ゴ ー・ス ト ッ プ  分割file・4(10章〜12章) 


十. 争議団の陣立て      

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第十章(一)

 常任奪還の示威が錦糸堀停車場界隈で警官隊と正面衝突して、争議はすっかり本調子になった。
 その夜、他の連中と一緒に釈放された澤田たち以下七人の常任は、一旦めいめいの家へかえって飯を食ってから、澤田の下宿へあつまって来た。
 委員長の山田は、もうこの時は、姿をみせなかった。その代り小男の河村が、澤田についていた。澤田は皆が集まってくる前に、河村と相談したとみえて、
 「こういうものを拵え(こしらえ)たぞ」
 と一枚の大きな図面を壁にはりつけた。みなはその方をみた。

争議団の陣立て
         
 「これが争議団の陣立てだ」
 と澤田が立ち上って説明した。
 「われわれはまずこういう風に隊伍(たいご)をととのえなければ、戦さができない! いいかね。この表の一番下の方をみてくれ! 争議団全部を第一班から第八班迄にわける。一班について約四十人ずつだ。班には責任者たる班長をおく。それぞれの班は、めいめい集合場所をきめて、毎日そこへ集合し、司令部からの情報をきき、命令をうけ、その命令によって、いろいろな行動を間違いなくやる。
 各班と司令部との連絡は、司令部直属の連絡係がやる! 何故こういう風に四十人ずつ班にわけて、一定の場所へ集合させるかといえば、こうして結束して、敵に乗ぜられぬように、裏切者を出さぬように、というのが第一の目的だ。
 そして、争議団の策戦は一切司令部で立てる。司令部の下には、この図の通り、交渉係、情報係、財政係、警備隊の四つの活動部隊があって、それぞれ命令によって必死の活動をやる。交渉係は親爺や仲裁者と談判をする役目だ。情報係は、敵の様子をさぐり味方に戦いの模様を知らせる。財政係は争議団の一切の費用をあらゆる方法であつめる。争議が長びけばこの財政係が各班に行商隊を組織するんだ。警備隊は、会社の暴力団や警察の圧迫に対して、司令部を守り、団員の統制をはかる。この外に、司令部には連絡係と、ビラやポスター、ニュースなどを印刷する印刷係とがある。そしてわれわれの背後には、評議会が全国三万の同志をひきいて、すべての応援をやってくれる。
 これで戦いに勝てないということはないのだ! みごとに親爺を屈服させ、われわれの要求を貫徹させてみせる! その責任はかかって、組合首脳部たるわれわれ常任の双肩にある!」
 澤田の説明は、最後には、激励になった。
 「そうだ! 負けるも勝つもわれわれ常任の働き一つだ!」
 と、源さんが白髪頭をふり立てて答えた。
 「負けやしないや!」
 松本である。かれは腕をしごいた。
 その時、階下へ、ゆうべの一日を常任の代りとなって、山田委員長の指揮で活躍した十何人の平委員たちが全部集まって来たと、英子が知らせに上ってきた。
 「では皆、上って貰って、この図面をもう一度説明して、よくのみこんでもらった上、司令部の責任者から各係、班責任者の選挙、班の編制、本部、支部の設置などを、今夜中に決定してしまいましょう」
 と河村がいった。
 吉松を先頭にぞろぞろとゆうべの委員連が上って来た。
 「おい山田、君は小さくても常任だから、階下でぐずぐずしていちゃいかんじゃないか」 と、澤田が吉松にいった。
 八塁の二階の部屋は今にも落ちそうにずつしり人でつまった。

第十章(二)  第十章TOPへ

 それから一時間ばかり、河村が進行係のようになって、委員会が行われた。
 常任全部が司令部委員にきまった。その中の委員長、いわば今度の争議団長には、源さんが挙げられた。交渉係は源さんが責任者となり松本、澤田、朝鮮人の金、平委員から年嵩(としかさ)の三島が挙げられた。
 情報係の責任者は中野と吉松の二人ときまり、外(ほか)に林、吉野、大宮と参平委員があげられ、この五人が、各班長と連絡をとる。財政係にはやはり平委員の高島と山本に、常任の村井が加わった。
 警備隊長は松本ときまった。すると、だれもかれもが、松本に向って隊員になりたいとせがんだ。松本はその中から八人の男を指定した。そして、その八人に各班からすぐに五人ずつ隊員を組織するように、いいつけた。
 司令部の連絡係と印刷係は澤田が若い者ばかりを、七人ばかり指定した。司令部員で、情報係である吉松は更に、連絡係にも任ぜられた。
 「警備隊員には外(ほか)の役目を持ったものはいけない」
 と河村が、隊長の松本に注意した。
 それから、班の編成がひと苦労だった。各班の集合場所がそう急にはきまらなかった。
 「争議団員全部には、所属班、所属係を暗号で記入した団員カードを手渡し、団員は必ずそれを所持するようにするといい、それらの名簿は司令部に保管して、必要に応じて編成替えもする! いつもそういう風にしてやってきたものですがね」
 といった河村は、階下へおりて行って、そこの別室で、英子に指揮されて、さっきから一所懸命、何か謄写版をすっている二三人の、だれもがみたこともない学生上りのような男たちによって印刷されて、もう出来上っているハガキ半分位の大きさの紙片を持って来た。
 「この上部へは大きく番号を書く。──そして、この番号は、司令部の名簿の番号と同一で、そこには本人の名前がかいてあって、だれのカードだかということが、司令部へ行けば番号でわかる。そして、所属記号は、応援団をA、司令部をB、交渉係C、情報係D、財政E、警備F、連絡G、印刷H、そして班の区別は、一・二・三・四・五・六・七・八でいい。つまり団長の源さんのカードが番号『一』とすると、そのカードには(BCl)と書いてある。これは即ち団員矢吹源吉は司令部員で交渉係で、そして所属は第一班だ、という証拠である。こういうカードを今から名簿と共に、作成して三百人の団員に洩れなく手渡し、はっきりおれは争議団員であるということを、班長から本人に承知させ、毎日各班支部へ出席させるようにするんです!」
 河村の話はひどく詳しくなった。
 「しかし、わしゃそんなエーとかビーとかいう横文字はよめん!」
 ととんきょうな声をあげた男があった。三島である。
 「わしもよめん!」
 「おれも知らん、あはゝゝゝ」
 と方々で声が挙った。
 「よめなければ、カナをつけて覚えてしまえ! この際ABC位おぼえておく方が、死んだら極楽へ行けるぞ!」
 と松本がどなった。
 「馬鹿いえ! これだけ婆婆でしぼられて、死んで地獄へ行くんなら、おらア、一生死なん!」
 三島の言葉に、皆どっと笑った。
 「死んだら、おれたちには何にもないんです。この社会を、われわれ労働者の天下にすれば即ち極楽だ! ストライキを戦いぬくことが、極楽突進だ! 諸君! この世で苦しんだものが死んでから何かあるように思うのは、それはわれわれが何百年の間、支配階級の手先である仏教やキリスト教に、だまされてペテンにかけられて来ている証拠なんだ。来世に報いのあるようなウソをいって、われわれを欺き、うまく、われわれの現世での労働をぬすみとり己れ一人、財産を作り上げて、栄耀栄華(えいようえいが)をしているのが資本家階級なのだ、諸君……」
 と河村が、小さな体を打ちふるように動かして、ニコニコしながら、手短かな演説をした。
 「成程、うまいことをいうなあ! 或はそうかもしれんって……」
 と、三島が首をふって河村の演説に感心した。

