ゴ ー・ス ト ッ プ  分割file・6(16章〜19章) 


十六. 参平が鳥羽からきいた話   

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第十六章(一)

 参平の家で傷のよくなった吉松と一つ蒲団(ふとん)の中で、ゆうべから澤田はまだうとうとと眠っていた。
 参平は机に向って、内職の翻訳(ほんやく)を一所懸命にやっていた。吉松の介抱に来たのが縁となって子を失なった八重子は、もう今迄の過去を夢とあきらめる気になって、参平の妻になる約束を結んだのだった。そして彼女は今眼のみえぬままに、参平の傍(そば)で淋しく縫物(ぬいもの)をしていた。彼女は参平の教え子だった。参平は彼女を恋していた。しかし気の弱いかれは、それを打明けることができなかった。そうとは知らない八重子は、いつの間にか浅草銀竜舘の踊子になったのを振出しに、安田舞踊団の一座に加わって帝劇に出演した時、あるブルジョアの青年に恋して、子を産んだ。そのお産の時に眼をわずらって盲(めくら)になった。そして男から捨てられたが子をつれて夕刊うりになったのを、忘れかねた参平がしん身も及ばぬ世話をしていた。二人はいつの間にか、互いに気心がわかり合ってしまったのである。過去の記念物である一人子を失なって、彼女の心はすっかり参平に頼るようになったのだ。
 吉松が全快すれば二人は結婚することにきめていた。その八重子が、針仕事の手をやすめて
「もう澤田さんをおこしてご飯を上げましょうか?」
 といった時、不意に裏に面した窓の雨戸がはずれて、外から障子を引開けたものがある。そこは澤田と吉松の寝ている部屋だ。
 参平がその方を見た時、一人の大きな男が無雑作(むぞうさ)にその窓から部屋の内へすべりこんだ。
「誰だッ?」
 と、どなった参平はそのまま腹の中で「しまった」と思った。
 八重子も不安そうに夫のそばに寄った。ねていた澤田は、驚いてとび起きたが、
「やあ、鳥羽君か?」
 といきなり立上ってその男の手を握った。
「こんなとこから這入って(はいって)来て済まなかった。今朝こちらへ着いて今まで君の家(うち)に寝ていたんだ。飯を二度も御馳走になった」
 と、鳥羽は笑った。
「だって君、俺んとこにはスパイが張込んでいるだろう?」
「ああ、はりこんでる。スパイの奴、何だか素敵な美人をとっつかまえて騒いでいたよ。あれは君の色女か?」
「英子が引張られたのか知ら?」
 と、澤田は顔色を変えた。
「いや英子さんはちやんと居るよ、スパイが居るので一寸ここまでは出かけてこられないという伝言(ことずけ)だ。とっ捕まっていたのは別の女だよ。君を訪ねて来たといったものだから刑事に連れて行かれた」
 澤田は、それがだれだか見当がつかなかった。しかし、それどころではなかった。
「一体君はそんななかをどうして僕の家で寝ていたんだ?」
「なあに張込みのスパイなんてものは、そう無断で、家の中へ上ってこられるもんじゃないんだ。そしてやつらは土間で頑張ってれば大丈夫だと思ってるのさ。そこを利用して俺は裏の屋根から二階へそっとしのびこんで、夕方まで寝てしまったのさ、階下(した)にいる刑事だってまさか呑舟の魚(どんしゅうのうお)が頭の上に寝ているとは思うまいじゃないか、あはハゝゝゝ」    *呑舟の魚=船を呑むほどの大魚・大物
「君は大胆だね」
 と澤田は感嘆した。
「なあに、そんなこと位ちつとも大胆じゃねえや、ただ一寸気転がきいてるだけさ、君だってそういう風に要領よくやれよ、こんなところに正直にかくれてないで時々夜中にそっとあの裏口から帰って行ってお英さんと一緒に寝てやれよ、あの人はいつの間に君と夫婦になったんだい。刑事につれて行かれた君の色女と、玄関でいがみ合って『あたしは澤田の家内です』なぞと、大きな声を出したぜ! それをまた君の色女が『口惜いッ!(くやしい)』なんかんと泣き出すやらなかなか物凄い光景だったぜ」
 と鳥羽はとんでもないウソをつきながら澤田の背中をたたいた。
「冗……冗談じゃない、そんな女、おれァ知らんよ、女スパイだろう、きっと」
「へえ──あんな美しいスパイなら俺あ一ぺん抱いて寝たいな」
「君その女を見たのかい?」
「ああ、刑事に往来へ引張り出された時障子に穴を明けてそっとのぞいたのだ」
「よせよ、冗談じゃない」
 澤田もついふき出した。
 間もなく澤田は繃帯をしている吉松を指さして
「これが天川の子分にやられた山田吉松君だよ」
「ああそうか、君もここに居たのか、もう傷は治ったかい?」
 と、鳥羽はやさしく吉松の頭をなでた。
「ええ、もう大丈夫です」
 と吉松はかたわらに坐っていた。
「ところで澤田君、ここの主人はどこに居るんだい?」
 と、鳥羽が訊いた。
「先生……」
 と澤田は次ぎの部屋へ声をかけて参平が「何だい」と答えるのをまってはいって行きながら
「びっくりしたでしょう、僕も刑事が来たんだと思ったんですが、あんな所からはいってはきましたが争議の時応援に来てくれた、やはり労働運動をやっている鳥羽君なんですがね」
「やあ、大変なとこから飛び込んで申訳ございません」
 と、鳥羽はもうそのあとからのこのこ入って来て、参平の前に手をついた。

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 参平は鳥羽の顔をじッと見た。鳥羽は無精髭(ぶしょうひげ)の生えた赤黒い顔の中からたくましく眼を光らせ乍ら(ながら)、
「僕は十七の時川崎の木工部に働いていたんですがね、大正九年の大ストライキの時に首になったきり労働運動ばっかりやっているんです」
 と、自分の身の上を語った。
「へえ……で、その間どうして喰って来たんですか?」
「いやもうお話になりません、まる八年の間満足に飯を三度喰った日なんか数えるほどしかありませんよ」
「ふむゥ……」
「現におとといから警察におっかけまわされて東京へ逃げて来るまでの間、水一杯のむ機会も無かった有様です。そのかわりさっき澤田君の家で、三日分一ペんに御馳走になりました、あははは……」
 と、鳥羽は笑った。
 参平は労働運動者の惨憺(さんたん)たる生活を聞いて、自分の生活なんかそれにくらべて何という意くじのないことだろうと思いながら
「そして、あなたには奥さんや子供があるんでしょうね?」
「あります、おまけに子供が三人あるんです、女房の内職かせぎで、とにもかくにもガキどもをそだてているんですがね、それでも白いおまんまなんか一週に一度も喰えやしません」
「へえ、じや毎日何を喰っているんです?」
「南京米のおかゆです、我々貧民にはそれ以上の物は今の社会では望めませんからね」 *南京米(なんきんまい)=中国や東南アジアからの安い輸入米
「よくそれで生きてゆけることですね」
「そんなことをいったって先生、そういう貧民が今や日本中に何百万、──いや何千万、も居るんですからね、僕ら一家の問題だけじゃありません」
「成程そういえばそうだ」
 と、参平は自分の小学校のことを考えた。かれのつとめているのは、東京でも有名な貧民窟の小学校だ。八百何十人の生徒がみんなやせて青白い顔をしている。ひところ毎日のように生徒が校庭や教室で卒倒する、それが多い時には一日に三十人、少い日でもきっと五六人はある。校長や教員が驚いてその理由を調べたところ、それ等の生徒はみんな昨日から飯を喰っていないということがわかった。参平が受持っている八十人余りの生徒について調べたところ、毎日朝飯を喰わずに学校へ来る子供が七十人あった。参平の発議(ほつぎ)で区内の有力者から米や金の寄附を集めて校内に「食事給与所」をつくり、それらの生徒に飯を喰わせることにした。するとどうだ、全生徒の八割までが飯を喰わずに学校へ押しかけて来るようになった。永らく休んでいる生徒まで毎日出席するようになった。それは学校へ行けばただで飯が喰えるからだとわかった。親は子供にわざと飯を喰わせないのではない、喰わせる米が無いのだ! 親は働きたくても職がないのだ!
「労働者に職とパンを与えよ!」
 という労農党の張紙を、此の間の総選挙の時、参平は到る(いたる)ところの辻々で見た。働く人間に職をあたえないのは──幾ら探しても働く口が見つからない今の世の中には、どっか間違ったところがあるんだ。一方に金持がぜいたくなことをしていながら一方にかゆもすすれない何百万の貧民がうようよしている。こんな世の中を有難いと思えるか! ──参平はいつになく興奮していった。
「鳥羽さん! あなたや澤田君は実に偉いですよ! あなた方は、ちゃんとこの社会というものに目覚めていらっしゃる! 一身を犠牲にして──いや妻子をまで振り捨てて労働階級の為につくそうとしていらっしやるんだ、僕などははずかしいです」
「国民中の大部分をしめる我々労働階級が今のように苦しいのは、金持階級が我々を欺して(だまして)、圧迫して、自分達だけでうまい汁を吸っているからですよ」
 と、鳥羽は眼を光らせていった。

