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魯迅を想いつつめぐる中国の旅
伊 藤 純
1995年、魯迅の跡をめぐる、という変わったツアーに参加しました。
魯迅といえば、中国近代の文豪、阿Q正伝の作者、あるいは、仙台医学校時代の恩師藤野先生への熱い思い……など、いくつかのエピソードは知っていても、それがどうした? と問われると、答えようもない、その程度の理解です。
ツアーには、魯迅に関心のある(当然中年のオジサン、オバサン中心の)人々が二十人ばかり。
北京、上海、紹興、アモイ、など魯迅にゆかりのある土地をめぐり、「いったい魯迅とは、中国にとって何だったのか? 日本人にとって何なのか?」などということを道々想いながら旅したのです。
● 発 熱 中 国
いままで中国に何度か行ったことはあったのですが、雲南、青海、チベットといった辺境ばかりでした。そして、その辺境に行って痛感したのは、その辺境ですら、人、人、人の経済的狂騒の真っ最中だったということです。
雲南の田舎町でも、人々は自転車に乗ったり一輪車を押して表情を引きつらせて走り回っていました。
五十年前、西川一三氏の紀行によれば、電気や水道はもちろん、車と名のつくものはイギリス領事の自転車一台しか存在しなかったというチベットの首都ラサでも、自転車の大群をかき分けてベンツが走り、そのベンツには携帯電話をもった派手なスーツの青年実業家といった風体の青年が乗っているのです。
そして今回、初めて北京とか上海といった中央部に来てみると、あの辺境でみた狂騒の集大成がありました。
一口にいって、中国は目下「建設中、工事中……発熱中」です。
中央ないし臨海経済地帯と辺境との格差がいわれていますが、私が感じる限りでは、中央も地方も、程度の差はあれ完全に経済の狂騒の渦中にあることに変わりはないと思えました。
東京オリンピックの頃日本が陥っていた高度成長の狂騒を百倍したくらいの発熱状態に、中国は陥っていると感じます。
十年後、二十年後、この中国がどうなっているのか、ほとんど想像することができません。
● 燥 と 潤
草原と荒れ地ばかりの青海あたりを旅行していると
「自分の立っているところ以外は全部トイレだと思って、どこででもどうぞ」
といわれます。
事実、道でも原っぱでもどこにでも、沢山人糞が落ちていますが、からからに乾いているので不潔感はありません。高涼乾燥の中央アジア高地、いわゆる「胡の地」は「トイレ自由」の世界なのです。
そして北京にきて気付いたのは、この大都会も、やはりこの「トイレ自由」の胡地の延長線上にある土地なのだということです。
道路や空き地には十分量の人糞が散らばっていますし、道や広場を掃き清めるといった習性も無いようです。思えば北京から蒙古草原まではほんの一足、すべては黄塵が片付けてくれるという世界の延長線上にあるのではないかと思います。
他方、水気の多い杭州あたりにいくと、気風は全くちがうのを感じます。
人糞などもちろん落ちてはいませんし、建設現場を別にすれば、道も広場もきれいに清掃されていて、きれい好きの日本人の感覚と似ています。
観光地のせいもあるのかもしれませんが、湖面にはごみ集めの船が常に浮かんでいます。
湿度の高い中部中国では、黄塵が総べてを吹き払ってはくれませんし、清掃しなければひどく不潔になってしまうに違いありません。
高燥の中央高原と高温多湿のモンスーン地帯との生活感覚の違いが、街の風情に感じられます。
●「人 喰 人」
魯迅がそもそもどういう作家ないし思想家なのか、ということは、必ずしも分かりやすくはありません。
ヒューマニストなのか、近代的作家なのか、社会主義的作家なのか……そのどれも否定はできませんが、その一つだけで説明しきることはできません。
魯迅を解くキーワードは何なのか、飛行機の中でその評伝を読みながら、一つの言葉にたどりつきました。
「人喰人」です。
魯迅は、中国前近代の状況の中での、弱者の悲惨と強者の傲慢を描き続けました。しかし、本質はそのこと自体にあったのではないと思うのです。
階級的な悲惨貧困と、権力を持つ者の傲慢を描いたのなら、それはいくらでもあります。要するに「女工哀史」です。