第十章(三)  第十章TOPへ

 班名簿が凡そ完成したのはその夜の十一時過ぎだった。手筈がきまって散会しようとする時、英子が階下から、印刷物の束を抱え上げて来た。
 「皆! これをそれぞれ分けて持って出て、今夜中に全部、工場附近から本所一帯に張廻してくれ! あまった分は近所隣りへ配ってくれ!」
 と、澤田が叫んだ。
 みなはビラをうけとって読んだ。

争議団チラシ「本所深川区民諸君!」

 「成程! こいつあ面白い!」
 「よし、おらア、うちの近所へ、カカアと子供とで手別けして配って歩く。百枚くれんか!」「おれも百枚!」
 「僕は五十枚!」
 「おらァ電柱やカベに張って廻ったる!」
 人々は謄写版(とうしゃばん)ずりをわけ合った。
 「次に明日の昼頃に、各班長は、皆ここへ集まってくれ! 今夜来ていない班長には伝えてくれ!」
 「今夜きまった班長で、ここにおらんのは、第八班長の安井だけだ」
 「じゃ早坂、君が安井に伝えてくれ、集合時間は朝十時、班長会議だ! その時、争議団ニュースってものをこのビラのような風に印刷して、それを各班長に配るよう用意しておくから、団員全部に配るようにしてくれ!」
 一同は眼をかがやかして、それぞれ立ち上った。
 そして二人、三人ずつかえって行った。
 「わしは今夜ここへとめてくれ!」
 と団長の源さんは、ゆっくり火鉢の傍へ尻をすえた。
 「おじさん、お腹がすいたでしょう。」
 と、英子が階下(した)からうどんを運び上げてきた。澤田も河村も、それから階下(した)にいて印刷係をやっていた学生上りの男たち四人も、一緒に上ってきて、てんでに一杯ずつうどんを食った。
 「英ちやんにも今度はとんだ厄介になるぜ、お前今どこへ仕事に行ってるんだい」
 と源さんは目をシホシホさせていった。
 「あててごらんよ、おじさん!」
 「そうそうさっきお父つぁんに、お英は市役所へ行ってるってきいたが……年とるとじき物忘れしていかん……市役所で何をしてるんだいお英ちやん!」
 「ホゝゝゝ市役所はよかったわ! お父つあんは見栄を張って市役所なんていってるのよ」
 「市役所じゃないのかい?」
 「市役所は市役所よ、市バスの女車掌に行ってるのよあたし……」
 「ああそうかい! うしろオーライ、つぎストップって奴だな。もうかるだろう!」
 「いやだわ、おじさん! ホゝゝゝ」
 「あはゝゝゝ」
 みな笑い出した。
 学生上りの一人が、どこから持ちこんできたのか、看板を一枚かつぎ上げて来た。河村の指図で、まだ、うどんをすすってた今一人の学生上りが、墨汁を皿にうつして、その板に大きく、黒々と書いた。



十一. 白 色 テ ロ ル 
*白色テロル=権力側による非合法暴力行為
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第十一章(一)

 吉松は、さっきみなと一緒にビラ張りに出かけて、二時間あまりかえらなかった。
 澤田や河村、源さん、それに河村のつれて来た学生上りの四人の内二人だけかえって、あとの二人を合せて五人が、あり合せの蒲団をかぶって雑魚寝をはじめた。ところへ吉松がかえって来た。
 「おい澤田! えらいことになったぞ!」
 と吉松は血相をかえている。
 「どうしたんだ?」
 澤田も源さんも首をおこした。
 「あしたから、第一工場と第二工場が開くそうだ!」
 「そんなばかなことがあるものか、一日や二日で、二百人近いガラス工があつまるものか。二百人なけりや第一工場と第二工場をあけたって、仕事はできないぜ。ところが東京中さがしたって二百人もの手のあいたガラス工はいやしねえんだからな」
 「そうじやねえんだい!……澤田! そんなこといってたら駄目だい! ちゃんと、あした工場があくんだってよゥ!」
 吉松は興奮して舌がもつれ、なかなかものがいえない。
 「山田君! どこで、どんなことをきいてきたんだ?」
 と河村がむっくりおき上った。
 「あのね……」
 と吉松は、やっとはけ口をみ出したように河村の方へむいて
 「おいら、親爺の門前ヘビラを張ってやろうと思って、松本のおじさんと、中野と、三人で、さっき工場の裏へ行ったんだ。そして、前へ廻って、親爺の家の門のところへ、べたべたビラを張りつけていると、凄げえ声を出してへんな奴が五六人、門の中からとび出して来やがったんだ。おいらのすることを門の中からみていたに違いねえんだ!」
 「ふん、それから!」
 「あッ、とおどろいて、みんなバタバタと逃げちゃった!」
 「あはゝゝ警備隊長も、逃げたかい」
 「逃げたよ、刑事かと思ったからな」
 「刑事じゃなかったのかい」
 「そうじやねえんだ。おいらだけ逃げおくれて、そいつらにふん捕まった!」
 「へえー」
 「捕まってみると、おいらの知っている天川の子分たちなんだ!」
 「天川って何だ!」
 と河村がきいた。
 「子分が二百人もあるっていうゴロツキの親分だそうですよ。僕はおとといか、偶然、その親分に遇った!」
 澤田が口をはさんだ。
 「その天川の親分が、親爺の家へ来ているんですよ。おらァ、子分につかまって、親爺の家へ引きずり上げられた。いい家だなァ。親爺と親分とは、酒をのんでいるんだ。そして、吉ッ! 手前迄生意気に争議団の仲間入りをしやがったのか! 改心してあしたからまじめに働け! でなきゃ叩っ殺してしまうぞ! と目をむいて怒鳴りつけられちゃった! おらァ、怖いから、改心しますと嘘ォついちゃった。すると、争議団のやつらなんか、いくら威張ったって駄目だ、鈴木たちが、五十人ばかり職工を外からあつめた。その中には争議団の者も十人ばかりいるってんだ。それに、天川の子分が五十人加わってまねでも型でもいいから、二つ工場をあける。仕事はしてもしなくても、とにかくあける。そして威勢よく二本の煙突から煙の上るのをみたら、争議団も空元気がくじけるだろう!──と、そういうんだ!」
 「君はその親分とどうして知り合いなんだい!」
 と河村はしずかにきいた。
 「吉の親爺が天川の子分だったんだ。そして、天川の口ぞえで、吉は工場へはいったんだ、なあ吉!」
 源さんが目をこすっていった。
 「そうです」
 吉松はうなずいた。
 「天川というのは、たしか天川伝四郎だね」
 「河村君、知ってるのですか、天川を?」
 「……そして、何ですか源さん、足立社長は、天川とよほど懇意にしているんですか?」 河村は澤田には答えないで源さんにきいた。
 「兄弟分の杯をしたっていうことだがそりやァ嘘だろう」
 「僕、急がしいので忘れていたが、そういえば天川はあのキネマ女優の芳川品子を、足立の妾に周旋をして千円とったってな事実もある。その芳川品子が泣き乍らいっているのを目撃したんだから、事実に違いない。よほど懇意なんだぜ、天川と足立は……」
 と澤田がしゃべった時、河村は眼を光らせた。
 「そりや、重要な事実だ! 何故もつと早く知らせないんだ、澤田君! そういう敵の周囲の具体的な事情が是非入用(にゅうよう)なんだ。山田君! そして、君は……もつと何かいわれなかったか、社長や天川に、いわれたことを、十分に思い出して皆いってくれ!」
 と、河村は敵の背後を衝こうとする残忍な微笑を、戦場往来の古強者らしい皺のついたその眼のふちに浮べた。