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 しかし間もなく参平は興奮がさめると、やや臆病な心にかえって
「しかし、社会を改造するのにもいろいろな道があるようですね」
 と、鳥羽や澤田の顔を見た。
「そうです! そして僕らのとっている道だけが本物なんです」
 と鳥羽はすぐにそれに答えた。
「そうでしょう、そう信じなけりや、やれることじやありませんからね。しかしあなた方の様にしゃにむに金持階級を打ち倒せ、という過激な主義の他に、労働階級のためになる道は無いものでしょうかね、例えば、労資協調というような……」
「あはははは、金持階級と、貧民階級がにらみ合っていながらどうして双方の協調が出来るものですか、金持階級が自分の利慾だけしかかえりみないから今日のようにその一方に生活に苦しみもがく貧民階級というものが出来たんです。この二つの階級は、勝つか、負けるか、死物狂いになって戦う外ないのです。僕らはその戦いの最前列に飛び出して金持階級に刃向かっているものだから、やがてはこの社会の階級戦場で討ち死にすることでしょうよ」
 参平はその時やっきとなって
「そこです、ただ戦い争う外に何とかうまくおさまる道はないものでしょうか? 金持階級がそう無暗に私慾をはかるのをよして、喰うに困る貧民のために、その財産の幾分かをなげ出せば社会は円くおさまると思うんですがね」
「そんなことが出来るのならお説の通りです、しかしそれは先代萩の政岡のいい草ではないが、たとえ百年待ったとて、この世がつきるまでは望みのない話ですよ」
 と、鳥羽は笑って
「丁度今から百何十年昔イギリスにオーエンという社会主義者があって、先生のそのお考えとそっくりの意見を、世間に発表した上、天下の金持が大に(おおいに)良心に悟るところがあって、貧民のために財産の幾分ずつかを寄附しにくるだろうと思い、その寄附金を受取るために、事務所を構えて、オーエン先生は毎日朝の九時から晩の四時まで、まる半年の間欠かさず出張って(でばって)いたということなんですがね、……とうとう寄附金を持って来た者は一人もなかったんです。この話でもわかるように、およそ天下の金持というものは、そんな良心というものを持合せてる人間じゃないんです。労資協調説などはあんまり金持階級を甘く見すぎた話なんです。黙って打負かせるより外に道は無いんです」
 と、鳥羽は最後の一句を激しい調子でいった。
 参平は、正しく(まさしく)この男は金持階級の正面の敵たる社会主義者に違いないと、心の中でおびえを感じっつ、
「しかし、あなた方は戦って勝てますか?」
「先生! 日本の人民のうち割合にすれば九割九分までが貧民階級ですよ、あとのたった一分が、我々を苦しめている金力(きんりょく)階級です。昔だって日本中に大名は三百人しかいなかった、その三百人に何千万の人民が頭をおさえられていたんです。今日でもそれと同じ状態です。先生も大きく眼を明けてこの社会というものの全体を御覧なさい、勝つも負けるもありやしないんです。ただ貧民階級は何が故に貧乏しているか、という自分自身の身の上を悟っていないだけなんです。みんなが今の世の中をはっきり悟りさえすれば、団結するにきまっている。われわれが意識的に団結しさえすれば、この社会はやがてわれわれの思いのままに動くんです。僕らは一身を犠牲にして、ただ、そのことをみんなに知らしてやりたいだけなんです。斬られたって、殺されたって、この宣伝がやめられるものですか。僕らが監獄へぶちこまれたら、すぐ何百人でも何千人でも僕らのような人間があとから出てくるんです、これは社会の大勢で、丁度春が来て花が咲くように何者の力を持って来てもどうすることも出来ないことなんです」
 鳥羽がここまでしゃべった時、階下で女の声がした。


十七. 逃げる場所ならどこでもいい

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第十七章(一)

「誰か来たようですね?」
 と、鳥羽も下の声に聞き耳を立てた。
「困ったな……」
 参平は左右をかえり見乍ら(ながら)、
「よくやってくる女なんですがね……元映画女優をしていた芳川品子という女なんです。僕が教えていた生徒だったもんだから……」
 鳥羽はたちまち笑顔になって
「ホウ……すると今日の昼間澤田君の家で刑事にとっつかまっていた別嬪(べっぴん)さんだな?」
「へえ! 何しにきたんだろう? 鳥羽君、そいつが足立の妾で天川とも関係のあった女だ。きっとスパイだよ!」
 と、澤田は次の部屋へにげこみ乍らいった。
「何だ、弱虫、ははは……、出てこいよ」
「ていよくおっぱらいましょう」
 と参平は立上った。鳥羽がいった。
「いや先生、一寸(ちょっと)待って下さい、おっぱらったりなんかしないで上げたらいいじゃありませんか」
「しかしあなた方が困るでしょう」
「いや、その品子君は澤田をさがして来たのに違いありません、大分惚れているようですからね……澤田が逢わなきゃ僕が逢いますから上げて下さい」
「そうですか」
 と、参平はまた坐った。
「よせよ鳥羽君!」
 と、澤田は次の間でかなしそうな声を出した。鳥羽はいきなり澤田の部屋へとびこんで
「おい、きさまは女を二人専有するなんて私有財産制度の遵法者か? 怪しからんぞ!」
 と、かれの首筋をいきなりおさえつけた。
「痛い! 馬鹿をするな!」
 と澤田は鳥羽の力強いのにあきれながら身をもがいた。
「どっちを好いているのか?」
「降参だ!」
「拷問にかけてやる! 白状しろ!」
「英、英子!」
「そうか、じやあの別嬪(べっぴん)には別に気は無いのだな?」
「あたりまえだ、何も交際はない! 痛いから離せったら!」
「よし! じゃあの女を俺にゆづるか?」
「勝手にしろ!」
 と、澤田はやっと鳥羽の腕からのがれて、蒲団の中へもぐりこんだ。その時、品子は例のように
「先生、上ってもいいの?」
 と、いいながら階段から姿を現わした。
「なにしに来たんだ?」
 と参平はぶっきら棒に云った。品子は参平の前にべったり坐って、
「今晩は!」
 とお辞儀をしながらそのうしろにいる八重子の方へも同じように
「今晩は、お八重さん」
 と、いった。
「いらっしやいまし」
 八重子は縫物の手を休めて、見えない眼を見張りながらお愛想笑いをした。
「先生!……あれからここへ澤田さん来やしない? あの人とてもひどい人よ、あたし今日あの人のために大変な目にあっちゃったの! 刑事につかまって散々体をしらべられた上、家までつれて帰られて家宅捜索をされたのよ」
「ふむゥ………」
 と、参平もその話には驚いた。
「……、何でも警察じゃ澤田さんの行衛(ゆくえ)をとてもさがしているんですってね、あんな人にかかりあうとこわいわよ。ここへ訪ねて来たって寄せつけないようにしなきゃ先生だってどんな目にあうか知れなくつてよ!」
 と、品子はべらべらとしゃべりたてた。そこへのっそり鳥羽が次ぎの部屋から出て来た。

