1. 渡された原稿の束
一九七二年頃のことだったと思う。私は、貴司から、二百字ずめ原稿用紙を十センチばかりの厚さに綴じ、板紙の表紙をつけ「私の文学史」と題した束を二つ、手渡された。貴司の病状は既に相当に進んでいて、言葉は聞きとりにくかったが、要するに、これ以上書き続けられそうにないので、そちらへ引渡すから、ともかく読んで見てくれというようなことであった。
この二つの束が、「私の文学史」の未完の草稿であった。貴司は、この一年ばかり後に死んだ。
この草稿は「私の文学史」と自ら名付けている通り、自叙伝のような形をとりながら、自分の文学的立場や特性を説明/弁明し、併せて、記録に止めておきたい非合法左翼運動の時代のいろいろなエピソードを書き留めておく、という態のものであった。
その内容は、大正末年、東京時事新報の懸賞小説入選を機に、それまでの大阪での新聞記者生活をやめ、職業作家となるため上京したあたりから書き始め、昭和四年から七年頃の、プロレタリア文学運動の時期に至って中断している。
しかし、二束に綴じられたその草稿は、実際には著しく混乱したものであり、一通り通読しても、物事の脈絡がさっぱりつかめないようなものであった。というのはこの束には、非常に沢山の抹消や書き加え、稿紙の配列がえなどが行われていて、例えば、稿紙のすみのノンブルなどは、三回、四回にわたって消しては打ちなおされており、しかもなお、そのノンブルはちゃんと連続しておらず、また、ノンブルがつながっている箇所でも、文章はまるっきりつながっていない、という場合も少なくないという状況で、そういった混乱の中から、一つの物語りとしての流れを読み出していくためには、ピクチャーバズルを組み立てていくような推理的な努力が必要であった。
このような、草稿の著しい錯乱が生じた理由は、稿紙に対する修正加筆の様子からほぼ推察することができる。
つまり、この草稿は、一九六五年頃から書き始られたものと思われるが、少なくともその頃は貴司は健康であった。だから、草稿の始めの方は、字体も平穏であり、構文にも乱れがなく、いくらか老人性の饒舌が感じられるにせよ、全体の結構に配慮しながら、面白いエピソードを適当にからめて物語が展開されていっており、混乱はない。このようなノーマルな文章で、ある所まで一旦は書き進められていたように思われる。
所が、何百枚か書き進むうちに、貴司はしだいに健康をおかされ、はかばかしく書き進めることができなくなってきた。この時点で貴司が、中断した状態のまま草稿を放置していれば、多分、原稿の束はもう少し読みやすい状態で残されたと思う。
しかし貴司は、こうなってから、草稿の始めにたちもどって、全体の推敲を始めたように見受けられるのである。配置がえ、書き加え、抹消、などが元の稿紙の上に執拗に繰り返された跡がある。その執拗さは、いくらか異常な感じがするほどである。
貴司の病気は、脳硬塞だったと思われる。ゆっくり脳の機能低下が進行し、記憶力、判断力、情緒などが乱れていったように思える。このような病気の進行の中で行なわれた草稿に対する推敲は、繰り返せば繰り返すほど、混乱を倍加させていく結果にしかならなかった。
病状の進行は、字体の変化に、すさまじいまでに現われている。
少なくとも、貴司の筆跡は、文筆を業としはじめた昭和初年頃から、昭和四十年代の中頃まで、さしたる変化は見られない。どの時期を見比べてみても、一見して同一人の手跡と分かる。所が、四十年代中頃から、筆跡は、急に不可解な変化を見せ始める。字体が小さくなり、字画が妙に角ばってきたのである。その変化は、今思い返してみると、はっきりした脳硬塞の症状が現れるよりも前に、出てきたように思う。
そして昭和四十六年以降――つまり、死の二年前以降になると、字体ははっきりと委縮を示し、病的に細かくなってくる。更に、文字が細かくなるだけでなく、行が尻すぼまりになり(下図)、何行かの文章を書くと、全体が尻すぼまりの扇形になるという、奇妙な現象を示すのである。このような現像は、脳動脈硬化の症状としてよく知られているそうだが、ともかくこの、一種不気味な幾何学模様のようになってしまった文字の列を読みわけていくと、それは時に牢獄内での心象風景を語っていたり、故郷の断片的な想い出であったり、時にはひどく性的な情景描写であったりする。
一般に、脳卒中に見舞われた患者は、ぼんやりとして表情も乏しくなり、一見、現世の憂さから解き放たれて至福忘我の境をさまようように見えるので、恍惚の人などといわれる。だが、熟練した医師に聞くと、決してそうではないという。脳卒中はstroke――つまり打撃とか打ち倒す、という言葉で呼ばれているが、患者は、はたからみて打ち倒されるように見えるだけでなく、自身、強いショックと不安の境に突き落され、ついで、それが身体や言葉で伝達できないことから、激しい焦燥を感じるに至る。その不安焦燥は、時には胃潰瘍や鬱症状を引き起こすので、脳卒中患者にはその方の治療も必要だといわれているほどである。決して至福忘我の境ではない。
「私の文学史」の未完の草稿は、そのような脳卒中の病像をよく現していると思う。憑かれたような異状な加筆修正の繰り返しは、その、不安焦燥との争斗の跡であったのだろうと考えられる。
2. 故郷/出発点への回帰 目次に戻る
それほどに固執して、貴司が書いておこうとしたものは、何だったのだろうか。
己れの作家的な立場を説明し弁明するこの「私の文学史」には、二つの大きなモチィーフが奏でられている。
その一つは、故郷のモティーフである。
貴司は、老境に入って、ことに故郷へ回帰しようとする気持を強くしたようである。そして実際、晩年、肉体的、精神的に不安定さをまして、周囲をはらはらさせながら、何度か無理矢理、徳島や鳴門に旅をしている。
だが本当に貴司が回帰しようと夢みた故郷は、現実の地理的な故郷そのものではなかったようだ。それは、遠い青春の古巣としての故郷であり、それだからこそ、その故郷は岡崎の船着場に天保山通いの蒸気船が出入し、片側にはトウモロコシが生え並んでいる、そんな泥道に面した林崎の女郎屋街のある撫養の町であり、そして茫洋とした広い砂浜に人っ子一人みえず、浜木綿だけがゆれている、そのような夢幻の如き鳴門なのである。
貴司は「静」と題する奇妙な小説を、最晩年に書き遺した。四百字ずめ五百四十枚に及ぶ長いもので、これもまたその後半は構文が乱れてしまって、そのままでは活字にはできそうにないが、傀儡(くぐつ)の娘がからむ、やや異様な感じのエロチックでロマンチックな、架空の故郷出関の物語である。それを読むと、人間が正に老境の極まりに達しようとした時、故郷、すなはち己れの青春の出発点というものを、どのような切実さでもう一度見返そうとするかがよくわかる。
その、まだ乱れていない冒頭だけを引用しておくと--------
「……長かった生涯の坂をのぼりつくして、まのあたり七十の峠がみえてくる齢ともなると、さすがに寂蓼の思いに心が閉ざされて、夜半の寝醒めに瞼のあわないことがある。そんな時、太平洋に突き出た半島風の黒い山の幻がいつもきまってまなかいに浮んでくるのだが、それは鳴門海峡のほとりにある里浦という部落の大磯海岸にあって、今は鰯山とよんでいる故郷の山である。
海峡に面した山の北側は、疎らな松林のつずく白い砂浜で、沖から寄せる浪が、うす紫の波頭を先き立てて蜿蜿と砕けては渚にひろがる中を、足の甲をぬらしながら、いつしか少年の私が歩いているのだ。海の潮は生ま温かった。……
浜辺づたいに、蛤や浅蜊を堀った記憶はもうないけれど、貝殻を拾った印象は、今もあざやかにのこっている。このごろの寝醒めの瞼に、それが白々と桜色のもまじって光っていたりするのは、一体何の意味なのであろう? 或いはその小さな貝殻の幻が、老いのはてに浮ぶ命終の夢とでもいうのであろうか? ……」
つまりは、既に失われた故郷≠フ幻像の中に、自己の思想形成の原点を探り出そうとする──そのような意味での故郷のモチーフがまさぐられているのである。
それは、具体的にどのような物語≠セったのだろうか。
貴司の思想------社会観の源泉は、鳴門塩田労組、とりわけその指導者として、一時、華々しく活動した福永豊功との交遊の中にあったようである。
そして、その福永の社会主義者としての処世態度のそのまた源泉が、一束の「大阪平民新聞」にあったということが記されている。
その福永から預った古い「大阪平民新聞」の束は、今も、貴司の遺品の中に残っている。その紙面をくってみると、森近運平の、縷々としてのべている「賃金の話」の連載が目につく。この古い一束の紙片は、一つの思想……というよりは、ある一つの処世態度、というものが、一人の人間の中に如何にして芽生え、他の人に伝播し、転生していくかという、その現場証拠をみるような感じを与えるものである。
