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“夢鉄道の旅”
……新緑あふれる
「秋田内陸縦貫鉄道」
伊 藤 純(文・写真とも)
目 次
1)秋田中央山地・マタギの里を行く
2)スイイッチバックで縦貫鉄道に入線
3)日に映える落葉広葉樹林
4)里の新緑
5)不可解な公案(こうあん・禅問答の問)
6)新緑の角館
1)秋田中央山地・マタギの里を行く 頁頭へ
函館で用事ができた。
そのまま飛行機でとんぼ返りするのはつまらないので、帰りの航空券をキャンセルして、JRで帰ることにする。
そう思って時刻表を見ていると、聞き慣れない路線に気づいた。虫眼鏡で見ないと見落としそうな路線だが、「秋田内陸縦貫鉄道」という壮大な名前で、要するに奥羽本線鷹の巣駅から、マタギの里といわれる秋田の中央山地を縦断して角館まで、紆余曲折の山中を走る約100キロの第三セクター線である。距離的には秋田まわりの本線よりずっとショートカットなのだが、JRにシカトされてその切符はJRでもJTBでも売ってくれない。
きっとJRとしては、たとえ遠回りでも時間的には早い秋田経由新幹線小町号におとなしく乗ってほしいのだろう。並行路線があるとJRは切符を売らせたがらないので、とJTBの人が弁解していた。
さて、異常高温で桜が二週間も早く散ってしまった弘前を、4月29日朝出発。唯一JRから縦貫鉄道へ直通乗り入れする花見のための季節臨時快速に乗る。
最近は、車体のボディペインティングが流行で、函館から弘前に来る時も何と「ドラエモン号」とかで車体中にドラエモンやノビタが描きまくってあるというすごい列車だったが、この「角館サクラ号」はたった二両のジーゼルの前が真緑、後ろが真っ赤というカラーリング。車内の天井といわず壁といわず、すでに散ってしまって存在しないサクラの申し訳のためか、ピンクのサクラの切り紙が張り散らしてある。
乗客は、田中裕子に似たおばさんなど数人で盛り上がっている自由ツアー風の人たちに、巨大なキスリングザックをかつぐ山歩き男、何が不満なのかひどく不機嫌そうに足を投げ出している高校生といったところで十人たらず。弘前と角館、この季節列車の両端の桜の名所がすべて散り果てているのだからやむをえないところである。
かくて、サクラ号は縦貫鉄道の入口鷹ノ巣に着いた。
ここで、第三セクター線入線の一大セレモニーが始まる。
2)スイイッチバックで縦貫鉄道に入線 頁頭へ
鷹ノ巣駅に止まると、早速ものものしく運転スタッフが最前部につめかけてきた。
従来のJR線の運転手と車掌、縦貫線の運転手と車掌、さらに、運転指令とでもいうのだろうか、黄色のヘルメットに黄色と黒の縞々の安全チョッキを着用し緑と赤の旗をもった貫禄のおっさんやその助手らしき人物など、乗客よりも多いのではないかと思われる人々である。その上、ホームや途中のポイント、踏切などにもヘルメットの保線員が何人も佇立している。(あれは他の保線仕事をしていたのだろうか。でも、一生懸命こちらを見ていたから、多分、列車の付け替えを監視していたのではないか)
そのあげく、列車(といっても二両連結のジーゼルだが)は、いったん前進して本線から行き止まりの引き込み線に入った。ややあって今度は列車は後退し、切り替わったポイントでスイッチバックの形でさっきと同じホームの反対側に入った。どうも、ホームは同じでも反対側は縦貫鉄道の世界となるらしい。
ここでやっと、スタッフは解散しホッとした空気が流れる。いやに仰々しいセレモニーという感じだが、この種のことはやり過ぎくらいにしっかりやってもらった方が安心だ。10年ほど前、滋賀県下の信楽高原鉄道で、いいかげんな見切り発車をしてJRからの直通列車と高原鉄道列車が正面衝突し死者42人という大惨事が起こっている。
20分のゆっくりした停車時間の間に、運転席には縦貫鉄道側のアンチャン風の運転手、後尾には超高齢といった感じの車掌さんが位置に着き、ローカル線ののんびりした雰囲気が盛り上がる。
3)日に映える落葉広葉樹林 頁頭へ
縦貫鉄道の列車は、鷹ノ巣駅をでるとすぐ、針葉樹と広葉樹の入り交じる森に入り、右へ左へとカーブをくり返しながら進んでいく。恐らく、どす黒い針葉樹は杉や檜の人工林で、光に映えて限りなく美しいのが、落葉広葉樹林であろう。
世界遺産になっている白神山地に代表されるように、東北北部は落葉広葉樹林の本場である。