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 鳥羽は品子と参平の横にあぐらをかいて、いきなり彼女に話しかけた。
「僕は澤田の友達なんですが、今聞いてるとあなたは澤田の悪口(あっこう)をついていらっしゃるので、も一ペん(いっぺん)今おっしゃったとおり僕に話してもらいたいんですがね」
 品子は、見たこともない髭面(ひげづら)の大男に、面喰って、赤くなりながら
「まあ、ご免なさい。」
 鳥羽はにこにこ意味ありげに品子の顔を見ていった。
「あなたはそんなことをいって実は澤田君をさがしていらつしやるんでしょう! そうでしょう!」
 と、つっこまれた品子は
「だって何だかあの人と一ペん話してみたいと思ったんですもの、本当はここで一度あったきりで、よくしらないんですけれど……いい男ね、ホゝゝゝ」
「そうですか……、実は僕もあいつをさがしていたんですがね、可愛そうに奴、とうとう警察にふんじばられてしまいましたよ」
「まあ! どこで?」
 と、品子は眼を見張った。
「それは丁度今日の昼間のことだったんですがね、あいつは過激派だから、どうせそのまま監獄へぶちこまれて一年もしなければ出て来やしませんよ」
「まあ! 一年? 澤田さんが一体どんな悪いことをしたのか知ら?」
「別段人の物を盗んだというでなし、誰かを欺した(だました)というのでもないのだが、
何しろ金持階級で出来ている今政府はコレラかペストのように過激派の労働運動者をこわがっていますからね、それに関係した者はしゃにむに、監獄へぶちこんでしまうんです。今にそんな連中を死刑にするような法律もこしらえるでしょうよ、ひょっとすると澤田だって生きては帰ってきませんよ、あははは……」
 品子は眼をパチクリさせて、このでたらめな鳥羽の話を聞いていたが、
「あの……、あなたは澤田さんの御友達? 何て方ですかしら?」
「僕ですか、僕は安倍文治という者です」
「やっぱり大学に在(いら)っしたの?」
「そうです、澤田は僕の大分後輩でしたがね」
「そしてあなたも労働運動をなさる方なの?」
「あんたは労働運動をする男が好きですか?」
「ええ、だってずいぶん男らしくつて勇ましいんですもの、でも、澤田さんのような過激派はちょいと因るわね」
「そうそう、あんなこわいやつは地獄へ行っちまえだ……澤田とは友達でも僕なぞは少し派が違うんです、僕らのやっているのは帝国民衆党といいましてね、こないだの総選挙から、政治運動もやっているんです、僕らはこれで今の政府に対してもなかなか信用があるんですよ、政府から金を取ったり待合へ行ったり、ちょいと意気(粋)なことも知ってるんですがね−−−労働運動をやる男が方々で女に持てるのは近頃の流行かなあ……待合へ行っても僕なんぞはアーさんアーさんて若い妓(こ)が騒ぎますよ、うふふふ……」
 鳥羽の出たらめを参平もあきれてきいていた。しかし、品子は別段それが出たらめともわからなかった。かの女は面白そうに笑い出して
「まあ、いやな人ね、のろけをいって……髭面(ひげづら)でももてるのか知ら?……」
「なあに、この髭面がたのもしいって、いいますのでね」
「ほほほ……あたしなんかそんな髭面の男なんか御免だわ」
「これは失敬、じや品子さんのお望みにしたがって髭をそりましょうかな?」
「あら、あたしの名前をどうして知っていらっしやるの?」
「知ってますとも、前から一度あなたに逢いたいものだと思っていたんですよ」
「あらそうお!」
「一ぺん僕らの帝国民衆党の本部をあなたに見せてあげたいんだ、本部へは外にもあなたのようないろんな婦人がやって来ますがね、僕らの党は金持がこわがるような危険なことはちっともしないから警察にあばれこまれるようなことは決してありません。是非一度いらっしやい」
「じゃお願いするわ」
「何なら今から出かけましょうか? 今夜は婦人同盟の総会があるんです」
「じゃ、行くわ」
 と、二人はとうとう仲よしになって間もなく鳥羽は本当に参平から安全カミソリをかりて大袈裟にヒゲをそって、ネクタイをなおし、頭髪の手入れをすると、待たせておいた女と一緒に参平の家から出かけて行った。
「あきれたものだね」
 とあとではみんなが溜息をついた。

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 二人は夜の道を地下鉄の近所まで出て来た。
「僕は腹が減ったから何か喰って行きたいな、君つきあわないか?」
 と鳥羽が品子にいった。
「いやだわ、あたしこんなところで物を食べるのなんか、銀座へ出かけましょうよ」
 と、品子は鳥羽にしなだれかかるようにした。
「やあ、そいつは困る」
「なぜ困るの?」
「今日は持合せがそんなに豊富でないから」
「あら、ケチなことをおっしゃる……あたしがおごってよ」
「はじめて会った君にそいつは済まねえな」
 と、鳥羽は臆面もなくおごってもらうことにきめてしまった。
「じゃ、円タクで行きましょう」
 と品子はおりから通りかかる一台のタクシーをよび止めた。
「すまねえな」
 と、鳥羽はすまねえの一点ばりで車の中へ先へはいりこんだ。そして大きな手を出して品子の手を引張って乗せると、そのまま握った手をはなさないで、
「品ちゃん、僕は前から君に是非一度逢いたいと思っていたんだよ。しかし君は澤田君を好いてるから、僕のような男を相手にしてくれないかと思っていた」
「あら、あたし何も澤田さんと怪しいことなんか無いわ」
「もしもし!」
 と、運転手が舌打ちしながら振返って
「どちらへ参るんでございますか?」
「銀座だ!」
 と、鳥羽は怒鳴りつけておいて、
「何も僕は怪しいとはいやしないんですよ」
 と、品子の肩を自分の腕の中へ抱きこんだ。
 車は灯のついた町の中を走っている。
 品子は男の腕に抱かれながら
「こいつ、なんてづうづうしい男なんだろう、でも澤田さんなんかよかずっと強そうだからいいわ、こんな大きな強うそうな男も悪くないわ……この男と、死んだ天川の親分とどっちが強いだろう?」
 といい気持ちになった。彼女の肩にかかっているそのたくましい手が、天川を此の世から無き者にしたおそろしい手だということを知る由もなく……
「ね、品ちやん、君は僕のような髭男でも、いやだとは思わないかい!」
 と、鳥羽は女を引きよせた。
「あら! 何をいってらっしやるの、いやだったら一緒に来やしないじゃありませんか、あたし、安倍さんのような強そうな人がとても好きよ」
「うまくいってやがる」
 と、鳥羽は女の首を鷲づかみにしてねじむけると、まるでハンカチで鼻でもかむように無雑作に接吻した。
「まぁ−−−ぷッ!」
 といって品子はそのま男の腕にもたれてしまった。
「こわいわ、こんなずうずうしい男……」
 とそして彼女は心の中で思いつづけた。
 間もなく自動車は日本橋をすぎて、灯の明るい銀座に近づいた。
「銀座はどの辺ですかあッ!」
 と、運転手がしゃくにさわったように、うしろを向いてどなった。
「尾張町の角で降ろして頂戴!」
 品子が顔をあげて答えた。
「止まれ!」 「進めー」
 の、表示機が巡査のふくピリピリピリという警笛と共に赤くなり、青くなりする尾張町の交叉点で車を降りた二人は、恋人同志のように手をつないで、夜店の雑沓の中を歩いた。
「こつちへ行きましょう」
 と、品子が鳥羽を暗い横町へ引っ張った。

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 銀座を築地の方へまがった暗い横町に安物の小さな洋館がある。
 入口に「赤い酒場」という電気行燈(でんきあんどん)がかかっている。
「ね、ここへ寄らない?」
 と、品子がいった。
「ここは君の馴染(なじみ)なのかい?」
「馴染でないこともないわ」
「じゃはいろうかな」
 鳥羽は品子のあとについて這入って行った。はいるとすぐ大きな棕櫚(しゅろ)の植木鉢が置いてあって、その影の勘定台のようなところから美しい断髪の女が、
「あら、いらっしやい芳川さん!」
 と、金歯を見せた。
 その女はあとに続く鳥羽を見ると、はッとしたような顔色になったがすぐに、
「今晩は、横尾さん!」
「横尾さん?」
 と、鳥羽は怪訝(けげん)な顔をした。
「あらッ、あなた横尾泥海男(でかお)さんじゃなかったの?」
 と、女は笑い出した。
「まあ、いやだわよ、みどりさん! この方そんな方じゃないのよ」
 と品子は女をぶつ真似をした。どこからか陽気なジャズの音が聞えてくる。
「紹介して頂戴! どなたなの?」
「安倍文治さんよ、帝国民衆党の幹部の方よ」
 すると女は断髪をかき上げながら鳥羽の手を取ってじっと顔をのぞきこみつつ、
「まあそう、あたしみどりと申します。どうかよろしく、民衆党の方にはあたしちっともお近づきはありませんが、総同盟や社民党の方々はよくあたしんとこへいらっしやるんですよ」
 と、愛矯よく話しかけた。
 鳥羽はこんな手のやわらかな美しい女にこんなにやさしく気嫌をとられたことも、話しかけられたことも、生れてこの方これが始めてなのでボーとうれしくなりながら
「そうかね、僕も昔は総同盟に居たんだがこんな素敵な酒場へ遊びに来るようになるなんて、総同盟の連中も出世したもんだね」
「さあいらっしやいよ」
 と、みどりという女は鳥羽に腕をかすようにして地下室へ降りる石段を先に立って降りた。
 地下室の入口には暗い重いカーテンがおりていた。
 それをくぐると、内(なか)は広間で赤い電灯がうす暗くともっていた。その光の下で奇態なことに、男と女が、だきあっておたがいの手を握り合わせたまま股をひろげたりすぼめたりして、幾組も幾組も乱雑に動きまわっている。
 それをはやしたてるように向こうの隅で、若い男達の楽隊が鳴らしているのだ。
「こっちへいらっしゃいよ」
 ポーとなった鳥羽はみどりと品子に両方から手をとられて、広間の片隅にあるテーブルの方へつれて行かれた。
「何か召上る?」
 と、みどりがいった。
「あたしいつものマンハッタン! 安倍さん何がいい?」
「何でもいいや」
 と鳥羽は眼をパチクリした。
 楽隊が急にやかましくなってものをいっても聞えない位だ。そのなかを男と女が誰も彼もたがいにとっくみ合い、腰をすり合せ、尻をふりふりおし合いへし合いする。
 鳥羽は話に聞いていた東京の魔窟とはここのことだなと思いこんで「この女大変なところへ俺をつれこみやがった」と、舌なめずりをしながら、
「おい、ここは何するところだね」
 と、ささやいた。
「ダンスホールよ」
「えッ! これがダンス場(ば)か?」
 鳥羽は近頃流行のダンスホールというものを今始めて見たので、おどろいて顎をなでた。
「あなた何そんなにびっくりしているのよ、おホホホ……」
 と、品子は笑った。
「お待ちどおさま」
 と、そこへみどりがカクテルののった銀ぼんをはこんで来た。

