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青海省からチベットへ


 西蔵高原2000キロの旅  

                       伊藤 純


この一文は20年あまり前、西川一三(1918~2008)がその昔歩いた、中国からチベットへの数奇の旅の跡を慕って、旅した記録である。いわゆるシルクロードの南路よりも更に南、青海省西寧から天山山脈南側の茫漠たる高原を横断し、ヒマラヤ高原へ裏から(北側から)回り込んでチベットに至る「西蔵公路」である。現在は西寧からチベットの首都ラサまで西蔵鉄道が通じて、北京からでも直行の寝台列車で行けるまでになっているというが、当時は簡易舗装の延々たる街道があるのみだった。しかし、今も昔も、この公路は、中国のチベット支配の大動脈であることには変わりがない。
太平洋戦争敗戦前後の時期に、西川一三が一種の残置諜者として(一応正式の命令を受けていたようだ)二年を費やして歩いたその道を、50年後、壊れかかったマイクロバスで五日がかりで走ったのである。負け惜しみでいうわけではないが、酸素吸入付きの寝台列車で一夜で通りすぎてしまう(列車での所要時間は北京からでも23時間程度)にはもったいない、驚くべき自然と人事に出会うことができたと思う。〝今は無き〟西蔵公路の地べたの記録としてご一読いただければ幸いである。  (旅行は1993年、執筆1999/12、小訂2015/7。写真も総て伊藤純撮影)
                   ──©Ito,Jun;1999 for text & picture


   ──目 次──
1.五十年前の記憶
2.ついに青海湖を見た!
3.“沙漠(ゴビ)”の道
4.沙漠のお祭りと蜃気楼
5.標高五千メートルの“無人境”
6.公路の最高地点5231m
7.ついにラサにたどり着く

       1..五十年前の記憶

 1993年、中国青海省・西寧からひたすら西へ二千キロ、ゴビ(沙漠)と標高五千メートルを前後する岩山の荒野を越えて、チベットのラサに到達するという、途方もないバスツアーに加わった。といっても、格別特殊な「探検ツアー」ではない、ワールド航空という普通のツアー会社の新聞広告で見つけたものだ。
 ただ、私にとっては、これは、半世紀を遡るある因縁めいた記憶がからんでいた。
 ……1950年頃……まだ「戦後」といわれていた頃のことだ。とある日、極めて異装の青年が突然わが家の玄関に立った。背が高く屈強の体つきで、何か不機嫌そうな顔つき、そして、何よりも異様だったのはインドのサリー風の布をまとい、汚れたずだ袋を肩から下げている。
 ところが、私の父親はその青年の顔を見るや相好を崩して懐かしがり、二階の書斎に上げて長時間歓談していた。
 青年が帰ってからの説明では「あれは大変な男で……」敗戦直前に内蒙古から延々とチベットまで歩いていって、ついこの間日本に帰ってきた「西川一三(かずみ)」という人物だ、というのである。
 当時はまだ、今のようにシルクロードだ何だと、中央アジアの紹介やドキュメンタリーは無かった(そもそもテレビというものが無かった)けれど、私はスワン・ヘディンの「さまよえる湖」の話をどこかで聞いていたので、その草原と沙漠の不思議な国に何とはない憧れを感じていた。その憧憬の土地を、ついこの間までその足で歩きまわっていたというのだから、私は深い印象を覚えた。
 ところが、その青年が、その後何度も我が家を訪れてくるようになった。
 それは、どうも、私の父親が青年に、その大変な旅の手記を書くように勧め、機会があれば出版しよう、という話を持ちかけたためらしかった。
 私の父親は小説書きだが、数奇な経験をもった人物に会うと、手記を書かせ、出版の世話をするという癖をもっていた。多分、それが自分の小説の肥やしにもなったのだろう。
 私の知る限りでも、戦前の左翼組合の全国組織である評議会で議長をやった野田律太の「闘争史」だとか、高知の才能に満ちた左翼詩人槇村浩の詩稿、僻地保健婦の記録、趣味とグルメに生き抜いて大阪船場の商家を蕩尽した義兄の手記、はては徳川慶喜の孫娘にあたる蜂須賀のお姫様の「大名華族」だとか、枚挙にいとまがない。
 まあ、その癖の一環だったのかもしれない。やがて、西川青年は数千枚に及ぶ長大な旅行記をものして、我が家に置いていった。(氏の著書では三千二百枚とあるが、それがその時のものと同一物かどうかは分からない)
 後で知ったことだが、当時、西川青年は、GHQ(日本占領軍総司令部)に呼び出されて毎日、彼の踏破した地域の詳細な情報を聴取されていたらしい。(氏の著書では聴取は一年に及んだと書かれている)それに平行してか前後してか、西川青年は占領軍のためではない、自分のための記録を書いたのだと思う。
 確か、大学生くらいになっていた私は、後に、その厖大な手記を、出版企画としてふさわしい程度に整理する仕事を与えられた。私は、半年くらいかかって、その原稿を隅々まで読破し、深い感銘と、大変な好奇心への刺激をうけながら、その草原と沙漠と岩山の世界を想像し、リライトしていった。一時は、まるでそこへ行ったことがあるくらい、細部におよぶイメージを抱くことができたようにさへ思った。
        ●図1)西蔵公路の概念図
 しかし、残念ながら、この出版企画は成功せず、その内、父親も偏屈なら、7年もの間見知らぬ土地を歩ききった西川氏もただ者ではなく、喧嘩分かれのような形になって、私の「中央アジアの夢想」は戦後混乱期の一場の夢となり、やがて、記憶の底に埋没してしまった。
そして、たまたま新聞でみた「西寧からラサへ二千キロ」というツアーが、正にあの西川一三の、そして私が一時、その細部まで、行って来たかの如くにそらんじたはずの、あのコースと同じだったのである。五十年前の夢が現実のものとなる可能性が出てきた。