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 吉松は舌なめずりしてにやにや笑いながら、
 「今いっただけだよ。──ただね、かえりがけに事務所の方で事務員のやつらが六七人で沢山ハガキを謄写版で刷って、宛名をかいてやがる。その中に第一工場のおいらの知ってる連中の名前がみえる。はてな、おかしいぞと思ったので、おらア、ちょいと一枚失敬してきちゃった!」
 と、かれはふところから、四つ折りになった一枚のはがきをとり出した。河村は手早く受けとって読んだ。
 「見ろ! 全員解雇の挑戦だぞ!」
 と、すぐにかれはそのはがきを澤田や源さんの前へほうり出した。
 「成程……」
 澤田も源さんも、その一枚の謄写版ずりのはがきに、眸(ひとみ)を引き入れられた。



 「どうだい。いよいよ挑戦してきたじゃないか! これは、天川の入れ智慧だ。天川伝四郎ならこれ位のことはやる! この男が足立についている以上、われわれには浜松楽器の二の舞いをやる覚悟がいるんだ」
 河村は、そこにぬぎすててあるよごれた背広を身につけはじめた。そして、しやべった。
 「……浜松楽器争議の時、東京からやとわれて来た暴力団で、とてもわれわれをなやました一隊があった。それが天川伝四郎だったんだ。天川は争議の戦術を非常によく心得ている争議ブローカーの親分だからね! そんなに、足立と懇意で、今夜やって来て酒をのんでいる以上、てっきり、奴が足立の参謀になっているんだ。そして、こんなハガキを出そうとしている。あした、速達で三百何十枚も、これが一々団員の家庭へ配られてみろ! どれ位、団員は動揺するかわからないぜ。今夜中に先手をうつ必要がある! それには、この解雇通知に先廻りしたニュースを今夜中に印刷して、あしたの朝の班長会議を午後にふりかえ、朝やってくる班長に、まっさきにニュースを渡して団員全部に配付しなければならない。澤田君、君はこれに対して十二分にアジのきくニュース原稿を書いてくれ! おい、瀬川君、ニュースを刷る用紙は十分にあるね、五百枚あればいい!」    *アジのきく=アジテーション(宣伝煽動)の効く

 河村はズボンをはいて、バンドをしめてしまうと、いきなり吉松に抱きついた。
 「山田! きさま十七でもえらいぞ! 君の今夜の働きは勲一等だ!」
 と頓驚な声を出して、べろりと吉松の頬べたをなめたので、吉松は「うわあッ」と、とんで逃げた。そして手の甲で、今なめられた頬をこすりながら、
 「……いやじゃありませんかァ、だ!」    *ひろく歌われていた「軍隊小唄」(嫌じゃありませんか、軍隊は……)のもじり。
 とてれた。みなはどっと笑った。       
 やがて、ニュース原稿ができたといって、澤田が朗読した。