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「あの女──あれは何者だい」
 みどりがむこうへ立ち去って行ったあとで、鳥羽は聞いた。
「あれは高井みどりって東京でも有名なダンサーだわ」
 と、品子はカクテルを一息にのみほして、
「あの人もと上海に居たのよ、フランス租界に紅蘭亭という大きな酒場があってそこの踊り子だったんですって、その紅蘭亭へは、日本の共産党の親分であっちへ行ってる人達がよく遊びに来るんですって」
「馬鹿らしい! 共産党がダンスなんかするものかい」
 と、鳥羽は甘い酒をがぶりとのんだ。
「まあ、なぜ?」
「あたりまえよ、ダンスなんかブルジョアのやることだからね」
「そんなことないわ、ここへだってプロ派とかの文士なんかよく来てるわよ。そしてみいちゃんなんかと盛んに踊ってるわよ」
「みいちやんてあのみどりのことか?」
「そうよ、あの人は労働運動者やプロ文士がとても好きなんですって」
「うふゝゝゝ……」
 と、鳥羽は笑い出した。
「まあ何笑ってらっしやるの? もう二三杯ひっかけてから、あたしとおどらない?」
「俺は踊れないよ」
「じゃもつとのみましょうか」
「うん酒ならのめる」
 と、いいかけた鳥羽はあわてて手を振りつつ、
「まあ、今夜は止そうよ、俺は八年来、禁酒同様に暮らしてきたんだから、そう急にのむとまいっちまう」
「まあなぜそんなに永い間禁酒してたの?」
「なあに、大願成就の願いの筋があってね」
「何んのお話?」
 向うからみどりが近づいて来た。彼女は一人の客と踊りをすませて来たのだ。
「あのね、安倍さんに踊りましょうよ、と云ってるのよ、ところがおどれないっていうんですもの」
「まあ、わけはないわ、こんな踊り位……さあいらっしやいあたしが教えてあげるから」 とみどりはムリに鳥羽の両手を引張ってホールの片隅へつれて行った。
 そして彼女は背の高い鳥羽を相手にその両手をつかまえてステップの手ほどきを教えはじめた。鳥羽は不器用な恰好で、みどりについて、ホールの板敷をあっちへ、こつちへ歩きまわっていたが、
「ね、いいでしょう、すぐわかったでしょう」
 という、みどりの声が聞えて間もなく、二人は両手を組合い体を抱き合って、他の大勢のお客達が踊っている中へまじりこんで行った。
 品子が一人になってぼんやりテーブルに片ひじをついているところへ美しい背広を着た若い男が入口のカーテンからリスのように顔をだして中をのぞいていたが、品子を見つけたとみえて、つかつかとそばへ寄ってくると、
「おい!」
 と、笑いながら横へ坐った。
「あら?」
 品子はびっくりして相手を見た。
「誰と来てるんだね」
 と男は顔を近づけてささやいた。
 品子は困ったような妙な表情をして、
「あなたこそ、誰かと一緒に来たんでしょう?」
「うん、いい人ときたんだ、今にその人がここへやってくるのでね」
「誰なの?」
「気になるかね、松並男爵さ──実は俺は今度あの人を金主にしてプロダクションを創ることになったのさ、お前にも話しをしようと思っていたんだが別に喧嘩して別れた仲じゃなし、仕事は仕事だ、仲間に這入ら(はいら)ないか? 優遇するよ」
 鳥羽と踊りながらホールの方からそれを見つけたみどりは、
「ねえ、あれを御覧、今品子さんと話している人は、室山五十二(いそじ)って映画俳優よ、御存じでしょう、品子さんと随分永い間いい仲だった人よ」
「ふむゥ……」
 と、鳥羽は踊るのを忘れてその方を見た。

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 その時カーテンの間からまた首を出した男があった。品子と話していた室山はいそいでその方へ駈けて行きながら、
「お待ち申上げておりました、さあどうぞ……」
 と、かれを品子のいるテーブルのそばへ案内した。
「あらッ? 松並さんがいらしたわ。」
 と、それを見てみどりが、鳥羽にささやいた。
「松並?」
「ええ、御存じないの、松並男爵よ」
「ふむ……あれが成金男爵の息子か?」
 と、鳥羽はその方をにらんだ。
「ふふふふ……」
 みどりは笑い出して
「面白いわ、ね、安倍さん、品子さんは松並さんとも深い仲だったのよ、今は別れたんだそうだけれど、でもああして元の情夫を二人前にならべて平気で話しているところが偉いじゃないの」
「あいつ今は本所の方の硝子会社の社長の妾をしているんだろう」
「あれあれ男爵と握手したわ、三人で一体何の相談をしているんだろう?」
 と、みどりは面白そうにその方を見い見い、
「あら、安倍さんステップが違ってるわよ」
 と、軽くすべるように鳥羽の腰に腹をつけて、踊るのだった。そして彼女は鳥羽の身体を巧にあやつって品子達のいる方と反対の、ホールの隅へ踊って行き乍ら、
「安倍さん!」
 と、よんだ。
「何だい?」
 みどりは、鳥羽の胸に頬べたをくつつけるようにして下から見上げながら、
「あの女はね、その硝子会社の争議の時に殺された天川という男の妾をしていたこともあるんですよ」
 鳥羽はぎく! として何気なく答えた。
「へえ?」
「警察ではその犯人を今でも極力捜しているんですってね」
「君はなぜまたそんなことを知っているんだ」
 と鳥羽の胸には怪しい気持ちが舞い上がってきた。
「そりゃ……あたしはいろんな男からどんなことでも聞いて知っててよ」
 と、みどりはにっこり笑って
「……警察ではもうその犯人の目あてがついているらしいのよ、あの事件は所轄署の手におえないので、今じゃ警視庁へ移って捜査課が懸命になっているんですってね」
「…………」
 鳥羽は息が詰った。
 鳥羽は自分が踊っているこのみどりという女の正体が解らなくなった。こんなところに居るこんな女がなぜそうしたへんなことを知っているんだろう、幸い辺りにはジャズの音が賑やかに流れていたし、他にも大勢のお客達が踊っでいたし、品子は向うの方で鳥羽と一緒に来たのは忘れたように、男達と話しこんでいたので、二人の会話は誰にも聞かれる心配はなかった。
 踊りが一回すむと、客は踊子に一枚の切符を渡して、抱さ合った手をほどいて別々の席へ帰って行く、そしてまた音楽が始まると、お客はてんでに自分の好きな踊子をつかまえにくる。
「だめ?」
 と、いって、みどりのそばへ寄ってくる男達を彼女は軽く頭をふって、微笑しながらことわった。そして音楽が始まると、
「さあ」
 と、鳥羽の肩に腕をかけながら二人は踊りはじめる。
「それでどうしたんだい?」
 すぐに鳥羽は話の続きを女に求めた。
 みどりはにっこり笑って
「安倍さん、あなた品子さんにお気をつけなさいよ」
「何故だい、おらァ帝国民衆党だよ」
「と、思って油断していらつしやるとひどい目にあはされてよ、品子さんていう人は馬鹿みたいに見えてなかなかどうしてそうじゃないんだから……大抵の男がおぼこなお人好しみたいなあの人の表べ(うわべ)に引つかかつちまうんですからね」
「君はどうしてそんなにくわしい事をよく知つているんだ」
「ホホホ……あたしも品子さんもスパイかも知れないわよ」
「全くスパイだ!」
「もつとスパイらしいことを話したげましょうか?」
「うん、話してくれ、とても面白いや」
「あのね……ゆうべ秘密結社日本共産党ってのが検挙されたでしょう。左翼の労働運動者達は、ゆうべの一斉検挙でほとんどつかまつちやつたようだけど、どうして警視庁は大失敗よ!」
「うん、ちよつときいてる。だが大失敗てのはなぜだい?」
「それはね、全国の有象無象(うぞうむぞう)は皆つかまへたけど、共産党を創立した巨頭をすっかり逃がしてしまったんですって、それがお膝下の東京でそうなんだから、今朝から警視庁はその失敗を取返すため、物凄い暗中飛躍をはじめているはずよ。どう、まだ新聞にも出ないことをこれだけ知ってゐるんだから、安倍さんも要心なさい、おほほほ」
「……………」
 鳥羽は黙ってしまつた。するとみどりは話を変えた。
「それから、さつき硝子争議の時の天川を殺した犯人が捜査課で目星がついたといつたでしょう、その犯人といふのがね、あの時応援に来ていて間もなく姿をくらました神戸の鳥羽清三つて男だといふことよ」
 何気なくいふ女の言葉に、さすがの鳥羽も、
「ふむッ………」
 と、いつたまゝ胸の中がかすかに震えだしたのをおぼえた。