    2.ついに青海湖を見た            目次に戻る

 十人ばかりの人々がツアーに加わっていた。中には若い女性もいる。
 かって、内蒙古から西寧に行き着くだけで数ヶ月を要した西川一三の時代に比べれば、五十年後は簡単であった。成田から北京を経由して、翌日には西寧の空港に降り立ち、無骨な造りの青海賓館に入ることができた。
 西寧は青海省の省都である。しかし、青海省というのはその一省だけで日本の二倍以上あるという、極めて広い省だ。その大部分は、草原と沙漠と岩山で、その西南端は直接チベットに接している。そして、東の端、地図で日月旦と表記したあたりまでに僅かに農耕地帯がへばりついていて、省都西寧はそこにある。
 だから、今回の二千キロツアーの大部分はこの青海省を横断することになる。  ●図2)ツアーのコース・青海省からチベットまで

  ●3-1)西寧郊外の西蔵公路                         ●3-2)西寧付近はまだ農耕地帯
西域への道は西蔵公路として一応二車線の簡易舗装になっている。
 バスは、街を出はずれるとすぐこの公路に入る。公路の出発点はずっと東の西安なので、里程標はすでに千キロを指している。全長三千キロ、かっての唐の都西安(長安)とラサを結ぶのが、西蔵公路なのである。
 公路は、しばらくは緑豊かな農耕地帯を走る。農耕地帯すなはち漢民族の土地だ。
              
 だが、ほどなくそれは尽きる。日月山脈のさほど険しくはない峠・日月旦で漢族の地は終わる。(険しくはないといっても、標高は既に三千五百メートルを超えている)
 振り返ると、樹木と畑のある農耕地帯だが、前方を見ると、茫々と霞む草原だ。ここを境に遊牧民の世界、正に「吐蕃」の世界が始まるのだ。七世紀に唐の王女・文成公主が友好の絆としてチベット王に嫁したとき、この峠で生まれ育った漢族の土地との別れを惜しんだと伝えられている。
       ●4)農耕地と牧野を区切る日月旦、文成公主の記念堂→
●5)日月旦の前方には耕地はなく、茫々たる草原が広がる




 そして、この遊牧の地に入って数時間、意外にあっけなく、広大な草原の向こうに海のような真っ青の湖が見えてきた。青海湖だ。



                 ●6)草原の彼方に青海湖!→
 ついに青海湖を見た……! その名前は、草原への憧れのシンボルのような響きをもつ。その湖が、広い草原のその向こうに、さらに広く広がっている。実際、その湖は琵琶湖の七倍の広さをもち、名の通りあくまで青い。まわりは果てしない草原だ。そして、はるか地平線と見まがうかなたに、対岸の連山がかすかに霞んで見える。