魯迅はそのようなことを書いたのではありません。
あえていうなら、悲惨になれる、または、傲慢になれるその人間のメカニズムを問題にしたというべきでしょう。
「人喰人」とはそれを指します。
人間というものは何故、他の人間にたいして究極的なまでに残酷になれるのか、人間というものは、どうしてその残酷に慣れ、その残酷の根元にある傲慢さにおもねったりへつらったりしてしまう、そういう弱さやいい加減さを持っているのか、とうことを問題にしたのです。
このテーマは、実は近代主義をも社会主義をも越えるものです。組織・階級・国家・家などというものと人間とを対置した時、つまり「組織と人間」を対置した時の究極の問題点です。
毛沢東は魯迅を社会主義者として高く評価しています。
しかし、私はこれは表向きのことで、毛沢東の真意はもう少し深い所にあったと感じます。
詳しくいう余裕はありませんが、私は、毛沢東も「組織」、ことに国家というようなものは、成り立ったとたんに「人間」の桎梏に転化する、つまり、国家という組織こそが「人喰人」システムの最大のものだ、という一種の「永久革命」論者であったと考えています。
あの狂乱の文化大革命の根底に「造反有理」というスローガンがありました。
一般には、造反有理というのは「反抗することには意味がある」などと平べったく翻訳されますが、本当は、「理」というのは理由がある、といった軽い意味ではなく、天の理、本質的な筋道、といった中国的な哲学が秘められていると思います。
中国人のものの見方の根底には、四千年の王朝の変転の歴史的経験から、世の中/体制というものは、究極、革って行かざるをえないものだ、つまりこれが天の理なのだ、という巨大な弁証法、巨大なニヒリズムがあると思います。
ですから、「革命」という言葉もあるのです。
日本では、革命とは政治体制の変革という程度の意味ですが、中国では、天の命令が変更されて支配者の交代が起こる、つまりは歴史的必然によって体制は変わる……革命というのは、歴史の過程で必ず起こることなのだ、という考えがある。
同じ様な意味で、「造反有理」とは、反逆する事には天の理がある、つまり、革命の前提となる反逆は、人間やシステムにとって本質的なものだ、という根底的な考えがあるのです。
そして、毛沢東という「思想家」の根元にもそれがあった。かれの「矛盾論」などを見ると、この世に存在するものは「正反合」のプロセスで、変転し変革されていく、そういう変転は物事の本質であり永久に繰り返していくものだ、という弁証法が、ありありと示されています。
ですから、本当に人間を救済するためには、造反し続けなければならない……そういうことになるのです。
このような思想は、根元的な哲学としては高度のものです。
ただ、現実政治でこれをやられては、現実は大変なことになってしまいます。
体制を壊すときはいいけれど、体制を作り上げようとする最中に、造反有理、永久革命を持ち出してくると、人々は安んじて現実生活を送る余裕を失ってしまいます。
この政治的精算主義、虚無的な原理主義は文化大革命に始まり、ラオス、カンボチャに惨禍をもたらし、今、北朝鮮で終焉を迎えようとしていますが、社会主義末期の一つの重要な政治的、思想的エピソードだったと考えられます。
ただ、それは、政治の世界では極めて危険な状況を作り出しましたが、思想の世界では、組織と人間の関わりの根元を衝く極めて深刻な問い掛けです。
そういう意味を持つ「人喰人」のモティーフは、文学と思想の大テーマです。毛沢東と魯迅はその点で通底するものを持っていると考えられます。
毛沢東が魯迅を高く評価し、そして社会主義に何のゆかりもない我々がでも、なにがしか魯迅が気にかかるのは、そのような根元的な問い掛けに、魯迅の文言が関わるものをもっているからではないでしょうか。
天上で、毛沢東と魯迅とは、このテーマを、果てることなく語り合っているにちがいありません……何故なら、組織と個人という二者択一が存在する限り、結論を見出すことの出来ない、永遠のテーマなのですから。
1995/6 (C)Copyright 2000 Ito-jun. All right reserved 頁頭へ戻る