この福永豊功は、昭和元年の争議指導を最後として、再び輝ける委員長としての青春に立戻ることはできず、昭年四年頃以降は全く貴司との交流もなくなり、貴司にとっても福永は、関心の外の人物となってしまったように見える。
昭和十五年という、戸籍謄本によって推定された福永の死の前後の、貴司の日記を読んでみても、福永のフの字も出てこない。全く音信がなかったのだろう。
ただ福永は、貴司の関心圏から消え去る前に、鳴門塩田争議や塩田労働の実状などについて大量の手記を書き、争議のビラや議事録、メモなどとともに残していった。
これらの資料は、まだ十分に整理していないけれど、工場労働者でもなく、小作農民でもない、独得の被支配階級であった塩田労働者が、大正未年の一時期、日本の最左翼の労働組合------ひいては共産党の影響下に、執拗な争議をくりひろげた、ということは、福永という無名の一青年の名とともに、もう一度思い返されていいように思う。
しかし、福永との交遊、塩田争議との関りによって、貴司が即、社会主義的な考え方に傾いていった、というわけではない。
貴司自身は、塩田労働者でもなく、また争議の指導幹部でもなかった。貴司の実家は、零細な高利貸を副業とする、成り上りの小塩田地主であった。それに、争議が最も高揚した大正末年には、貴司は既に島を出て大阪へ去ってしまっていた。
貴司が後年、プロレタリア文学の世界に入っていく素地は、確かに福永豊功と鳴門塩田争議(更にはそれを通じて知つた労働組合評議会の人々との交際)によって形成されたのは確かだが、しかしその内実は、大変屈折している。
友人や争議団のかもしだす左翼的言説や雰囲気に共鳴し同化していったというほど簡単ではない。
貴司は、争議に対して、自分の立場はあくまで野次馬であり傍観者だった、と書いている。しかも、それは結果としてそうなった、というのではなく、自ら求めてそういう立場を選びとった、というのである。
現実というものに対する、このような立場の選択は、その後の貴司の、物事に対する最も基本的な態度となっていくものである。貴司は結局、このような立場――つまり傍観者であり野次馬である立場を選ぶことの中に、小説書きという仕事の本質を見出していくのである。
長々と書き連ねられた「私の文学史」の言説は、すべて、書き手としてのこの屈折した己れの立場を説明しようとするためのものだ、といっても言い過ぎではないと思うし、実際、時に応じて、しばしばそのような言葉を語るのを私は聞いてきた。
つまり「わしは要するに、野次馬なんだ。だからモノが書けるんだ」というような言い方である。
野次馬を一歩進めて「私は無類漢だ」というような言い方をすることもあった。無類漢というのは、貴司の場合、文字の字義通り、アウトサイダーというほどの意味であって、結局、野次馬とか傍観者と同じである。
そのような自己意識は、自分の出自に対する意識とも関係があるように見える。貴司の実家は、いわば在地の最下層の資産階級といった所で、労働者や百姓ではないが、かといって本当の金持、地主、資産家、大学出のインテリ……つまり本格的なエリートでもない。そのどちらにも属することのできぬ、まさしく無類の身分だが、どちらかといえば労働者や百姓に近い、という動かしがたい感じ方をもっていたようである。
そこで、エリートに対しては左右を問わず、つまり蔵原惟人も宮本顕治も、三島由紀夫も、みんな一束ねにして「わしは土百姓や、あんたらエリートにはわしら土百姓の、本当の所は結局、決してわかりやせんのや」とケツをまくる無類性を発揮したがる所があったのである。
貴司は、評議会についても、第二無産者新聞についても、無産者グラフについても、そして日本共産党についても、一貫して資金提供者であり「お手伝い」役ではあったが、活動の当事者になったことはなかった。
もし、当事者となって野次馬の立場を崩してしまったら、それはすなはち作家としての自己を否定することになってしまう、と考えていたようである。
貴司はだから、あのプロレタリア文学運動の中でくり返しくり返し論じられ続けてきた「唯物弁証法的創作方法」------つまり、せんじつめていえば「最もよき共産主義者が、最もよきプロレタリア文学を生産しうる」という教条を、実は、ほんの一時も、受入れたり信じたりしたことはなかったのだ、と考えるほかはないのである。
貴司の作家活動を、通して眺めてみると、二つのピークが認められる。一つはプロタリア文学時代であり、一つは、完全転向後の時代小説を中心とした大衆小説多産時代である。そして、この二つのピークをくらべてみれば、前者の、プロ文学時代の方がより若くより本気だったように見える。
にもかかわらず、事態は変らない。貴司は、よき共産主義者になろうとするかわりに、よき野次馬たろうとする処世態度を崩してはいないのである。
このようなスタンスから、貴司は、「プロレタリア大衆小説」というジャンルを作り出そうとした。そしてそれが、当時の「正統左翼」の人々の中に「芸術大衆化」という大きなテーマを引き出し、これをめぐって、「正統左翼」の思考回路からはいささか邪道めいた貴司の問題提起が、大きな物議を醸し出すのである。
今では、「唯物弁証法的創作方法」という言葉も、それをもう一歩具体化したものとして提起された「プロレタリアリアリズム」という言葉も、さらには「プロレタリア文学」という言葉自体が、はるかな死語になってしまった。
しかし、日本の社会主義運動の青春期ともいうべき時代、そして、プロレタリア文学というものが広く人々の心をとらえ「プロレタリア文学に非ずんば文学に非ず」とまでいわれた短い一時代があったこと――そういう時代の中で、貴司のような大衆と関る形の文学者が、どのような考え方をもち、どのように遇されていったかということを、もう少し考えてみたい。
4. 貴司にとっての芸術大衆化 目次に戻る
かくして、第二のモティーフ「芸術大衆化論争」が立ち現れる。
プロレタリア文学運動の中で、貴司が最も深く関った議論は、「常にその被告席に立たされていた」と自ら書き留めているように、いわゆる芸術大衆化論争である。
貴司は「私の文学史」の中で縷々コメントしているように、当時の社会主義運動の内部で生産されている小説が、あまりにも大衆性に欠けているものが多いことなどに触発されて、プロレタリア大衆文学といったものを志し、実際そのような多くの作品を書くに至る。と同時に、日本プロレタリア作家同盟にたいしても、そのような提唱をする。
貴司の提唱の要点は、作品の主題意識、いわゆるイデオロギー性の点では、大衆の理解度や関心にあわせた緩やかなものを、手法の点では立川文庫的講談社的な手法も取り入れて通俗的興味の盛られたものを、というようなことであった。
もっとも、理屈ばっていわなければならないと思っているから、こういう言い方になるのだろうけれど、貴司の真意は、もっと実作者的な、コンべンショナルな所にあったのだと思う。つまり、まだほとんどの大衆が社会主義運動や労働組合運動といったものには、アカとかシュギシャといった恐怖感と疎外感しかもっていなかった時代。そういう状況の中でそれらの運動を面白おかしい大衆小説、物語仕立てで紹介し、その世界に少しでも慣れ親しんでもらえれば、それだけでも大変なプラスではないか------ややこしい議論は、その後でいいんじゃないか------という、いわば通俗的紹介者、案内役といった意識が中心だったと思われる。
実際の作品も当然、そのようなものがほとんどで、いうならば大衆にとって、知られざる、ダブーに近い、それ故にこそ興味津々たるシュギシャの世界を、ハナシ面白く紹介するという態度である。
そして貴司が意識している読者は、シュギシャに対して漠然とした恐怖感と、別世界のことという無関心をしかもっていない、市井の大衆であり、その連中には自分のやり方は絶対に受ける、という自信をもっていた。
左翼に理解のあるインテリや活動家は相手ではない。だから、貴司は、発表の場としても左翼的な紙誌、つまり「ご親戚筋」にはあまり意味を認めず、一般の商業的な新聞雑誌に載せることに意義を見出していた。
これは正しく、貴司自身が自己規定していたように、野次馬の態度に他ならない。
更に貴司は、自身が野次馬であると同時に、自分の読者たちも同じ野次馬であることに深い確信を抱いていたのである。
いうならば貴司は、事件現場の最前列にいる野次馬なのだ。最前列の野次馬が、現場がよく見えないでいる後列の野次馬たちに、事件のありさまを面白おかしく説明してやる――それが、貴司の作家としての立場なのだ。
「文学史」の中で貴司は、宝井馬琴を嫌い、京伝、三馬、種彦、ひいては風来山人平賀源内の系譜を本物と思う、とわざわざ書き留めている。
これはどういうことだろうか?