 「異議なし!」
 河村が手をたたいた。源さんも手をたたいた。

第十一章(三)  十一章TOPへ

 翌朝、この「争議団ニュース第一号」は、各班長の手を通じて、午前中に、またたく間に全団員の手に渡ってしまった。
 澤田の家の門口には「東京硝子労働組合事務所」の看板に並んで、新しく「東京硝子争議団本部」の看板がかかげられた。
 すると、二時間とたたない内に、巡査が二人と刑事が三人と、やって来た。
 「どんなご用です?」
 と玄関には松本のひきつれてきた警備隊員が、階段を上る二畳の間を埋めていた。
 「いや、何でもないんです。澤田さんはいませんか?」
 と色の黒い刑事がいった。
 「今朝早くどこかへ出かけていませんよ」
 二人も三人もが口を揃えて答えた。
 「評議会からだれか来ている筈ですがね」
 「今、評議会の本部へ行ったら山田さんがこつちへ来ているってことだったが、一寸会いたいんですがね。」
 と、うしろの二人の刑事がいう。
 「へえ……山田って誰れだい?」
 「きのうの演説会へ来てた本部の委員長だぜ」
 「委員長なんか来てやしないや」
 「来てませんよ」
 と口々にまぜ返した。すると、太った巡査が佩剣(はいけん)の音をがちゃつかせて、「二階にいるじやないか! 嘘をつくな!」
 と大きな声を出した。
 「いや、二階にいるのは外(ほか)の人です」
 「じゃだれでもいい、一寸責任者にあいたいんです」
 と最初の刑事。
 「責任者なら源さんだ。源さんなら上にいるぜ! よんでこいよ」
 すると、一人の若い男が二階へ上って行った。
 今いないといった澤田も、来ていない筈の山田委員長も河村も、松本も、三島も、金もみんなあつまっていた。その中から源さんがよばれておりて行った。
 源さんの下りて行ったあとで、委員長は、畳の上にある電報の五六枚を平手で皺をのばしながら、
 「じゃ、東京中の応援続々あつまる! つてな、ニュース第二号を、これで、あすの朝早く出そう。今夜中にはまだまだくるぜ。」
 「ニュースは毎日出す方がいいな」
 と河村がいう。
 澤田は腕時計をちょつとのぞいて、
 「もう十一時半だ、そろそろ出かけようか」
 「きょうはわしと源さんとで、なるべくおだやかに話すことにしよう」
 と年嵩(としかさ)の三島がいった。刑事がやっとかえったとみえて、そこへ源さんが上ってきた。すると澤田も三島も松本も、朝鮮人の金も、ねそべっていた体をおこした。これからこれらの交渉係の委員たちが親爺に面会を求めに行くのである。それを声援するために各班団員は班長にひきいられて、三々五々正午を期して、工場門前に集合するという手筈である。−−−工場では今朝七時に細々ながらやっと第一工場の煙突から煙があがった。つづいて第二工場の煙もあがった。これをみれば、争議団の方でも何か手当を講ずるだろぅという見当で、刑事が三人、争議団本部へ様子をさぐりにきたのだ。しかし源さんの、生ぬるいぼんやりした応対では、いっこう要領をえない。しびりを切らしてかえって行ったのである。
 目立たないように、そのあとから交渉委員たちは本部を出て行った。
 あとの二階では山田委員長と河村とが、何か話しあっていた。そこへ、司令部付情報係に任ぜられた服部という若い職工が顔色をかえて飛んで来た。
 「た、たいへんです! 山田が殺(や)られましたッ!」

第十一章(四)  十一章TOPへ

 吉松は工場裏の石炭殻置場のかげで、肩口を斬られ、朱にそまってたおれていた。かれのふところには、団の役員たちが、だれもみたことのないビラがいっぱい、はいっていた。



 この謄写版ずりの檄文(げきぶん)は、澤田の手蹟(しゅせき)だった。しかしそんなことはだれも気がつかない。吉松は警察の手で、松倉町の労働者病院へかつぎこまれた。丁度その少し前、表門では交渉委員たちが社長に面会したいといって押しかけて来て、それを、方々からあつまってきた争議団員が、わいわい門前に一杯となって援護しっつ、示威をはじめたので、警察が大勢の正服私服をくり出す──そうしてだれもかれもが表門の方に気をとられている時、特別任務を帯びた吉松が、この檄文を撒く(まく)目的で、裏門の石炭殻置場から工場内に忍びこもうとして、だれか、工場側の見張りの者に刺されたのだ。
 この殺傷事件をきいた警察の司法主任は「ふぅむ……」と争議団側のぬけ目のないやり口に眉をひそめたが、ほっておくわけには行かない。すぐに刑事を二人つれて現場へかけつけた。高等主任もー緒に来た。一行は、現場をしらべた上、被害者の収容されている労働者病院の方へも行った。夕方には裁判所から検事がやってきた。
 吉松は可なりの重傷であった。急をきいた争議団幹部の者は、みな労働者病院へ馳せ集まった。
 翌日の東京中の新聞にはこの事件が大きく報道された。「加害者は当日工場に入れた天川の子分五一人の内のだれかだろうと、警察で見当をつけて、取調中」とどの新聞にも書いてあった。
 「争議団ニュース」は号外を出した。
 「親爺は暴力団を傭い入れて、争議団員を殺したぞ! 山田吉松は肺をえぐられて死にかけている! このつぎにはだれがやられるかわからない! 横暴残忍なる社長を倒せ! 天川をやっつけろ!」
 こうした激烈な煽動の檄文があとからあとから全団員に配付された。
 「こりやいかん。捜査中の事件をこんな風に書かせちや困る!」
 と部下が手に入れてくる「ニュース号外」を前において署長がつむじをまげた。
 「いっそ、このニュースという奴を出版法違反で停めてしまいましょうか?」
 と古川警部が、顎をなでた。
 そこで、責任者として、源さんが警察へよび出された。
 「はい、もう誠に申訳がございません、いえもうみんなあっしが若い者にやらせたことで、あっしを罰してやっておくんなさい。」
 と源さんは何といわれてもこうした一つ返事をくり返すばかりで一向つかまえどころがない。
 「困ったな!」
 警部は又顎をなで廻した。
 一方、足立友作も、この殺傷事件から急に争議団が悪化して来て、天川のいった三日が過ぎても崩壊するどころか、いよいよ勢いが強くなり、第一、争議団の奴らが、辻々に大きなビラを張ったり、ニュースを出したりなどして、まるで足立が人殺しをしたか何かのようにいいふらすので、方々得意先きや知り合い方面へもひどく人気が悪くなってきたので、急に気をくさらし初めた。
 決心した足立は伝四郎をよびつけて打って変った調子で、詰めよった。
 「親分、お前さんはわしの商売を何だと思っているんだ! この争議をみごと三日で片づけてみせるといったのは、親分お前さんじゃなかったのかね。それがきょうでもう一週間だぜ! おらァこの上黙っておれない。あの速達のハガキも、ムリに工場をひらいた裏面も、みんなあいつらの方へばれてしまって、十二月十七日に誰か一人でも出勤したものがあったかね……わかってる! そのためにあの小僧をお前さんは子分の手にかけさしたんだろうが……それで、お前さんの胸はすくかもしれんが、その結果がやっぱり、争議団の奴らの思う壷にはまって、まるでわしが人殺しをしたように、世間が騒いでいるのが天川、お前さんの耳に入らねえのかい。この上いつ迄も犯人が出なければ、その間に、おいらの方にだんだん人気が悪くなる! おれも、商売が可愛ければこそ早くこのどさくさを根こそぎ片づけようとあせっているんだ。親分、都合でお前さん手をひいてくれ! それでは天川の顔がすたるというのなら、一体わしにどうしてくれる? はっきり返事を貰おう!」 足立は酔って、眼に涙をためていた、伝四郎はむっつりと沈んでいたが、
 「わかった! すまなかった! わしも男だ。きれいにやる! 二日、いや、一日、待ってくれ!」
 −−−その夜、まず天川の子分が一人、吉松傷害犯人として、その筋へ自首して出た。

