういう届出もしなかったんです」
婦長は困って
「何しろここは、春秋二回、皇后陛下の行啓があるので、その前に入院患者の身元調べをするんです。それでわかったんですから、どうか悪しからず」
それ以上喧嘩をしても始まらないので、私は福永をつれて吉祥寺の家に帰った。福永は足がしびれてよく歩けない、と、拙宅まで自動車で帰った。私は「早くもバレてしまったね。何日か休んで、体がよくなったら、郷里に帰るようにしろ」
そういって、その晩は鋤焼きをして元気をつけ、翌日、東京駅から四国に帰った。私は東京駅まで見送ってやったが、それが福永との最後の別れであった。
注)福永豊功は、その後大阪へ移り、昭和十五年四月死去した。
3.中野重治との初対面 ◆文学史topへ ◆資料館TOPへ
中野重治が、だれの紹介もなく、一人でひょっこり訪ねてきたのもそのころだった。かれは、やせた細い体を藍色の擬唐桟かと思うような棒縞の単衣に包み、博多の角帯をしめ、雪駄をはいてきた。博多の角帯はあるいは記憶ちがいかもしれないが、雪駄だったことは裏金のチャラつく音がしていたのをおぼえているので、多分間違いない。二階の私の書斎でソファにかけた中野の素足は、ホコリに汚れていた。そして、モモ引をはいていなかったので、ともすれば内股の奥が見えるような体裁であった。
私はすでにその時、中野の「お前は赤ままの花を歌うな」「夜明け前のさようなら」「雨の降る品川駅」などの名作を知っていた。否、この三つの詩を通じて中野重治という男を知っていた。ことに「夜明け前の……」の中の「僕らが相談をすると、おまわりがきて眼や鼻をたたく」という一節の、目や鼻をたたくという詩句の、奇抜な発想には驚嘆した。、
何年かのちに、窪川鶴次郎と親しくなってこの話をすると「ぼくも中野のその一句を見て、とうていかなわないと思い、詩をよしたんだ」と告白した。
しかし、その時は私はまだ窪川鶴次郎を知らない。私に詩人中野重治の卓抜性を教えたのは、萬朝報記者の富士辰馬であった。富士はその年の「改造」二月号だかにのっている中野の「雨の降る品川駅」を読んできて
「中野のやつは君、すばらしい詩人だ。雨のふる品川駅だとさ。そんな所が元来詩になる場所かよ。百万人の眼にはただの雨の降る品川駅さ、それをたった三十二行で、すごい詩だよ、シンまで詩人だ、ああいうやつは外にいない」
とくり返し感嘆するので、私も家人に「改造」を買ってこさせて、その詩を読み、日本を逐われて、雨の降る品川駅から朝鮮へ帰っていく辛、金、李、もう一人の李(女)を見送る中野のぺーソスに鼻をつまらせた。
しかし、昭和四年の秋、瓢然と拙宅へあらわれた中野重治は、江戸ッ子くずれといったようなお粗末な感じなので、これが「雨の降る品川駅」に立った詩人かと少々意外に思った。その中野は、テレているのか、下目づかいに、ああいい、こういい、要領のえない話ばかりして自分でも気まずくなったのか、代々木初台の江馬修の家まできて、ふと寄ってみたんだ、という言いわけをした。
しかしそれは言いわけにならない。代々木初台から武蔵野町吉祥寺は、寄り道ではなく、ちょっとした遠出なのだ。この会見は失敗だと思ってか勿々のようにかれは立ち上って、不意に
「君、組織に、寄付なんかしている?」
ときく。
「どこの組繊だ?」
と問い返すと、私の無神経にじれったそうにして
「革命組織に、さ。党だ」
単独でポカリとやってきて、初対面の相手に、バレたら治安維持法で三年ぐらいの徴役をくらい、一生札つきと決まるほどの大事を、立ち去りがけにきく中野という男の、ソファで足を組んだ時に内股が見えたのや、足首が白いホコリにうす汚れていたのや、くたびれた唐棧まがいのかれの着物の印象とともに、かなり軽佻な男ではないかと疑った。
私は何も答えなかった。「いいんだ。君は別の線だろう、じゃ失敬!」といってかれは帰って行った。やれやれという気がした。中野に対するこうした初印象の悪さを、今でも残念に思っている。
あとから考えると、その時はもう佐野博や田中清玄が党再建をやっていて、中野らはその資金集めにかけ廻っていたのだろうと思う。翌五年五月に、そのシンパ活動がバレて、中野重治、立野信之、壷井繁治、小林多喜二、村山知義らが捕えられて豊多摩刑務所へ拘禁された。
その中野の年譜をみると、昭和五年十二月に、かれが「無産者グラフ」の創刊にたずさわったと書いてある。私は別段、この年譜の記事を頭から疑うというわけではないのだが、創刊に「たずさわった」という、そのたずさわり方がどういうものであったのか、知りたいような気もする。
注)「無産者グラフ」は芸術大衆化論争の帰結の一つとして発刊されるに至ったもののようである。蔵原惟人は「芸術運動当面の緊急問題」(昭和三年八月 戦旗)で、「戦旗」をプロレタリア芸術運動の指導的機関誌とし、他方大衆的アジプロ誌はこれを別にして、絵入り雑誌のようなものを出すべきだ、と論じ、同年十一月の戦旗で中野重治がこの論争の一応のしめくくりをのべ(解決された問題と新しい仕事)その中で「無産者グラフ」発刊を大衆化論争の重大な成果として紹介している。
このグラフの第一号は確かに発刊され、小生もそのコピーを柳瀬未亡人から頂戴したが、二号以降が発刊されたかどうかは不明である。
というのは、私には「無産者グラフ」創刊に関して、また別の、明瞭な記憶があるからである。私の記憶に従えば「無産者グラフ」の創刊号を作りあげたのは柳瀬と私であり、実際にその仕事をした場所は私の家だったのである。
柳瀬は、そういう仕事にかけてはひどく手のおそい男で、写真術はまだ手ほどき程度、印画の縮尺指定のやり方も、私が手をとって教えたように思う。
既に詳しく書いた通り、昭和三年末のうそ寒い日に、私は柳瀬といっしょに、カメラやフラッシュをもって江東地帯を歩き廻り、さんざん辛い目にあったわけだが、実は、この時の柳瀬の売り文句は「新しく出す無産者グラフのために、貴司さんの写真をぜひ」ということであった。私は私なりに、そういう画期的なグラフの第一号に、私の写真を出せれば、とはり切って柳瀬に引きまわされたわけである。
そしてやっと、数枚の写真を撮って印画にして渡すと、かれはケロリとして「これは新聞(無産者新聞)の年末不景気風景の特集用なんだ」とぬかす。私は知らずして、無産者新聞のカメラ班として柳瀬に駆使されたのだ。だが、柳瀬という男は、こういうことを、そのつもりがあって----つまり人をだましてうまくのせてこき使おう、というようなつもりがあってやるようなワルではない。どこか正体のつかめぬ、瓢々とした豆狸じみたところがあって、結局は憎み切れない人物なのである。