いうまでもなく、馬琴の作風は、戯作とはいってもおふざけ抜きの勧善懲悪で、お上の受けがいいのに対し、源内や京伝などの滑稽本や草双紙の徒輩は、旺盛かつ野卑な好奇心、風刺、おふざけ、下世話を宗とし、発禁続出という有り様である。貴司は、そういう作風の世界に最も共感を感じていると思えるのである。
このような、大道の張扇師の魂ヘの憧景を聞き、また、その青年期を過したのが関西であるということを考えると、私は、貴司の作風の彼方に、ノゾキカラクリ、のようなものの姿を想起しないではいられない。
のぞきからくりは、一つの穴によって、物語の世界と受け手の世界は画然と切り離されている。受け手は、物語の世界、あるいは物語の提供者に顔を晒す必要はない。匿名性は、構造的に保証されていて、物語りの世界ヘの同一化を求められたり、ひいては倫理的な態度決定を迫られることはない。受け手は、穴の陰に身を隠しながら、物語を楽しみ、共感し、また逆に反感を抱き、時には見るのを拒否するという自由をも確保できるのである。
このような立場が、受け手・読者を共産主義へと教化することを至上命題とした「唯物弁証法的創作方法」にとって、著しい異端であることは間違いない。それ故に当然、蔵原惟人氏の真向上段からの反論が行われるのである。
5. 芸術大衆化論争とは何だったのか 目次に戻る
当時、ことに昭和五年頃、プロレタリア文学の世界に巻き起こった「芸術大衆化論争」は、プロレタリア文学の世界を越えて、広く世間から大きな注目を浴びた。しかし、今となっては、それが何だったのか、それがどんな意義をもっていたのか、知る人もほとんどない。
そこで、簡単にその要点を、跡づけてみよう。
尾崎秀樹は、その「大衆文学論」 の中で
「貴司山治は『芸術大衆化』論争を回顧して、昭和十年八月の『文学評論』で、次のように語っている。…最初の提起は蔵原、中野、鹿地らによる1928年(昭和3年)の論戦………第二回が1930年(昭和5年)に、僕などが参加しての論戦……
…第三回が1931−2年(昭和6−7年)の徳永論文『プロレタリア文学の一方向…』
…今度(1935年・昭和10年)が四回目…貴司・徳永間の『実録文学論争』……」1)
という貴司の総括を引用して、プロレタリア文学内部での芸術大衆化論争が、7年にわたり、4回も繰り返されたことを指摘している。
しかし実際には、それ以前、大正期の社会運動の中から早くも「労働者や農民のための大衆的な芸術の必要性」を論じる声が聞こえ始めている。
5−1.大衆文学論争の前史 目次に戻る
米騒動の年として記憶される大正7年という時期に、大杉栄はその「民衆芸術の技巧」
という一文のなかで
「……僕は、労働者の悲惨な生活に対する憐憫とか同情とかではなく、却って其の生活の中に或る偉大な力を見出して、其の力を賛美し、又自らも其の力の中に同化して了ひたいと感ずるやうになった……」
とのべた上で
「……平民労働者は、先ず其の強烈な生活本能の復活によって、人間としての更生の第一歩を踏んだ。其の生活本能の行為となって現れる前に横たわるあらゆる障害物と闘った。……(その)新しき生命は複雑な心理や、精緻な感情や、晦渋な象徴を持たない。大きな所作、大きな線で強く引かれた姿、単純な力強いリズムの単純感情、等で描いたやうな荒い調子、これが新しき生命其の儘の姿である。同時に又これが民衆芸術其のものの、従って又其の技巧上の根本原理でなければならない。」 2)
と、表現方法の面から民衆芸術のあり方をイメージしようとしているのが注目される。
とくに大杉は、その表現方法を発想するにあたって、労働者を、救済の対象として見るのではなく、その自己解放の内発的な力を認め、その力の発露にふさわしい芸術形式を唱道しようとしているのである。これを、アナキストらしい単純なロマンティシズムだと片づけてしまうことは簡単だが、1928年以降の大衆化論争が、常に労働者農民を救済教化の対象と位置づけ、これへの上からの芸術の与え方の問題として論じられたのと比べると、大杉の発想の180度の違い……民衆の内発的な力をまず考え、その形象化という形で芸術の方法を発想しようとする新鮮さに驚かざるをえない。
2)大杉栄「民衆芸術の技巧」河出書房1954.1「現代文学論体系4」
前史としてもう一つ記憶に残ったものを挙げると、関東大震災の年である大正12年(1923年)の青野季吉の一文である。
「或る会の席上で平澤計七氏は、プロレタリア芸術などと言って見たところで、今のところ労働階級では、そんなものを読む者は一人もいない。結局知識階級の一部の読み物に過ぎない。……今のところ労働階級の目や耳に直接訴ふるためには、労働階級の集団地で天幕張りでもいいから、芝居をやる、新講談をやる、それが一番いい……実際また、平澤氏はそれをその通りに実行している人である……」 3)
ここで紹介されている平澤計七は、大杉などと同じ早い時期の社会運動家であり、劇団を組織して直接労働者に接する演劇活動を行い、大震災直後のテロルによって、大杉栄や伊藤野枝より前に憲兵隊によって虐殺されてしまったという人物である。青野によって紹介されているその平澤の大衆的な芸術運動の発想もまた、労働者と直結する方法を求めるものだった。
しかし、このような鮮やかな原点での発想は、その後の大衆化論争の中で変容し、大衆化を議論しながら、その当の大衆から孤立し、やがて時代の波間に没していくという結果を招く。なぜ、そのような事態に立ち至ったのだろうか?
