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仏国寺と独立記念館
“恨”ということを考える 伊藤 純
●仏国寺と加藤清正
大阪へいくと、よく訪れる韓国家庭料理の飲み屋がある。マスターは在日二世で、料理を一手に引き受ける奥さんがソウル生まれだという。
この春立ち寄った時に、韓国随一の名刹仏国寺を詣でた話をした。その直前に、釜山と慶州に旅して、仏国寺にもいったからである。仏国寺は、古都慶州の郊外にある大きな寺で、観光ポイントとしても有名だ。
ただ私は、その有名な寺に参ったことを、単に旅の話題として話したわけではなかった。仏国寺にいって、とても気になったことがあったので、その話をしたのである。
仏国寺は6世紀に建立されたという、法隆寺よりも古い寺であり、8世紀にはさらに巨大な寺院として拡張されたと伝えられている。しかし、たくさんある建物はいづれも比較的新しい。18世紀からごく最近再建されたものばかりで、法隆寺と較べるべくもない。
不審に思って、建物の前に立っている説明板をみると、16世紀に「倭乱」によって焼亡した、ということが記されている。それが、一つや二つではない。
要するに、7世紀に拡張建立された巨大な寺院の全てが「倭乱」によって焼き払われていたのである。
「倭乱」とは何か?
いうまでもなく、それは日本の豊臣秀吉の軍隊の侵攻のことである。一般には、直接の加害者である加藤清正に焼き払われた、という言い方をするようだ。この倭寇が、老害の域に達した秀吉の、全く正当性のない領土的野心による出兵であり、秀吉の軍隊は朝鮮半島で耳を削ぎ鼻を削ぐ暴虐と略奪の限りを尽くし、あげくは敗退して逃げ帰ったということは、日本側の正史でもでもほぼ認められている。また、この出兵が、豊臣政権の基盤を掘り崩し、関ヶ原の合戦、ひいては豊臣滅亡の引き金となったことも、ひろく認められている。
われわれは、倭乱=秀吉の朝鮮出兵を、そのような知識としては知っているけれど、現に、広大な寺院の、そのほとんどが「秀吉・清正」によって焼き払われた、というその現場に立たされると、参るのである。
建物が妙に新しいなあ……法隆寺の方が雰囲気があるなあ……などと思っていたオノレが、引っ込みがつかないような気がして白けるのである。
そんなことがあったので、私は韓国飲み屋のマスターに、「どこを見ても加藤清正に焼き払われた、と書いてあって参った」と、半ば救いを求めるような気持ちでいったのである。
ところが、マスターは少しも困惑したりたじろいだりする様子がない。当然といわんばかりの口調で
「確かに過去には一杯いろいろなことがあった。しかし、今は、そんなことをあげつらって、なにやかやといっていてもしょうがない。むしろ、これから、協力して利益を求めていく必要がある。そっちの方が大事だ。」
という意味のことを、とうとうと述べ立てるのである。
それを聞きながら、私は、そういう言い方を、韓国にいった時も何度か聞いたことを思い出した。ガイドさんがそういう言い方を時々したのである。
ガイドさんにしてみると、倭寇云々、という記述に実際われわれ日本人を引き連れながら直面しなければならない。そういう時に、いわば「日韓新時代」というような発想の言い方が出てくるのだ。
私は、何となく喉にものがつかえたような気がしながら、それ以上こちらから、「いえ、そうじゃないでしょう」といいだす筋合いもなくて、マスターの前で黙ってしまったのである。
●独立記念館と日帝侵略展示
それからまた、私は韓国に行った。
そして、独立記念館を訪れた。
独立記念館は国立の広大な施設である。巨大なモニュメントのかなたに、いくつもの建物がならび、韓国の歴史を、列国の干渉と侵攻への抵抗から勝ち取った独立として、展示解説している。その第三館が、「日帝侵略館」となっている。日帝とはすなはち日本帝国主義であり、つまり近現代での日本の朝鮮占領支配と抑圧を展示している。
その観点は明確であり、日本は残虐な抑圧者である。
日本の官憲による朝鮮人への拷問が、具体的に等身大の蝋人形によってリアルに再現展示されている。
後ろ手に吊した若者を棍棒でなぐる憲兵、血まみれの若い女性に二人がかりで性的拷問を加えている警官、釘を植えた小箱に朝鮮人を押し込め、釘に刺されて苦しむ様を楽しみながら酒を飲む兵隊……酸鼻な情景が復元されている。
「日韓新時代」を語る世界とは全く異なる情念が、ここには強くみなぎっている。
ここには、あまり日本の観光客は来ないように思える。
しかし、韓国の人々はたくさんくる。小学生も、幼稚園の生徒も、列を組んでやってくる。基本的な、必修の教育コースになっているのかもしれない。
ここでまた、私は戸惑う。正にこの「日帝」の子弟であるところの私は、どうすればいいのだろう。
●ヒロシマ・ナガサキとの対比の中で
韓国飲み屋のマスターやガイドさんの言葉が、たんなる商売上の外交辞令だとは思わない。「過去をあげつらってもきりがない、協力して利益をあげることが大事だ」というのも、嘘ではない。これがなければ、韓国の人もわれわれも、現実的にやっていきようがない。
しかし、また、あの拷問の展示に籠められた情念も、嘘ではない。
そのどちらか一方をでも、無視し、無いことにしてしまうことはできない。両方の立場を抱えてやっていかなければならない。何かひどくわりきれない感じである。
ここで、私は、私たちが被害者の立場に立つ事例で考えれば分かりやすいことに気付いた。
われわれは、ヒロシマ・ナガサキを経験した世界で唯一の原爆被爆国民である。そして、われわれは、そのことを忘れないために、モニュメントや記念公園や資料館を持っている。
そして、われわれは、もうそのことは無かったことにしよう――とか、さらに進めて、原爆投下によって本土決戦が避けられ数百万の命が助かったのだから、30万の焼死者はもって瞑すべきであって、ワレワレは謝罪も弁解もするいわれはない、というエノラゲイ擁護者を決して許すことはない。
しかし、他方で、われわれは戦後50年、もっとも近しく付き合ってきた外国人がアメリカ人である。ビジネスや日常の交流の中で、われわれはいちいち顔を見合わせるたびに原爆投下者の共犯者だといってアメリカ人を糾弾したりはしていない。
われわれもまた、原爆投下について「こだわっている」という心と「こだわっていない」という心を両方、わざとでなく、本気で併せ持っているのだ。一見矛盾する二つの心を、われわれは併せもっているし、持ちながら生活者としておのおのきちんとやっているのだ。
結局「恨みは忘れない」しかし「恨みにこだわらず将来を見る」という二つの態度の両方を保たなければいけない、どちらに偏ってもおかしなことになる、と考えるほかないように思う。
人は、お互いにこだわる心と、こだわらない心の両方をもっている――お互いがお互いの心の底に「こだわる心」を抱えていること理解して、それを尊重する気配りを持っていなければいけないのだ、と思う。 (2000/7/10) 頁頭へ