●7)放牧の群れと背後に広がる青海湖、その向こうに対岸の山

●8)点在する遊牧民の家。最近は遊牧民の定住化が進められ、このような固定家屋が多くなっているという↓


 公路の比較的近くに羊やヤクの放牧の群が見える。群は時期によって一定の範囲を移動するので(草原は茫洋と見えるが、厳格な縄張りがある)、道路間近で群がみられるのは幸運だという。

 群を管理する牧童たちが、観光バスをみて、逆に珍しい異国の観光客を〝見物〟にやってくる。はるか遠くても、おてのものの馬であっというまに近づいてくる。
 中には、馬ではなく自転車で走ってくるのもいる。この後も、自転車で群を追う牧童をよく見かけた。そのうちきっと、バイクが草原を走り回るようになるのだろう。

●9)写真:自転車で仕事をする少年牧童

●10)どうだ、この馬を見てくれと誇る青年→


 湖畔のドライブインで昼食をとり、さらに進むと、やがて青海湖は視界から消え、忽然と白一色の世界に突入する。雪景色ではない、塩の世界だ。

●11)チャカ塩湖の風景

 チャカ湖という塩湖だが、ほとんど全面が干上がって、塩の平原である。塩を採取する掘削機があちこちに点在し、観光客のためのトロッコ列車まで走っている。
そして、湖畔(?)には粗末ながらホテルもある。


              3.“沙漠(ゴビ)”の道          目次に戻る

 ここを過ぎると、風景は一段と厳しさをます。草原が消え、沙漠が広がり始めるからだ。砂漠はない、沙漠だ。サラサラとした砂ではなく、いわゆるゴロタ石の荒れ野であり、砂の原と区別するために〝沙漠〟と表記される。〝ゴビ〟というのは、こういう荒野を指す普通名詞である。この荒れ野には一面に貧しげな10センチか20センチばかりの植生が点々と生えている。驚いたことに、これは自然の植生ではなく、緑化のために乾燥に強い植物の種子を飛行機で空中散布した成果なのだという。これがどこまでも続いている。

●12)“沙漠”と空中散布した植生>
 そして、緑は所々にあるオアシス周辺だけになる。そんなオアシスのまわりには畑が広がり、村のセンターといった風情の並木の通りには、食堂や雑貨屋、ガソリンスタンドの旗がゆれている。

  ●13)公路上のオアシス集落(公日徳村)のドライブイン↓
 食堂は何故かほとんどイスラム系で、豚の料理はない。調理自体はシナ鍋で炒める辛目の四川料理タイプで、油は例外なく特有の匂いのするヤクの油だ。


●14)香日徳の“目抜き通り”に駐車する観光バスの横を悠然と行くラクダ

●15)写真:やはり“外人”は珍しい。食堂の窓から覗き込む子供たち→
 

 ヤクというのは、標高三千メートル以上の地帯に住む牛である。したがって中央アジアのほとんど全域にいっぱいいる。力が強く役牛として有用だし、乳、肉、皮、毛、脂、尻尾、すべてが高原の人々の必須アイテムである。ただ、この脂の特有の匂いは旅行者にはちょっと気になる。
 ラサ(標高三千八百メートル)でもすべての料理がこの匂いをもっていた。この匂いから逃れられたのは帰路、標高二千メートルの成都空港に下りた時である。三千メートル以下ではヤクはおらず、ここの本場四川料理には、ヤクの匂いは無かった。
 このオアシスを出はずれたあたりから、道は峠にさしかかる。公路の両側には一木一草もない岩山が起伏して、それでもまだ、あの、空中散布したか細い植生があちこちにしぶとくしがみついている。そして、西蔵公路はこの岩山の荒れ野を、延々と蛇行しながら延びていく。

●16)荒れ野を蛇行する西蔵公路

 そして突然、車窓の右側(北側)の岩山が尽きる。急に視界が無限に開ける。見える限り荒れ野……ゴビが展開している。そのはるか向こうに、かすかに山脈が見える。おそらくあれは、数百キロ先のアルトゥン山脈かキレン山脈の影ではないか。そして、その山影との間の広大な世界が、ツァイダム盆地なのだ。東西五百キロ、南北二百キロに及ぶ盆地が、一望に広がっている。