かれは、私のとった写真を無新に使い、その残りの何枚かは「無産者グラフ」にも使い、さらに驚いたことには戦旗何月号だかの表紙にまで用いて、写真提供者の私には一言のあいさつもないのである。それでいて、腹を立てたり怒ったりできない妙な魅力があった。要するに柳瀬とつきあっていると、知らぬまに鼻づらを引きまわされている----そんなやつであった。
柳瀬は、私にそうした仕事の主導権をわたそうとせず、丸く肥えた肩や肱を張って、自分でエンピツと定規を握ったまま
「いや、説明文はここにもうできとるんじゃ、これは一字もかえるわけにはいかんのじゃ」
もうそのころ、私は「無新」の仕事が共産党の仕事だと知るようになっていたので、柳瀬にそういわれると、手出しするのを遠慮した。
あるいは、中野が「無産者グラフ」の仕事にたずさわった、と号するのは、そういう写真説明の文句を書く仕事をやったのか、この一頁にはこれこれの印画を入れるというような共産党一流の「会議」に参加したというのか、そういうことなのだろうか。
だが、先にもいうとおり、実際に私の家で柳瀬が編集した「無産者グラフ」第一号は、今も一部私の手許に保存してあるが、みるからにヒン弱な、お手軽なもので、それをつくるのには、総頁十頁ほどの中へ、各頁にのせる印画を決めてその寸法の割り出しと、印画写真の説明文を書く仕事より他にありはしない。実際柳瀬は、私の家にいっきりになってそんなことにかかりっきりになっているのである。
そんな仕事の中で、ぐちともつかずぼつぼつと語る柳瀬の話をまとめてみると、無産者グラフ発刊に至る経緯というのは、こんなことであった。
無産者グラフ創刊の予告は、既に十月頃には無新紙上に公表されたことであった。しかもその公告は、ご念のいったことにレーニンの写真をかかげ、十一月一日発刊と号してあったのだけれど、もち論、その十一月一日にはまだ影も形もありはしなかった。(十二月の暮れに柳瀬と私が、このグラフのためにといって下町に写真撮影にでかけている始末なのだから、他はおして知るべしである!)
注)「無産者グラフ」第一号の現物にも十一月一日発行と刷りこんであるが、この貴司の記事によれば、発刊は数カ月おくれたことになる。
柳瀬のいい方によれば「こんな具合で、まるでレーニンがいけしゃあしゃあとウソをついてるようなかっこうになっていて、しかもその公告を真にうけて、一冊十二銭の講読料を送ってきた者が三十二人もある」というのである。編集長を命ぜられた柳瀬としては、気がもめるのは当然で、柳瀬がそれでキリキリいうと
「それではというので居合せた人々で編集会議さ。白色テロルと戦かえというテーマがとり上げられて、では三重の大沢君、大阪の岩崎君、横浜の徐君などのやられている現場写真をそれぞれの支局ヘいってとりよせよう----と、その議論に二時間、殺されてる写真だけで白色テロルと戦え、というテーマが如実に浮び上るか、というぼくの反問で、立禁の札を抜かせる新潟の農民諸君、御大典と無産党代議士の写真をズラリ並べよう、となるまでに一時間……曰く河上肇の写真、日く一年間の回顧、失業問題で木賃宿や長屋を廻る馬島医師、メーデー、関東電ストライキ、革命記念日、モスコウの革命十一年祭、コミンテルン第六回大会……などなどなど。十二銭の本にどうやってそんなのを入れるのか、誰も知っちゃいないんだ。知っちゃいないどころじゃない。こんな写真グラフを編集する枝術をもったやつは結局、誰もいやしないんだ。それで結局ぼくに押しつけたんだが、ぼくだってグラフのレイアウトの技術なんてなんにも知りゃしない。それでいて他の連中は、十一月一日を過ぎても少しもグラフが形をあらわさないのを、ぼくの責任のようにいって怒ってるわけだが、ぼくとしては、今年の夏の終りごろから、この企画だけを立てて、あとはほほっておけばいつのまにか立派なグラフができ上ると思っている連中の態度が気にくわん」
そんな議論を、柳瀬は無新内部でくり返してきたらしいのである。そして、とどのつまりは、発行費をどうするか、という問題にもぶつかったらしい。金のあても、はっきりしていなかったのである。
すると、桑江常格(前出)が、黙って百円をさし出し「今、無新の本社にある金はこれだけです。これを所要の経費にあてて下さって結構です」といったのである。柳瀬は、この桑江の態度に感激して拙宅に現れ、グラフ編集の追い込みにかかったというしだいであった。
無新社刊行の無産者グラフの編集追い込みが、どうして、無新の編集宅ではなく、拙宅で行なわれねばならなかったかというと、それは既に説明したように、写真やグラフレイアウトの技術をもった者が、無新内部には柳瀬自身を含めて誰もおらず、結局、それらの技術的指導は私を引っぱりこむ他はなかったからなのである。
そういうわけで、十二月末の下町撮影取材に続いて、今度は、印画の引仲しだ定着だというようなことから、定規をあてての天地左右の寸法の割り出しや頁の割り付けといったことで、また柳瀬と完全につきあうことになってしまった。
それが、一晩の徹夜ですんだか二晩の徹夜ですんだか、今となっては記憶はさだかではないが、ともかく相当な労苦の末に完成した。
その割つけの中に、私白身のとった写真がいくつか入っているのは、何としてもいい気持であった。
「やっとできたじゃないか」
というと、柳瀬は私の手を握って
「よき括導者のおかげだ。有がとう」
「あとは印刷に廻せばいいだけだ」
「うん……しかし、グラフ印刷というのははじめてなんだ。こんなものでいいんだろうか」
「あとは、グラフの職人がよく知っていて全部やってくれるよ。大丈夫だ。それにしても、こんな素人細工でグラフが作られる、と知っている読者はいないだろうね」
このようなやりとりのあげく、柳瀬は、印刷屋に仕上り原稿を渡すべくでかけていった。
これが「無産者グラフ」の創刊に関して私の知っているすべてである。この外に何の記憶もない。いずれにしても、中野の年譜の中の「無産者グラフの創刊にたずさわった」という一行は、どうも大仰な感じがしてならないのである。
第八章 芸術大衆化論争
1.被告席の貴司山治 ◆文学史topへ ◆資料館TOPへ