労働者・農民の貧困と非人間的な生活からの解放を願った、アナキストやクリスチャンなども含めた広い社会運動家の中から胚胎してきた大衆的芸術への希求は、やがて、マルクス・レーニン主義を指導原理とする社会主義者の論ずるものとなっていく。
先に平澤計七の労働者密着型の活動を評価した青野季吉は、その三年後には
「……プロレタリアの生活を描き、プロレタリアが表現を求めることは、それだけでは個人的な満足であって、プロレタリア階級の闘争目的を自覚した、完全に階級的な行為ではない。プロレタリア階級の闘争目的を自覚して始めて、それは階級のための芸術となる。」4)
と述べ、大衆芸術といえども、階級理論、すなはちマルクス・レーニン主義によって意識的に方向付けられたものでなければならない、と論じ始めるのである。
そして、マルクス・レーニン主義的芸術理論の原点となったのが昭和3年に発表された蔵原惟人の 「プロレタリア・レアリズムへの道」だった。
この論文で蔵原は先ず「芸術家が現実にたいするなんら先験的な主観的な観念をもたずして、現実を現実としてそれを客観的に描き出そうとするならば、そこにはレアリズムの芸術が生まれてくる」と規定し、ブルジョアジーが中世的な観念論に対抗してリアリズムによる現実認識を創出したことに一定の評価を与えた。
しかしブルジョアジーの歴史的使命は「個人の解放」にあり、「彼らは人間の個人的本能的生活はこれを描くことができたのであるが、それを全体的なる社会生活の一部として描くことをえなかった。……プロレタリア作家はこの自然科学的レアリズムを克服して個人的にたいする社会的観点を獲得しなければならない」とし、その社会的観点を獲得するためには、マルクス主義的な社会観、つまり唯物史観によって現実を解析し把握する必要があるとし、傍点付きで強調しながらこう述べる……
「……我々にとって重要なのは、現実を我々の主観によって、ゆがめたり粉飾したりすることではなくして、我々の主観――プロレタリアートの階級主観――に相応するものを現実のうちに発見することにあるのだ」5)
5)「戦旗」昭和3年(1928)5月創刊号「プロレタリア・レアリズムへの道」蔵原惟人
*日本プロレタリア文学評論集4
この論文は、明快な社会主義リアリズム、歴史的反映論(大きな歴史の必然的な流れが、日常生活のデテールの中にもキチンと立ち現れる、という考え方)にもとずくリアリズムの説示であり、日本のプロレタリア文学の出発を飾るにふさわしい基調論文として注目された。
ただ、これは直接に芸術大衆化の問題を論じたものではない。しかし、しばしば芸術大衆化論争の最初の論文として引用される、中野重治の「所謂大衆化論の誤りについて」 6)は、蔵原のこの一文と、内的に深いつながりをもって書き出されるのである。
この一文で中野は、先ず、“芸術は大衆化されなければならない”と唱えて、「たわいもないカラクリ仕掛けの怪奇と足の裏を嘗める卑猥とで」大衆の気を引くことに熱心な芸術家は「牛太郎」(売春婦の客引き)だと断ずる。何故ならば、牛太郎は、客の気を引くためにいろいろと言葉を飾るけれど、決して女の本当の美質を伝えるために努力したりはしない、大衆におもねる作家という者は、それと同じで言葉は飾るけれど真実を語ろうとはしない種族だ、というのである。
それなら大衆に興味を持たれて、しかも真実を伝えることが出来る表現とは何か?
「大衆が……いわゆる芸術的な芸術を受けつけないのはそれが芸術的であるからではない。……反対にそれは、昨日の芸術が今日死んだからだ。今日大衆はその生活がまことの姿で描かれることを求めて居る。生活のまことの姿は階級関係の上に現れる。生活をまことの姿で描くことは芸術家にとって最後の言葉だ。大衆の求めて居るのは、芸術の芸術、諸王の王なのだ。
……そこで大衆にとっては何が一番面白いか。言うまでもなくそれは大衆自身だ。……それは、空っぽの胃の腑と霞んだ眼とでただ独り人間の魂を護り続けて居るもの、この世の存続と発展とのために生産の仕事を引き受けて居るもの、……」
持って回った言い回しだが、要するに中野は、大衆的な芸術と高級な芸術などという区別はありえない、良い芸術が即大衆的だ(いい芸術は多くの人の心を打ち多くの人に受け入れられる)と原則論を展開する。そして、いいものが大衆的たりうる根拠として、反映論の論理が現れてくる。
つまり、歴史的真実、階級的真実は大衆の生活の中に立ち現れている。これを正しく(リアルに)描いたものがプロレタリアリアリズムの観点から「いい作品」である。そして、大衆は己自身の生活の真実が描かれたものを面白がるから、このような作品は多くの大衆に受け入れられる。かくて、「いい作品」=「大衆的な作品」となる。
この所論が、非常な観念論であることは、今では一見して分かる。
まず、「空っぽの胃の腑と霞んだ目〜」という一節にイメージされている「大衆」像は著しく空疎な感じを与える。誰か「大衆」本人に「あなたの生活って、こんな風ですか?」とインタビューを試みたら、多分聞かれた当人は「ご冗談を……!」と逃げ出すだろう。これはやはり、「大衆」の教化と救済に情熱を抱いた帝大出のエリートの観念的空想というほかはない。
さらにもう一つ、より大きな問題は、「大衆にとっては何が一番面白いか。言うまでもなくそれは大衆自身だ。」という件りである。本当にそうなのだろうか? 大衆は自分たちの生活が描かれることに一番の興味をもつと、当然のように言い切っていいのだろうか?