●17)地平線まで続くゴビ

●18)アルハンブダ山脈とゴビの境をいく公路→
 

 そして、車窓のすぐ左側には、黒い岩山が続く。アルハンブダ山脈である。バスは、この山脈とゴビとの境目を、西へ西へと猛烈なスピードで走り続ける。何しろ二千キロを五日で走破する予定だから、一日平均四百キロは走らなければならない。道は舗装とはいっても穴だらけの簡易舗装、バスも空気バネなどといったしゃれたものではない、フロントガラスに大きなひび割れの入った年代物である。
 うかつに体に力を入れると、多分筋肉や内臓がいかれてしまうだろう。ひたすら激しい振動に体をまかせて耐えている他はない。
 ところが、そんな最中、急にバスのスピードが落ちた。


         4.沙漠のお祭りと蜃気楼      目次に戻る


 何事かと顔を上げると、目を疑う光景が車外に展開している。バスやトラクターが公路上に延々と駐車し、道も沙漠も、いろとりどりの華やかな色彩の人々で一杯になっているのだ。お祭りだという。それにしても、人っ子一人いないように見えた沙漠のどこにこんなに沢山のひとが住んでいるのだろう。

←●19)公路上にも駐車の列

●20)お祭りに集まった人々→


 時ならぬ沙漠の人混み抜けていくと、また、不思議なものが目に入ってきた。かなたの水平線の少し上に、何やら細長い黒っぽい影が細長く、ゆらゆらと揺れているのだ。雲にしてはふわふわと揺れすぎる。
「蜃気楼ですよ、ゴビではよく出ます」
 と、こともなげにガイドの王さんがいう。
          ●21)ゴビの蜃気楼→
 沙漠面に射す強い太陽光で空気が暖められ逆転層が出来て、水平線より下の、つまりここからは直接には見えない盆地の地面やオアシスの映像を、逆転して空中に映し出しているのだろう。
 ツァイダム盆地は、公路の近くはゴビとなっているが、盆地中心部は比較的水に恵まれ、オアシスや耕地が多いという。
 私は西川氏の原稿を思い出した。確か彼は、チベットへの隊商の動く時期をまつために、このツァイダム盆地で三か月ほど百姓仕事をしたという。
 蜃気楼といえば、すぐ消えてしまう、はかないものの代名詞だが、ゴビの蜃気楼はしつこい。日射が弱まる夕方まで、ずうっと出っぱなしだった。
 そして、その夕方、バスは、このツァイダムの中心都市で、内陸工業都市のゴルムドに着いた。
 ゴルムドは、今まで通ってきた公路上の数百人規模の村にくらべれば、はるかに大きな、石油精製基地もあるという都市だが、私が一泊した時は何となく寂れた印象だった。
 ここは、西寧から出た鉄道の終点で、大きな白亜の駅ビルと、広々とした駅前広場があったが、人っ子一人おらず、沙漠の風が吹き抜けていた。一日数本の列車が西寧から着くらしいが、駅舎を覗いてきた女性の報告では
「日に3~4本しか出ないっていうのに、制服制帽の駅員が5人も6人も何もせずにじっと机に向かって座っていたわよ」
 ということであった。
 中国では、内陸と海岸部の経済格差が大きな問題になっている。今、あの何となく寂しげだったゴルムドの街はどうなっているのだろうか。駅員さんはやっぱり、制帽をキチンとかぶって、じっと机に向かって座り続けているのだろうか。

 
         5.標高五千メートルの“無人境”          目次に戻る


 ゴルムドは、青海省のほぼ真ん中にあり、西蔵高原の十字路である。このまま西進すれば、道はやがてタクラマカン砂漠に至りシルクロードの南路、天山南路と合流する。右折して北上すれば約五百キロで敦煌に達する。そして、左折し南進すれば、千キロでチベットのラサに至る。我々はこの道をいくのだが、まだ、行程の半分、あと二泊しなければラサには着かない。