第十七章(七)  第十七章TOPへ

 鳥羽は踊る足並みも乱れて吐息をした。
「俺はとうとう大変な女に引っかかつちやつた、こいつは一体何者だろう? ええくそ!スパイでも何でもいゝや、俺の命もいづれは先が知れてるんだ、踊れ!踊れ!」
 しばらくすると、却つて鳥羽はくそ度胸をすえて前よりも陽気ににやにや笑ひながら踊り始めた。
「あら? 何がそんなに可笑(おかし)いの?」
 と、みどりは鳥羽の笑顔を見て自分もほほえんだ。
「君の話がおかしいのさ」
「なぜおかしいの?」
「だつてそんな捜査の秘密を君のような人が、ちやんと知つてゐるなんて滑稽(こっけい)じゃないか、もしそれが本当の話だとすれば警視庁も間が抜けているね」
「もし、それじゃあなたと今踊っている女がそういう恐い(こわい)ところのお役人の恋人だと仮定したらどうなるの?」
 と、女はにつこりとした。
「………‥?」
 鳥羽は黙っていた。
「そしてその女がそういう秘密をその男から聞とつて知ってゐるのだと仮定したらどうなの?」
「ふん、ありそうなことだが、ありそうにも思えないことだね」
「いいえ、そしてその女がね、鳥羽さん」
「えッ!」
 と、鳥羽は不意に自分の名を呼ばれてはね上るやうに驚いた。
「ほほほ……さうじゃなかつたわね! 安倍さん……そしてその女が、妙な伝法肌(でんぽうはだ=勇み肌)な持前からから官憲に血をはく目にあわされてゐる何とか党の闘士にとても同情を持ってゐると仮定したらどう?」
「君!……」
 と、鳥羽は女の背を抱いた手にぐつと力をいれて自分の胸に引き寄せながら
「なぜ君は俺を鳥羽だと云ったんだ?」
「これを御覧なさい」
 と女は片手を振りほどいて、どこにかくし持っていたのかハガキ位の大きさの二枚の写真を取り出した。
 鳥羽は女の手からそれを受取って見た。
「アッ!」
 という声がかれの唇からもれた。
 それは四年ほど前、或(ある)争議で入獄した時、刑務所でとられた自分の写真だ、一枚はかれの正面の顔であり、一枚はかれの横顔を写したものだ。かれはその二枚の写真をいきなり自分のポケットの中に押こんで、くしやくしやに握りしめながら、
「気がついたか?」
 と、低く女にささやいた。
「ええ、すぐに気がついたわ、でも鳥羽さんてことはあてずっぽうよ、だけどあなたが這入っていらっしやるたった一時間ばかり前に刑事がその写真を持って来たんですよ」
「うむゥ……刑事が?」
 と鳥羽もさすがに声がかすれた。
「ええ、あなたのその写真はきっともう何千枚も複写されて、東京中のカフエーや、待合や、宿屋や、料理店や、喫茶店や、こんなダンスホールにまで配ばられているんです。刑事はもしこの写真に似た者が来たらすぐに交番へ急報しろといってそれを置いて行ったのよ」
「そうか!」
 と鳥羽は、吐息をついた。
「あなたがゆうべ神戸を逃げ出して東京へ入り込んだという事がちゃんとわかっているらしいのね」
 ここまで話した時音楽がやんでダンスが終った。
「少し労れ(つかれ)ちゃったわ」
 と、みどりは隅っこの椅子にかけた。鳥羽もそのそばにかけようとしたら、
「あなたはお客様だから、あっちへいらっしやい、ここはダンサーだけの座席よ、そら向うで品子さんがあなたをさがしてるわよ」
 みどりはこういって鳥羽を突きやった。
 鳥羽は品子の待っている席へふらふら帰って行った。

第十七章(八)  第十七章TOPへ

「安倍さん−−−あなたみどりさんが気に入ったのね、いきなり喰付いちやつてあたしと一緒に来ながら、ほうつておくなんて不人情だわ」
 と、品子はかえって来た鳥羽の顔を見てうらめしそうにいうのだった。
「だって君はいい男を二人も掴まえて(つかまえて)話しこんで居たじゃないか?」
「いいえね、あの人達、一人は松並男爵……御存じでしょう、あの有名な大金持の若様なのよ。一人は室山五十二よ、あの人達が今度新しいプロダクションを創るので入れっていうんですけれどね」
「ほゥ、そんな相談だったのかい、そしてどうしたの?」
「ええ、約束してしまったの」
「あきれたもんだね」
「どうして?」
「いやこっちのことさ、うふふふ……」
「まあ、変な笑い方をするのね、もっとのみましょうよ、あたし今夜はいくらでもおごるわよ」
 品子はバーの中に居るボーイをよんで、ブランデーを壜(びん)ごと取りよせた。
「僕を酔わせたって何も出やしないよ。うふふふ……」
 鳥羽は二三杯引っかけて酒にすっかり酔いをもよおした。
「今夜は安倍さんを離してやらないわよ」
 と、品子は又、鳥羽に酒をついでやった。
「俺だって君を離さないよ、今夜は大したしろ物をつかまえたんだからな、ちくしょうッ!」
「ホホホ……うれしいわよ、そのちくしょうッてのが……」
「何いってやがるんだい白狐(しろぎつね)!」
 と、鳥羽はぺたりと女の頬つぺたをなでた。
「まあ、あたしが白狐なら安倍さんは狸よ、今戸焼の大狸だわ」
「こいつは面白い、じや狸と狐でひとつ踊ろうか?」
「無論よ、あたしあなたと踊るつもりでここへはいったんじゃないの?」
 折から音楽が鳴りだしたので、二人は手をとりあって、ホールの中へすべり出した。
「まあ素敵だわ、あなたどっかで踊ったことがあるんでしょう」
「いいや、こんなことは今夜が始めてだ」
「嘘、嘘、とてもうまいわ」
「お仕込みがいいからさ」
「まあにくらしいことをいうのね」
「ちょっと、仲よくしないと駄目よ」
 不意にうしろからそういって踊りながら鳥羽の背中をつついて行った者があった。それは一人の若い外国人と踊っているみどりだった。彼女は笑いながらたちまちその外国人の胸にかくれて、向うの方へ遠ざかって行った。
「おい君、あのみどりつて女は一体どうした女だ?」
 と、鳥羽がささやいた。
「みどりさん?……あの女はね、やっぱり本所の方の生れなんですよ。そして野々村先生の教え子なのよ、みどりさんは学校を途中でよしてその頃流行ってた浅草の銀竜館でオペラガールになったのよ。先生の奥さんになりかけているあの八重さんだって今こそ目くらだけどやっぱり銀竜館のオペラガールだったんだわ」
「ふむ、あの君子(くんし)みたいな野々村先生もあれで却々(なかなか)やるんだね、オペラガールを女房にするなんて」
「いいえ、そうじやないのよ、あの二人にはいろいろわけがあるんだが……」
 と、いいかけた品子は、
「ね……それよりもあのみどりさんね、あの人銀竜館を振り出しに随分ほうばうを流れ渡った女なのよ、上海とか、奉天とか、ロシアとか」
「え、ロシアもか?」
 と、鳥羽は聞き返した。
 品子は急にこびるような眼つきになって
「あなた、みどりさんのことばっかり気にしてるのね、どうせあたしなんかつまらない女ですから」
「変なことをいうない」
 と鳥羽はぐっと女を抱きしめて、くるりとまわった。ジャズがそそり立つように鳴りしきる。