第十一章(五)  十一章TOPへ
  

 争議団本部の澤田の家の前は往来をへだてて向うが空地になっていた。幹部はこの空地を利用した。
 足立と天川が会見した次の日の朝、この空地が午前七時頃からつめかけてくるナッパ服でいっぱいになった。本部の二階にも人が溢れていた。     *ナッパ服=菜っ葉のような薄青色の作業着、労働者のシンボル、また労働者そのものを指すことも。
 英子は、すわるところもないくらいだった。
 評議会本部からも、山田委員長を始めとして、常任の連中がそれぞれ緊張した面持ちでやって来て二階に陣取っていた。
 この二階から、前の往来と空地にあつまった全団員に幹部が「争議経過報告」の演説をこれからやるのである。
 「もうよかろう」
 と、窓から様子をみていた澤田が、内部へはいった。源さんが推されて窓から顔を出した。外の大衆は忽ち拍手した、源さんは白髪頭をふり立てて、がっしりとした口調で、昨夜来の形勢を報告しはじめた。
 「おい、みんな、よく聞いてくれ! 大谷と早坂が買収されたぞ! 天川の手先になった鈴木の仕事だ−−−というのは親爺のやつめ、天川を抱き込んで一応は工場を開けたものの、駄目なんだ! ナッパ服を着たごろつきに何が出来るか、石炭置場の人足ぐらいがせいぜいのところさ!」
 「そうだ、そうだ!」という叫びが反響した。
 かれは、更に隈なく群集をみまわしてから、つづけた。
 「そこで、親爺さんは……争議団の切り崩しを馬力をかけでやり出した。大谷と早坂は鈴木にだまされて、金のためにわれわれを裏切り、会社へ買われて行ったんだ! 方々へ誘惑の手がのびるから、みんな用心しろ! 鈴木や大谷や、早坂が誘いに来ても、はねとばせ!」
 「よゥうし……」
 「裏切者をぶち殺せ!」
 というような声が方々からおこった。源さんは一段と声を張り上げて、
 「しかし、そこでだ! みんな、よく聞いてくれ! われわれ同志の勝利は、最早や、日の問題なんだ! 親爺は、われわれなくして工場を継続してゆく事は出来ないんだ! われわれは勝っている!」
 源さんは疲れて、額に汗をかいて、引っこんだ。外では嵐のような拍手だ。
 その時、この空地の一方に、ただならぬ騒々しい人声がおこった。空地にたかっていた大勢の人々が波のようにゆれてどよめいた。
 「うわーツ」
 「斬り込みだ!」
 という声がした。
 「なにッ」
 二階からみると、白刃の日本刀をふりかざした暴力団らしい、白ハチマキの壮漢が、ちらりとみたところ、凡そ(およそ)二三十人……と、と、と向うの家蔭(いえかげ)や露路から、活動写真のようにわいて出て群衆の中へおどりこんだ。そして群衆を二つに割って、こつちへ走って来た。
 「天川だ!」
 澤田は、素早く叫んで、階段を飛び降りて行った。
 「おい、みんなにげろ!」
 しかし、もう下には、天川の子分が殺到していた。十人はいた。いま走ってきたのとは別働隊らしい。
 「澤田を逃がすな!」
 「幹部を皆叩っ斬れ!」
 「澤田の野郎を探せ!」
 という声が土間でした。
 不意討だったのと、家の中が狭かったので、地の利は争議団がわに不利だった。
 山田委員長も、河村も、松本も、源さんも、金も、だれもかれも、二階にいたものは皆屋根伝いに逃げた。
 しかし、下にいた警備隊の連中はそうは行かなかった。
 殴られたもの、刀にやられたもの、血はしぶきとなって、壁にも襖にも飛んだ。
 澤田は運悪く階下へかけ下りた所を、体のどこかをやられた。かれは英子が居間にしている玄関の一隅にぶっ倒れた。

第十一章(六)  十一章TOPへ

 この空地の集会は圧迫を予期してか、それとも、短時間で終って、すぐに示威運動に移る幹部側の策戦のためか、無届で半ば非合法的に朝早くひらかれたので警察では気がつかなかった。それをどこをどうきき知ってか、思いもかけぬ天川の子分共が抜刀で斬りこんで来たのだ。空地にいた団員たちは無抵抗に四方へ逃げ散った。斬り込みの一隊も、二階迄上るには上ったが、そこには皆にげてだれもいなかったので忽ち、手際よく一人残らず引き上げてしまった。
 跡には、争議団のナッパ服だけが右往左往していた。警官の一隊が現われたのは、その時だった。
 「あ、来やアがったな!」
 「警官だ!」
 一時は収集しきれないと思うほどの惑乱(わくらん)におちた人々の心も、この新しい一群の出現で、ぐつとひきしまって来るのだった。警官隊はどかどかと靴のままで、本部へ踏み込んで来た。
 玄関に倒れていた澤田はひょろひょろとおき上った。
 「澤田!」
 「大丈夫か?」
 とそれをみたみんなが口々に叫んだ。
 「大丈夫だ!」
 かれは、こういったかと思うと、つと手を差し出して一人の仲間の肩につかまった、−−−やがて澤田の姿は二三の同志とともに消え失せてしまった。かれの肩口は血を噴いていたはずである。
 山田委員長がどこからか一人で引き返してきた。かれは、警官隊に大声で出来事を説明した上、
 「もちろん、やった奴らは天川の子分にちがいないと思うんだ。すぐにやつらを検挙したまえ」
 ところが警官隊は、すこしも慌ても動きもしなかった。見覚えのある例の古川警部が、
 「山田君、君の話はわかったが、もつと真相を調べなくちゃならんからね、一体きょうの集会はどういう趣旨のものかね?」
 と、皮肉に肩をそびやかして、あたりの警官に何事か指図した。
 すると、警官たちは、乱闘に傷ついて、寝たり倒れたりしている争議団員を十人ばかり、てんでにおこして荒々しく外へ引立てて行った。
 「なぜ、おいらの仲間を引っぱるんだ!」
 「ひどいことをしやァがる!」
 「まるで、あべこべだ!」
 と、争議団員たちはみんな、血相を変えててんでに叫び出した。
 一人の争議団員が二階の屋根から空地にまばらにむらがる団員に向って演説口調でどなった。
 「同志諸君、警察も天川もぐるになってやがるんだ! なぜ、加害者の方をつかまえないでわれわれをひっぱるんだ。諸君! 警察は無法だ! 構う(かまう)ことはねえ、さっきの戦いを、われわれはもう一度おっ始めるんだ。警察をやッつけてしまえ! 検束されるわれわれの同志を奪い返せ!」
 この屋根の上のどら声に、争議団員はみんなびっくりしてその方をみた。屋上には背丈けのがっしりした日にやけた顔の逞しい(たくましい)男がつっ立っている。
 警官隊は、屋根の男を捕えようとして、屋内へ乱入して来た。屋内にいた争議団員は必死の叫びをあげて、警官たちに飛びかかった。そして、片ッ端しから投げ飛ばされた。勇敢な警官の二三人が、無理矢理に二階へ駈けあがった。しかし、屋根の上から演説をした男は、どこへ逃げたのか、もうどこにも見当らない!
 「何処へ行きやがったんだ?」
 と、警官たちは、後から後からと狭い二階へあがって来て、屋根へ出てその辺を物色したが、演説した男の姿は、遂に見あたらなかった。その間に下の往来では、傷ついた十人あまりの同志が巡査達に守られて、引立てられて行くのがみえた。その中には、山田委員長もまじっていた。「心配するな」と委員長はにこにこわらって、曳かれて行った。
 「まア、ひどいわ!」
 物蔭からそれを眺めていた英子は、肩をふるわせて泣いた。