●22)荒れ野と岩山の西蔵高原へ

 ゴルムドを出ると、石だらけの沙漠には、もうあの空中散布によって生えた僅かな植生すらなくなり、正真正銘の荒野になる。そして、その荒野の背景に、一本の樹木も緑もない荒々しい岩山が広がるようになる。
 さらに、その向こうに、真っ白な雪を載せた、険しい連山が見え始める。

「ヒマラヤだ!」
 と誰かがいうと、ガイドの王さんが
「いえ、あれはコンロン山脈です」
 と訂正する。
    ●23)白雪のコンロン山脈が見え始める→
 王さんは、何年か秋田の大学で農業を学んでいたとかで、日本語がうまい。 コンロン山! ……あの、仙人が住むという伝説の山の実物に、こんなところで出会うとは! 
 世界の屋根といわれるチベット高原は、東西三千キロ、南北千キロ、日本列島が二つくらいは入りそうな広大な台地である。そして、その台地の北を限るのがコンロン山脈、南を限るのがヒマラヤの峰々だ。
 コンロン山脈はいわば裏側の壁で、中央アジア側からでないと目に入らない山々だが、七千メートル級の峰々を連ねて、延々と中東地域にまで延びている。
 西蔵公路は今、この北の壁を、西蔵高原へ上り始めたのである。この西蔵高原は、公路上でも難所であり、標高四千から五千メートルを越す、ほとんど植生のない荒れ地である。西川一三の旅行記では、この地は「無人境」と書かれている。

●24)無人境の中にもドライブインがある

●25)定期バスからどっと乗客が降りてくる

 
 だが、今はその無人境にも自動車道路が貫き、チベットのすべてを養う物資が運ばれる。簡易舗装のガタガタ道を大型トラックが列をなし、定期バスが油煙を吐いて疾走する。だから、当然のことながら、コンロン山脈のパノラマを一望する荒野の真ん中にもドライブインが繁盛している。
 定期バスがとまると、満員の車中からどっと人々があふれ出る。その人々は、男も女も一散に荒野の向こうに……五十メートルくらいのところまで走っていくと、皆いいあわせたようにしゃがみ込むのである。赤やピンクの華やかな民族衣装の女性も、ロングスカートの裾をひろげてしゃがんでいる。
 いうまでもない、長旅でたっぷりと貯まっていた大小便を、こころおきなく排泄しているのである。(ちなみに、漢族は男性もしゃがんで小便をする場合が多い)そして終わると、男女とも、思い残すこともなくスイと立ち上がって戻ってくる。拭くという仕草はあまりお目にかからない。
 これに関しては、西川氏の原稿に印象的な記述がある。
 チベットの女性は概して陽気で話好きで、数人が並んで大声で話しながら歩く。ところが、その中の一人が急に黙ったと思うと、その場にしゃがんで、とたんにもの凄い音を立てて排泄する(小のみならず大でも!)。他の女たちは別段振り向きもしない。排泄で十メートルほど遅れた女性は用を済ますと、すぐ立ち上がって先行した女たちの列に小走りに追いついて、何事もなかったように話の続きに加わるという。
 ラサのような都会でもそうなのだという。
 そしてさらに西川氏を困惑させたのは、彼ら(彼女ら)が、たとえ大便であっても「拭く」という習慣が無いことだった。終わったらすいと立ち上がる、それだけなのだ。たとえ木の葉ででも、拭いたりすると非常に奇異に見えて、蒙古人ではない、と見破られそうで、拭かないのに慣れるまでとても苦労をしたという。
 このツアーに出る前に、「トイレは?」という心配にたいして、消息通の添乗員は「ご自分の立っているところ以外は全部トイレですからご安心下さい」と答えた。きてみると、正にそうだ。ツアー参加者も慣れたもので、若い女性でもちゃんと長い目のハーフコートを着てきていた。これは単に防寒というだけではない深い意味があることが、きてみてわかった。コートをふわりとひろげてしゃがめば、どこでもちゃんと「礼儀正しく」用をたせるのだ。
 それでも始めの内はバスがトイレストップすると、沙漠の中に走り込んで、頃合いの丘の陰(平らなようでも沙漠には数メートルの起伏があって、しゃがむとちょうど首が出る程度に身を隠せる)を探していたが、その内にだんだん慣れてきて、20~30メートル行く程度でみな平気になった。