おりから、雲一つ無い晴天。日に映えるこの落葉広葉樹の芽吹きほど美しいものはない。桜の花など及びもつかない。ほとんど白に近い薄緑、鮮やかな薄緑、黄色、深緑、花かとみまがうピンクや赤……色のトーンは無限であり、その入り交じる模様もまた無限のバラエティを形づくる。その合間合間に、山桜やこぶしのピンクや純白が点景となっている。日本的な中間色の美の極致といえる。
ただ、縦貫鉄道の沿線は、山地とはいっても、阿仁川にそった比較的開けた谷筋になっている。谷が狭まったと思うとすぐまた開けて耕地と集落の点在する平野になる。これの繰り返しである。白神や八幡平のような見渡す限りの広葉樹林ではない。そして、人里に近い山には必ず黒ずんだ人工針葉樹林が見える。まだら模様である。
針葉樹林の得失は昔から指摘されていた。杉や檜は、建築などの材をえるためには好適だが、根が弱く、山の保水や土砂止めの力は弱い。それで、昔の里人は、里に近い部分に家屋建築のために杉檜を植え、山の中腹以上には保水と土砂維持の力が大きい自然の広葉樹林を残した。ことに、尾根筋に杉を植えるものではない、と古くから言い伝えられている。
そして、縦貫鉄道沿線には、それを絵に描いたような、山の中腹以下に黒い杉林が連なり、中腹から上は色華やかな広葉樹林が広がるといった光景が眺められた。
その眺めは、白神などの広大なブナ林とはまたちがった、人の暮らしと結びついた日本の山の有様を、よく現しているように感じられる。そして、そういった眺めは、杉や檜の純林に近い人工林が圧倒的に優越した関東や関西の暗い森林地帯ではもう見ることが出来ない、多様性に富んだ美しい日本の森林の姿を留めるものだと思えた。
4)里の新緑 頁頭へ
ちょうど路線の中間点の阿仁合で、赤と緑に塗り分けられたサクラ号を降りた。
一時間半後に、次の各駅停車がくる。それまで、この美しい山間の里を歩いてみようと思ったのである。
もっと本格的に山や谷筋を歩こうというキスリングザックの人々は、途中の「熊に注意」という看板が立っている無人駅で降りていった。
阿仁合は実は、昔は大都会だったという。江戸時代に銀鉱脈が発見され、一時は人口数万に達する大鉱山町になったという。しかし、やがて効率が低下し、それでも戦後までほそぼそと採鉱が続けられていたが20年ほど前に完全に廃坑になった。
こんなことをいってはなんだが、いまは本当に何もない。観光と、いくつかの新興温泉、それはどこへいっても見られる山間地の生き残りのパターンである。
しかしこの、眠ったような町の外れで、里の美ともいうべきもう一つの光景に気づいた。それは、山の広葉樹林よりもさらに多様性に富んだ里の新緑の木々の織りなす美である。
寺や社の周囲には巨大なブナなどの屋敷林が一斉に芽吹いているが、さらに民家のまわりでは、こぶしや山桜やれんぎょう、柳、楓、などさまざまな花や芽吹きが、一斉に色香を繰り広げている。おそらく数えればそれらの木々は数十種類に及ぶだろう。もちろん、自然の植生ではない、里の人々が意識して植え育てたものだ。ことに今年は著しい異常高温で、花と新緑が重なってしまったのかもしれない。ともかく、自然によって醸された山林の美とともに、里人の美学によって作られた里の美というものも日本にはあるということが分かるのである。
5)不可解な公案(こうあん・禅問答の問) 頁頭へ
阿仁合は、その静けさの割にお寺が多い。恐らく何万もの人口を抱えていた頃の名残……それも危険度の高い鉱山町のお寺である。そのふと見たお寺の掲示板に、不可解な公案が掲げられていて足が止まった。
曰く……人の本性は鏡のようなものである。
鏡に何か映っていたとしても、
鏡の中に何かが生じたわけではない。
ものが去れば鏡の像は消えるが、
鏡は何かを失ったわけでもない。
鏡は、生ぜず、また滅しもしない。
汚いものを映したからといって
鏡は汚れはしない。 盤珪
やや意訳すればこういうことであろう。立ち止まって5分ばかり考えたが、答えは得られない。意外に難問である。
盤珪というのは江戸時代初期の禅僧で、相当な有名人でもあったらしい。易しい日常語で禅を語ったというから、実際相当に偉い人だったのだろう。確かに言葉や比喩は身近だが、しかしこの公案の内容はかなり難しい。