「プロレタリア文学大衆化の問題では、貴司山治はたえず被告席に立たされていた----」と尾崎秀樹が書いたように、私は昭和三、四、五年の間、全くたった一人で被告席に立っていた。
当時、毎日新聞がアンケートをとって「あなたは貴司派か、蔵原派か?」というインタビューを集め、新聞四分の一頁くらいの大きさにそれをのせたことがある。それをみると、私に賛成しているのは片岡鉄兵一人だけで、あとの三十何人は、ことごとく反貴司派であった。
私は驚いた。「おや、おや、どうしたんかな」と私は何度も新聞を読みなおした。
何がどのように問題になっていたのか。
昭和五年六月、中央公論に掲載された蔵原の文章によって、そのありようを紹介すると----
「最近ブルジョア・ジャーナリズムの領域において、いわゆる芸術大衆化の問題について『ナップ分裂の兆候』『蔵原派と貴司派の対立』等々が伝えられた。しかし事実は全然これと相違して『蔵原派』も『貴司派』もなければ、ナッブ分裂の兆候などは尚更あり得ようはずはないのである。成程芸術大衆化の問題について、わがプロレタリア作家同盟の基本的方針に対して同盟員の一部から疑問が提出され、そしてそれが大会の前後を通じて大衆的討議に付せられたことは事実である。しかし我々の内部に論争が起るということは、やがて我々の運動が進展している証拠であって、それが直ちに分裂に進展すると考えたり、それを特定の個人の名と結びつけたりするのは、我々の運動そのものを理解していないからである。
しかも芸術大衆化の問題は、討論の結果、我々の内部において既に解決され、『戦旗』の六月号にはその決定的なテーゼが発表される運びになっていて、我々は既に論争の段階を通り過ぎているのである。で、ここでは唯、求められるままに、それが解決された観点から、何が問題であったかということを見てゆきたいと思う。
わがナップとそれに所属するプロレタリア作家同盟とは、その出発の当初から『芸術の大衆化』ということをその運動の中心的任務の一つとして掲げてきた。これはその実質において小ブルジョア的インテリゲンチャの運動に過ぎなかったわが国の芸術運動を本当にプロレタリア的な大衆的な基礎の上に建て直すために、非常に重要な意義をもっている正しい提案であった。そしてそれは問題の提出そのものが正しかったばかりでなく、その解決においても個々の場合には多少の誤謬を冒しながら、全体としては正しい方向に進んでいたということが出来る。
……(中略)……
我々の芸術の大衆化は当然、二つの線に沿うて行なわれた。
第一は、大衆の生活を描くことによって。実際、それまでの我々の芸術にどれだけ本当の大衆の姿が描かれていたであろうか? 我々の芸術の主人公はそれまで小ブルジョアか浮浪人か、せいぜい頭の中で拵え上げたごまかしの「プロレタリア」かに過ざなかった。そこには現実に闘争する生きた労働者・農民は描かれていなかった。しかし大衆はごまかしでは駄目である。彼等は彼等自身の真実な姿が芸術の中に表現されることを要求する。
ここにおいて「大衆に近づけ!」というスローガンが我々によって掲げられ、中野、鹿地及び私の諸論文によって具体的に取上げられた。私はそれを「生きた大衆を描け」という言葉で表し、中野はそれを「大衆の生活を上皮とあま皮とを剥ざ出したあらわな姿において描け」といい、鹿地は端的に「大衆の中へ行け」と叫んだ。
……(中略)……
ところが最近に到って芸術大衆化の問題が再び日程に上った。その直接の動機となったものは作家同盟中央委員会の方針に対する同盟員貴司の反対意見である。そして特に注意を要するのは、この反対意見が、中央委員会によって決定された「文芸運動のボルシュヴィーキ化」「共産主義的文学ヘの進展」の方針の提案と時を同じうしてなされたということである。
貴司は芸術大衆化の問題は既に一昨年度(一九二八年)において解決されていて、残されているのは唯実践的問題だけであると力説した。これに対して我々は、芸術運動の新しい段階----その共産主義的芸術への進展の段階から貴司の提案を審議することを必要とした。つまり我々にとっては、大衆化の問題は、一九二八年に解決されたのとは異った断面において、それよりもより高度の発展において問題となったのである。しかし、我々はそれと同時に一九二八年以降に行なわれた論争をもう一度振り返って見る必要を認める。というのは貴司と中央委員との間に起った論争は、芸術運動の新しい段階と関連していると共に、それはまた一九二八年以後における大衆化論そのものの不正確、不徹底な解決にも原因しているのだから。」
……(後略)
このあたりが、一九三○年六月の蔵原の中央公論掲載「芸術大衆化の問題」の冒頭部分である。
この論文が、どのような理由で「中央公論」に書かれるに至ったか、さらにそのきっかけとなった毎日新聞の記事がどうして出たのか、そのへんのことは恐らく私が黙っていればだれも他に知る者はない。永久に秘密の中に葬られてしまい、「戦旗」の読者にも多くのナップのファンにも、この時の論争の起ってきた起点がどこにあったかわからなくなるであろう。
私が作家同盟中央委員会に、この問題でよび出されたのは、昭和四年四月中旬であった。場所は下落合の片岡鉄兵の家である。拡大中央委員会と称せられたのは、私や徳永直、大宅壮一(私白身のメモにそうあるのだが、大宅の出席は記憶にはどうも残っていない)がよばれたので、あえて拡大中央委員会と号したのである。
さて、所で、この拡大中央委員会の議題はもち論「大衆化」の問題だったにちがいないが、人々の気分としてはそのような理論的、スローガン的間題に決着をつけるという以上に、もう少しさしせまったものがあったと思う。それは、この少し前に「ナップ分裂の兆」という記事が、毎日新聞にでかでかと出たからである。そして、この記事は、事のなりゆきからいって、当然、貴司が手を廻して載せさせたのにちがいなく「貴司は白分の主張を通すために、作家同盟を割っても仕方がないと思っているのではないか」といった底流が委員達の間に流れている案配であった。
もちろんこの記事については、私が手を廻したなどということは断じてなかったけれど、このような記事が毎日の紙面に登場するに至った事情は、今、ある程度説明することができる。
既に、私が、昭和四年、第二無産者新聞発行のための資金集めを江森盛弥らによって依頼されたことを書いたが、私は、大宅に相談して、このようなお金の稼ぎ口として、毎日新聞学芸部記者大塚虎雄を紹介された。