十二. 同志はどこにでもいる   

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第十二章(一)

 争議団本部の乱闘事件は、二三日たって、真相がわかった。警察も世間の手前、さすがに打捨てておくことも出来ず、天川を始めその子分が二十人ばかりあげられた。一方検束されて行った十人の争議団員は、こんどは、ひどく鄭重(ていちょう)に扱われて、二日目に釈放された。そして天川の子分五人が、乱暴をはたらいた犯人として、検事局に送られた。
 「どうせ警察のすることは、これくらいのものだ」
 と、山田委員長が本部の二階で、司令部委員たちを集めて、事の次第を報告した。
 「だから諸君、われわれは、警備隊をもつと充実して特別の自衛団を作る必要がある」
 と委員長がいった時、傍聴者格でうしろの方にいた、このあいだ屋根の上から演説した男が、真赤になって立ち上った。
 「自衛団よりも、もつと積極的な糾察隊(きゅうさつたい)だ! いままでわれわれが司令部直属の糾察隊を持たなかったために、こんな目にあったんだ。糾察隊をつくれ、腕っぷしのあるやつは、糾察隊に加われ!」
 一同は、拍手喝采した。ところが争議団員の多くは、この男の顔を知っていなかった。
 かれは、ガラス職工ではない。評議会の本部から来ている応援団の一人だ。何という名前だか、誰も知らない。しかし、この男の得意の煽動演説(アジテーション)で、本部の二階では忽ちのあいだに、糾察隊がつくられた。二十人ばかりの特別隊員が選ばれて、やはり松本がその隊長になった。
 ちょうど、その夜のことである。
 天川伝四郎は、警察から釈放されて来て、打合せのために足立の屋敷へ訪ねて来た。子分が十人ばかり物々しくお伴をして、門前で待っていた。
 伝四郎が、足立との会見を終って出て来たのは、夜の九時ごろだった。親分が出て来たのを見ると門前に待っていた子分たちは、てんでにぴたりと親分の前後左右にくっついて、物々しく警戒しながらひとかたまりとなって、法恩寺橋の方へと出て行った。
 「今夜は馬鹿に寒いなァ」
 と伝四郎が子分たちを振り返った刹那(せつな)、横合の暗がりから、
 「天川!」
 という声が突走(つっぱし)った。
 「おッ?」
 と、伝四郎の一団が思わず立ちどまったとき、大きな、黒い影が子分たちに取りまかれている背の高い伝四郎の肩口に、狼(おおかみ)のごとく飛びついた。
 「あッ!」
 と叫んで、伝四郎は、片手で宙を掴むような格好をしつつ倒れた。
 子分たちはあまりの早業に気を呑まれて、茫然(ぼうぜん)としていたが、親分が倒れたのを見ると、
 「それッー」
 とばかり、黒い影を取りまいた。子分たちの手には、おのおのメスが光っている。黒い影の男は、たおれている伝四郎の首すじを掴み起して、半ば地上に身を伏せながら、
 「野郎! かかってみろ、手出しをすれば、手前らの親分のとどめを刺すぞ!」     
 と、これまた白く光る匕首(あいくち)をふりかざした。
     *匕首(あいくち)=鍔の無い短刀、ドス
 これには大勢の子分たちも、どうすることも出来ない。誰かが一歩踏込めば、手負いの親分がぐさりとやられてしまうんだ。
 子分どもは、黒い影の男を遠巻きに、メスを握りしめたまま声を呑んだ。
 黒い影の男は、うめいている伝四郎をずるずると片手で引張って二三間歩いた、そして
 「天川! 天誅(てんちゅう)だ、思い知れ!」
 と、叫んだかと思うと、片手の匕首(あいくち)で、第二撃を加えた。
 「あッ!」
 と叫んだのは、それを見ていた子分たちである。彼等が地べたにのびた親分の所へわっとなっておどり込んだとき、黒い影の男は、葦駄天(いだてん)の如くすでに法恩寺橋の上を逃げていた。