実は、芸術大衆化の根元的な論点は、ここにあったと思われる。しかし、多くの人々はこの断言に疑問を感じなかったようだ。
ただこの時点で一人、林房雄だけが、その根元的な問題点に気づいていたように見える。かれは、 「プロレタリア大衆文学の問題」で、痛烈に大衆化の問題点を衝いた。
「『戦旗』『文芸戦線』其他のプロレタリア文芸雑誌に発表される作品の殆んど全部は……従来の狭い高級な知識階級を基礎として来た「正統文壇的作品」……の範囲以外には出ていない。
第一に……働いている大衆にとって、先ず必要なものは、単純で初歩な内容である。
第二に……「面白く」なくてはならない。……奔放な空想と、諧謔と風刺と、健康な欲情と、痛快なヒロイズムに満ち満ちていなければならない。……遊戯的要素のない小説を大衆は決して読むことを欲しない。……」7)
そして、民衆劇を構想したロマン・ローランの言葉を引いて、大衆の悲惨で苦しい生活を描写したハウプトマンやトルストイのようなリアリズム作品は、かえって平民を気落ちさせ、その不快を癒すために酒場に追いやるだけだ、と論じ、大衆化のキーポイントは、大衆の興味に合致できる「形式」「創作方法」を追求することだ、と結論づけた。林自身は、明示的に写実を越えた大衆的形式を、とまではいっていないが、「痛快なヒロイズムに満ち満ちていなければ……」とまでいえば、写実を越えた展望をもっていたことは明らかだろう。
蔵原もこの時点で、中野の一元論をたしなめて、プロレタリアといっても芸術に高い理解をもったものから、全く理解しないものまでいるわけだから、プロレタリア芸術理論を追求する高度の研究の場と、低い大衆を芸術という手段でアジテーションする場と、二通りのものがあっていい、と応じた。
ただ、蔵原の問題の展開は、創作方法そのものに触れるというよりは多分に組織論的なものになっている。その限りでは極めて具体的で、要するに「戦旗」を高度な研究誌とし、そのかわり、大衆向けの絵入りグラフのようなものを新たに発行せよ、という提案である。8)
結局、中野が林の所論に理解を示すという形で、真正ののプロレタリア芸術と、調子を落とした大衆向け疑似プロレタリア芸術があるかのような見解は誤りで、高度のものも大衆向けも、ともにれっきとした「プロレタリア芸術」なのだ、という、わかったようでわからない、妥協的な結論で、一回目の大衆化論争は終結した。9)
9)「戦旗」昭和3年11月「解決された問題と新しい仕事」中野重治 *日本プロレタリア文学評論集6巻
ただ、あえていえば、受け手の水準に合わせた――とりわけ理解度の低い大衆のレベルに合わせた作品が必要なこと、また、そのために既成の大衆作家の手法を研究する必要があることが、きわめて曖昧ではあるが、合意されたように見える。
昭和5年(1930)に起こった二回目の芸術大衆化論争は、主に貴司を被告として行われた観があった。そして、この二回目の論争の特徴は、一回目の暗黙の結論、高級初級の二元論を認め、大衆化の技法を既存大衆作家に学ぼう、という考え方がかなぐり捨てられ、極めて排他的で極左的な結論に到達したということである。
今回の論争は、作家同盟内部の論争が主で、論文での応酬は少ない。議論の経過は、主に、戦後尾崎秀樹が対談や座談会という形で貴司から聞き出した談話と10)11)、それに基づく尾崎の文章12)が中心にならざるをえない。
それによれば、議論の発端は、貴司が昭和4年か5年頃(未調)朝日新聞に「今のプロレタリア文学は面白くない。わかりやすく面白くかくにはどうすればいいかが肝心だ」というようなことを書いた、また、無産者新聞や戦旗に“大衆的な”プロレタリア小説を掲載し、その大衆性(通俗性)がいわゆるナップマンたちの目にもとまっていた、そしてそういう「講談社作家」が昭和4年にはプロレタリア文学の牙城である作家同盟に参加してきた、というようなことが発端だったようだ。
作家同盟は、第二回大会を前にして、芸術大衆化の議題を準備するために
「自分(貴司)の考えを来て話せということになって、中央委員会に呼ばれた…場所は下落合の片岡鉄兵の家で…片岡鉄兵、徳永直、鹿地亘、川口浩、山田清三郎、中野重治、立野信之がいました…文学大衆化の問題について…討論会をやったわけです。引続き、それを四、五回やったかな。…」10)
「(第二回大会のあとで)私は中央委員にさせられました。それで大衆化問題の続きをやらなければならない……四月ごろから四、五回ぐらい中央常任委員会でそれを討論したんです。…そこで私が槍玉にあげられたのは、形式を安易にするために、イデオロギーをゆるめて、社会民主主義的なものを取り入れようとしているのではないか…(そうして)議論は、高度の共産主義的な思想を、出来るだけ単純な形式で、わかりやすく大衆に与える文学を作るのが芸術の大衆化ということに尽きる、ということになってしまった」10)
「…作家同盟のおえら方がしきりに『講談社的文学』とか『講談社イデオロギー』という言葉を使う。…まるでぼくをその代表者と目したように、『プロ文学の中へ卑俗主義をもちこみ、リアリズム、プロレタリア・リアリズム、ボルセビズムと進んできたプロ文学を崩そうとする貴司の理論』という風にやっつける…
…連中は講談社の雑誌なんか一冊も読んだことがないから、ぼくのいうことがわからない、…あとから見ると、わからないというより、嫌いなんだね。…しかしちょっと面白いのは『ゴー・ストップ』はB6三百頁の本だが、江口渙でも壺井繁治でも『読みかけたら面白く、ひきずりこまれて、とうとう一晩で読み通した』という前置きで、その内容を攻撃する……
私は内容の卑俗性は承認したが、連中はなぜ『…ひきずりこまれて一晩中読みとおした』かという点を考えてみようとしないのか…ぼくの思想上のまちがいだけをさかんに攻撃して、それをぼくが承服すると、あとはポカンとなって話は終わってしまう。…なぜ面白かったか、についての話は全然出ない。」11)
このような議論の末に、昭和5年4月の作家同盟第二回大会では、一回目の論争の到達点よりもはるかに後退した閉鎖的で極左的な「芸術大衆化に関する決議」13)がなされる。
その要点は――
「第一の失敗は、芸術を高級なそれと、大衆的なそれとに分かつことによって、何らかの特別な大衆芸術の形式が存在するかの如き幻想を惹起したことである。第二は、意識水準の低い大衆を目安にする大衆芸術の場合は『イデオロギーを割合ゆるやかに』水を割ることが許されるという逸脱を導いたことである。」
そして、重要なコメントが現れてくる。
「我々の芸術は…プロレタリアートの独裁を目標として進みつつある日本の革命的プロレタリアートのイデオロギーを内容とする…その点に関しては何らの妥協も許されない。芸術大衆化の唯一の目的は、広汎な労働者及び農民大衆の中に、この革命的イデオロギーを浸透せしめることに外ならない…」
ここで注意しなければならないのは、検閲を配慮して独特の言い回しになっているが、
「プロレタリアートの独裁を目標として進みつつある日本の革命的プロレタリアートのイデオロギー」
というのは当時の日本共産党の政治方針を直接に指すものであって、一般的な社会主義的イデオロギーを指しているのではないという点である。つまり、これは、芸術大衆化とは、大衆の中に共産党の政治政策を宣伝教化するための手段であり、そこからの寸毫の違背も許されないことを強調している一文なのである。
さらに、「芸術の配布」についても、同様のことが述べられる。「…配布網は単に『労働者農民の中へ』という漠然とした規定を乗り越えてプロレタリアートの基本的な組織の線に随って延びていく傾向を示し…」
ここでも「プロレタリアートの基本的な組織」とは共産党を意味する。
さらには、芸術によって組織されるべき対象は、組織労働者とか未組織労働者などという区別は問題ではなく「唯一の基準は、革命的プロレタリアートの組織の線である」と断言するにいたる。
つまり、まとめていえば、作家同盟が行う芸術大衆化とは、共産党の政策を厳密に宣伝教化する内容で、党組織によって、党周辺の大衆に配布されるものでなければならず、それ以外のあり方は一寸たりとも許容できない、というのである。
また、題材についても「1.前衛の活動を理解させ、それへの注目を呼び起こすような作品……」に始まる10項目を規定している。