大塚は、京都帝大を出た男で、河上肇教授の教え子であり、社会に対する河上流の眼は開いていた。頭脳は優れていたが、賢い男で用心ぶかく、実践の道へは容易にすすみ入ろうとしない性質であった。しかし大塚はさまざまに工夫して、私に毎月七、八十円以上百円内外のかせぎ場を与えてくれた。私はもちろんその金を何に廻すのか、というようなことをいいはしなかったし、大塚もその種のことを聞きもしなかったが、暗黙裡に左翼的資金であることは承知していたはずである。
これらの金は、第ニ無新のためには、江森あるいはその使いという近藤という男に渡した。ところがその他にも私の所へ資金カンパをせびりにくる筋があった。一人は未だに氏名不詳であるが、もう一人は宇都宮zというぺンネームの人物である。宇都宮zは金属関係の活動家らしく、前にもちょっと書いた「ゴー・ストップ」を毎日読んでその筋を話してくれる町工場のおかみさんの話は、この男からきいたものである。
ところが、この氏名不詳氏と宇都宮zとは、私からの金のとりあいを演ずるのでしばしば閉口させられることがあった。いつも寸秒を争うような金の入用なので(明日まくビラの印刷費だとか、今日配布する新聞を印刷所から引取るための金だとか)時には二人をつれて毎日新聞にいったら、そこでさえ二人がひどく言い争いをして、大塚にきつくたしなめられたりしたことさえあった。
これらの人物たちとは、私が昭和七年春、捕えられてしまってから、連絡はとぎれた。何をしているのか、生きているのか死んだのか、全く知る由もなかった。
四十何年たって、私の友人のタコさんが死んだ。タコさんは、徳田球一の墓を多摩墓地に建てるのにいろいろ尽力をしたような人だったが、葬式にいってみると、二階つきの立派な一軒家で、そこに昔の左翼関係者がごっそり集った。私が坐っていると、昔、昔、昔……見たことのある「宇都宮z」が目の前にいるではないか。かれは、四十何年前とほとんど変らぬ姿であった。
注)タコさんとは、木名永田耀。昭和六〜八年頃、全協オルグとして地下鉄争議に関与した。昭和八年、貴司は「大衆化」の方針に従い、この地下鉄メンバーと文学サークルをつくり、資本論の研究と争議記録を行なった。その時以来の友人である。タコさんは、私(伊藤)もかすかに記憶があるが、その風貌からきたアダ名である。昭和四十年頃死去。
「おい、宇都宮君!」「貴司さん!」というわけで我々は思いがけぬ再会をしたが、その時始めて、甲斐田広というのが本名だと知った。こういう不思議な友人も私にはあるのだが、かれは一度も警察につかまらずにあの時代を生きのびたらしい。こういう無名の男の生涯こそ、聞けば、小説になるに違いないと思ったまま、まだしないでいる。
その頃、あの大塚ももうこの世にはなく、甲斐田と、そのことも話したりした。
つけ加えていうと、あの頃、大塚に対しては、作家の古老連の談話をとって原稿にし、稿料をもらったりもしたが、そんな仕事に、中本たか子などがよく協力してくれた。菊池寛のインタビューをとってきてもらったこともある。稿料の一部を菊池にもっていくと、「いらんよ」といって返されたりもした。多くの、一流の花形作家といわれるような人たちが(決して左翼ではない)うすうすは左翼運動の資金と気づきながら、そしらぬ顔で、この種の協力をしてくれたものである。
2.蔵原惟人の“論告” ◆文学史topへ ◆資料館TOPへ
所で、毎日新聞に「ナッブ分裂の兆」という記事がでたのは、大塚とのこのような内密の協力関係が続いている時だったので、私は、ははあ、これは大塚が書いたな、と見当をつけた。社へ早速電話してみると、折から日曜で大塚は休んでおり、かわって部長が出た。
日曜に組み込む記事がなく、大塚の机から出来合いの「分裂の兆」という原稿を見つけて、これは面白そうだと載せてしまったらしいのである。
私が「困るから取消してくれ」というと、部長は「そんなことはできない」という。新聞社としては当り前の返事だろうし、分裂の兆はともかく、蔵原、貴司の意見の対立は嘘ではないのだから、全くのでっち上げ記事というわけにもいかない。
このような経緯で「ナップ分裂の兆」というセンセーショナルな記事が毎日の紙面に出現したわけである。
この記事に刺戟されてか、「中央公論」から私の所ヘ、この件で何か書いてくれという申し込みがきた。
私は、作家同盟書記長の立野信之に、どうするか、と伺いをたてた。
立野は大変不機嫌で「それは蔵原に書かせた方がよい」という裁定である。「しかし、蔵原はモグっていて、どうにもならんじゃないか」というと、立野はちょっと困って「二、三日まて。ぼくが決裁するから」という。私は、同盟の書記長ともなると、モグっている蔵原と、たちまち連絡がつくのかと、そのまま返事をまった。ところが、いつまでたっても、その決裁とやらがでない。
しびれを切らして立野に「中央公論にはもう返事をしなければならぬ。蔵原にふりかえるかどうか、返事はどうなってるんだ」と催促すると、立野も決めかねているのか困って「鹿地の書いてくる芸術大衆化の問題の決議の範囲内でなら、君が書いてもいいだろう。蔵原はまた別に書かせることにする」といった。
「決議の範囲内で、というのは、そこから外れることは一切書いてはいかん、ということか」というと立野は「そうだ」という。私はいささか不愉快な気がしたが「まあいいだろう」と思い直して、決議の線に沿った短い一文を書いて中公に渡した。
私はそのころ、人を疑わないのんびりしたところがあって、私に「決議の線にそって書け」という以上、蔵原がもし書くとしても、その同じ土俵で書くのだろうと、呑気にも考えていた。
所が、フタをあけてみると、そうではなかった。正に尾崎がいうように、私は「被告席に立たされていた」のである。それも、決議の線から外れてはならぬ、という申し渡しによって反論の権利も奪われた状態で、である。
それに対して蔵原の論文は、長さだけでいっても私の四倍もあり、既往の経過から将来に及び、被告貴司を論告するものであった。
「……(前略)……だが貴司の「大衆芸術」とは何であるか? 貴司の意見は我々との論争において次第に変って来た。その初め彼は彼の主張する「大衆芸術」なるものがプロレタリア芸術のすべてであるといっていたが、四月六日の大会に提出された提案ではルナチャルスキイの言葉を引用して、「複雑な高い内容」をもった作品と並んで、広汎な大衆を目安とした「比較的単純な、比較的初歩的な内容をもった作品」か制作されることが必要であるということを主張している。これはそれだけでは全く正しい。