表面的に解釈すれば、鏡を「己れ」とすれば、己の目や心に映じたことに動かされなければ、傷つくことはない、というまるで自閉の勧めみたいになってしまう。江戸初期の、まだ社会が安定しない活気のある時代に生きた禅僧が、そんな馬鹿なことをいうはずがない。もう少し積極的に、己の生き方の原則をしっかり持して我を忘れるようなことがなければ、外界から入ってくる情報は己の肥やしになる、おのれが前向きに生きるために役立てられる、と解したほうがいいかもしれぬ。「和して同ぜず」という武者小路実篤が好んだ格言の境地でもあろうか。
もちろんこれは、積極的な自己責任、独立不羈(どくりつふき)の宣言にもなるが、反面、いろいろな事情でトラウマに悩む傷ついた人には、大きな慰めにもなる不思議な語句だ。さすがに禅の公案は、言葉の遊びに見えて、多面的、奥が深いという感じである。
6)新緑の角館 頁頭へ
一両だけの普通列車(?)は、阿仁合を出ると、ますます冴える新緑の中を、時には東北で何番目かという長大なトンネルなどを抜けながら、角館の平野へと下っていく。
そして終点角館につく。
東北の小京都などといわれるこの町も、たった今通り過ぎてきた、目くるめくばかりの新緑の夢街道の残像が残る目には、なんだかほこりっぽい小さな町としか思えない。桜が過ぎて、観光客激減というけれど、それでもけっこう多い。駅前で自転車を借りて、武家屋敷通りに走る。数年前の記憶に較べても、何かと整備され、民芸風に造作したおみやげ屋やラーメン屋など、やたら増えた感じである。それに一番の違いは、多くの武家屋敷が、それぞれ入場料を取るようになっていたことだ。
さらに驚いたのは、一番巨大な武家屋敷である青柳家が、今や広大な庭園も使った、一大お土産パークになっていたこと。庭のあちこちに店が出ていて、民芸品や菓子や地酒を売っている。そこで買った季節限定とかの生酒は「水の如し」が流行でどうしようもない薄酒ばかりの中で、なかなかしっかりしたいい酒だった。
桜はないけれど、緑色の葉を繁らせた巨大なしだれ桜も、相当な迫力である。
この街区のすぐ北に、小高い古城山がある。
ここは芦名氏が角館の近世領主として登場するはるか以前の、中世の城跡で、天守閣などがある近世城ではない。かねがね、角館は城下町というのに城がない(あれば当然重要な観光資源として復元PRの焦点になるはずなのに)のが不思議だったが、徳川時代の始めに一国一城の制によって破却されたらしい。
遠望すると、こんもりと木が繁るばかりで何もなさそうだが、一カ所、山桜が満開になっているのがみえたので、上ってみる。道は砂利を入れたばかりで、自転車を押して上がるのも一苦労だが、ようやく満開のぼってりした八重桜並木をくぐって、遠望のきく所まで何とかたどり着く。
家並みが桧木内川を中心に広がり、まさに絵に描いたような「山と川と城のある町」である。この三点セットに彩られる町こそ、日本の町の原型、原郷であろうと思う。かって、「美しい街」という戯曲を書いたことがあるが、それは−−−
「美しい街……それは私のふるさと……ありふれた地方都市、開けた盆地の真ん中に、数えるほどのビルディングと目白おしにつらなった黒い屋根がわらの波、そのまわりはもう一面の田んぼ、田んぼの果ては折り重なった山なみ……」
と主人公に語らせることで始まる。
実は私は東京生まれで、このような原郷をもっているわけではないが、それだからこそかえってこういうイメージをもつのかもしれない。この戯曲は、美しい街の古い家族が、高度成長の過程で決して美しくない人間関係にまみれていき、美しいのは自然としての街だけだというコメディだが。
厳密にいうと、どうも角館は盆地の中央のまちではなくて、扇状地(川が山地から平野に流出する部分に発達した、内陸三角州)の町らしいが、ともかく日本の町の原郷たるにふさわしい条件は持っていると、古城山から眺めながら思った。
そして、予定の新幹線に間に合うべく、あわてて山を下りた。
在来線に重複して走る秋田新幹線小町号は、まあ、普通の特急並みにゆっくりと走っていく。ところが、盛岡をすぎてフル規格路線に入ったとたんに、狂ったように300キロの時速で疾走し始めた。
……旅は終わって、変わり映えしない日常が始まる……そう思うととたんに眠くなり、次に気づいた時には鶯谷のラブホテル街のネオンが窓外にあふれていた。
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