「面白さ」という、かって中野が「いい芸術が面白い芸術だ」という一元論を論じて蔵原にその観念性をたしなめられた問題も、その出発点以前の線にまで後退してしまった。曰く「我々にとって、『面白さ』とは、題材の、深く印象されねばならぬ点が、如何に力強く、正確に読者の関心をつかんだかということ以外にない……」
ブルジョアリアリズム、あるいはその対局にある通俗化された大衆芸術の形式は「ともにその発展の途に於いて、社会の実生活から遊離し、遊離することによって自らを完成させた……実生活の基礎を失った芸術形式である」と切り捨てる。
この決議は、今までの論議がなんだったのか、唖然とするほどの後退を示し、その閉鎖性、超極左性において「芸術大衆化を拒否する決議」というほかないものとなっている。
またこれと前後して蔵原の「芸術大衆化の問題」14)が中央公論に出る。これについては、貴司の「私の文学史」の中で縷々触れられているので、詳しく述べることは控えるが、基本的に閉鎖性と超極左性を示した作家同盟の「芸術大衆化に関する決議」と同じ論旨に後退した一文である。
いったいどうしてこの時期に、一回目の論争が辛くもたどりついた到達点すらすべてキャンセルして、大衆化を拒否するとしか読めぬ極左的な興奮が、作家同盟指導部を襲ったのか……それは多分、日本の社会主義運動の根幹とも関わる興味深い問題点だと思うが、その解析は別の機会に譲って、話をすすめることにしよう。
ほとんど大衆化を拒否するかのような「大衆化決議」によって、芸術大衆化の論議は行き詰まったように見えたが、昭和6年6月、蔵原が古川という名前で「プロレタリア芸術運動の組織問題――工場・農村を基礎にしての再組織の必要――」15)を発表して、一つの方向を照らし出した。
それは題名の示す通り、芸術運動を大衆の中に組織し、作家もそこに「下放」することで大衆化の道が開けるだろう、という組織論的提案であった。
もちろん、これだけで芸術の大衆化が成就するはずはない。時代の状況と作家の才能が出会わなければ大衆的傑作は生まれるはずはないが、そのはるか以前の問題として、少なくとも、大衆を知らず、大衆のニーズを知らず(貴司の言い方でいえば、知らないのではなく、知ろうとしない……実は連中は「大衆」ないし「大衆化」など嫌いなんだ……ということになるが)いくら大言壮語の議論をやっていてもダメだ、という至極当たり前の、いかにも組織責任者らしい基本的な提案である。
さらに昭和7年3月に徳永の「プロレタリア文学の一方向――大衆文学の戦線へ」16)が発表されて、俄然議論がわき起こる。
この一文は、一口で云えば、極左的な終結を見た第二回論争の結論に対する、少なくとも第一回論争の林房雄の論点付近まで立ち戻った異議申し立てである。
徳永はまず、第二次世界戦争が接近している今こそ、労農大衆へのプロレタリアートの側からの訴求が必要だ、と前置きして
「…ボクがここで問題にしたいのは、ボクの所属する作家同盟が、『プロレタリア大衆向長編小説』方面において、その力が著しく欠如しているという事実である。……
嘗て、作家同盟は、細田民樹や細田源吉……貴司山治や、林房雄や、佐々木孝丸や、更に片岡鉄平、江馬修、江口渙等々の人々があったにも拘らず、それら「大衆向作家」の小市民性や其他を、やっつけることはやったが、それを育てることにおいて、著しく力が欠けていたのではなかったか。
……われわれプロレタリア文学にあって、二つの原則は勿論ない。しかし、二つの形式はあると思う。
要は、プロレタリア農民の「本来の興味」「階級的興味」を喚起することにある。その方法は、たとえば……封建町人の人情、ブルジョア的人情に対置するに「プロレタリア的人情」をもってすることである。」
16)「中央公論」昭和7年3月「プロレタリア文学の一方向――大衆文学の戦線へ――」 徳永直
*日本プロレタリア文学評論集7
と、再び大衆的形式による大衆的芸術の必要をのべる。
17)「プロレタリア文学」昭和7年4月これに対して、相も変わらぬ極左的、一面的な反論がなされる。その典型的なものとして宮本顕治の一文を示すことができる。17)
まず、徳永の『われわれプロレタリア文学にあって、…二つの形式はあると思う』という意見に対して
「…これは既に、わが作家同盟で…そうしたものはプロレタリア文学のなかにあり得ないことが批判されてきた『プロレタリア大衆文学論』の公然たる復活で…文化戦線における階級闘争の激化がもたらしたところの日和見主義的態度であり…
…唯一の客観的現実を認識し、それによって社会発展の合法則性の方向に向かって現実を発展させんとする唯物弁証法の見地に立つ芸術にとって、現実から高級とそうでない二つの解釈――と表現を持ってくることは凡そ考え得ざるところである。一定の客観的現実の反映を、芸術的に形象化するとき、一定の認識内容は常に一定の形式を追求する外ないのである。」
といい、具体的にいえば、一つの題材に対しては一つの解釈、表現方法しかあり得ない、あってはならない、という恐るべき神学を主張するに至る。もちろん、プロレタリア大衆文学などというものはありえない、ということになる。
こうして論争は、究極の硬直した観念論に立ち至るのである。
そして、作家同盟常任中央委員会も「同志徳永及び貴司の見解を、我が同盟の基本方針に背反するところの、最も重大な右翼的危険のあらわれであると認める」18)と決議する。
このような“行政的処置”、ないしは多勢に無勢に屈したのか、貴司も徳永も時を経ず「自己批判」を表明する。
貴司の自己批判は19)、なにもかもあやまってしまう「坊主懺悔」であり、徳永のそれは20)、比較的長文の、具体性のある、しかしやはり“なにもかも”の坊主懺悔である。
「…吾々の文学も(階級的現実が)弁証法的に立派に把握されればさるる程、それは『未組織を啓蒙』することが出来、同時に『意識の低い層までピッタリわかるように』ならなければならないのだ。」
そして、講談も探偵小説も滑稽小説も、つまりは在来の大衆文学的な形式すべてを否定し、それに代わるプロレタリア的形式として
「『非文学の仕事でない』壁小説や報告文学のような、新たな様式をつくり出してゆかなければならない……」20)
と、今ではちょっと想像しにくい表現形式に未来の望みを託するほかなくなるのである。
このようにして、三回目の大衆芸術論争は、二回目をうわ回る硬直と極左的な閉鎖性を上塗りして終焉する。
すでにこの頃、共産党員はもちろん、シンパ、資金提供者などにも検挙拘束が確実に及ぶという時代に入りつつあった。外からのこのような強圧と、内での極左的、閉鎖的な運動方針によって、作家同盟そのものの活動は停滞していった。そしてついに、昭和9年2月22日、検挙中で不在の貴司山治宅で開かれた拡大中央委員会で作家同盟は解散を決定する。
鹿地亘の起草になるといわれるその解散声明には、大衆化を論じながら大衆から見捨てられ孤立し、崩壊した同盟の状況が、ほとんど悲鳴のように率直に記されている。
「…我が同盟の活動的作家たちは、…機関誌の発行の擁護、同盟費の納入、組織活動遂行等の一切の義務を放棄することによって、絶対多数を以てそれへの不信を表明しつつあり、…指導部の批判乃至改選への意思を放棄することによって、事実上同盟組織を形骸にとどめていいる情態である。
…過去の政策に於ける機械的な極左的欠陥の克服を以てしても、従来の形式はもはや今日作家をつなぎとめ得ない。…して見れば、かかる組織の維持は意味をもたぬ。
……分散的形式に散開することを妥当とする。」21)
21)「チラシ」昭和9年2月22日「ナルプ解体の声明」
日本プロレタリア作家同盟第三回拡大中央委員会 *日本プロレタリア文学集別巻
こうして、作家同盟を中心とした芸術大衆化論争は、実質的に終焉した。
ところが、それでも大衆化論争は終わらなかった。プロレタリア作家の組織的活動も、共産党の組織的活動も実質的に消滅した時代に、徳永直と貴司山治の間の論争というかたちで、それは再燃したのだ。
作家同盟の解散声明の最後に「分散的形式に散開する」という言葉が見えるが、これは具体的にいえば、個々の作家、評論家、編集者などが、それぞれの縁をもって集まり、研究会をやり発表機関をつくるといった活動と、工場や農村などの生産現場に入ってサークルを組織しする、といった活動の両面を指していたと思われる。