第十二章(二)     第十二章TOPへ

 法恩寺橋の袂(たもと)には、交番があった。交番の中には、巡査が三人詰めていた。三人の巡査は、折柄まわって来た密行の刑事と、玉ノ井の淫売の噂話をしていた。そのとき橋の袂(たもと)のくらがりで何だか大勢の人間がただならぬ叫びをあげているので、一人の巡査が駈けつけて来た。
 「何だ、どうした?」
 −−−くらがりの路上には、大きな男が一人倒れて呻って(うなって)いるのを、大勢の男たちが担ぎ(かつぎ)起そうとしていた。
 「どうしたんだ?」
 と、巡査は、その中へ飛び込んだ。気がついた一人の子分が、
 「あ、旦那! やられたんです。たった今やられました!」
 「やられた? 誰にやられたんだ」
 「いま、そっちへ逃げました」
 「何ッ?……じやいま橋の上を走った男がそうか?」
 「そいつです、旦那、追っかけて下さい!」
 しかし、巡査は、なかなか落着いたもので、
 「いったいお前たちは何者だ?」
 と訊問した。と子分たちはてんでに叫んだ。
 「あっしゃァ天川の身内です。ここに倒れているのが親分です。東京ガラスの争議団のやつにいまやられたんです」
 それと聞くと、巡査は、にわかに緊張して、加害者の風体(ふうてい)をあわただしく確めると、交番へ飛んで帰った。すぐに本署へ急報が飛んだ。
 「何? 犯人は法恩寺橋を東へ逃げた、たった今だな、よしッ!」
 本署の宿直は、こういうと忽ち(たちまち)電話を切った。
 それから、非常線命令の伝鈴が鳴りひびいた。半時間と経たない間に、管内の何十という交番へは犯人の人相が知らされた。更に半時間の後には、犯人の逃げた方向の二つの警察署でも、共同の非常線が張られていた。−−−人民がすこしも知らない二千万円という大きな費用で出来ている警察電話は、こういう場合、なかなか速い働きをするのである。
 一方、虫の息となった天川伝四郎は、戸板に乗せられて附近の病院にかつぎ込まれた。伝四郎の傷は深かった。かれは、最初の一撃で左の肺をやられた。第二撃で腹を突かれていた。名高い本所の親分も、まるで芋虫のように刺されたのだ。いったい、伝四郎ほどの相手を、こんなにひどくやっッけた男は何者だ?
 ──非常線が張られて二時間目……そのときは、もう午後十一時を過ぎた時刻であった。吾妻橋の上を固めていた五人の巡査と、三人の刑事が橋の上を通る怪しい男を見つけて
 「それッー」
 とばかり、取押えようとした。
 怪漢は、血に染んだ(そんだ)ナッパ服を着ていた。怪しまれたのも無理はない。
 飛びかかって来た一人の巡査を怪漢は背負投げに一間ばかりも投げ飛ばした。
 そのまま逃げようとした。
 すると、前と後から、
 「待てッ!」
 とばかり、刑事と巡査がおどりかかった。
 怪漢は、仁王立ちに突っ立って白く光るメスをふりかざした。刑事も巡査も、その勢いにたじたじとなった。急には近寄れない、その隙をみた怪漢は、飛鳥のごとく橋の欄干に飛び上った。そして捕手(とりて)の方を嘲笑う(あざわらう)ように
 「来てみろ!」
 と、一声叫んで、そのまま欄干から川へ落ちた。──飛び込んだのだ!
 これには、警官たちも、あッと声を立てたまま、続くものはなかった。
 下は、濁流のうずまく真(まっ)くらがりの大川だ。警官たちは、意気地なく、てんでに欄干にもたれて、下を覗いたが、飛び込んだ男は、影も形も見えない。

第十二章(三)   第十二章TOPへ

 しかし、警官の方にもなかなか勇敢なのがいた。一人の若い刑事が、
 「なにくそ!」
 と、欄干へ飛び上った。橋の上へ着物をぬぎ捨てると、襯衣(しゃつ)一枚で、いきなり橋下めがけてとびこんだ。
 怪漢が飛びこんでから、ものの五分間とたたない間の出来事である。
 二三人の巡査は血相を変えて、呼び子の笛を吹きならした。
 それを聞きつけて、橋の上にはたちまち方々から巡査がかけつけて来た。
 すわ、何事ぞ、と、物見高い野次馬が橋の上一ぱいにたかって来た。
 「何んだ? 何だ?」
 「だれが落ちたんだ」
 「泥坊がにげ場をうしなって飛びこんだんですよ!」
 と人々はののしりさわいだ。
 その時、暗い橋下の川の中から
 「川下だッ……」
 と叫ぶ刑事の声が聞えた。この刑事は、無鉄砲だが勇ましい男であった。かれの月給はたった四十九円だった。しかし、職務のためには、年に何十万円の無駄費いをする警視総監よりも勇敢だ。彼れは川へとびこむと同時に、水勢が川下へかなりはげしく流れているのに気が附いて、さきに飛びこんだ怪漢は、きっと川下へ流されたのに相違ない、と判断して「川下だ!」と、叫んだのである。
 橋上の、警官や刑事は、その声を聞くまでもなく、すぐに二隊に別れ川下の両岸を警戒すべく、その方へ走って行った。間もなく両川岸警戒の巡査と刑事はしだいに人数が増えた。
 「さあもう袋の鼠だぞ!」
 と急を聞いてかけつけて来た司法主任の警部はこう云って部下を激励した。
 両川岸を二三間おきに、警戒した巡査や刑事は、怪しい男が今にもはい上って来次第、ふん縛ろうと、手ぐすね引いて待ちかまえていた。
 ところが一時間たっても二時間たっても、水中の怪漢は、影も形も見えない。
 くり出して来た水上署のランチに、ひきずり上げられたのは、例の刑事だけである。
 「どこへ失せやがったんだろう」
 「不思議だ?……」
 と、警官達は、がっかりしたように、口々に呟き(つぶやき)あった。

                          *    *    * 

 吾妻橋から一里ばかりも川上の、荒川堤の灯がとぼしくまたたく放水路の中流を、土はこび船が十艘あまり、珠頭(じゅず)つなぎになって一隻の発動汽船に曳かれつつ上っていた。
 珠頭つなぎになった、土はこび船には、それぞれ船頭が乗っていて、たえず梶(かじ)をとっていた。
 一番殿(しんがり)に曳かれていた土はこび船の船頭は艫(とも=船尾)に坐って、煙草をふかせながら梶をとっていたが、今夜はどうしたのか、吾妻橋をすぎた頃からいやに梶が重たい、どうしたんだろう? と、船頭は煙草をすうのをやめて、ふと船尻をのぞきこんだ。
 「わあッ!」
 と、叫んだ。
 大きな大入道が梶に取り附いているのだ!
 「おとッつぁん何だ?」
 と胴の間の、板苫(いたとま=和船の仮屋根)の下から船頭の声を聞きつけた若い男がとび出してきた。
 「人間だ、死骸だ!……死骸が梶に喰い附いているんだー」
 「ええッ?……」
 と、若い男は艫に腹ばって水のくだける船尻をのぞいた。人間の顔が水の中に、ぽかりと浮んで、胴体をおよがせているではないか? 
 若い男はそれを見て、ぞっとしながら
 「どうしたんじゃッ!」
 と叫んだ。すると梶にとりついている水中の男は、死んではいなかった。
 「助けてくれ……」
 と上を向いた。