第十七章(九)  第十七章TOPへ

 しかし、品子は思いがけぬ松並男爵の若様と室山五十二とがあらわれたので、その方へ気をとられて、次の時間には何とか彼とか(なんとかかとか)いいながら、鳥羽を一人テーブルにのこしておいて、男爵の方へ行って一緒に踊った。
 それをみている内に、鳥羽はこの間にここを逃げ出そうという気になった。音楽が鳴りしきって、人々が入り乱れている中を、彼れは巧みに、だれの眼にもつかぬようぬけ出して、やっと元の入口へ出てきて、そのまま暗い往来へとび出して行った。
 銀座へ出るのも明るすぎてよくないと思って彼れはあてもなく暗い裏通りを歩いて行った。
 歩きながら、ふと彼れはズボンのポケットに手をつっこんだが、
「おッ!」
 と、いう声をたててみるみる顔色が蒼ざめた。
「ピストルが無い、どうしたんだろう?」
 まさかの場合の要心に、後生大事にポケットの内かくしに入れていた小形のピストルが、いつの間にか無くなっているのだ。
「踊っている時あの女にぬき取られたんだな?」
 と、思ったかれはいきなり拳を固めて頭をたたいた。
「駄目だぞ、鳥羽清三は階級的武装をダンス場のくされ酒に酔払ってぬきとられちゃ駄目だぞ! 俺は、ダラけてるんじゃない! ただ逃げてるんだ。ゆうべから逃げまわってるんだ!」
 彼はそうしてしきりに自分にいいわけしてみたが、内かくしのピストルを抜き取られて気がつかなかったのは、いかにもうかつの証拠だった。大きな苦悶が彼の心の中ひろがつてきた。彼れは帽子をぬいで頭をかいた。
「よし、上屋久のあの土運び船の同志のところへ行つて泊らう」
 と決心して足早に歩き出し時、不意にうしろでクスクスと女が笑ひ出した。おどろいた鳥羽ふり返ると同時にさつきからうしろからついてきてゐたに違ひない女が、笑い乍ら声をかけた。
「よう、よう、なぜそんなに滅入りこんでるの? 品さんのことが気になるんでせう!」
 それはみどりだつた。
「やあ、君か?」
 鳥羽はぎよつとしたような顔をして立ち止った。
 みどりは黒いケープを着ていた。近づいてきて並ぶと
「ね、鳥羽さん、今夜どつかへあたしと遊びに行かない?」
「いやだ!」
 すると女は鳥羽のわきにすりよつて
「いやだというなら、これだ!」
 と、固いものを鳥羽の腰におしつけた。ピストルの筒口だ。
「よせ!」
 鳥羽は気味悪くなつて一歩退いた。
「ホゝゝゝあたしを怖がっているのね。ムリもないわ」
「おい、たのむからそれを返してくれ!」
 と手を出した。
「返してあげるから、つきあひなさい。あなたも案外度胸がないのね」
 かういつて女は素直にピストルを鳥羽に渡した。
「改めてごらん、そしてタマがぬきとつてなければ、今夜一と晩位あたし信用したつていいでしょう」
 鳥羽は手ざわりでピストルをいじくつてしらべながら、ズボンのかくしへおしこむと、
「そうか!わかつたよ」
 と女によりそつた。
 ──それから半時間の後、二人は円タクで新宿駅近く迄来ていた。

第十七章(十)  第十七章TOPへ

 駅の手前から自動車は妙な横町へはいつて行った。そして緑色の軒燈のついてゐる一軒の家の前でとまつた。その家はこの辺に多い木造コンクリートの洋館である。軒燈には「グリーン美粧院」と書いてあつた。女が車からおりて彼れを黙ってその家へつれこんだ。
「いらつしやい! お久しぶりじゃありませんか?」
 と、二人のはいつて来たのをみて、取次にでて来た三十あまりの小柄な女が、みどりにいつた。その女に、二人はすぐ奥まつた一室へ案内された。そこは三畳程の狭苦しい西洋間である。椅子が二つあつてその向ふの壁ぎはに長椅子がおいてある。まん中に小さい丸テーブル……上には灰吹(はいふき=灰皿)が一つ、それだけで部屋の中がいつぱいだ。
 女は、割り込むように、椅子と椅子の間をとおつて、壁際の長イスにかけた。
「こゝへいらつしやい」
 と鳥羽を傍へよんだ。
「一体ここは何だい?」
 鳥羽は、女と並んで不審気(ふしんげ)にきいた。
「美粧院よ、ホゝゝゝ、あなたが、あんまりきたない顔をしてらっしゃるから、きれいにしてあげようと思って、ね」
 そこへ、さっきの女がドアをノックして顔をだした。
 みどりは立って行って、女と暫く小声で話していた。
 それは鳥羽には聞こえなかった。
 まもなくみどりは、にやにやほほえみ乍ら鳥羽の方をむいて、ドアをしめると、今、女が受けとったカギでぴちんと錠をおろした。
「ね、安倍さん!」
 と彼女は傍へよって来た。
「うむ?」
「あたしたち、今夜中、ここから外へ出ないのよ、かまわなくって?」
「フゝゝゝおれを檻禁するんだね」
 鳥羽は薄気味悪く笑った。
「ここがどんな所かわかって?」
「わからんね」
「ホゝゝゝここは、ある秘密結社の本部よ」
 といってみどりはじっと鳥羽の顔を見た。
「そうか、どういう秘密結社なのかね」
 鳥羽は落ちついていた。
「あたしがこのグリーンクラブの幹部だといっても、あなたイヤになりはしない?」
「ああ……イヤになんかならないや、それよりそのグリーンクラブってものの組織を、おれにすっかり話せ!」
「話すより、見せてあげるわ」
 と、みどりはすりよってきたかと思うと、鳥羽の胸に重なるようにして、その肩越しに、手をのばした。
 少しつめたいやうな妙な空気の感じが鳥羽の頸筋(くびすじ)にあたつたので、おどろいてふり返ると、二人のかけている長イスの後の壁が、三尺ばかり、まるでドアのやうに、開いて、その向こうに、暗い部屋があるのがみえた。
 みどりはのばした片手で更にどこかをまさぐつた。するとパツと灯がついて、今迄まッ暗だつたドアの向ふの部屋が煌々(こうこう)と照らし出された。
 みると、そこは壁に大きな鏡がはまった部屋で、絨毯(じゅうたん)をしいた床の上にはビロード張りの長椅子や回転イスなどがあって、いかさま美粧院の仕事部屋らしい。

第十七章(十一)  第十七章TOPへ

 みどりは鳥羽を、その部屋へ連れ込んで秘密の壁のドアを閉めた。
「こゝは美粧院の仕事部屋だね」
 と鳥羽はあたりをかへりみていつた。
「ええ……昼間はね」
 みどりはこう答へてほほえんだ。
「夜はこうして、あたしたちグリーンクラブの会員の部屋となるのよ」
 と彼女は鳥羽を大きな鏡の前へ連れて行って、
「この壁にはめこんである鏡の奥に仕掛けがあるのよ……ごらんなさい」
 といつたかと思うと、彼女は、よつて行って、大きな鏡の両縁に手をかけて暫くゴトゴトさせていたが、間もなく鏡が片側はボクリと壁から外れて、丁度ドアがひらいたやうになつた。鏡のひらいた痕(あと)には、銅の板が張つてあつた。みどりはその銅の板の縁を親指でこすつていたが、さうしてゐる内に、やがて、だんだんそこが動き出してきた。みるとそれは厚さ二寸位あるマホガニー造りの引戸のようなもので、軋り(きしり)ながら、女の手によつて、天の岩戸のやうに引きあけられ、徐々に一方の壁の中へ、はいつて行つた。そして、戸がすつかりあいてしまつたあとには、思いがけなくも、壁の向こうに又一つ小さな部屋がみえる。その部屋には、別段灯がついてゐるわけではなかつたが、こちらの部屋の灯が差し込んで、うすぼんやりと、真っ白な西洋風呂があるのと、その傍に小さな寝台があるのとがみえた。みどりは、身を屈めて、三尺四方位な、その壁の穴から中へはいつた。そして、薄暗いその部屋から
「いらつしやい!」
 と鳥羽をよんだ。鳥羽は内心で、おどろきあきれ乍ら、頭を下げ、腰をひくめて、鏡の穴をくぐった。
 みどりは、手のばして、外へ開いてゐる鏡をパタンとしめた。すると、鏡はぴたりと、元の壁に嵌まりこんでもうビクとも動かない、穴のしまつた瞬間に部屋の中には灯がついた。彼女はマホガニー造りの赤銅張りの引き戸を元のようにしめた。
「ホゝゝゝおどろいた?」
 と彼女は、ベットに腰をおろしている鳥羽の傍へ来ていつた。
「このクラブの仕掛はアメリカ帰りのここの主人がひとりで細工したんだってのよ。主人の話によるとアメリカでは上流社会にこのグリーンクラブつてものが随分流行しているんですって!」
 といひ乍ら、みどりは着ていたケープをぬいだ。するとさつき踊っていた時のまゝの、薄い洋服である。かの女は肩口からさきへその洋服をもぬいだ。薄い絹の下着だけになつた。かの女は立ち上がって壁の隅にあるボタンをおした。すると天井にともつていた灯が消えて真っ暗がりとなつた。やがて、俄に(にわかに)激しい水の音が始まつた。
 ぼちやん……と水の中へ人間のとびこむ音がして
「安倍さん……あたしお風呂へはいつたわよ」
 とくらがりでみどりの声がした。あたりにはだんだん湯気がが立ちこめて来た。
「あなたもはいつてこない?」
「いやだ」
 と鳥羽はベットに腰かけたまゝいつた。すると不意にずぶぬれになった温かい女の素ッ裸の体がいきなり鳥羽の首すじに抱きついた。
「いやならこうしてやる!」
 と獣の雌のやうな体がねばつこく鳥羽の体に抱きついた。鳥羽は胸も顔もずぶぬれになって息がつまった。
 しかし、部屋の中は物の形の何一つわからぬまッくらがりなのだつた。



十八.「止まれ」戦いは敗北している!