そういった志の一つであろう、徳永直はナウカ社の竹井らと、昭和9年に「文学評論」誌を創刊した。その第二号 、徳永執筆の巻頭言に、早くもプロレタリア大衆文学問題の再提起が見られる。曰く……
「創作上の『技術』は、作家のイデオロギーや世界観と切り離されたものではないが、……イデオロギーをたかめることによってのみ、『技術』がまるで附帯的に、何らの努力や、研究もなしに自ら強まるものではまったくない。
…たとえば「ナルプ」(作家同盟)においては、…『技術』は、殆ど作家の『イデオロギー・世界観』という問題のうちに解消されてしまっていた……」22)
として、あの第三回論争での徳永の「プロレタリア文学の一方向」にたいして加えられた小林多喜二、宮本顕治、山田清三郎らの「一つの原則に二つの形式はありえない」という機械的批判を反批判した。
次いで、昭和9年に貴司が、「実録文学の提唱」という形で、大衆化問題に関わる具体的な提案を行った。23)
また、昭和10年にもほぼ同じ内容が、徳永との論争の中で再度書かれている。24)
この提案ないし主張は
「小林(多喜二)の時代には『唯一最高の世界観に立った文学』をさへ作っておけば『今すぐというわけには行かぬがその内百万の読者を獲得しうるんだ』といったような、不明瞭な『信念』の前に拝跪して、われわれは生きた社会に実際は背をむけてゐたとさえいへる。」
「すぐれた芸術を創り出す努力と、かかる芸術が理解できるやう勤労大衆を教育し啓発する手段方法を創出することは、一つの目的に対する二つの道である。」
「今や僕らが良心のある作家として生きるかぎり、低い読者を正しい文化の水準へ引き上げて、すぐれた芸術の――プロレタリア文学の愛好者、支持者とすることを、みずからやらなければならない」
「『実録文学』の提唱はそれらの仕事の内容として第一にとり上げたものなのである。」
そして「実録文学」とは何かというと
「『古今東西の実録』及び『かかる実録を基礎にした説話的通俗的小説形式の読み物の創作』ということにつきる」
「実録とは『報告』や『スケッチ』ではなくて『事象の現象面だけでなく、それと共にその原因、影響、結果、変化等に亘る調査をとげた記録』ということである。」
「かかる『実録を基礎とした説話的通俗的小説形式』の創造は、ブルジョア文学の嘘とたたかひ、之を衰亡させるための方法である。」24)
というものであった。
要するに、背景まで含めて十分調べ、それを分かりやすく(説話体で)書く、ということが基本になっている。そこには、現実に背を向け、まず唯物弁証法的創作方法という観念から出発することを強要された、この数年の悩みを克服する意図がまざまざと感じられる。
ところが、この提案にたいして、意外なところから批判の矢が放たれる。
『文芸』に掲載された徳永直の「文学に関する最近の感想」25)という一文である。
ここで徳永は
「貴司君の『実録文学の提唱』の中で現れている意見は、……今日沢山の読者を捕らえるには、まづ今日沢山の読者があてがわれているところのキング的、乃至は種々のブルジョア大衆小説に代わるところのプロレタリア大衆小説を与えねばならぬ。……という意味であったと思う。……」
と、プロレタリア大衆文学卑俗化論だと批判した。そして
「…私自身考えるところでは、プロレタリア小説は、それ自体芸術的であるということと、大衆的であるということとは一致していると信じているのである。……」
と「巻頭言」22)での立場を180度反転し、大衆性と芸術性は一致するという一元論的な立場に変わっている。
26)尾崎秀樹「大衆文学論」勁草書房1965.6「貴司山治論――プロレタリア大衆文学論」尾崎秀樹は、徳永は、貴司の文章への「誤読」と、「過去における『右翼的偏向』の印象を一掃するためか、それとも労働者出身の作家らしい頑固な思いちがいからか、小林多喜二に批判されたおりの原則への回帰を軸に……」26)貴司批判に固執したのだろうと推理する。
あるいは、分散抵抗の一番手として「文学評論」に立てこもっているところへ、貴司が出版社(文学案内社)を始めるわ、実録文学始めいくつも雑誌を出そうとするわ、というような動きを示したことにカチンときたという人間的なものもあったのかもしれない。
昭和33年、徳永の告別式で時間待ちをしているとき、貴司が顔見知りの誰か(鹿地亘氏だったか八田元夫氏だったか)との立ち話で「いろいろあったけれど、これで彼も作品だけで見られるようになるんだなあ」と感慨深げにいったのを今でも記憶している。
徳永は執拗に貴司の提案を、「大衆化に名を借りた文学卑俗化だ」と非難を続ける。27)28)
それに急かされるように、貴司は、芸術大衆化の課題に答える実践的な答えが実録文学の提案なのだと「再三提唱」を文字通り三度繰り返す。29)〜32)
それは基本的には「実録文学の提案」をより詳細に立論し説明するものだった。
1932年に小林らが、そして今1935年に徳永がいう「 芸術的であるということと、大衆的であるということとは一致している」ないしは「正しいイデオロギーで傑作を書いておけばいずれは大衆に受け入れられる」という、いわば書き手側から読者に近づこうとせず、正しい作品にはいつか読者が近寄ってくる、という待ちの姿勢の大衆化論を「懐手の大衆化論」として批判したものである。30) すなはち──
「いま当時をふりかえると、小林に代表される「党派性」「ボルセビイキ化」等に混合された「ふところ手の大衆化論」の見地が実際には文学大衆化の問題の解決でなく、問題からの極左的偏向であることは十分諒解できる。」
とし、芸術の大衆性は
@作者のイデオロギーとも
A切実な生活問題を描くかどうかということとも
B表現の単純化とも
無関係だと断言する。そして、大衆性を決定するのは、主題がどこまで「形象化」されたかによる、という。
この形象化という言葉は、貴司の文中では既定のことのように扱われて十分説明されていないので、わかりにくい。形象化とは、題材……人物、風景、ストーリーなど作品を形作る素材が、主題を物語るためにどのように仕立て上げられたか、ということであろう。つまり、作者が主題を物語るために、どう工夫をし、どうしつらえを構築したかということである。読者は、この仕立て上げられた姿を通して、作品世界を読みとる。決してイデオロギーや、生活問題の解決策のサジェスチョンやに引かれて作品に愛着するわけではない。形象を通して読者は作品世界に遊ぶ、ということであろう。
そういってしまえば、芸術にとって、これは当たり前の話である。しかし、これが事新しくいわれなければならなかったところに、イデオロギー良ければすべて良し、という唯物弁証法的創作方法のトンネルから抜け出したばかりの、 昭和10年という時点の特殊性を見ないわけにはいかない。
ともかく、貴司は実録文学の提唱にのっとって、実録文学会を作り、『実録文学』を発刊する。また同じような趣旨で、広く大衆をプロレタリア文学の世界に誘う仕事という意味もある雑誌『文学案内』も発刊する。これが、貴司にとって、芸術大衆化、分散抵抗の実践の形であった。
……しかし時代はトンネルから出て、再びトンネルに入ることになる。
権力は『実録文学』や『文学案内』の真意を見誤らなかった。
昭和12年、貴司は三度官憲に捕らえられる。それも、この年の拘留は、今までとは少し違った。係りは検事局であるにもかかわらず、拘禁は、拘置所よりはるかに環境の劣悪な淀橋警察署の留置所で行われた。
「……結局、私が昭和12年2月1日にまた引っ張られ……その年の12月の末まで警察におかれたんですが、それはもう罪名もなにもないのだ。調べもしなければ刑務所に入れるということもしない。もうすでに共産党の組織はどこにもないんですからね。要するに治安維持法の被疑者ということでつかまえて、警察に一年か二年おいておけば心が変わるだろうぐらいのつもりなんですね。そのころは、治安維持法がそういうふうに使われた。」33)
33) 「文学」昭和40年3月「私とプロレタリア文学」貴司、尾崎秀樹
要するに、思想を改変するためのゆっくりした拷問のようなものである。
昭和13年になると、もう、『文学評論』も『実録文学』も『文学案内』も、消滅してこの世にはなかった。そして貴司も、その後プロレタリア文学の世界に立ち戻ることはなかった。