ところが彼はこの「比較的単純な、比較的初歩的な内容」をもった作品を「マルクス主義的イデオロギーの割合にゆるやかな初歩的な程度におりこまれた」作品と解釈することによって、非常な誤りを冒している。彼は「イデオロギーの強化ということは、質的に考えられると共に量的にも観察されなければならないと思う」といい、プロレタリア・イデオロギーに水を割って薄めることを検閲制度の現存をもって合理化することによって、全く社会民主主義的な大衆化論に達している。
……中略……
貴司の第二の主張は「形式に関したもの」であった。彼はこう主張した。
「我々は我々の芸術を作り出すのに現在わが国の労働者・農民の文化水準から出発しなければならない、いい換えれば、我々は煩瑣なレアリズムの手法を棄てて、講談社的な大衆文学、通俗小説の形式から出発しなければならない。何故というに、大衆はそれ以上のものを理解しないし、我々はこの形式の中に立派にプロレタリア的内容を盛ることができるから」
しかしこの主張は間違っている。第一に、現代の大衆が講談社的な作品以上のものを理解しないというのは、労働者・農民の文化的水準というものをブルジョア的に、固定したものとして考えているからである。第二に、こういう物のいい方をするならば、同様に我々は、「煩瑣な」マルクス主義、唯物弁証法の認識方法を棄てて「大衆的な」形式論理的な物の見方に帰らなければならない。第三に、講談社的大衆文学・通俗小説の形式とは何であるか? それは封建的町人とブルジョア的小市民との芸術形式----もしもそれを芸術と名づけることが出来るならば----である。
……中略……
近代的ブルジョアジーはこの荒店無稽な世界観を粉砕して、それを近代的唯物論の上に建て直した。近代的ブルジョアジーの芸術態度である自然主義は、この大衆文学・通俗小説等の形式を破壊してブルジョア・レアリズムを打ち建てた。 ……中略……
この大衆小説・通俗小説が復活しつつあるとするならば、それは現在の小市民層の中に、ブルジョア自由主義以前に返ろうとする反動的ィデオロギーが起りつつあることを証明する以外の何物でもない。そして、小市民層の間におけるこの反動的イデオロギーこそは、現在のファシズムの観念的支柱をなしつつあるものである。
……中略……
成程、大衆文学・通俗文学の純外面的な形式は、来るべきブロレタリア芸術にとって全然何の役にもたたないということはいい得ないであろう。
……中略……
(しかし)現実に対する真にマルクス主義的な見方を把握しないで、他の異質的な形式を利用しようとした結果その形式と結びつけられた世界観に無意識的に引ずられて行った例が少なくないのである。
……中略……
その最もよい例が貴司の「忍術武勇伝」「敵の娘」「ゴー・ストップ」等である。そこでは例えば共産党の指導者が、忍術を使ったり板間稼ぎをしたりする封建的英雄となったり、その伝奇的形式を満足させる為にブルジョア娘やブルジョアの踊り子が常に共産主義的闘争に積極的参加をしたり、闘士がダンスホールで踊子に金をもらってそれを分け取ったりしている。……後略……」
私はここまで読み進んで、自分の顔が蒼めてくるのを覚えた。
蔵原は、自分を「我々」ととなえ、その「我々」をあくまで貴司個人と対置することによって、巨大な権威の衣をまといながら、私を診断し、裁こうとしている----その、カサにかかった筆つきには、ただごとならぬ切迫づまった興奮が感じられるのであった。
しかも、そのような論文の常として、その論断ほどにはどうも実証性が感じられない。例えば、蔵原は、「講談社的な大衆文学。通俗小説」について、それは近代的ブルジョアジーのレアリズム以前のものだ、と結構な講義をしてくれている。それはまことに、原則的にはその通りに違いない。しかし私には、蔵原が、その「講談社的な大衆文学・通俗文学」が現にどのように生産されどのように大衆に読まれていっているのか、ということがわかった上で何か意見をいっているとはどうしても思えなかった。吉川英治や菊池寛を読味した上でものをいっているとは思えなかった。
また、例えば「異質的な形式を利用しようとした結果その形式と結びつけられた世界観に無意識的に引ずられて行った例が少なくないのである」というけれど、その少くない例というのは、どこに、どのように、存在するのか。これなども、どうも、単に言葉だけの議論という感じしかしないものであった。
そのあげくが、蔵原が唯一あげた実例というのが、私の作品のいくつかなのである。とどのつまりは、共産党の指導者が板の聞稼ぎをしたり、闘士がダンスホールで踊子に金をもらって分け取りしたりするのが、まことに気にいらん、というわけなのである。
しかし、私にいわせると、こういったことはほとんどみな実話なのである。
板の間稼ぎ云々は、浜松楽器ストの時の三田村四郎の活躍を野田律太から取材した、その話にもとづいている。この「忍術武勇伝」という小説のことを伝えきいた当の三田村が、獄中から江馬修にあてた手紙で、「大衆小説にして書くなどけしからん」とひどく怒っていた、ということも私はきいた。
このことを野田にいって「どうしたもんかね」というと、野田は笑って「そんなこといっても、もっともっとひどい話がいくらだってあるんだからなあ」といったものである。
当時私が、三田村四郎の武勇伝と一緒に聞いたのは、徳田球一の汎大平洋労働組合会議出発にまつわる一大チン奇談であった。
この会議に出席を命ぜられた徳球は千円という多額の旅費を預って東京から潜行し上海に向った。ところが、この千円という大金が彼の気分を大きくしたらしい。徳球は途中名古屋でちょっと途中下車してしまったのである。いうまでもなく、駅裏直近の中村遊廓に遊ぶためであった。
それにしても、普通に遊んでそのまま立っていけば、何ということはなかったのだろうが、徳球にはちょっとした奇癖があった。相方の陰部をなめないと気がすまない、という癖である。初会の客に風変りなことを要求されて女郎は大きに驚き、そんなことはいやじゃ、と断った。すると徳球は、十円出すから是非とくいさがる----その時、徳球の財布に大変な大金が入っているのを女が見てしまったのである。これはどうせろくなことじゃない、泥棒か強盗か、危いアブク銭に違いない、とカンを働かせた女が、事のしだいを牛太郎にいう、牛太郎も下手にかかりあっては後が面倒と、事のしだいを警察に引きつぐ、という騒ぎになってしまった。哀れや徳球は、好物をなめそこなった上に警察にしょっぴかれる破目になったが、風紀係や捜査係の迅問で金の出所をいうはずがない。朝まですったもんだしたあげくに、出勤してきた特高によってとうとう徳球だとメンが割れてしまったのである。