●26)目の前に広がるコンロンの雪嶺

 このような状況にかかわらず、不潔感は全然ない。というのは、常に湿度が20-30%程度の乾燥世界なので、人糞も獣糞もすぐからからに乾いてしまうからである。
 この地域の支配者となった中国人(漢民族)は、ところかまわず排泄する習慣を嫌らって、少なくとも集落付近では「自由排泄」を禁じ、公衆便所を作った。この公衆便所というのが、単に「ここでしなさい」という土塀で囲った一画に過ぎず、土塀の中に格別の設備はない。だから、青天井の土塀の中はところかまわず排泄物が一杯なのだが、すべて乾いてワラか土のようになっているので、不潔感はない。
「拭く」習慣がないのも、拭かなくても格別不潔にならないからだろう。


         6.公路の最高地点5231m        目次に戻る


 やがてバスは、コンロン山の山稜を乗り越える。といっても、日本の峠のようにチマチマしたものではない。なだらかな山稜が荒れ地に延びてきて、その山鼻に「崑崙山・海抜4767m」と記した碑石がたっている。

●27)「崑崙山・海抜4767m」の碑石
 景観は、一望千里の平原に変わる。乾いた沙漠や岩山ではなく、ところによっては薄く雪が付き、枯れた草の淡い影もある。おそらく真夏は草原になるのだろう。

●28)広大な高原と水、長江源流と云われる地域→
 さらに行くと、限りない平原に、水が見えてくる。広大な平原に、川というべきか湖というべきか、あちこちに水面が光って見える。コンロン山脈と、これから越える青海省とチベットの境になっているタンコラ山脈との間は、このように五千メートル級の広大な湿原になっていて、廻りの高峰から流れてくる雪解け水があちこちに滞留したり川になったりしている。そしてここは、あの世界最大の大河長江の源流とされている。
        
●29)雪の付いた広大な高原

 地理的にいえば、確かにそうであろう。この高原の水は、主に東南方向に流れてやがて金沙江となり長江となっていく。ただ、日本で源流というと谷筋に分け入り、岩から滴る水滴をそれと見たてることが多いので、この広大な眺め全部が源流だといわれても、ちょっと戸惑う感じがする。


 西川一三の旅行記でも、この平原は湿地や川が多く、再三渡河を繰り返し、溺れそうになったり、隊商たちは羊やヤクを流してしまったりという苦労が書かれている。

●30)あちこちに遊牧の羊やヤクが散らばっている。遙かな雪山はチベットとの境タンコラ山脈
 この広大な平原のまん中の沱沱河という小さな集落の招待所に一泊したのち、西寧を出て四日目、ついに青海省を横断し終えて、道はチベットに入った。


●31)青海省とチベットの境界・唐古拉山口、5231mの石碑の背後にタンコラ山脈の雪嶺が広がる→
 その境は、公路中の最高点「タンコラ峠・標高5231m」である。ただ、最高点といっても、コンロン峠の時と同じで、まわりが既に五千メートル級の高原だから、格別峠という感じではない。広大な湿地平原の真ん中に標柱が立っているだけである。
 この峠を越えたチベット側の高地はチャンタン高原とよばれ、まだ標高は四千メートル以上あるが、比較的豊かな草原となり、放牧の羊やヤクが散らばり、遊牧民の家族が悠々と公路を歩いていく。家も何も見えないが子供連れでどこまでいくのだろう……悠然たるものである。

←●32)公路を歩く遊牧民の一家
       ●33)蒙古馬を連れた老人→

 ヤクを放牧する老人に出会う。よく慣れた蒙古馬にのっている。そして、縄で作った投石機で、見事な投石を見せてくれる。ヤクの群れを必要な方向に追うために、狙い違わず群の向こう側に石を落とす。

●34)見事な投石術を見せてくれた→

●35)ヤクの群、老夫婦で追っている

 目的地ラサとの間の大きな街、那曲(ナチュー)がこのツアーでの、公路最後の宿泊地となった。


         7.ついにラサにたどり着く        目次に戻る


 道は、四千メートル以上のチャンタン高原から、ラサの谷へと一日がかりで下っていく。 そしてついに、公路の終点、チベットの首都ラサに到着した。いやでも、丘の上の壮麗なポタラ宮殿が目に入る。
←●36)ついにポタラ宮を見た!