戦前の社会主義運動のなかでなされた「芸術大衆化論争」は、芸術大衆化という目的から見れば、不稔だったといわざるをえない。ただ、いくつかの……ある意味では日本の文学にとって極めて根元的ともいえる、いくつかの問いかけを残したと思う。
貴司は、「私の文学史」でも見られるように、最初から大衆文学、大衆的読み物の書き手として登場した。決して、自然主義的、あるいは私小説的な“リアリズム”作家として登場したわけではなかった。貴司が小説ないし読み物を書くのは、あえていえば、エリートでもインテリでもない一般大衆といわれる読者たちに、面白く読んでもらう一夕の読み物を提供するためであった。
作家が読者にメッセージを発するのではなく、読者のメッセージを面白く再編集して読者に投げ返す、そういう職分というふうに自覚していたと考えられる。作品は、作家の分身ではなく、むしろ読者のニーズを読み物という形に再構成して読者に投げ返すもの、多数の読者と読者を繋ぐ一種の情報媒体であり、ここでの「作家」というのは、コーディネーター、仕掛け人、プロデューサーなのである。
これは、従来文壇的に信じられていた作家というもの、ことに私小説伝統の中にある作家や作品像とは著しく異なる。
私小説の基本的構造は、作品のリアリティの保証を、作家自身の私的な存在そのものに求める、ということである。言葉をかえていえば、作家と作品の、直接のアイデンティティを要求するのである。書かれたものに於て、書き手の心情が切実に感じられることによって、始めて受け手は、書かれてあることの真実らしさを承認する、という送り手と受け手の構造関係である。それは正に「胸さきをつきあげてくるざりぎりの所」を物語ることによって訴求の有効性を成りたたせる、という方法である。
さらに、こういう私小説伝統の構造を抱えたままのプロレタリア文学が、大衆を階級闘争に目覚めさせるという役割を、至上のものとして担うことになると、作者と作品のアイデンティティの輪に、読者も加わらせなければいけないということになる。作者、作品、読者の三位一体が求められる。
このような構造関係にある文学に、大衆化が求められると、大変困った事態が起こる。従来の私小説世界で、作者、作品、読者が同じアイデンティティの輪で共感できるのは、作者と読者が似たような狭いインテリゲンチャの生活心情をともにする「似たもの同士」だから成り立つ話である。
似たもの同士だからこそ「写実」という「生活言語」「似たもの同士の方言」で、密やかな気持ちを伝え合うことができたのだ。
ところが、事態は、運動の必要性から、大衆の中へ! 労働者農民の中へ! ということが要請されるようになった。つまり、読者が、秘かに気持ちを通じ合わせられるかどうかわからない、見知らぬ人々に置き換わることになってきたのである。
作者と読者が同じ気持ちで、写実という生活言語で密語をささやき合う、そういうリアリティの構造だけが視野にある、私小説伝統の中にあるプロレタリア作家たちが、見知らぬ読者の前に呆然として立ちつくした、というのが、芸術大衆化論争の始まりではなかったのだろうか。
はっきりいって、作家同盟に登場した当初の貴司は、そういう状況を全く理解していなかった。読み物作者と私小説作家では、見かけは小説書きでも、内実は違う職業人なのである。
貴司にとっては、読者とは、初めから、狭い特殊言語で密語をささやき合うような相手ではなく、広汎な言語表現の委曲を尽くして面白がってもらう不特定多数の人間たちである。最初から相手は見知らぬ人々であり、見知らぬ人々とすぐさまコミュニケーションを成立させ、面白おかしく語り合ってしまうのが、読み物作者の特技なのである。
読み物作者にとっては、「大衆化」は、毎日やっている日常作業なのである。だから多分、大衆化論議の始め、貴司は考えるまでもない、解決済みの、いと易い話と思ったのではないか。なぜ、知識も学歴もある「帝大出の」ナップマンたちが、こんなことに悩んでいるのか、理解できなかっただろう。
だから、ごく気軽に「講談でもキング調でも、なんでも取り入れて面白くすればいいじゃないですか。理屈はその後でいいのではないか」と口走ってしまう。
しかし「作家・作品・読者」三位一体観で育った人々には、これは途方もない異端と見えたにちがいない。
延々たる空疎な神学的議論が始まる。
そしてついに、作者と、見知らぬ大衆である読者を、強引に結びつける必然性を、作家同盟指導部は階級的イデオロギーに見出すという大変見当違いな方向に突進することになる。
階級的現実はあまねく大衆の生活を緊縛と苦痛に追い込んでいるはずである。とすれば、それを暴き出す階級的視点を作者側が貫徹することによって、正に「生活の緊縛と苦痛という階級的共通言語によって」見知らぬ大衆と気持ちが通じあうようになるに違いない、つまりは読者もついに、プロレタリアの置かれている階級的現実とそれを打破すべき大義に目覚めるはずである、と。
貴司は、この経過の中で、そいう指導的意見に妥協し、自分の読み物作者としての立場を相当に曖昧にしてしまったように見える。
ただ、論争のトンネルを出た時、貴司は結局、ほとんど初心の読み物作者の立場に戻った。実録文学の提唱で述べられている「読み物」の制作方法は、調査や取材で事実の背景、構造を調べ上げ、そこから得られた「事」の真相を読者に伝える、という形をとっている。
それは作者の私的な感情にもとづいて「事」を捉え、胸先を突き上げてくるぎりぎりのところで物語ろうというのとはずいぶん違う。とりあえず真相を伝える情報として、話を読者に引き渡そう、という情報伝達者の立場である。
そして、わざわざ、読み物に加えて、説話という語り口の類型を付け加えている。説話とは、講談とか説教節とかいう、やや誇張した語り口をもつメッセージ性をもった物語である。それは、写実を越えなければ実現しない世界である。
結局貴司は、“伝統的な手法に捉われた”プロレタリア文学の世界にいながら、講談や説話や映画ストーリーといった今でいえばサブカルチャー的なメディアも含めた「大衆文学」を思っていたように思える。そしてそれは、金輪際、当時の作家同盟のお偉ら方には分かってもらえないままになったのだ。
「私の文学史」は、この、分かってもらえなかった心残りが書かせた、長大な繰り言だったともいえるだろう。
戦後50年以上が過ぎて、いまさら「文学大衆化」などという言葉は、過去のものとなってしまった。確かに今でも、文学は大衆化されたか? 少数のインテリゲチャのものでしかない純文学・私小説は、大衆とのつながりを見出しえたか? などと問うことはできるかもしれないが、なんとなく時宜を失した感をまぬかれない。
それは、戦後の巨大な大衆化社会の展開、メディアの発達と多様化、の中で文学というものの位置づけもイメージも、明瞭ではなくなったためだろう。識者は、若者が本を、文字を、小説を読まなくなったと嘆き、文学という文化の衰退を心配する。
しかし、発想をかえなければいけないのではないか?
文学、これを言葉とフィクション(物語)とによる情報伝達だと考え直してみれば、衰退どころではない、わが日本の文運は隆盛といわなければならない。コミック雑誌(劇画雑誌)が、かって大正昭和の若者が熱中した『文章世界』のような投稿雑誌に代わって読者大衆≠ニメディアをつなぐ機能体として作者・メディア・読者を一体とした虚構世界、文学世界を現出させている。
源氏物語からポストモダンの現代まで、文学は常に広大なサブカルチャーという差別語によって覆われる領域を含めた、巨大なメディアの連合体として機能してきたと考えるべきであろう。エロチックな興味と喜びをこめて、官女たちの手から手へ筆写され広がっていった、今でいえばサブカルチャーの極たる女草紙の結晶が源氏物語であり、イエロージャーナルの究極が西鶴近松となったのではなかったか。
結局、芸術大衆化論争の、本当の帰結を探るためには、現在の大衆化社会とその中での多様な言語表現を中心としたメディア全体を見渡して考えなければ、その真相は見えてこないだろう。 (99/11/30、2015/7修正)
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