結局徳球は、特高のツケウマつきで、東京へ送り返されることになった。徳球はすっかりしょげかえって、同志に会わす顔がない、と青菜に塩、東京駅頭に受とりにきた三田署の特高にもペコペコおじぎをする始末で、日頃の調子を知っている特高は、こりゃさすがの徳球も相当にこたえているらしいと「何せ四十過ぎまで細君なしでいるんだから、時にゃその位しょうがないよ」となぐさめにかかるほどだったという。
もち論、検束するような罪状があったわけではないから、評議会本部に送り届ければ特高の責任は終るわけで、刑事たちは確かに徳球がシオシオと評議会の建物に入っていくのを見届けた。ところが、実は徳球は、評議会の建物に入りはしたがそのまま裏へ通りぬけ、もう一度上海行の旅へ立っていってしまった----しばらくすると徳球は山懸、国領などとともに、汎太平洋労働組合会議に出席し、何くわぬ顔で発言している様子が外電にのって伝ってきた、という一席の物語りであった。
なめるかどうかは別として、女郎買いは当時の闘士たちにとっては珍らしいことではなかった。秘密アジトで、会合が終ると「さあ、××にいこうや」と女のいる所へ先に立って出かけるのはいつも渡政であった、という。
ダンスホールで闘士が踊り子から金をもらい、それを分け取りにする、というエピソードに関していうと、私は、それより少しあと、一九三二年に起こった、杉本良吉と岡田芳子のソ連逃亡事件を思い出さずにはいられない。その、新聞に華やかに報じられた逃亡事件のことではなく、その裏で、江古田の療養所に、胸を病んだまま打ち捨てられた妻君の嘆き方を、である。私は、その死の瞬間の哀れな姿を目撃した一人なのである。杉本良吉はこの時に限らず、しばしば女を「捨て」た。闘士が踊り子からみつがれるのがけしからん、という段ではない。事実はもっとやっかいで臭気ふんぷんなのである。
もちろん私は、事実だから、それを書いたっていいじゃないか、というほど単純なことを主張しているわけではない。何を書き、何を書かざるべきかは、まさに作者の意の働く所、主題の決する所であることはわかっている。ただ、少くとも、蔵原の所論のように、闘士が、あるいは共産党の指導者が、板の間稼ぎをしたり踊り子から金をみつがれたりするような話は、描くべきではない、というのはおかしい、といいたいだけである。
私は、昭和初年からずっと、さまざまの闘士たちを見、さまざまの闘いの表や裏を見てきた。例えば、小ブルジョア的な偏向の続出した、熱海事件前後(昭和七年)の実際も、ま近かに見てきてしまった人間である。それだからこそ、ますます、蔵原が書くような単純な人間観察からプロレタリア・リアリズムを抽出できないのである。闘士もシンパも、もう少し複雑な入りくんだ愛憎怨恨のうちに離合し、集散したものであることを私は知っている。
3.昭和七年シンパ事件 ◆文学史topへ ◆資料館TOPへ
一九三二年三月二十日、プロ科(プロレタリア科学研究所)のメンバーを皮切りに、党員、共青、シンパに対する広汎な検挙が始った。
注)三月二十四日、プロ科の平田良衛、小椋広勝、波多野一郎、二十五日大河内信威などに始り、さらに検挙は秋まで続き作家同盟などコップ全組織に及び、作家同盟関係では蔵原惟人、中野重治、壷井繁治、宮本百合子、猪野省三、窪川鶴次郎、山田清三郎、江口換、徳永直、川口浩、村山知義、鹿地亘、貴司山治など、党員だけでなく、シンパ、資金提供者など広い範囲にわたった。
昭和五年に、既にシンパを含めた検挙事件があったが、七年の方がはるかに広汎で、長期拘留、起訴も多く、一般に第一次シンパ事件というとこの七年のものを指すようである。
五月のある日、私がまだ寝ている時に、警視庁の特高隊がやってきた。私は何がバレたのだろうと思って応対した。特高隊は文化係の警部中川ではなくて、見たことのない野中という男であった。田舎から転勤してきた男らしく、よくしゃべった。
「君、とうとう捕まったね。長いんだからそのつもりで行ってもらいたいね」
私は用心の上にも用心していた。カンパの金は減多な男に渡したことはない。私が金をわたしている男の、だれも、まだ捕っていない。だから、野中は長いなどといっているが、それほど重大な----つまり党へ定期的に資金カンパを続けてきた、というような重大な秘密はまだつかまれていないはずだと判断し、私は平気で捕まっていった。
いった先きは渋谷署だった。
注)原文では池袋署になっているが、妻悦手の日記などでも渋谷署らしいので直した。
署へつくなり、野中は警部補という肩書きつきの名刺を出して、
「君、この四月ころから党ヘ金を出しているだろう」
ときた。
「党へ? 知らんね」
「ちゃんと、ここに目録があるんだ。逃れっこないよ」
野中はそういって、ゆうゆうとケイ紙に書いた一覧表を取り出した。
「君の罪状は深いよ。河上肇の罪状と匹敵するんだからね。読書関係で『ゴー・ストップ』を読んだというものが五百何十人いるんだからね。河上博士の本をみた、というのも五百何十人さ。河上博士も今に挙げられるけれど、君の人気も大したもんじゃないか。いい年貢のおさめ時さ」
私は、小林多喜二に聞いていた。捕まって、先方が証拠をつかんでいるものについては、いくら知らん存ぜんと抵抗してもテロをくうだけで、決してごまかせはしない。そんなのについては始めからあっさりあきらめるのが勝だ、と。
そして、その時私の面前に出された一覧表は「四月二日、五十円。四月二十五日、七十円。五月某日、八十円。五月二十二日、九十円。……」と、詳細をきわめたもので、それは私の記憶と完全に一致する正確なものだった。
「近藤勤という男にいつもわたしているじゃないか。近藤は、金を受取る時は、大河内というぺンネームをつかっているがネ」
それも事実その通りであった。大河内というぺンネームをつけてやったのは私だった。がっちりした、意志の強そうな大学生だったのだが、早くも降伏してしまっていたのか?