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第十八章(一)

 その翌日の真夜中──
 新聞社の屋上時計が十二時三十分を指してゐた。省線有楽町駅の、うそ寒い更けた高架プラツトにはそれでもあちこちに二三十人位の人影がうろついてゐる。山手廻りの電車が東京駅の方から轟々とはいつてきた。降りる人と、乗る人と、ドアをあけしめする駅員の右往左往が一と亙り(ひとわたり)すんで、ピリピリと発車のべルが鳴ってゐる時、どこからか黒つぽい洋装に身をつゝん一人の女がプラツトにあらわれた。それはみどりだつた。彼女は小脇に皮製のオペラバックをかいこんで、眼深にかぶつた帽子のかげから、眸をこらして、人待顔に、あたりを見廻した。
「おい!」
 と不意に背後から彼女の肩をたたいた男があつた。
 みどりはふりかへつた。そこにはが鳥羽が立っていた。ゆうべとは見違へるやうに、彼れは新しい赤いネクタイを結び、縁の高いシングル・カラーをつけていた。そしてきのう着てゐたうす汚れた洋服はいつの間にか、純黒の頗る上等の背広に変り、縞のズボンをはいている。
 みどりはおどろいたように、鳥羽の顔を見護った。
「一緒にそこ迄出掛けましょうよ」
 とみどりは歩き出した。
 二人は改札口を出て、駅ブリッジの下で赤い尾灯をこちらにむけてとまっている一台の自動車に乗った。その自動車は今ここへ彼女が乗りつけて来て待たせてあつたもので、のつてしまつてから.
「どこへ行きませう?」
 とみどりはからかうように
「まさか叉グリーン・クラブでもあるまいから、警視庁へでも参りましょうか? ホゝゝゝ」
 と笑った。車はアテもなく数寄屋橋を渡って銀座へ出た。そのまま築地の方へはいつて行った。だんだん暗くなつて、ヘッドライトにてらされた道の向うに海がみえて来た時、車はとまつた。あたりは真っ暗な夜である。
 二人は、車をおりて、互いにだまつて暗い海岸の方へ歩いて行った。
 やがて、東京湾に停泊してゐる汽船の青い灯がみえる所まで来た。
 そこは大きな倉庫のかげで人影らしいものはどこにもみあたらなかつた。
 みどりは、倉庫のブリキ塀に沿うて暫らく歩いた後、塀の入口をみつけて中へはいつた。鳥羽は黙ってついてはいつた。
 中には大きな材木が沢山ころがっていた。木材置き場らしい。そこから暗い東京湾が見渡せ海気がむんむんとあたりに立ちこめていた。
 みどりは大きな材木の端に腰をおろした。鳥羽は黙ってその前に立っていた。
「おかけになつたらどう?」
 と、みどりがいつた。鳥羽はやはり無言で、彼女のすぐ前の材木にかけた。
 彼女はほほえんで小さな声で、
「鳥羽さん……あたし、ゆうべあんな場所であなたという人にお目にかかろうとは思わなかつたわ! でもお目にかかれたのがどんなに嬉しかつたかしれない! それで、記念のためにあたしの今まで溜めておいた物を、すつかりあなたに差上げたいと思うの! どう? 受取って下さる?」
「何だかしらんがくれる物なら何でも貰おう!」
「じゃ上げます! これよ!」
 とみどりは新聞紙にくるんだ小さな包みを差し出した。
「どうか、とつて下さい!」
「中味を改めてもいいかね」
「ご自由に──」
 鳥羽は女のみてゐる前で、受取った包みをほどいた。中から出て来たのは紙幣の束だつた。
「使いいゝように一円札が半分と百円札が半分と、混ぜてあります」
 と女がしづかにいつた。
 鳥羽はしばらくは、物もいはずじっと女の顔をみていた。それから紙幣の束を両手に握りしめるようにして、
「これはいくらあるんだ?」
 ときいた。
「三千円……」
「えッ?……」
 二人の眼と眼は闇の中でピタリと一つになつた。夜は森沈(しんちん)として、遠くの、、沖の方に、かすかな汽笛の音がする。
「君は一体だれだ? みどりさん、君のことをはつきり教へてくれ」
 と鳥羽が悲痛な声を出した。
「あたしの事なんか、どうでもいいじゃやありませんか。それよりもあなたは二度と再び品子さんや、あたしなどのいる世界へやつてこないように………さあ、あげるものはあげたんだから、もう帰りましょう」
「そうか──」
 と鳥羽は女について立ち上った。
 二人は叉元のように、黙って、まるで恋人同志の媾曳(あいびき)か何ぞのように、暗の路上を、自動車の待つてゐる所迄かへつてきた。そしてその自動車で浅草の雷門まで送られて、鳥羽は彼女と別れた。

第十八章(二)  第十八章TOPへ

 煙草屋の二階の窓から、鳥羽はまた泥坊の如く忍びこんだ。
「おい、いるか……」
 とかれはそこにねている澤田と吉松に声をかけた。
 吉松がすぐに顔をあげた。するとその隣りにねていた男もむッくり起き上った。
 それは澤田ではなかった。
「おや?」
 と鳥羽はその男の顔をみて、
「委員長じゃありません!」
「や……鳥羽か」
 と眼をこすっているのは山田委員長だった。
「奥さん……鳥羽君が又屋根から入って来ましたよ。まるでお宅を我々のクラブのようにして相すみません」
 と山田は襖の向うで八重子の眼をさましたらしい音をききつけて声をかけた。
「いいえ……かまいませんわ」
 それっきり静かになる……。
「先生は今夜居ないのかね?」
 鳥羽がきいた。
「宿直で留守だ」
 と吉松が答えた。
「澤田君は?」
「僕が来たのでねる所がなくなり今夜は家へかえっているよ。今頃は護衛付でお英さんと一緒にねているだろう。若い者は盛んだ」
 と山田は冗談まじりに笑った。
「あなたは無事だったんですか?」
 鳥羽はやっと思い出したようにきいた。委員長はゆっくりとした口調で、
「ええ……あの晩家へかえりそびれて友達の所へとめて貰ったばっかりで、うまくのがれました。しかし、いつつかまるかわかりやしない。今夜、澤田君の家へよったら、君もいるからここへ行けって英子さんに教えられて訪ねて来たんです。来てみると君は女スパイと一緒になって浮かれ出してしまったというので……」
「あはゝゝゝ澤田君の身代りになってやったんだがなァ……委員長もあの女を知っているんですか?」
「ちょっときいて知っています」
「そうそう委員長にわけてあげましょう、いいものがあるんです」
 と鳥羽はふところから例の新聞包みをとり出して、中から手の切れるような札束をつかみ出した。
「ええと数えてみて下さい、五百円だけあなたに寄付します、軍資金だ」
 と鳥羽は一円札と百円札をまぜ合わせて、山田の前に並べた。
「君にもあげようか」
 と彼は傍らにいる吉松にも一円札を五枚ばかりくれた。別に五百円ばかりを一と包みにして、
「これを澤田君にやってくれたまえ、君にたのんどくのが一番安全だろう」
 と吉松に渡した。
「一体どうしたんです。この金は?」
 とおどろいている山田を取合わないで、
「さあねましょう、僕も朝迄ここにとめて貰ってあしたになったら上屋久に四国の塩田争議で逃げて来て働いている連中がいるからそこへ行って四五日かくれる積もりです。何なら一緒に行きませんか、委員長の顔をみたら喜ぶでしょうよ、船の中だからいい場所ですよ」
 といったまま、ごろりと横になってねてしまった。

第十八章(三)  第十八章TOPへ

 朝になると、投げこまれた新聞の紙面は業々しい(=仰々しい)大きな見出しでうずまっていた。
 東京を中心に北は北海道から、西は九州まで、一番活動の激しかった左翼の労働運動者が去る三月十五日の午前三時を期して各地で一千人逮捕されたというのだ。そして検挙は今尚引つづいており、逮捕される人員は今夕までには二千人を越えるだろうと報じてあった。
 何のためにそんな大検挙が始まったのか?
 新聞には政府のいうところを書いてあった。それには、「去年から今年にかけて、無産階級のためにもっとも激しく、猛然たる勢いで、資本家地主に反抗する運動を開始した左翼の労働運動者の間に日本共産党という秘密結社が出来ている」ということが一斉逮捕の原因だというのである。そしてこの共産党は総選挙を期として公然の活動をおこし工場労働者の間にその大衆化を始めたので、政府は一斉検挙の決心をした。そして「この日本共産党の目的は、現在の政府をたおし、労働階級中心の共産政府を立てようとするもので、わが国体に反し、思っただけでも慄然(ぞっ)とするところの実に怪しからん大事件だ」と司法大臣が新聞に大きく意見を発表していた。また、警保局長は去年から今年にかけて政府がいかに苦心してこの秘密結社の内容をさぐっていたかということを発表していた。
 それによると、今度の大検挙は大事に大事をとって、非常な秘密のうちに万事の手はずを定め、
「今夜の午前三時を期して左翼の運動者を一人残らず検束拘留、同時に家宅捜索を行え!」
 という暗号電報を全国の各府県知事に、そのわずかに十五時間前の前日の昼過ぎに発したというのである。
 かくして、全国各地の左翼の労働運動者は、誰も彼も皆一様に、三月十五日の午前三時という真夜中にその寝こみをおそわれて一網打尽ことごとく警察に捕ってしまったのである。
 これと同時に、左翼運動者の活動機関であった労農党も、青年同盟も、評議会も今明日中に解散される手筈である。──と、報道されてあった。
 正しくこれは大事件だった。資本家階級の権力がそれに刃向かう者に対して牙を鳴らして飛びかかって来た物凄い光景だったのだ。それは戦争と同様、強い者が弱い者を討ち滅ぼそうとする力づくの大格闘だ! そして三月十五日午前三時に正しく日本共産党は全盛の勢いを誇るとても強いこの国家のために、苦もなく敗北させられたのだ。