 途中で「ラサに着いたらほっとしますよ、高度も下がって息苦しいのも治るし」といわれたが、事実、ラサに来てみると、ここは別天地の「文明」にあふれる近代都市だった。ビルディングがある、テレビ塔が見える、宿泊場所のラサ・ホリディインは高層のアメリカンスタイルのホテルで、エレベーターが動きコックをひねればいつでもお湯がでる。りゅうとした背広のビジネスマン風の男が、携帯電話をかけながら忙しげにベンツに乗り込んで走り去る……ただ、標高はまだ三千八百メートルあり、富士山頂より高いことになるが、今までが五千メートル前後を通ってきたので、息苦しさはなくなる。五日間の旅で、強制的に高度馴化ができてしまったのだろう。
●37)皆遠くから来たのだろう。日溜まりに憩う巡礼や旅行者
 西川氏の五十年まえの記述だと、ラサは要するに日本の江戸時代そのもので、石造りの家がごちゃごちゃと立て混み、道は人糞と獣糞にあふれ、車と名の付くものはイギリス領事館の自転車二台だけ。彼の下宿した家のおばあさんは、とてもきれい好きで、真鍮の鍋などはいつもピカピカに磨かれていたが、その拭いたり磨いたりする布巾は、使い始めて以来何年も、一度も洗ったことはない……水というものを潜らしたことのない、黒光りする布巾だ、などと書いてある。

←●38ラサの中心、大昭寺前の広場の賑わい

●39)五体投地の巡礼はもう滅多に見かけなくなった→

 しかし、今見るラサは、高度成長前の日本の地方都市、あるいは現在の中国の大きな街……たとえば西寧などと変わらない……いや、むしろ、中国がインドなどとの関係、あるいは頻発した反漢民族暴動などに配慮してか、重点的に物資と資金を投入しているらしいので、建設が盛んで賑わっている感じである。
←●40大昭寺周辺の繁華街、右回りがルールだから皆同じ方向を向いている
●41)観光客や巡礼や……さまざまな人が入り交じるラサ街頭→


 中心的な繁華街になっている大昭寺の周辺でも、もはやマジメに五体投地して廻る巡礼などほとんど見かけられず(確かに寺内の拝殿ではその場で動かず投地を繰り返す人はいたが)観光客と、地元の市民、ビジネスマン、そしてやたらに元気のいい売り子のオネエサン、そんな人々であふれていた。
 もちろん、いきなり道の真ん中にしゃがんで大小便を放出する女性などにはお目にかからなかった。ただ、売り子の女性の元気なのが目に付く。これだけは、西川氏の時代から変わらず続いているものなのだろう。
 その他のことは、もう、避けることのできない「近代化」の波の中で、大きく変わってしまったのだろう。
 そして、ラサの近代化は、イコール中国化、漢民族支配の確立ということなのだ。かってはチベットはインド(英国)の強い影響下にあった。しかし、インドはヒマラヤの峠を越えてチベットに物資と資金を運び込んで近代化することはしなかった……というより出来なかったのだろう。
 しかし、中国は紅軍を動員し、数千人といわれる犠牲を払いながら、果てしない荒れ地を越えて三千キロの公路を建設し、近代化のためのすべての物資を運び込んでいる。
 半ば秘境を予想していた西寧→ラサの旅は、確かに自然は「秘境」の片鱗を見せてくれたが、文明化はそれをはるかに越えていた。沙漠を貫く公路は、大型トラックの列と満員の定期バスであふれていた。食料も水も持たずに旅行ができる、普通の街道の一つになっていた。
 そして、木も水も街もない荒れ野のところどころに、砂と岩石に埋まった小さな集落がある。道路を建設した紅軍の兵士が、道路整備のために住み着いた集落なのだという。道路を造るために働いた人々が、そのままもう数十年、そこに住み着いて道路の維持にあたっているが、最近はさすがに高齢化で問題が生じている、というのである……
 こうして、西寧からラサへの二千キロの旅は、世界の屋根といわれる西蔵高原の巨大な風景の鮮烈さもさることながら、人間の営み、国家というものの営為……万里の長城さへ築いた中国という国家の、営為のもの凄さを印象させられる旅ともなったのである。   (1999/12/18)    目次に戻る