「うむ、事実だ。認めるよ」
私は始めから認容した。相手は驚いた風で
「そうかい。じゃ、この金を、大河内こと近藤勤にわたしたことは間違いね」
「うん」
「何の金だかってことも知ってるね」
「うん、共産党の第二無新の発行資金として引きうけた金だ」
「第二無新が日本共産党の合法的機関紙だということも承知しているね」
「うん」
注)この会話がどの程度事実を反映したものかは、確め難い。第二無新の資金だという供述をし、特高もそれを認めているあたりは真偽まことに微妙である。
というのは、貴司が一時、財政部長に擬せられかけた第二無新(昭和四年九月九日創刊)は、その四年中にスタッフの桑江常格、江森盛弥らの検挙により廃刊届をだし、非合法体制での発行に移った。
その発行は細々ながら昭和七年に至るまで維持されており、貴司がそれに資金を供与したことは、ありうべきことである。しかし、昭和七年二月、共産党中央はこの第二無新を廃刊し、非合法党機関紙「赤旗」に合併統合することを決めている。
貴司の七年に於る検挙は五月だから、当然、貴司も特高側も、その辺の事情は知っていて然るべきであろう。
むしろ、この七年という時期の、貴司の資金提供は第二無新というような特定の名目によるものではなく、主観的にも客観的にも、共産党に対する直接のカンパだったと考えるべき理由がある。
というのは、貴司はこの時期、時の党の中央委員の一人であった田井為七と、直接の街頭連絡を行なっていた形跡があるからである。
田井為七は、まことに漂々とした人物で、いつも薬瓶をさげて、病み上り然とした風体でひょこひょこと現れた、ということを、貴司から何度も聞いた記憶がある。
また、晩年(昭和四十五年五月)貴司は、この田井為七が大阪に存命であることを知り、会いにいっている。この時田井氏は既に老い深く、貴司の方も相当にコウコツの状況が進んでいて、会見はどうも要領をえたものにはならなかったようだ。
この時、田井氏は一旦は、病中で会いたくないという断り状をよこしている。その葉書も字体が乱れているし、貴司が、その会見のことを書き綴った数十枚の原稿に至っては、支離滅裂で全く読解しえないものである。 この再会を世話して下さった京都の児玉誠氏も、貴司、田井二人の対面そのものには立ち会われなかったとのことで、どんなことをこの二人が“四〇年後”に話しあったのかはつまびらかでない。ともあれ、この、田井訪問が、貴司の最後の旅行となった。
この少し後から貴司はほぼ寝たきりとなり、三年半後に死んだ。田井氏も、やはりまもなく亡くなった。
ともかく、貴司にとって、田井為七は国領、野田、柳瀬につぐ、懐かしい、因縁浅からぬ人物であったように思われる。
因みに、ここに名を挙げた児玉誠氏は、やはり戦前関西で全協系の労働運動を行い、戦後、それらの運動や関係者の事柄を書きとどめるために粘り強く努力され、自費で同人誌「煙」を出し続けた方である。いわば、関西の戦前の左翼運動の生き字引というべき方だったようだ。数年前に亡くなられ、「煙」も終巻した。
あまりに素直なので、野中は態度をやわらげ、捕えた近藤のことを少ししゃべった。捕えて、テロをくわせて痛めつけたががんとして口を割らない。だんだん調べているうちに、近藤は長州の男で、家が貧しく、県の奨学資金をもらって大学に行っていたが、その金を残して母に仕送りしていることがわかった。それで、その母親を呼びだして対面させた所、顔を見るなり母親は泣き出して一日口説いた。近藤はすっかり転向して「決してもうしません」とあやまり「この通り、金をもらった人の名前と金額をすべて書きだした」というのであった。
野中は
「ぼくは、この三月上京して警視庁ヘ入り、下廻りばかりさせられていたんだが、係長から『もっと大物を手がけて「補」を抜いて上ヘ上れ』といわれてこれを見せられたんだ。貴司は、普通ならとっくに入党しているはずなんだが、入党していない。だが、つついてみたまえ。いろいろ出てくる、この男を手がけるのが出世の緒口になる、といわれたんでネ」
とぬかす。
私としては、こんな男の出世の手伝いをしているのは馬鹿馬鹿しいので
「もう認めるべきことはすべて認めたんだから、拘留はほどほどにして刑務所へ送りたまえ」
といった。
「普通は二十九日拘留してから送るのが一番早い方だが、送られる前にしておきたいことはないかね」
と野中は、もうすっかり送検に自信をもった口ぶりだった。
しておきたいことはあった。家には一文も余分の金がなかった。家内が食うに困るだろう。当座の金は、ついこの間の近藤との連絡の時に、四百円ばかりの大金を渡してしまっていたのだ。(これだけはあの一覧表にものっていなかった!)近藤が国元へ法事に帰るので、一月あまり連絡が切れる、だから予め余分にくれ、という話だったので、有金をかき集めて渡してしまっていたのだ。
いくらか金を作って行く必要があった。幸い「改造」にたのまれている原稿が一つあった。「プロレタリア大衆小説を」という注文であった。それを書こう。私は野中にいった。
「よし、書きたまえ。それができたら、オレが読んでみて『改造』かネ、そっちへ送るようにはからおう」
私は渋谷署の特高室で三十枚の大衆小説を書いた。出来ばえは我ながらうまくなかったが、留置場ぐらしではいかんともしようがない。野中に見せ、訪ねてきた妻にわたした。それで一カ月くらいは大丈夫だ。
「あとは印税の未払い分を催促したり、いろいろしてやって行け」
といった。
翌日、私は野方の刑務所へ送られた。警視庁特高の自動車がきてそれで送られるのだが、出がけに野中警部補がかけつけてきて
「君、検挙のちょっと前に近藤に四百円渡したじゃないか、それが落ちてるよ。大金だぜ。一つ付け足すから、認めていってくれ」
という。どたん場で私はまた少し、野中の出世の手伝いをすることになってしまった。
野中は、いわば大事なお客さんである私について刑務所までやってきた。
刑務所につくと、役人に別室へつれこまれ、丸裸にされた。下着もふんどしも取り去られた。取りさるのがおくれると、役人が「早くせい!」とどなった。
入所の準備が終って元の部屋にもどると、野中は
「じゃあ、ぼくはここで失敬するからね。体に気をつけて、半年ぐらいしたらまた逢いたいね」
といった。野中は粗末な夏服を着ていた。そして入口の大きな鉄門の中へ導き入れられる私の背中に、名残惜しそうな声をかけた。私は若かった。かれ等にたいして勝ちほこったような高らかな気持になって、鉄門を入った。
4.豊玉刑務所未決監 ◆文学史topへ ◆資料館TOPへ
入ったすぐの所にある看守長室と書いた一室で、氏名、本籍地を問われ「四十二号」とあらかじめ用意されてあった番号札を胸につけられた。
「さあ、四十二号、これが君がここにいる間の名字だからね。すべてこの番号で呼ぶからおぼえておけよ」
看守長は高ぶった口調で言いわたした。かたわらについている、やせこけた一人の看守が私を四十二号室に案内した。
「ここだ、入れ」
私がその狭い一室に入ると「ガチャーン」という大きな音がして、ドアが閉った。
その時、クラクラとひどく目眩いがして立っていられなかったと、数年前に私に話した福永のことをふと思った。----しかし、私には目眩いがこない。
私の立っているのは、畳三畳もない至ってせまい部屋だ。コンクリートの部屋である。そこがコンクリートの部屋だとわかるまで、しばらく間があった。何か白日の夢をみているような感じであった。渋谷署のブタ箱から引き出され、特高室につれてこられ、それから自動車で、野方のこの豊玉刑務所のいかめしい高い門をくぐり、ふと気がつくとこの四十二号室という独房にほうりこまれているのだ。
われに帰ると、私はコンクリートの部屋を見廻した。何もない部屋の、ドアのかたわらに一つ、奇妙なでっぱりがあった。それを押してみると、カタンと音がした。ばんやりそれを眺めていると、いきなり外から激しくドアがひきあけられた。
「何だね、四十二番!」
私はびっくりした。何か言わねばなるまい。
「看守さん、面会はどうすればいいんでしょう」
厄介でしょうがない、という態度で看守はさらにドアを一尺ばかり外へ開いた。
「面会は面会人がきて、許可されたら君をここへよびにくる。面会には予審判事の許可が必要だがそれは裁判所でもらう。いいかね、君の自由はこの四十二番の房の中だけだ。外とはエンが切れたんだから、ここにいるあいだはおとなしく坐っていることだ」
ガチャーン、と大きな音がしてドアが閉まった。二度目だ。もう私はたいして驚きもしなかった。
しばらくすると、
「四十二番、弁当の型をとる」
という声がして、ドアの下部が開いた。
「どうするんですか?」
「両手の大きさを計るんだ、手を出せ」
計るのは、看守自身ではなくて、雑役の囚人らしかった。
終るとまたあたりは静かになった。一時間ばかりすぎた。ドアがまた不意に引き開けられた。看守が外に立って、両手にもった二つのカンづめをさしだして
「差し入れだ、受け取れ」
という。私はかすかな喜びに包まれて、そのカンづめを受取った。二個のさし入れ品は「赤色救援会富久町支部渡辺テフ」とあり、宛名はなかった。しかし私にはすぐわかった。
ここへくる直前、渋谷署で書きとばして妻に託してきた三十枚程のプロレタリア大衆小説は,「海賊」という表題のもので、依頼者は改造だったが、その少し前に同じ改造社に私は「渡政伝」という少年読物を書いていた。私はその取材のために富久町の救援会へいって渡政のお母さんのテフさんにあって、いろいろインタビューしたりしていた。その稿料を、救援会に寄付したりもした。その縁で、今度は白分が救援されることになったのだ。
注)貴司の草稿はまだこの先きしばらく続いてはいるが、もはや一つの、意味のある文章として収録することは不可能である。----終わり----(File 4 第7章〜第8章完結) (C) Copyright 2000 Ito-Jun. All right reserved.