第十二章(四)   第十二章TOPへ

 船頭達親子は、太い綱をたれて水の中の男につかまらせた。そして水の中を泳がせつつ舷(ふなべり)の方へ引張って来た。そこから船の中へずぶぬれの男を引きずり上げた。見れば菜ッ葉服である。
 「どうしたんじゃお前……」
 と、親爺は不思議そうに云った。
 菜ッ葉服の男はそれには答えないでぶるぶるふるえている。息子が古ぼけた着替えを持って来て、
 「これを着給え君……早くしないと風邪をひくよ!」
 「有難いー」と、疲労しきっている男は、こうひくくつぶやいて、すぐにずぶぬれの菜ッ葉服をぬいで有りあわせの帆布のきれで体をふくと、息子の出してくれた着替えを着こんだ。
 息子はその間に、かいがいしく胴の間から焜炉をかかえて来て、男の前で火をもやしはじめた。三人は艫の梶の側に向い合って坐っていた。そしてこの時はじめておたがいに顔を見合ったのである。
 「助かった……」と男は、ほっとしたように腹の底からこういった。
 「うん、助かってよかったぜ、お前さん一たいどうしたんじゃ?」
 親爺はもえる火に煙管(きせる)をくべて煙草をすいつけた。
 「吾妻橋から飛びこんだんだ」
 と男はかすかに笑った。
 「ほう、吾妻橋から……橋の上に何だが人だかりがしているようだったが、お前さんが飛びこんだのかい?」
 「そうだー」
 男はぶっきらぼうに答える。
 「なぜあんな高い橋から川の中へ飛びこんだのですか?」
 とかたわらから息子が訊(き)いた。
 「刑事や巡査に取まかれて逃げ場がなくなったから、しかたなく飛びこんだのさ」
 この男の答えに船頭達親子は、気味悪そうに顔を見合せた。
 荒川の両岸は急に暗くなって空は曇ってきた。風が出て浪の音がざわざわと舷(ふなべり)にくだけた。親爺は坐ったまま、だまって面梶(おもかじ)をとった、三人の間で、めらめらと焜炉の火が横にもえる。
 「ここはどの辺かなあ?」
 と男が云った。
 「さっき千住大橋をすぎたところじゃ」
 親爺が煙管をくわえた儘(まま)答えた。
 「君!……」
 と、息子がきっとなって、男の顔を見つめた。男は息子の顔を見た。
 「君は何かよくないことをしたんじゃないのですか?」
 「うん、人を一人、たたッ斬ったんだ」
 と、男は苦も無く答えてほほえんだ。
 「ええッ?」
 と、親爺は煙管を取り落した。男はだまっている、親爺はしずかにかれに向って云った。
 「見ればお前さんも労働者じゃないか、人を斬ったり殺したりするのはゴロツキや泥坊のすることだぜ……なぜまたお前さん人を斬ったんだ?」
 男は首をあげて答えた。
 「争議の邪魔をする暴力団の親分を、かたづけたんだ、喧嘩や意趣(いしゅ)じゃねえ!」「えッ!」
 親子は驚いて男の顔をもう一ペん見た。
 「ふむ……、暴力団の親分をやったつちゅうんかい、一体どこの争議だ?」
 「東京ガラスだ!」
 すると、息子がいきなり声色を変えて、
 「それじゃ君は評議会の人だなッ!」
 「いや俺は青年同盟だ」
 「えッ? 僕も青年同盟です!」
 「何だって?」
 と男の声は思わずはずんだ。
 船は暗い川の中流を、黙々としてさか上って行く。広々とした川の上はよべど聞えぬ夜の世界だ。

第十二章(五)   第十二章TOPへ

 男は、燃ゆる榾火(ほたび=たき火の火)の影に、じつと息子の顔を見て、
 「おや? ──そう云えば君の顔には見おぼえがあるぞ! 一体君はどこの青年同盟だ?」
 「僕は徳島県です!」
 「おう! じや君は、あの塩田労働組合だな?」
 「そうです! あの組合の常任委員だった島田です……」
 「えッ! 君が島田か? 俺のかわりに二た月も未決へぶちこまれた島田作平君だな、君は!」
 「えッ! すると……すると、あんたは神戸の鳥羽君か?」
 「鳥羽だ!」
 と二人は両方から思わず互いの腕をつかみあった。
 「妙なところで逢ったな!」
 「奇遇だなあ!」
 「俺は君に申訳がないぞ!」
 と鳥羽は眼に一ばい涙をうかべた。
 「そんなことはない、未決の二た月や三月が何だ」
 ──鳥羽は船の上の、辺りをながめて、
 「しかし、君たちはその後どうして東京へ来たんだ?」
 と青年にきいた。
 「うん、国では、われわれ幹部は皆首になったんだ、それらの連中があとからあとから家を売り払い、東京へ出て来てこうして働いているんだ。今から帰る上屋久の船宿には、六一人あまりの僕等の仲間がいる、丁度よかった、不思議なことだなァ、……ほんとうに、丁度よかった!」
 「そうか、そいつは愉快だなあ、おらは、今夜吾妻橋から飛込んで……警官のやつ等きっと下流をさがすと思ったから、ぎやくに上手へさか上り、上ってゆく土運び船においついたので、遮二無二梶にしがみつき、じつと頭を水の中に沈めて、うまく現場をはなれるまで、一時間以上、水の中で辛抱していたんだが、吾妻橋からここまで、無事に俺を引っ張って来てくれた船が、君の船とは……不思議だなあ!」
 すると、今まで黙っていた島田の親爺が、眼に涙をうかべて、
 「よくよくつきぬ因縁じゃ!……すると、何んだな……あんたが、あの時応援に来てくれて、争議ブローカーの岡崎の頭を割って逃げた鳥羽さんじゃな?」
 「そうです、親爺さん、そのわしのかわりに、あんたの息子さんが検挙されて、二た月も未決を喰ったという事は神戸で聞きましたよ!」
 「なあに、応援に来てくれた人に罪まで着せては、済まないことじや。鳥羽さん、あの時の『犯人』はとうとうわからずじまいじゃ、あッハゝゝ……」
 と親爺は笑った。その横から島田が訊いた。
 「今度は東京ガラスの応援にこられたんですね。東京ガラスの争議はこの間から無産者新聞で読んで僕も知っていますよ」
 「うん、本部の指令で、四五日前に応援に来たんだが、工場主がゴロツキの親分を使ってどんどんスキヤップを入れたり、切りくずしをやるので、争議団の形勢があぶなくなって来て、これはいけないと思っているうち、その子分達が、刀をぬいて本部へあばれこんでくる、常任委員が襲撃される……いやもうお話にならんので、見ちゃいられなくなって、今夜、法恩寺橋の傍(そば)で、俺がその親分を、いつもの流(りゅう)で突き刺したんだ。少しひどくやりすぎたからひょっとしたら今頃は死んでしまっているかも知れないや」
 とかれは、笑った。
 「ふう……む……しかしそんな奴は死んだっていいじゃありませんか!」
 と島田が興奮した。
 「……だが、えらいことをしたなァ……できんこつちゃ……そんな!」
 と、親爺はせかせかと煙草をすった。

ゴ ー・ス ト ッ プ  分割file・4(10章〜12章)終
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