十九.「進め」プロレタリアの若者   

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第十九章(一)

 朝になって、どうしてぬけ出して来たのか澤田と英子が一緒に参平の宿へやって来た。
「英ちゃんが委員長が無事だときいて今の内に一度お目にかかっておきたいというので銭湯に行く格好で、家を出て来たんですよ」
 と澤田がいった。成程、英子は手拭や石鹸箱を持って来でいる。その時、山田委員長はでかでかの新聞記事をみて、考えこみながら
「僕はもうあきらめようと思っている。諸君はあとに残って死ぬ迄戦ってくれたまえ。監獄にはめられた千人の同志に殉ずるのは委員長たる僕の義務かもしれないからな」
 としんみりと語った。
「そりや間違っている。獄中の同志のことを思えば外にいて益々奮闘して貰いたいです。殊にあなたは評議会の委員長ではあるが共産党の委員長ではないんだから義務を感じなくてもいいじゃありませんか」」
 鳥羽が山田にくつてかかった。
「しかし、捕らわれた千人の同志の大半はみんな評議会の同僚たちでしょうからね、僕だけ逃げ廻っていては卑怯なようで、その連中に合わす顔がない」
「馬鹿いうな! 命が惜しいから監獄へ行きたいんだろう」
 鳥羽は満面に朱をそそいで山田委員長をにらみすえた。
「いいや、命が惜しい位なら過去何十年間労働運動を……」
 と山田が心外そうにここ迄いった時、俄に階下で怒号する声が起こった。
「黙れ! われわれは職権を以て捜索するのだ!」
 この声に、一同はハッとなった。
 同時に、今宿直から帰って来たらしい参平が二階へ飛上って来た。
「澤田君、皆逃げてくれ!」
 と参平の顔は土のようだ。
「よし!」
 鳥羽は、それをきくと、忽ち立ち上った。
 そして窓から外をのぞいたが、往来には制服の巡査が凡そ四五十人も列をなして、煙草屋の前をとりまいていた。その間にまじる刑事らしい私服の数を合せると少くとも七八十人の人数がもうすっかりここを包囲しているらしかった。
「しまった! 手が廻った、委員長! 澤田君! お英さん! 僕が悪かった。油断しすぎたんだ! 吉松君はあとに残れ! 君は大丈夫だから──」
 と、鳥羽は階段の所に立って、
「澤田君! こうなったら窓から逃げたって裏口にも張込んでいるにきまっている! おれが犠牲になって君と委員長とお英さんを逃がすから、尾いて(ついて)来たまえ。この次の連絡場所は上尾久の土運び船の中だぜ──先生、巻きぞえをくわせてすみませんでした。ご恩は一生忘れません!」
 といい終った時、
「鳥羽清三! 神妙にしろ!」
 と見覚えの警部を先頭に五六人の刑事が階段をかけ上って来た。
「何を──」
 鳥羽は、ふり返り様、ポケットから片手をぬき出した。
 と、轟然たる一発の音響が、あたりに白煙を漲らした。
 先頭の警部が階段からころげおちる物凄い音がした。
 うしろにつづく刑事たちは事の意外におどろいて、ばらばらと外へ逃げだした。
「さあきたまえ!」
 と山田と澤田を眼でうながしつつ、ピストルを片手にふりかざした鳥羽は、悠々と階段を下りていった。三人は鳥羽のやり方を、あまりの向こう見ずだと思って舌をまいたが、場合が場合だから仕方なしにあとにつづいた。
 鳥羽を先頭に三人の男たちが外へ出ると往来を二列になってかためていた警官隊は、鳥羽の手に光るものを見て、サッと途(みち)をひらいた。
「ご苦労だな諸君!」
 鳥羽はこういって警官達の中を微笑し乍らおおまたで通りぬけた。

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 包囲隊にピストルの用意がなかったのと、指揮官の警部が真っ先にうたれて重傷を負ったのとで、それが咄嗟のこととて士気阻喪してうろたえたひまに、三人の男は、白昼まんまと警官隊の中を大手をふって逃げてしまった。
 何しろ六七十人もいて、たった三人の男を逃がしたというので、後に一同はそれぞれ上官から叱られた。
 しかし、それはあとのこと、三人を逃がしたけれど、そのあとへ踏みこんだ刑事の一隊は吉松と参平夫婦と、逃げおくれた英子とを珠頭(じゅず)つなぎにして出て来た。
 あたりは野次馬で黒山のようになった。みんなピストルの音をきいてたかって来たのだ。そして縛られて出てくる人達をみて、
「何です! バクチですか?」
 などと警戒の巡査の傍へよって行って、叱られながら追っ払われているものもあった。
 警察へ連れてこられた参平は、二人の刑事に交々取り調べられた。
「あの連中が共産党員だと略(ほぼ)想像しつつ、敢て私は彼等を泊めてやりました! それが罪にふれるようでしたら、どうか法律によって如何様(いかよう)にでもお裁き下さい!」
 参平は今はもうすっかり落ちついて、訊問に答えるのであった。
 四人は三日程留置場にとめおかれて、吉松と八重子とだけが放免せられ、参平と英子は──英子はどんなひどい取調べをうけたのか眼も口も紫色に腫れ上がって病人のように痩せて了っていた──検事局へ送られることになった。
 護送馬車が来て英子と参平がそれにのせられる時、放免される方の吉松と八重子が二人で見送った。
「先生! お八重さんと二人でお帰りを待っています。そして、僕は……あのガラス工場をクビになっても、きっとどこかの工場へもぐりこんで働きます! きっと澤田の志をついで……僕は、僕は……」
 と吉松は泣いた。
「うん、働けよ、山田! おれもやっと自分が何者かということがわかった! 今度出て来たら、おれも君たちと同様に、労働者となって働く積りだよ」
「あなた!」
 眼のみえぬ八重子は夫の手を握って、
「あたしのことは心配しないで下さい……」
 と泣いた。
「八重さん、暫らく一人で働いてくれ、今度こそおれたちは、はッきり、労働者になれそうだ。これから先は労働者の天下だからな、おれ達の世界は開けたんだ!」
 そういって参平は、暗い囚人馬車の中へ、はいった。
 英子はだれとも口をきくことを許されず巡査と一緒に先きへ馬車の中へはいっていた。
「お英ちゃん万歳!」
 と叫んで、吉松は傍にいた巡査に頭を小突かれた。

*     *     *

 その事件があって一日の後、「ゴー」「ストップ」と赤と青の標示器の立つ銀座の尾張町の角に、又去年みかけた盲の若い夕刊売の女の姿がみうけられた。
「夕刊……夕刊……」
 と彼女は鈴をふりつつ、去年とは打って変った晴々しい声を張り上げて道行く人の視線をひいた。それが八重子だったことはいう迄もない。
 そして毎晩のように彼女を迎えに来て、仲よく肩を並べて一緒に帰ってゆく元気な労働服の少年──それは山田吉松だった。
 かれは今では隅田川鉄工所へはいり、巧みに無新を配付したり、救援会支部を作ったりしている。
「今夜は早かったのね」
 八重子は、迎えにきた吉松の声をききつけるといった。
「ええ、工場からすぐきたんですよ、奥さん、どうです、沢山残っていたら僕が売ってあげましょうか?」
「いいえ、もう五部きりだから帰りましょうよ」
 八重子の細い杖を吉松が持って、二人は手をつなぎあって、交叉点を横切ろうとした。人や車がそこには大勢たまっていた。
「止れ!」
 と赤い燈の出た無恰好な標示器の下で、ひげ武者の巡査が、いかめしい怒った顔をして、ピリピリピリ……と笛をふいた。ばたりと、標示器がおちて青になった。
「進め!」
 彼れは八重子の手をとり、肩で風を切って、群衆と一緒に、どっと巡査の方をめがけて突進した。     (了)

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