実際、採録したここまでの部分についても、話の流れにしばしば飛躍があったり、字体の変化があったり、文脈に乱れが生じたり----要するに脳卒中症状の進行をうかがわせる兆候は、行が進む毎に強まっている。何とか意味をとりつつ採録してきたわけである。しかし、ほぼ、この辺で、力つきたと考えざるをえない。
字体や行の配列の乱れが急に著しくなり、文章の内容も、突然昔の郷里の事になったかと思うと、小林多喜二のことが数行語られ、再び独房内の心象風景にたち戻り、急に、転向についての弁明が始る、といった具合で、さながら、夢中をさまよっているようで、文意をとりまとめることができないのである。
従って「私の文学史」はここで終結せざるを得ない。
貴司は、昭和七年四月渋谷署に検挙され、六月十四日豊玉刑務所未決監に移送、その年一杯未決拘留され、ようやく保釈された。始めての長期拘留の経験であった。(この時の刑事処分の結末がどうなったのかは詳らかでないが、処分保留のような形になったものと思われる)
昭和七年から九年という時代は、戦前の左翼運動にとっては、最後の一シークエンスと見ることができる。そして、プロレタリア文学運動は、弾圧とのせめぎあいの中で、最後の緊張したある種の昂りを経験した時期といえるように思う。
昭和九年一月、貴司は再び杉並署に検挙され、三カ月留置された。この間に貴司は転向の決意を固め、そのむねを朝日新聞などに公表し、法廷でも(今回は治安維持法違反で起訴され公判が行なわれた)執行猶予を受けるのに必要な陳述を行なった。
この執行猶予要件は暗黙のうちに定っていたようで、@共産主義を信奉することをやめる。A日本共産党を支持する行動をやめる。B天皇制に反対しない。の三項目の言明が不可欠的に必要であった。その結果貴司は、徴役二年、執行猶予四年の判決を受けた。(なお、この判決は、昭和二十年、敗戦にともなう治安維持法の廃止と判決の無効化によて取り消された)
他方、プロレタリア文学運動は、貴司が留置場にいる間の昭和九年二月二十二日、貴司の吉祥寺の留守宅で行なわれた作家同盟中央委の解散決定を一つの象徴的転機として、同人誌、サークル誌などに依拠した分散抵抗の時期に入った。
貴司は、雑誌「文学案内」を発刊し、また全協系の労働者サークル(地下鉄)などによって文学サークル活動を行ない、分散抵抗の一翼に加わっていた。
しかし、昭和十二年一月二十四日再び検挙され、年未まで一年近く留置された。「文学案内」発刊などが「共産主義の啓蒙運動……共産党再建の地ならしをしたのだと検事は調書に書いていた」(昭和十三年五月四日の日記)という次第で、結局、昭和十三年五月二十日になって起訴猶予の決定を受けた。
この間に「文学案内」も終刊となった。かくて、昭和三年に始る貴司のプロレタリア大衆文学のさまざまな試みは、ちょうどまる十年で終った。客観的に、権カの弾圧によって圧伏させられただけでなく、貴司の内面においてもそれは終ったかの如くであった。
以後、貴司は、戦後の時期も合めて、例えば「ゴー・ストップ」のような形の作品を書くことはなかった。
本来、「私の文学史」は、この昭和十三年の時期まで書き継がれて始めて完結すべきものと思われる。
特に、七年から九年に至る、小林多喜二の虐殺というエポックを含む、プロレタリア文学史の最も重要な時代のさまざまのエピソード、あるいは九年以降の「文学案内」「実録文学」「詩人」を刊行した分散抵抗の時期のエピソード、また逆に「戦旗防衛講演会」の全国行脚をやったりナルプの「文学新聞」を編集した五、六年の時期について、もっと多くのことが語り遺されるべきだったと思う。
また、弾圧の波浪の中で中断したままになってしまった「芸術大衆化」の間題についても、もっとコメントがあればと思うが、今となってはいかんともしがたい。
もっとも、昭和九年以降については、日記が残されていて、いろいろ面白いこともかかれているので、折をみてこの抄録を、活字にしてみたいと思う。
ただ、三年から八年にかけては、ほとんど記録がない。九年の日記の冒頭に、日記を書かなかった時代のことが少し触れられているだけである。
ところで、この「私の文学史」をまとめるにあたって最も困ったのは、次々と語られるさまざまのエピソードの一つ一つの、真偽である。というのは、この「文学史」を書く貴司の態度というのが必ずしも、事実を正確に記述して後世に資料を提供するということではなく、多分に物語的な潤色がありそうな語り口だし、また、思い違いや記憶違いによる間違いも少くないと思われたからだ。
それで、編集するにあたっては極力関連資料や日記に当ってウラをとり、注記するようにしたが、ただ、この作品の性格からいってウラがとれないからといってそのエピソードを捨てるわけにはいかない場合も少なくないのである。つまり、フィクションも含めた読物的、物語的流れもあるからである。つまりは“四尺五寸の大刀をたばさみ”式の大ボラも含まれているに違いないのである。
日記やメモなども含めて、まだ目を通しきれていない直接資料も多く残っているので、今後ともそれらの虚実について調べていきたいと考えているが、関連する事柄についてお心当りがあれば是非ともご教示給わりたいと思う。